エピローグ
回転する『扉』
一年ほど前。
何のイベントでもないその日、世界各地に突如『
扉と言うのも、その記号のような形が扉に似ているというだけであり、当初それはその形状から『扉』だったり、『
当然
新宿東口にある大きなディスプレイの前の広場や、渋谷のスクランブル交差点の中央、池袋なんかは駅構内にあるふくろうの像の頭の上だ。くるくると静かに回り続ける『扉』が中空に浮かんでいる。非現実的な光景だ。
非現実的な光景を、誰しもが暗黙的に受け入れる。くるくると回る扉のアイコン――記号のようなその形は、出来の悪い冗談のようだ。手で触ろうとしてみてもすり抜ける。物理現象には全く関与しない存在は、人々をあざ笑うようにそこにあった。
人々は言った。
あんなもの――あんな世界に心酔するものは責任感のない子供だ。全く役にも立たない、それなのに命を危険にさらすような場所に行くなんてどうかしている。
人々は言った。
未知な存在とは言え、生き物のようなものを平気で殺すなどは間違いだ。世の中への悪影響になる。その世界に行くことや、その世界で起こった情報を遮断するべきだ。
人々は言った。
その世界が何であれ、我々の生活には関わりのないものだ。人として整然と生き、不要なものには目を向けるべきではない。
様々な人が、様々なことを言った。
声を上げるのは容易い時代だ。根拠も論拠もなく、人はまるで自分の価値観だけが正しいように話す。誰しもがだ。
そうなのだろうか。
何が正しいなど、誰か――それこそ一個人である他者から
人々に問いたい。
子供とは、大人とは何か。自分の周囲にはない、自分の経験にはないものは無価値と決め、達観と傍観で事象をあしらうことなのか。命を賭すものは必ずしも万人に価値のあるものと認められる必要があるのか。
人々に問いたい。
今、自身の胸の中にある、常識やモラルとは自分の意思で決めたものなのか。他人が決めたものをあたかも自分の信条と勘違いをしていないか。外部から受ける影響の有無とは何によって実証されたものなのか。単純な、主観による好みではないのか。希少な経験を得ることの利は評価されないのか。
人々に問いたい。
人として、正しく生きるという明確な定義はどこにあるのか。勉学に勤め、一般企業に勤め、普遍的な概念の中の幸福を掴むことか。それとも夢に生き、人の役に立つため、人に称えられるような職につくことか。もはや形骸化した概念――それこそ日曜の夜にやっているアニメのように、当たり前の日常を幸せだと気付くことなのか。人が人として生きるのであれば、全ての道が正しいのではないのか。
時代の変化と共に価値観は変わる。多様性の許容により、少数派は民主主義社会においても発言権を得る。普遍的な概念は、信仰の意味が薄れるように意味をなくしていく。
今も昔も狡猾な者は抜け道を見付けてほくそ笑む。本当に危険なものは危険と認識されずに、日常の中にある。その防衛すら、声を上げて糾弾することだけを責務と勘違いし、他人任せにする。
正しいものは何か。
それは自身の胸の内にある。
人が人である以上主観的で生きられないため、正しいと断ずるのは自らの手でしかできないからだ。
そうして俺達は変則を受け入れる。正しくはないが、正しくなくもないからだ。
そうして今日も『扉』は世界中のいたる所で物言わず回転を続ける。
意思などないはずなのに、それが嘲笑っているかのように見えるのは、人の業によるものだろう。
世界や価値観がどうかなど、気にせずに俺達はまた裏面へと潜る。
今が、その時なのだから。
リバースサイドへようこそ! 伊藤マサユキ @masayuki110
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