最終話
田村くんは翌朝、「湊」のバス停で眠っている所を発見された。
発見者は例の友人である。
怪しい女子高生に出会って云々という与太話を聞いてから車を飛ばしてかけつけた彼がたどり着いた時すでにバス停はもぬけの殻だったという。
全身に鳥肌が立ち寒いのに嫌な汗が噴き出した……と田村くんを叩き起こした後に友人は怒鳴りつけるような勢いで熱弁したらしい(余談だが、この部分は彼がこの体験を「大学時代にやらかしたアホな友人の話」としてちょっとした会合などの場で披露する際にもっとも熱がこもる件となる)。
車に備え付けてあった懐中電灯を手に近辺を歩き回り、消えた田村くんの痕跡を探しまわり、大学の友達に電話をし、警察に連絡するべきか、いやもしひょっこりアイツが現われでもしたらとんだバカッター集団になるぞ……などと、心配と保身の入り混じる相談の結果、とりあえず朝まで様子をみることになり、田村くんの友人は純粋な心配と一人で霧の深い山の中にいる恐怖や心細さと、ひっきりなしにかかってくる家族からの「あんた早よ帰って来なさい! 明日車が使えへんやないの!」という催促の声によるいらだちが入り混じる精神状態で一晩すごすことになったのだった。
よって、バス停のベンチで眠りこける田村くんを発見した彼の起こし方が少々手荒いものになっても致し方なかったのである。
田村くんはそのまま一睡もしなかった友人の車に収容され、車で山を下りた。目的地は市内にある田村くんのワンルームマンションではない。友人の家である。家族に車を返さなければいけないからだ。
時刻は朝の七時になるか否か、杉の林がとぎれ少々視界が開けた場所になると、盆地の底にたまった白い霧と夜の帳が上がりきっていない青空が見える。見事な雲海だが、友人にはそれを見ている精神的な余裕はなかった。
「……あ、雲海」
反対にどこかぼんやりしている田村くんはそれを見てそうつぶやいた。
「俺、一晩中あそこにいたんだけど?」
「あっそう」
「空から血とか肉の塊とか降って来たりしてなかったか?」
「は? お前何寝ぼけとん?」
眠ってないのに山道でハンドルを握らなきゃいけない(この山道を市内への通勤路として使用する対向車も増えだしたこともある)、そして家族が出勤する八時前後には車を返さなきゃならないというプレッシャーで気の立っている友人には田村くんの言葉を真摯に訊いてるゆとりなどありはしなかった。
「……お前知ってるか? 鬼は雲海にいる鯨を捕っているんだぞ」
「頼むからちょっと黙っとれ」
友人は田村くんの呟きを
こうして田村くんは友人の運転する車で、霧の底に沈む鄙びた町におりたった。
山の上では晴れていた空も、地上では厚い霧に遮られている。
田んぼをつっきる道路の片側に登校中の小学生の列がある。田村くんはそれをみて、ようやく現実に帰還したという安堵に包まれたのだという。後部座席でダラダラと涙を流したのだが、気が立っている友人は鼻をすする田村くんを無視した。
こうして鬼と邂逅した田村くんは無事生還を果たしたのだった。
被害は田んぼに囲まれた集落にある友人の家族から「あんたら大学生にもなって何アホなことして遊んでんの!」とガツンと叱られたことと、バス停で一晩夜明かししたら貰えるはずの一万円を友人に請求したら本気で殴られた上にしばらく絶交状態になったことと、バカなチャレンジをしたアホ大学生として小規模な炎上をくらったことぐらいで済んだ。
目立ちたいという動機で始めたチャレンジであるにもかかわらず大して燃え広がらなかったことにはガッカリしないわけでもない田村くんではあったが、就活が本格化する際にその幸運を噛みしめることになる。
この出来事から一か月ほど、田村くんは隙あらば空を見てぼんやりして過ごした。
新しく購入したスマホから自分のSNSをみて、その日の投稿を読み返す。画像はやはり送信に失敗していたようだが、妙な女の子に会ったことなどを報告する短文はそのままだ。
