第7話
音もなく船はするすると雲の上を滑るように移動する。
山に囲まれた雲海の中央へ。
甲板上の空気は張り詰めていて、うかつに口もきけない。四人の鬼娘も今までとはうってかわって真剣な表情だったので、空気を読む性質の田村くんも大人しく黙った。
ここが本当の海ならばざばざばという波の音やちゃぷちゃぷという水の音が聞こえてきそうなものだが、雲の上ではそんな音は一つもない。
ただかわりに、再び、びいんびいん……と弦を擦るような音が聞こえだした。モリオサに挨拶に行った時に聞こえていたあの音だ。彼女が首から下げている木彫りのネックレス状のものから発せられている音であることは分かる。
びいんびいん……というこの音が何を意味するのか田村くんには理解できないが、その音が聞こえだしたとたんに甲板上の空気がより一層緊迫する。
何気なく田村くんは船の縁から雲を覗いて、そしてひっと息をのんだ。雲の中をおよぐ影が目に飛び込んできたから。うようよと、全長2mほどのものが大量に。
とりあえずそばにいる老ノ坂へ目と指で合図をしたが、老ノ坂は真剣な顔つきで人差し指を唇の前で立てただけだ。静かにしなければならないらしい。
船端の光景が気味が悪いので田村くんは舳先より先、雲の海原に視線を据えた。満点の星と突きに照らされる雲海の光景はやはりそこだけは美しい。この美しい光景だけ目にとめておくことだけを意識する。
が、みまちがいかもしれないが、なにかが雲の隙間からぬっと突き出たかと思うとまたゆっくり沈んだ。
……それは、田村くんが時々ぼんやり眺めている生き物の生態を紹介するドキュメンタリー番組でよく見かける、おなじみの光景によく似ていたような気がした。
いやいやそんなまさか……と、この期に及んでなかなか現実を直視できない田村くんの願望を裏切るように、今度は雲が噴火するように吹き上がる。ああもう間違いない。あれは鯨だ。船の進路の数十メートル先に鯨がいてブリーフィングをしている。
田村くんが気づいているくらいだから船の乗組員は全員気づいている。さっと甲板が殺気だった。
びいんびいん……という音が徐々に大きくなる。ひょっとしたらこの音は何かセンサー的なものなのかな、と田村くんは見当をつける。何かの存在を感知したら音がなるというような。
モリオサは振り向いてこちらをむくと、四人へ合図をした。行け、というような目くばせだ。それに応じるようにとっとっ、と老ノ坂が先陣をきるように甲板を駆けだした。田村くんは去り際に彼女の手の爪が異様に鋭く伸び切っていたのを目撃して目を疑うが、悠長に驚いている時間もなかった。舳先の数メートル先あたりから巨大な生き物が口をあけながら踊りあがってきたからだ。
船を飲み込まんとするかのように巨大な口をあけて飛び上がってきたそれを、尖った爪を生やした手の一振りで迎え撃つ。
「うりゃあっ!」
緊張感のない掛け声とともに老ノ坂は凶器じみた爪をその生き物の鼻のあたりに食いこませ、だむっと甲板にそれをたたきつけた。血を垂らしながらびくびくうごめくその生き物のちと肉が飛び散った。
老ノ坂は生き物の鼻の辺りから手を引き抜き、血しぶきをさっと払った。黒半纏の乗組員がすかさずやってきてびちびち跳ね回るそれの尾をつかんで甲板の上を引きずり船倉へ運んで行く。
さっきまで張り詰めていた空気が一気にはじけたように甲板上は活気づく。なぜならあの大口をあけた生き物が次から次へと雲の上から躍り上がってきたからだ。
口だけが目立つ巨大なオタマジャクシのような生き物が雲を泡立たせるようにこちらへ群れをなしやってくる様子はかなり悪夢じみていたが、老ノ坂は舳先を蹴って宙に躍り上がった。
えっ、と田村くんは目を疑った。下は雲の海である。そのまま地上へまっさかさまじゃないかと慌てる田村くんだったが、船が大きく舵をきったのでそんな場合ではなかった。
