谷の魔女
百坂陸
谷の魔女
その魔女は谷底に住み、谷に身を投げた人間の肉を喰らって何百年も生きている――と言われていた。
「一体どうしたら泣き止むのこの赤ちゃん! 誰か助けてー!」
谷底深くに暗い森があり、その奥に陽の光の射す一角があった。周囲が苔むす中、そこだけ茶色い地面が顔を覗かせ、様々な植物が秩序だって植えられている。畑だ。その畑の真ん中で、小さな赤ん坊を抱きかかえた小柄な少女が、半泣きで突っ立っていた。耳の下できちんと切りそろえられた黒髪が、風に揺れる。
この少女が谷底の人喰い魔女。名をフーリカという。人を喰らったりはしないのだが、長命なのは事実だ。生まれ落ちた時から強い魔力を持っていた彼女は、十二の時に年を取るのをやめた。もう何百年も前のこと。
親が死に、友人も死に。いつしか一人谷底に移り住み、身投げの多さに悩んで人喰いの噂を自分でたてた。以来身投げは減ったが、何故か時折動物を谷に放り込まれるようになる。供物のつもりらしい。
生きた山羊や鶏が手にはいることもあったが、ほとんどは死んでしまう。それでも、焼いて食べることはできるので助かるな、と彼女はこの変化を前向きに捉えていた。
ところが、だ。半月ほど前、丸裸の生きた赤ん坊を投げ込んだ不届き者があった。投げ込まれる前に谷に響き渡った泣き声に気がついたので、魔法によって無事に受け止めることができたが。
フーリカにわかったのは、その赤ん坊が男の子で、生まれたばかりで、そして生まれつき左腕がない、ということだけだった。
「ミルクよーし、オムツよーし、じゃあなんで泣くのよお」
小屋の横で鳴いている山羊を指差し、自身の古着で作った赤ん坊のオムツを指差し、そしてフーリカはまた途方に暮れた。腕の中の赤ん坊は、すでに半時以上泣き続けていたのだ。しかも、全力で。
既にあやそうという気力も尽きた。真っ赤な顔で泣き続ける赤ん坊を抱いたまま、畑の真ん中に座り込んで呆然とする。
「おかあさん、助けて……」
◆◆◆
「まちなさーいっ!」
赤ん坊を拾ってから二年。赤ん坊はルートルードと名付けられ、大切に育てられている。ルートルードはすくすくと育ち、歩き出し、毎日畑を荒らしてはフーリカを困らせた。
「まだニンジン抜いちゃだめー!」
ルートルードは泥だらけになってケタケタと笑いながら、まだ細いニンジンを次々抜いていく。細い金色の髪が、空から降る陽の光に当たってきらきらと輝いた。
「ルートルード、だめでしょ? 泥遊びしたいみたいだから外に出したのにいっ」
だいぶ重くなった男の子の脇の下に手を入れ持ち上げ、力づくで移動させながら、フーリカはため息をついた。子供は健康に育ち、愛らしく賢そうで、魔力も強い。しかしそのせいなのか好奇心が強く、あちこち動き回るので片時も目が離せない。片腕がないために頻繁にバランスを崩して倒れるし、いろいろなものを――鼻に詰めるのだ。
「あらでも、この泥人形、上手……すぎないかしら」
足元のいびつな泥人形は、うごうごとうごめいて立ち上がり、歩き出そうとしては倒れ崩れている。
「たっち! たっちいい」
その度にルートルードは声を上げ、その声に反応してまた土が寄り集まっていく。
「大地の魔法の才能があるのかしらねえ。ちょうどいい、才を伸ばせば腕の代わりになるわね」
「なるわねえ」
「あっ! 鼻になに入れてるの? やだっ、豆じゃないっ!」
◆◆◆
更に三年の月日が流れた。
魔女の住んでいた小さな小屋は、ほんの少し増築され大きくなっている。小屋の前の畑も広くなり、子供ほどの背丈の泥人形が二体、畑を耕している。
小屋の扉が開き、五歳になったルートルードが元気よく飛び出してきた。明るい金色の髪が、魔女と同じおかっぱに切りそろえられ、揺れている。
「ママあ? 玉ねぎいくついるって言ったあ?」
明るい声が谷底に響く。
「みっつよ、みっつ持ってきて!」
「わかったあ、すぐに取ってくるからあ」
彼は畑に飛び込むと、魔法で玉ねぎを掘り起こし宙に浮かばせて、右手のひらの上に積み上げた。それから美しい青い瞳を泥人形に向けて、頷く。
「うん、まだ動いてる」
澄んだ声で小さく言うと、小屋に駆け戻って行った。
「ママ、まだ動いてたよ!」
「ほんとう? すごいじゃない持続記録更新ね、あなた魔法の才能があるわ」
「ママより?」