「お前あの時ほんまはどこにおったんや?」
冷静さを取り戻した友人と仲直りした後、再三にわたってそう尋ねられたが、田村くんも「さあ……?」でごまかす。
何度くりかえしてもはかばかしい答えが返ってこないので、友人も田村くんが何らかの幻覚でもみてどこかをウロウロ徘徊でもしていたのだろう、ああ無事見つかって良かったよかった……ということで片づけることにした模様。
船の上でかなりの血しぶきを浴びていた筈なのにバス停で目覚めた時の衣服には血の痕跡が全くなかったこともあり、田村くんは自分の経験したことが信じられなくなっていたのである。繰り返すが元来彼はあまりファンタジーが得意ではなかったのである。
一応大学の図書館で「湊」と呼ばれる集落の伝承や鬼の伝説を探してみたけれど、不老不死になる鯨の肉の話などどんな資料をひっくり返しても見つからないことが田村くんが自身の体験を疑う根拠にもなっていた。
唯一の収穫は、昔話にも登場する都を荒らしまわった有名な鬼の盗賊が住んでいた山が現在定説になっている場所ではなく、市内のはずれにある峠のある山を指すのではないかという説もあることを知ったくらいだ。確かにこの山の方が毎夜のように都を荒らしまわるには距離的に適当な場所である。
それにしても記憶にある鬼の少女・老ノ坂は、酒をこくこく飲んでいたくらいで自身の首を刎ね落とした武者の鎧兜に噛みついたという有名な伝説に登場する猛々しい鬼のイメージには程遠かった。
自分はやっぱり夢でもみていたのだろう……と精神が落ち着いてきた田村くんは、その後一年は平和に過ごした。バカなチャレンジをしたことで、目立ちたいという欲もほどほどのところまで落ち着く。田村くんの二回生後半から三回生時代はおおむね平和な時期であった。
ところがその年の晩秋、ピンポンとマンションのインターフォンが鳴らされた。
宅配業者でも来たのかと何気なくモニターを覗いた所、映っていたのは一人の女子高生だった。
運動部の女子のような、ショートカットの女子。きっとこちらをにらみつけるような意志の強いまなざし太めのきりりとした眉も、体育会系らしい規律正しさ感じさせる。なんにせよ、見覚えがない。
そして田村くんの心がざわついた。田村くんはあの体験以来、なんとなくブレザーの制服をきた女子高生をみると逃げ出したくなる体質になっていたのだ。
「……はい?」
一応返事だけすると、意志の強そうな女子高生はよどまずためらわずまっすぐに切り込んだ。
『田村様ですね。鯨の件でお話があります。もうしわけありませんが、外まで出てきていただけますでしょうか』
高校生とは思えぬ、えらくはっきりした物言いであった。敬語をおりまぜているが有無を言わせぬものがある。何より、「鯨の件で」は田村くんに強く響いた。
マンションの外に出ると、女子高生はきびきびとした動作で一礼する。
「唐突に申し訳ありません。
「はあ……あの、ええと。何?」
「一年前、当方が監督している者どもが田村様に多大なる迷惑をおかけした件についてお礼に参上仕りました。本来ならばあのあとすぐに訪れるべきだったのですが、あやつらがこの件を一年も伏せておりましたのでこのようにだらしない事態になった次第で……ああ、どこへ参られます?」
マンションの中へ戻ろうとする田村くんを、頼政と名乗った少女が引き留める。
「まだお礼が済んでいません! 帰られては困ります!」
「いや、いいから! お礼とか本当にいいからっ!」
「それでは当方の気が収まりません! どうぞあやつらの主として一言お礼をさせていただきたい!」
「だからいいってばそんなのは!」
あの一件はできれば忘れたかった田村くんだが、頼政となのった少女は強引だった。田村くんの意志を無視し、話があるからと近くにあるチェーンの中華料理屋へ引きずってゆく。
「いくらお伝えしたいことがあるとは言え、殿方の部屋へ私が単身お邪魔するわけにも参りませんので」