老ノ坂は雲の上でうじゃうじゃうごめく生き物を薙ぎ払うと、そのまま軽々雲海の上を跳躍してはおそいかかる大群をその爪で引き裂いては、跳躍し落下地点にいる生き物をまた薙ぎ払う。
雲の上で軽やかに舞うかのような老ノ坂の動きに合わせて雲海は血しぶきに真っ赤に染まる。血の匂いと肉の生臭さがあたりに立ち込めたが、いやそれよりもなによりも、鬼でもなんでも実体を持つ存在が雲の上を自在に跳び回るというのは何事か。
ともあれ次から次へと生き物たちは雲海こちらへ向けてやってくる。まるで弾幕だ。船はそれを交わすように舵をきる。モリオサは銛を片手に声を張り上げる。
「イルカどもの処理はあんたらに任せるよ。あたしらは先へいく!」
「りょおかいっ!」
老ノ坂に代わって声を張り上げたのは大堰川だった。ブレザーの内側から二本のセンスを取り出して。パッと開いた。にっと笑った口から発達しすぎの八重歯がのぞく。
ふいにズシンズシンと音がしたので田村くんが振り向くと、小向が今まで身に着けていた甲冑を脱いで甲板に置いていた。角を生やしている以外はポニーテールの女子だが腰には一振りの刀をぶら下げたままだ。そんな小向を見る天若は冷ややかな目で言う。
「小向、去年も言ったしこっちに来る前にもいったけどわざわざ脱ぐんやんったらそんな思いの着る必要ないと思う」
「その時まで力を押えて一気に解放するっていう浪漫がわからんか?」
「おしゃべりはそこまでにしな、くるよっ!」
モリオサの掛け声通り、沖合からイルカと呼ばれた生き物たちは群れをなして次々にこちらへやってきた。まるで黒い壁のようだ。
「おっしゃ来-い!」
どこか楽しそうに大堰が扇子を舞わせながら、たんっと舳先から飛び上がる。扇子の軌道上から水流がほとばしり、刃となって生き物たちを切り刻む。ふわりと落下した後は生き物を踏み台に舞い上がる。
大堰が蹴散らした後を小向が追う。しゅんっと雲の上を駆け抜けながら居合で刀を抜く。一瞬で雲の彼方まで駆け抜けた小向の軌道上にいた生き物は斬られて雲間に沈んでいった。
船はその真っ赤にそまったいささかスピードをあげて。
突然始まった血しぶきまう光景に田村くんが呆然としているところへ、ひらりと宙を舞い甲板におりたったものがいた。
「ただいま」
老ノ坂だった。
「お帰り」
まだ甲板にいる天若がこたえる。
老ノ坂は血肉にまみれた右手をばさっと振り払い、それでも爪に付着した血を口元に運んでぺろっと舐めた。本人にとっては何気なさそうな仕草だが、田村くんには刺激が強すぎた。
おびえてあとずさる田村くんをみて、老ノ坂はようやく、しまった! と何事かに気が付いた顔になる。
「今さらやったけどお兄さんは船倉の仕事を手伝ってもうた方がよかったやろか? ここめっちゃ危ないよな」
「どうやろ? 下は肉の加工場やで?」
天若が冷静に応える。田村くんの脳裏にはさっき甲板をひきずられていった生き物の姿が頭によぎった。肉の加工……。
「いいです、ここにいます」
授業の一環で視聴した食肉の解体映像を見て卒倒しかけた覚えのある田村くんは遠慮して甲板の片隅にいることにした。
船はいつのまにかスピードをあげて前進しそれにつれて揺れも激しくなる。疲弊する田村くんの腰に老ノ坂がロープを巻き付けてくれた。落ちないようにという配慮は嬉しいが、でも手は血まみれのままである。
「……あの、ちょっと聞いてもいい?」
「なんやろか?」
「なんで雲の上を走ったり跳んだりできるの?」
「うう~ん……なんでやろ? うちら人と違うから?」
手は血まみれなのに、老ノ坂の答えは相変わらずぽやんとしていた。一瞬だけ気が休まりそうになったが、でもやっぱり手は血まみれだ。