大鍋に向かってスープの材料を流し込んでいたフーリカは、玉ねぎを調理台に乗せる子供を横目に、吹き出して笑った。
「私よりずっとよ。私、魔力は強いけど魔法使うのは苦手なのよね。ルートルードは魔力も強いし、使う才能もあるし」
「あれになれる? ママのひいひいおじいさまと同じ」
「宮廷魔術師ね、あなたなら絶対になれるわ! でもそれには今でも王都の学院に通わなければいけないはずよ」
「ボク、いくわ! ママもいっしょに行くのよ?」
彼の言葉に魔女はまた吹き出すとかがんで、木のお玉を片手に子供の小さな体を抱きしめる。
「そうね、あなたはいずれ外に出た方がいいわね、私としか話さないからってその話し方。ああ、かわいい!」
「かわいいでしょ? ママはボクが大好きでしょ?」
「ええ、大好きよ、ルートルード」
◆◆◆
「久し振りねルートルード、大きくなっちゃって。学校はどう? うまくやれてる?」
「……ああ」
成長したルートルードは、その魔力の才能により王都にある魔術学校を四年で卒業し、王国から請われるまま十歳で王立魔術院に入学していた。
「魔術院は丸二年も帰省できないくらい大変なところなの? 寂しかったな、私」
「……まあ」
居間の椅子に座り、フーリカを見もせずにぶっきらぼうに答えたルートルードは、ごほんと咳をした。彼女が成長をやめた年と同じ十二になった彼は、その年齢よりいくらか大人びて見える。
「風邪なの? こんな夏に。薬湯飲む?」
「……いい」
言って、また咳払い。長く伸びた金色の髪が、胸のあたりで揺れる。
「今日は早く寝ようね。久し振りに会えたのに一泊しかできないなんて」
「畑」
「え?」
彼のまわりをうろちょろして、何かと世話を焼こうとする魔女から逃れるようにルートルードは立ち上がった。すでに背はフーリカを越えている。シャツの左袖が体の横でひらりと揺れた。
「畑見てくる」
「畑? うん、わかった。昔から好きだね、畑」
フーリカに答えもせず、ルートルードは小屋を出て行った。扉が閉まると、フーリカは小さくつぶやいた。
「声かすれてるじゃない。やっぱり風邪よ」
◆◆◆
それから三年。ルートルードが谷底に戻ることはなかった。
「三年も動き続ける泥人形ってさすがに不気味だわね。雨でも崩れないし」
畑仕事から解放されたフーリカは、カラスに届けられたルートルードからの手紙を居間の椅子に座って読みながら、窓越しに働き続けるルートルード作の泥人形を眺めていた。
人の形を模した、土の人形。大きさは大人の男と同程度。力も強く、なかなか賢い。前回の帰省の帰り際に、手早く作り上げていったものだ。
「しかも四体。天才だわあの子」
ほうっ、と、感嘆とも諦めともつかないため息をつく。
「もう帰って来ないんだろうな……」
手紙には、次の夏には卒業できること。その後は貴族の館に身を寄せ魔術の研究を続けられることが決まった、ということが簡単に説明されていて、後援者として、とある侯爵の名前が記されていた。
「よかったね、ルートルード」
つぶやいたフーリカの目から涙がこぼれ落ち、手紙を濡らした。
◆◆◆
フーリカの予想通り、卒業から五年、ルートルードは一度も谷を訪れなかった。彼女がどんなに長い手紙を書いても、幾度帰省を願っても、時折近況を記す短い手紙がカラスや渡り鳥によって届けられるだけ。それがなんだか寂しくて、フーリカは手紙を書くことをやめた。
これまでの長い人生でも幾度もあったことだ。人と出会い、親しくなり幾年か交流する。そのうち相手は自分の人生に漕ぎ出し、行ってしまう。そして数十年後、すっかり年老いた彼らから、彼女の元に手紙や遺書が届くのだ。
書いてあることはだいたい同じ。性別が変わっても大差ない。あなたが今も変わらぬ姿でいると思うと、懐かしさに胸が痛くなる、自分の人生であの時間は輝く素晴らしいものだ、どうか自分のことを忘れないで、いつまでもあの時のままでいて欲しい……。
その願い通り、フーリカは友人たちの姿を、声を、はっきりと覚えていた。そこにまた一人増えるだけ、ただそれだけのこと。彼女はそう考えて自分を慰めた。ただひとつ違うのは、ルートルードは彼女の友人ではなく、じつに数百年ぶりの家族だったということだ。
「ルートルードのバカ」
黙々と働き続ける泥人形の間でジャガイモを掘りながら、フーリカはぽつりと呟く。口に出したら、何年も胸に閉じこめていた寂しさが一気に膨れ上がって、彼女を腹立たせた。