「……いやまあでもそういう時ってファミレスとかカフェとか利用するもんじゃない?」
「恥ずかしながら腹も空きました故、食事を摂ることを許されたい。田村様もどうぞ何かご注文ください。私からのお礼です」
「……あー、じゃあラーメン焼き飯セットで」
頼政はさっさと店員へ注文を済ませる。厨房へオーダーが通ったタイミングで、頼政は中華料理屋らしくぺたぺたするテーブルの上に、そっと何かを差し出した。
「どうぞお受け取りください」
袱紗に包まれた正方形の箱だった。
「……なにこれ?」
「鯨の肉です。あれは加工に一年かかります。昨年の漁の肉が出荷可能になったと先だって我らのもとに届きました。それは田村様の取り分です。どうぞお納めいただけますよう」
何気なく飲んでいたお冷を田村くんは噴きそうになった。
袱紗をそのまま目の前の少女へ突っ返す。
「いい、いらないいらない! 本当にいらないからそんなもん!」
「いえ、是非お納めくださらないと困ります。これは不測の事態にあなたを巻き込んだ我らのお詫びとけじめでもありますので」
頼政も負けじと包みを田村くんへ突き出す。本気で要らない田村くんは包みをつきかえす。若干ムッとした表情の頼政がふたたび押し出す。
しばらく、受け取れ受け取らないの攻防が続くが、お互いに埒があかないと悟り、同じタイミングで手を引っ込めた。
「……どうしてお納め下さらないのか?」
「どうしてって……要らないものは要らないからだけど」
正直に言うなら、そんな巨人に化けた老雲鯨の肉など恐ろしくて手元に置いておきたくないのだ。
なのに頼政には一向に伝わらなかったらしく、なぜかまじまじと尊敬のまなざしで田村くんを見つめる。
「なんと……! この肉ひとかけらのためなら金など惜しくないという輩もおりますのに田村様はご高潔にあらせられる」
「別にそんな大層な話じゃないんだけど。ていうか、普通にしゃべってくれない?」
そんなことをしゃべっている間に二人の注文した料理が届いた。頼政の前には中華丼、田村くんの前には餃子定食。とりあえず二人はもくもくと食べる。
よほど腹が減っていたのか、飲むような勢いで中華丼を食べ終わった頼政は、ぐりぐりした目をまっすぐ田村くんへ向けた。
「改めまして、昨年はあの者どもが失礼しました。あやつらは私の先祖が討伐して以来わが一族が面倒をみておるのですが、……なんともうしてよいのやら、私の管理が至らぬためにあのような狼藉を働くことが絶えぬのです」
「はあ……大変だね」
適当に相槌をうちながら、田村くんは一年前に老ノ坂が説明していたことを記憶から引っ張り出していた。
千年以上前に都を荒らしまわっていた老ノ坂たちを退治した武士がいたとかなんとか。話を信じるとすれば目の前にいる少女はその末裔ということになる。
にわかに信じがたい。
なので田村くんは聞き流すモードにして餃子に集中した。
結局、頼政は田村くんに包みを受け取らせることに成功した。場に流されてやりすごすのを良しとする田村くんに、やたらぐりぐりした目をまっすぐ迷いなくむけてくる頼政が放つ圧をはねのけるなんて芸当はむりだった。
「肉は薄く切って軽く火に炙ると酒が進むと聞いておりますので、珍味として用いられるがよろしいかと。封を切らねば十年はもつとも言われます」
会計を済ませた中華料理屋の外で、満足したような表情の頼政は言う。さすがに齢下の女の子におごらせるのはみっともないので田村くんが二人分の食事代を支払ったのだが、それだけでいよいよ頼政が田村くんを見つめる視線の尊敬の度合いが高まる。
尊敬はいらないからこの包みをもってかえってほしいというのが田村くんの本音だった。
「……あのさあこれ、不老不死の妙薬だってあの子たちは騒いでいたけど? それを酒のアテ扱いしてもいいの?」
