第四話

「……?」


 目を開けた。

 僕の視界には規則正しくマス目を切られた白いものが見える。

 それが天井だと気づくのに少し時間が掛かった。

 さっきまで僕が居たところはバッティングセンターだった。

 日光で温くなったコンクリートの感触を背中で味わっていたはずだ。

 今の背中の感触からして、僕はベッドに寝かされているようだ。

 ゆっくりと起き上がろうとすると、体中の至る所から痛みが走る。だが起き上がれない程ではない。

 右足だけ宙に浮いているような感触があり、視線をそちらに向けると僕の右足が吊り下げられている光景が見える。何故。


「くっ」


 痛みをこらえながら上半身を起こし、周囲を見回す。

 僕以外には誰もいない。個室なのだろうか。

 遮光用の白いカーテンがある。今はカーテンは使われていなくて、光が直に部屋に差し込んできている。

 ベッドの横にはお金を入れないと使えないテレビと冷蔵庫が置かれている。

 やけに鼻につく消毒液の匂いが漂う。

 ベッドにはサイドテーブルが備え付けてあり、テーブルの上にはグラブと軟式用のボールが置かれていた。


「なぜテーブルにこれが?」


 ここが病院であることは疑いようもない。

 なぜ僕は病院に居るのか。これがわからなかった。

 しかも右足まで折れている状態で。

 いや、そもそも僕は兄と一緒に居たはずなのにどうして――。

 その時、病室のドアが軋んだ音を立てながら開いた。

 

「やあ。ようやく意識を取り戻したかね」


 眼鏡をかけた初老の医師が看護婦を伴って入って来た。

 個室の癖にこの部屋は妙に広く、ドアから十歩以上歩かないと僕のベッドには辿り着けない。前は多分相部屋として使われていたはずの広さ。

 医師は僕の様子を見て、ほっと安堵の表情を見せる。


「どうやらひとまずは無事と言ったところかな」

「あ、あの。僕はなんで入院してるんですか?」

「ふむ。君はね、交通事故に遭って二日間も意識不明だったんだよ」

「交通事故? 待ってください。僕はさっきまで兄と野球……野球をしていたはずなんです」


 それは野球とはかけ離れた何か、だったが。


「記憶の混濁が見られるね。君に今必要なのは、何も考えずに治療に専念することだよ。ひとまずは右足の骨折をキッチリ治して、歩けるようにリハビリまでもっていくことだ。いいね?」

「は、はあ」


 医師は僕にそう告げて、カルテに何かを書いた後に足早に去っていった。


「一体何がどうなってるんだ」


 起こした上半身を再びベッドに横たえる。体を起こしていると痛みが増して仕方がない。確かに医師の言う通りに、ここは体を治す方が先決だろう。

 しかし全くわからない。

 僕は兄と一緒に居たはずなのだ。

 地獄のノックを受けて、倒れたところまでは記憶がある。

 その先の記憶がない。医師が言うには交通事故に遭って運び込まれたらしいのだが、倒れてから交通事故までの記憶がすっぽり抜け落ちている。酒を飲んで泥酔したわけでもないのに。


「……」


 考えても仕方のない事は、考えない方が良い。

 妙に体はけだるい。眠い。

 ぼんやりと目を瞑った矢先に、再び病室のドアが開いた。


「よう、元気してるか」

「!」


 僕を痛めつけていた張本人が姿を現した。果物が入ったバスケットと漫画がぎっちり詰め込まれた鞄を手に持って。

 一体どの面を下げて会いに来たのか。

 だが兄はまったく悪びれずに、来客用の小さな丸い椅子に腰を掛け、荷物を降ろした。


「交通事故に遭ったんだってな。見舞いに来たよ」

「白々しい。さっきまで僕を痛めつけていた癖に」

「おいおい、折角果物やら漫画持ってきたってのに、随分な挨拶だな」


 張り付いた仮面のような笑顔を浮かべながら兄は言った。


「あのノックは、明らかに僕を殺そうとしていただろう」

「そんな物騒な事言うもんじゃないぜ。あれはただの遊びだよ。俺が野球部の頃に受けていたノックを再現しただけだ。流石に素人が受けるのは無理だったかな?」

「当たり前だ。そもそも僕は運動音痴だ。無理に決まってるだろ」

「そりゃお前、最初から諦めてたら何も出来ないに決まってるじゃないか。なんでもやってみなきゃわからない、だろ?」


 病室に響き渡るような大きな声で兄は笑った。

 僕の言葉を意趣返しのように言うなんて本当に嫌味な奴だ。


「でもアキラを殺す気なんて更々無かったってのは言っておく。本気で殺すつもりなら、あんなまどろっこしい事せずに銃弾ブチ込めば済むからな。もしノックで殺すにしても、硬球を使う。その方がより殺しやすいだろ」