「分かってるのはこの雲が霊気みたいなもんで、そこに気を合わせたら走ったり歩けたりするいうことかなあ。そこにおる鯨もいうたらこっちの生き物とは違う彼岸からきたもんやし……」
「ごめん。お兄さん実はあんまり頭よくないからもうちょっと分かりやすくしゃべってほしい」
そうこうしているうちに船はイルカの壁を抜けた。再び目の前には白い雲海の海原が広がる。
そういえばさっき切り捨てられたイルカの肉はどうなるのだろう、地上に降り注ぐのだろうか……と想像してまた気分の悪くなる田村くんだったが、目の前にぬうっと現れたものを見て言葉を失った。
ヒトかな、と田村くんは一瞬そう思った。
雲の上に人間によく似た何かが立つのはさっき見たばかりだから、そこまで驚いたりするつもりはなかった。この数時間で田村くんは驚き疲れていたから。
でも、そのヒトらしきものが立つ場所と船との距離はどうみても数十メートル離れているのに、1メートルくらいの大きさはあるように見える。白いをベースに黒い模様を浮かばせたそれは船が近づくにつれて少しずつ大きくなる。
遠近法、田村くんの頭にそれがひらめいた。つまり、あれはかなりでかい。巨人だ。
「……何あれ」
田村くんは鯨を捕るとはきいてはいたが、雲の上に巨人がいるとは聞いていない。
しかし甲板上ではこの巨人を前にして空気が明らかに一変する。それはあの巨人こそがこの船に乗るもの最大の目的であると語っている。
「デカイね。歳くってるが悪かない」
どちらかというと人懐っこい印象だったモリオサの表情が一変する、好戦的に目をぎらつかせたモリオサが小さくつぶやいた。
空気を読むのには長けた田村くんは、大体のことをそれで理解して、そばにいた老ノ坂にくってかかる勢いで尋ねた。
「く、鯨……! あれがっ⁉」
「雲鯨は人に化けるんで」
平然と老ノ坂は答えた。
「ヒトにばけるにしてもデカくない! デカすぎないっ?」
「雲鯨は大きい方が賢いけど大きさを縮めるのは苦手みたいでなあ」
船が近づくにつれて、巨人の頭部についている二つの目がこっちを睨んだ。そしてがぱっと大きく口を開く。
おおお……、おおお……、と洞窟のような口からあたり一帯を震わせる、遠雷によくにた音が漏れた。
いつの間にか船の両脇にやってきた大堰と小向も、雲の上に浮かびながら動向を待っている。
田村くんにとってはただの恐ろしい音だが、モリオサのそばにいる鯱には意味が分かるらしく通訳した。
「鯨捕りは禁止になったってきまっただろうに何しにきやがったこのタコ、とかなんとかつってるぜ? あの爺」
「あんた、あの雲鯨は大きさと風格からして群れの長かなんかだったやつだろ? もうちょっとその辺の敬意を表して訳してごらんな」
「学もねえガキにないもの期待すんじゃねえ」
緊張感のないやり取りをしてる間に、おおお……おおお……の声は響いた。田村くんは手で耳に蓋をしたくなる。
「ここから先にいるのは一族の若い牡と雌ばっかだから先には行かさねえ、俺の肉をくれてやるから帰れとかなんとかクセエこと言ってやがるぜ? どうするモリオサ? 爺のやつ捕るか?」
「……」
この場での決定権をもっているらしいモリオサが、巨人と向かい合う。
「俺としちゃあ爺なんざ無視して先で若い鯨捕るのを勧めてえがよ? 今の時期なら連中脂を蓄えてやがるぜ?」
「悪いね。爺様にあんたの話に乗ったって伝えな」
銛の尻で甲板をどんと突く。
「こっちもこれで千年やってきたミナトの人間だからね、礼は尽くそうじゃないか」
鯱はチッと舌を打ち、喉をあけて、るるるるるう、るるるるるう、と妙な鳴き声をたてた。これが返答にあたるのだろう。
巨人はまた遠雷のような声で返事をした。近寄れば近寄るほど巨人は大きかった。
田村くんはそれを見上げながら、これを捕るとかなんとか言ってるけどどうやってそうするつもりなんだろうとぼんやり思う。