「その昔、時の天子も献上された肉をお口に召されていたはずだが不老不死になった御方がいたとは聞いたおぼえがありません。所詮は伝説、多少は精がつく程度のものでありましょう。安心してお召し上がりなさいませ」
普通にしゃべってほしい……という田村くんお視線に気づいていなさそうな頼政は、やや真剣な目でぐいとこっちをまっすぐ見てくる。
「しかしながら、田村様。雲鯨のことは不用意には口になさらぬよう」
瞬きもせず、田村くんの目をまっすぐのぞき込む。
「雲鯨は人に化けます。人に化けた鯨は自分たちの伝説から噂にいたるまでをことごとく潰して生きております。根も葉もないうわさからその肉を目当てに乱獲された恐怖と憎しみからこの世に残る鯨の伝説を消して回っておるのです」
「……」
「もし鯨の肉を食ったなどと吹聴されれば、ほどなくして鯨の使者が田村様の前に現れるやもしれぬ。そのことをゆめゆお忘れになられることのないよう」
田村くんはおしつけられた袱紗を見つめた。そんな物騒な肉をなぜよこす? いらないって言ってるのに。
そう思った田村くんが包みをやっぱり返そうとしたが、「そこまで無欲な方ならこの肉を預けても安心できます」と何故か満足して受け取ろうとしない。そのまま一礼してすたすたと駅の方へ向けて歩き去ってしまう。
追いかけて手渡すのも間が抜けているので、田村くんはその場で途方にくれた。どうしよう、この肉?
結果、田村くんは数か月迷った末に、決心して燃えるごみの中にその肉を袱紗ごと突っ込み、一度手を合わせてなんまんだぶと略式の念仏を唱えてからそのまま処分した。
そしてそのまま平凡な生活に復帰し、大学のあった市内にある企業の内定をもらって大学を卒業し、そのまま帰郷せず就職し現在に至るという訳だ。
親睦会を兼ねた飲み会で隣同士になった時に、田村くんはなぜだかこんな奇妙な話を語ってきたのである。私がウィスキーの水割りを飲んでいたせいであるという。
「匂いで思い出した。俺、大学の時に変な目に遭ったことがあってさあ……」
という感じで、スーツ姿の田村くんがぽろぽろと話しかけてきたのだ。
ただ単に同期であるという以外につながりのない仲なのにたまたま隣同士だったこと、私がウィスキーの水割りを飲んでいたこと、田村くんもほどほどに酒に酔っていたことに加えて、彼の中で私が怪談や奇妙な話に目がない変な奴だったという印象付けられていたためであるらしい。以前の飲み会でついつい子供が夢中になるような都市伝説について熱心に語ってしまったのがよかったのか悪かったのか。
「……ってさあ、そういう空飛ぶ鯨の話とか聞いたことある?」
「ないね。どっちかいうとファンタジーとかメルヘンの分野の話じゃない?」
「だよなあ~。やっぱ俺、あの時夢でも見てたのかな~……」
一通り話を聞きながら、私は呆れていた。
鬼に遭遇して、雲海に浮かぶ船に乗って、空を飛ぶ鯨漁に参加して、不老不死になるかもしれない肉を手に入れておきながら平然とそれを捨てる田村くんという男。
面白半分に異界に最接近しておきながら、ためらいなく現実に帰還した男。
田村くんが体験したこの世のものとは思えぬ一連のできごとよりも、彼そのものが一番奇妙だと私は思った。
そんな奇妙な田村くんが体験をもとに適当に補足した物語を、私がここにまとめて発表するには訳がある。
かつて乱獲された鯨は人に化け、人に紛れて生活し、雲鯨の伝説から噂までつぶさに消してかかるという。その話が本当なら、私が書いたこの物語にも雲鯨からの反応があるはずである。
私はそれを待っている。
生まれてこの方、一度も奇妙な体験をしたことがない私は大人になってさえそのような体験をしてみたいという欲望を抑えきれない。
田村くんの体験談が嘘でなければ、雲鯨は私の前に現れるはずである。
私はそれを期待せずにはいられない。
雲鯨奇譚 ピクルズジンジャー @amenotou
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