「バカ息子おー! 鼻に豆つめて泣け! 私が部屋にいないだけで泣いてたくせに!」
フーリカが大声で叫んだちようどその時、泥人形の一体が彼女の目の前を横切った。それがなぜか無性に我慢ならなかった。何年も動く、喋りもしない泥人形。これが視界に入るたび、ルートルードを思い出す。
かわいいあの子。得意げに土の塊を動かしては、笑っていた男の子。
フーリカは呪文を唱えながら、すっくと立ち上がった。膝に乗せて抱えていた、ジャガイモを入れた籠が足元に落ちる。
風もないのに髪が巻き上がり、スカートの裾が翻った。暫くすると彼女の周囲の空気がパチパチと弾くような音を立て始める。それが合図のようにフーリカは右手を高くあげ、すぐにその手を目の前の泥人形たちに向かって振り下ろした。
光が空を裂く。天と地の間のどこかから複数の稲光が起こり、それが激しい轟音と共に泥人形たちに落ちた。八年の間土塊を動かし続けた魔法は消え去り、泥人形は焦げた枝と土にかえる。
「あー、スカッとした」
ムカつくときは攻撃魔法よね、と呟いて、フーリカは谷底から細長く覗く空を見上げた。雷など起きるはずもない雲のない美しい空は、夕暮れ時にさしかかり、赤く染まり始めていた。
ひっくり返った籠も、ばらまかれたジャガイモもそのままに、フーリカは両腕をあげ大きく伸びをするとため息をつき、頭を掻きながら小屋に入っていった。
◆◆◆
その日の深夜。丸い月が高く上り、深い谷の底まで明るく照らす美しい夜。谷間に、静寂を破る声があがった。
「フーリカ! フーリカ!」
叫ぶように彼女の名を連呼しながら、一人の長身の男が小屋に飛び込んで来る。
「フーリカ! どうしたの!」
真っ暗な部屋の中、明かりもともさず居間の机に顔を伏せて動かないフーリカを見つけた男は、呪文を唱えもせずに空中に明かりを生み浮かばせると、彼女に駆け寄った。
「ああフーリカ! 時の女神タンナよ、どうか……ん?」
生死を司ると言われる女神に祈りを捧げながらフーリカの両肩に手を乗せた男は、唐突に言葉を切った。彼の視線の先には、真紅の液体が半分ほどまで注がれた小さなコップ。そしてそこから漂う、甘い香り。
「……カラントワイン」
「んんー、なに? さわがし……」
明らかな寝起きの声をあげながら顔を上げたフーリカは、背後に見知らぬ人間の気配を感じて身を硬くした。両肩には大きな手。
「空を舞う光の粒よ――んーっ」
「フーリカ! 俺だ、俺っ」
彼女が雷の魔法を唱え始めたことに気がついたらしい男が、慌てて彼女の口を手で塞いだ。そうしながら、背後からフーリカをのぞき込むようにして自分の顔を見せてくる。
低い声の、知らない男の人。フーリカは一瞬そう思う。でも、男の青い澄んだ瞳を見てすぐに間違いに気がつき、硬く強ばらせていた体から力を抜いた。
「そう、ルートルードだ」
言いながらルートルードは、そろそろと口を塞いでいた手をどけ、彼女の座る椅子から少し離れた。
「ルートルード……?」
フーリカは振り返りながら立ち上がり、目の前に立つ男をまじまじと見つめた。見上げなければ顔が見えないほどの長身、面影はあるとはいえ、ずいぶんと変わってしまった年上の顔をした男。
「どうしてここにいるの? 何かあったの?」
「それはこっちの台詞だ、どうして泥人形が破壊されているんだ? 急に四体とも魔力が消し飛んだから、誰かに襲われでもしたのかと」
「泥人形」
「急いで来てみれば畑に籠と芋が転がったままで」
ルートルードの話を聞きながらも、フーリカはまだ夢を見ているのではないかと疑っていた。違和感は何かと考え、気がつく。簡単なことだ、時間と、距離。
「泥人形消したの夕方だよ?! 王都からどうやってこんなに早く――」
そう口にしながらも、何百年も生きた彼女の頭にはすでに答えが浮かんでいた。あれだけの距離を数時間で移動できるものとなると、答えはこの世に一つしかない。
ふいに地響きがした。窓の外、月明かりに照らされた畑に大きな影が動く。
「ねえ、まさか」
「泥人形消したって言ったか? 自分でやったのか、なんでだよ」
「帰ってこないあなたに腹が立ったから八つ当たりしたの! それよりねえ、あの影まさか」
「騎士団の借りた」