 本気で殺すつもりなら銃弾をぶち込む。

 そんな言葉を違和感なくサラリと言えるようになった兄貴が、たまらなく嫌だった。身内がそんな風になってしまったなんて認めたくない。


「ところでお前、その右足どう思う?」

「どうって……何がさ。ていうか、なんで僕の右足折れてるんだ? あのノックで受けた怪我は打撲程度しかないと記憶してるんだけど」

「お前にもさ、俺の気持ちの何割か味わって欲しいから折った。足を折って自由に動けないって気持ちをな」


 暗い笑みを浮かべた兄を見て、ぞっとした。

 僕が意識を失った後に、わざわざそのためだけに足を折ったのか。

 いやその前に、交通事故に偽装したのも兄の仕業か。


「医師は事故と言っていたけど、まさか兄貴が……?」

「わざわざ事故に偽装するのも手間だったぜ。俺の手下を一人刑務所にやっちまうのは痛かったけど、それだけの価値はあった。間違いなくな」

 

 僕は確信した。

 僕の足をここまでして折ると決意出来るのなら、人を殺すのだってきっと躊躇なくできるに違いない。

 兄はもう普通の人間ではない。でも僕には兄が、何に変貌してしまったのかをうまく形容する言葉を持たない。

 兄はその眼で一体僕をどのように見ているのだろう。

 

「本当ならあの時の俺と同じくらいの怪我をさせてやろうかと思ったけど、俺と同じような痛み、気持ちなんてお前は絶対に味わえない。させるだけ無駄だからやめた」

「……幾らかはその気持ちは分かったから、もう帰ってくれないか」

「お、そうか? ちょっとでもわかってくれたか。いや、それなら骨を折った甲斐があったってもんだよ。そのうちまた見舞いに来るわ」

「二度と来ないでくれ」

「嫌だね」


 兄は満面の笑みを浮かべながら、病室を出ようとする。

 ふと僕は心に浮かび上がった疑問を口にした。


「なあ、兄貴を轢いた実行犯と、計画した先輩方ってその後どうなった?」


 兄は歩を止めた。


「実行犯ならもう十二分に罰を受けた。学校は退学、刑務所にまで入ってる。その上に俺から制裁しても可哀想だろ」


 それだけ言って兄は部屋のドアに手をかけた。


「待てよ。先輩方はどうなったんだよ」

「お前、本当に聞きたいか?」


 ぼそりと低く言ったはずの声。

 なのにその声はやけに僕の耳に響き、脳の奥まで貫くような感触まであった。

 瞬間、僕の背筋には悪寒が走り、冷や汗がどっと流れ出してくる。


「聞いて面白いもんじゃない。興味本位なら何も聞かないのが一番だ」


 僕は黙って頷き、兄はそれを見てにっこりと微笑んだ。今度は違和感を感じない、自然な笑顔。

 じゃあな、と言いかけてまた兄は立ち止まった。

 今度はなんだよ。


「そうそう、言い忘れていた。うちもそろそろオンラインショップを展開しようと思っていてな。お前の会社、こういう案件も受けてくれるんだろ? 近々見積もりやら計画書やら持っていこうと思うんだ」

「そうなのか」

「もしお前が案件に関わる事があるなら、その時はよろしく頼むぜ」


 兄は手をひらひらと動かしてさよならの意を告げ、病室を去った。


「はあ」


 兄が部屋から出ていった後、肩に重い物でも乗せられたかのように疲労感が押し寄せてきた。

 もう目も開けたくないくらい憔悴している。

 ……自然と瞼が降りて来た。


 まどろみながら、兄が僕を殺さなかった理由を考えている。

 本当なら僕が原因となって兄の人生を変えてしまったのだから、殺されても仕方がない筈なんだ。

 それなのに、僕はまだ生かされている。

 兄弟だから?

 生かすにしては生易しい理由だと思わず鼻で笑ってしまった。

 情に篤いなら無くはないが、弟の足を躊躇いもなく折れる兄に限ってそれはないだろう。

 何かしらの理由はあるはずなのだが、さっぱり思いつかない。

 兄に聞いたところできっと何も答えないだろう。


 ノックを受けていた時は兄の考えている事がわかるなんて思っていたけど、それはとんでもない思い違いだった。

 僕は兄の考えている事なんてわからない。

 それどころか常人にはきっと及びもつかないに違いない。

 兄は変わってしまった。僕のせいで。

 ただの一言であそこまで人生が狂うなんて誰が思う?

 光り輝く道から転落し、それでも荒れた獣道から這い上がって来た兄を、誰が責められるだろうか。少なくとも僕には責められない。

 

 一体僕の未来はどうなるんだろう。

 多分それは、兄のみが知っている。 

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兄と僕のことについて 綿貫むじな @DRtanuki

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