「老ノ坂、あんたは船を守りな。天若はあたしらと来る。馬力がいるからね」
「了解」
「あいあいさー」
鯱をともなってモリオサが動いた。船から飛び降りて名前の通り鯱の姿に変身した少年の上に乗る。それに伴って名指しされた老ノ坂と天若の二人も動く。
巨人は体躯に見合った大きな腕を動かした。その指先につままれるのは雷光に見えた。この満点の星空に稲光とは。
モリオサに代わって船を守ることを託された老ノ坂が素早く印を結んだ直後に、電が船めがけて落とされる。船を球状にまもった透明の防護壁がその直撃を防いだ。それは老ノ坂が印を結ぶことに生み出したものなのだろう。
「雲鯨はかしこいんで、ちょっとした術も使いよります……!」
田村くんの疑問も先読みしたらしい老ノ坂が答えた。防護壁を出しながら会話をするのは難しいようだ。
船から飛び降りた天若の腕にはいつの間にか彼女の身長くらいありそうな大きな木槌が握られていた。どうやって出したのか。よくあんなでかくて重たげなものもを持ちながら走れるな……と疑問もまともに働かなくなった田村くんをすておくように、大堰と小向も雲の上を移動する。大堰は雲の上を軽やかに跳躍し、小向は風のように駆け抜ける。
巨人は、おおん、とうなって手の前で壁を作るようなしぐさをした。白い手のひらの前の空間が一瞬たわんで歪むのが田村くんにも目視できた。
その壁を前に、天若が木づちをふりまわす。
「よっこいせーい!」
小さい体ににつかわしくないフルスイングで、巨大な槌は振り回された。透明な壁にぶつかった槌は、がいん、と金属と金属がぶつかったような音を立ててはねかえる。たたらを踏んだ天若がもう一度バランスを立て直して木づちを振るう。
「もう、一、回……っ!」
がいん、とまた音が響いた。今度は透明の壁にひびが入る。そこへ駈け込んで来た小向が罅のはいった壁の前で居合を抜く。
もろくなった障壁はそれで崩れて消し飛んだらしい。透明の破片が空をキラキラと舞った。その空間を跳躍した大堰が扇をひらめかせる。
透明の壁を作るために使用された力が大堰の舞に合わせて動き、巨人を襲う。まるで見えない力に殴りつけられたように巨人が雲の上でたたらを踏んだ。
雲海が揺れる。音を立てずに大きくなみだつ。荒れる白い並みの上をその上を白と黒の流線形の鯱は乗りこなした。その上にはモリオサが鯱の背びれをつかみ、銛を片手に狙いをつける。
よろけた巨人は鯱とモリオサを近寄らせまいと、腕で雲海を薙ぎ払った。ざっと白い雲がたなびく。
その衝撃波は船まで届き、激しく上下に揺れた。田村くんは必死で船端にしがみつく。
巨人の一振りをかいくぐったらしい鯱が宙に飛び上がった。モリオサその鼻先に足を乗せたモリオサが一層高く飛び上がる。
あ、これ水族館のショーでよくみるのに似てるやつ、とそろそろ限界に近付いてきた田村くんが見守る中、巨人の肩にモリオサは着地した。そこから流れるような動きで銛を投げる。その先には巨人の眼球がある。
うわ、痛っ!
とっさに田村くんも目を瞑った。
その後予想される絶叫に耐えるため、田村くんは手のひらで耳を蓋する。
それでも巨人の断末魔は全身をびりびりと容赦なく前進を揺さぶった。それは耐えがたい衝撃で、田村くんは目を閉じた。
もう限界です。そろそろ現実に帰らせてください。
困ったときにのみ神仏に頼るマジョリティな田村くんの望みを、そのときばかりはかなえられたらしい。というよりもシンプルに田村くんの神経も限界に達したというべきか。
なんにせよ、田村くんの意識はそこで途絶えた。
「あれ、お兄さん?」
その際に老ノ坂の声が聞こえた気がしたが、気のせいだったかもしれない。
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