窓辺に駆け寄って、窓のガラスに額を押し付け外を見ると、巨大なドラゴンが畑を潰していた。ドラゴンの胸元には大きな黒い石がついている。
「黒曜石を付けた騎士団のドラゴンって」
世俗に疎いフーリカでも知っている、王国の一般常識。
「王立騎士団の団長のを。あれが一番速い」
「許可は」
「後でとる」
「バカッ! すぐにもどりなさーい!」
大声で叫びながら、ルートルードの体を回転させ背中を押して扉の方へ追いやった。
「でも長時間片腕で騎乗なんて……あれ、腕どうしたの?」
両腕が揃っている。彼の前にまわり左手を取り、まじまじと見つめた。本物と変わりなく見える、大きくがっしりとした、男らしい手。
「手、大きいね。ていうかさっきから気にはなっていたんだけど、全体的に……どうしたの?」
「腕は生えた訳じゃない。枝を編んで骨のかわりにして、土で覆っただけだ。泥人形の応用。全体的にってのは、どういう意味だよ?」
ルートルードは訝しげに自身を見下ろす。釣られるようにフーリカも、改めてルートルードを見た。長かった金色の髪は短く刈られ、およそ魔法使いらしくなく、体つきもがっしりと逞しく鍛えられていて、これも魔法使いらしくない。
「なんだか騎士様みたい」
「魔法使い連中とはあまり気が合わなくてね、卒業してからは騎士とばかりつるんでるからかな」
「初耳」
「初めて話した」
「言ってよ」
「いやだ、心配するだろ」
「するわよ。まあ魔法使いは変わり者が多いからね」
「俺は自分の研究ができればそれでいい」
「そんなに大切な研究? 何年も顔を見せないでさ」
「不老の研究をしている……と侯爵は思ってる」
そう言ったルートルードはフーリカを見下ろし、ふいに寂しそうな表情をみせた。
「違うの?」
その問いに、彼は黙って頷いた。それから、それまで見せたことのない、慈しむような目でフーリカを見た。
「留まり続ける時間を再び動かしたいんだ、君の」
「私の?」
「時間を無駄にできない。年の差は十二の年から開くばかりだ。俺はもう二十歳になってしまったよ、八年も君を追い越してしまった。母親だったり姉だったり、かと思えば今のフーリカは妹のようだ。この先はなんだ? 娘? 孫? 忙しすぎる、もういいだろ」
ルートルードの言葉に、フーリカは嬉しいような、寂しいような、恥ずかしいような、そしてなぜか少し怖いような……これまでの長い長い人生で感じたことのない、不思議な感情が自分の中に生まれようとしているのを予感した。
「君が大好きなんだ、昔から、ずっと。置いていきたくない」
その言葉にフーリカの心が揺れ、なんだか泣きたい、とそう強く思った。ルートルードはそんなフーリカの頬に優しく触れると、急に幼いときのような笑顔を見せる。
「君も、もちろん俺が大好きだよね? フーリカ」
その言葉に、彼女も自然と笑顔になる。かつて幾度となくこの谷で繰り返されてきたやり取り。
「ええ……大好きよ、ルートルード」
「君の時間を動かしてみせる。何年かかっても、その姿を変えてみせるよ。俺を追ってきて」
そこで言葉を切ったルートルードは、身を屈めて彼女の額にそっと口付けた。長い時間空を飛んだ者独特の、埃と砂の匂いがする、とフーリカは思った。
「一緒に生きていこう」
――それが、昔フーリカが自分にかけた時を留める魔法を解く呪文だった。
「あっ」
フーリカは気がついた。自分の体の時間が、動き出したことに。
「どうした?」
突然動きを止めたフーリカに、ルートルードは不安げに声をかける。見た目が変わっても、彼の青い目は変わらず優しげに彼女を見る。
「なんでもない……なんだろ、おなか痛い」
「えっ?! フーリカが具合が悪いなんて初めてじゃない、大丈夫?」
「……ルートルード、話し方」
「だっ、大丈夫だ、外では使ったことない」
「ほんと? 乙女系魔術師とかいわれてない?」
「言われないし、言わせない」
軽口を叩き、くすくすと笑いながら、フーリカはルートルードの腕に手を回し、小屋の外に向かって引っぱった。
「ドラゴンを見せて。それにしても、あなたはいつも空から降りてきて私を驚かせるのよね」
「何度でも。君のところに降りていくよ。きっとそういう、運命なんだ」
谷の魔女 百坂陸 @dango_omochi
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