第三話
次に気が付いた時、僕は目の前の光景を疑った。
なぜ僕の眼前にはピッチングマシンがあるのだろう。
周囲を見回すと、背後にはバッティングをするためのスペースがある。バッターボックスと100円を入れる箱があり、その周囲はネットで覆われている。
「バッティングセンター……?」
ただ、施設はどれもこれも使用されている気配はない。
ピッチングマシンは遠目から見ても錆付きがひどく、ネットも至る箇所が破れて大きく垂れ下がっており、哀愁を漂わせている。ネットの上の方に設置されているホームランと書かれた円状の板も、鳥よけのような塗装が剥がれてかすれている。
ようやく意識がはっきりしてくると、僕はソファに座らされていた事に気づいた。手足は縄か何かで縛られて拘束されて身動きが取れない。
バッターボックスの方にある扉が開く音がした。
「ようやくお目覚めか。だいぶ待ったぞ」
兄が近づいてきた。右手には金属バットを持っており、それがカツンカツンとコンクリートの地面に当たる。
「一体これは何の真似だ」
「まあ少し落ち着けよ」
「こんな状態で落ち着いていられるかよ! ほどけ!」
「ちょっと昔話をしようか」
兄は懐からタバコを取り出して火を点けた。
「俺が事故で膝ぶっ壊れた時の事、覚えてるよな」
僕の眼をじっと見据える兄。
忘れられるわけがないだろう。あれだけ荒れた兄は、後にも先にも見られなかったのだから。実際、あれ以上に愉快だった出来事は僕の人生には存在しない。
僕の沈黙を肯定と捉えた兄は自嘲気味に笑い、大きくタバコを吸いこむ。
あっという間にタバコの葉の部分が勢いよく燃焼し、肺に煙を充満させた兄は、僕に煙を勢いよく吹きかけた。
「げっほ、げほげほ」
「ところでな、俺はお前に非常に感謝している」
「か、感謝?」
一体、何を言っている?
「あの時の俺は運動しか能がないって思っていた。でもな」
タバコを捨てて踏みにじり、兄は額に手を当てて天を仰いだ。
雲一つない晴天を、太陽を睨みつけるように見つめている。
「チンピラまがいの事をずっとやり続けてたある日、お前の言葉をふと思い出したんだよ。なんでもやってみりゃいい。あ、これさっき店でも言ったっけか。まあいいか。だからさ、文字通りなんでもやってみたんだ。本当になんでもな。店では最初に営業やったって言ったけど、その前にもっと色んな事やってたんだわ、俺」
それこそ、人に言えないような事も――。
後に続く言葉は恐らくそんな感じだろう。そんな想像ができるくらい、兄の顔は醜く歪んでいた。口の端を吊り上げながら額には深く皺が寄っている。
僕には及びもつかないような苦悩、苦渋に満ちた数年を過ごしたんだ、多分。
すぐに一転して、兄はいつもの笑顔に戻る。
その笑顔は、張り付いた仮面のような印象を僕に与えた。
「苦労の甲斐あって、俺は小さいけど会社の社長になった。まだ数店舗しか店は展開できてないが、もっともっと大きくしていきたい」
「さっきと同じ話しかしてねえじゃねえか」
「まあ、いいから聞けよ」
いい加減、じれったくなってきた。
何が言いたいのか分からない。ただの昔話がしたいなら中華料理屋でデザートでも食べながら話せばいい。兄の意図が、心がわからない。
じっとりと額に冷や汗が浮かんでくる。
「でな、ここからが大事な話なんだが」
金属バットをブン、と右手だけで振る。
かつての鋭さを彷彿とさせるが、兄は振ったバットの先を睨みつけていた。
まだまだ物足りないと言わんばかりに。
「まだ俺が店を持つ前の話だ。借金取りをしていた頃かな。取り立てをしていた相手が偶然、高校の野球部の先輩だったんだ」
僕の心臓が一気に跳ね上がる音がした。
「昔から金の管理がかなり雑だった奴だ。金が無くなったら誰かに借りて返さない、そんな屑だった。パチンコパチスロに競馬、とにかく賭け事が好きでありゃ将来ろくでもねえ奴にしかならねえと思ったら案の定だ。俺が取り立ての相手だと知った時には土下座して額を地面に擦り付けてたな。たかが300万程度の借金で土下座はねえだろって思ったら、どうもそうじゃないらしくてな」
タバコを投げすて、今度は両手でバットを握りスイングする。
鋭いスイングは高校の時と見劣りしないほどの速さで空を切った。
それでも兄の歪んだ表情は消えない。
「なんでそんなに怯えてるのか聞いてみたんだよ。そしたら何て言ったと思う?」
「……」
「過去の事を謝りたいとさ。過去の事って言われてもその時の俺には何の事か全くわからなかった。詳しく問い詰めてみたら、俺が車の衝突事故に遭ったのは、実は野球部の先輩連中が仕組んだ事らしいじゃないか。あの時の俺が、他の野球部の連中を馬鹿にして見下してたから、ムカついてちょっと事故でケガでもさせてやろうって思ったらしい。でも車でケガさせようってのがアホだよな。ちょっとのケガのつもりが当たり方が悪くて俺の足は粉砕骨折。二度と本気で野球ができない体になったよ。実行犯は補欠でいじめられてた奴だった。完全にそいつらに脅されてやった、可哀想な奴だったよ。実行犯だけ貧乏くじで、交通刑務所に入ったって聞いたよ。まあ当然か。無免許で車運転して人を大怪我させたんだからな」
徐々に兄の顔色が紅潮し、目が血走り始めている。
「別に、俺は先輩方の事を馬鹿にしてたとか、見下してたとかなんて欠片も思ってやしなかったのにな。俺は一年生でレギュラーになったからといって、決して驕った態度なんか誰にも見せやしなかった。先輩方を立てる事を忘れなかった。体育会系の世界で過ごすにはそれが当たり前だったからな。誰がそんな嘘を言いふらしたって問い詰めたら……」
兄は一歩、僕の方に踏み込んで再度スイングをする。
風切り音は一層激しく聞こえ、風圧で僕の前髪がぶわっと舞い上がる。
背筋が凍る。
「アキラ、お前が言ったらしいじゃないか。弟が言ったからって、それを素直に信じる先輩方もアホだとは思うが、お前がそういう事を言うとは全く思わなくて、しばらくはマジで落ち込んだよ」
唾を飲み込もうとしたが、とうに口の中は乾燥しきっていて何も飲み込めない。
だのに、汗は全身から噴き出して止まらない。
「でもさ、俺はこれで確信したよ。お前にも立派な才能があるってさ」
一体何を言ってるんだ。
「人を陥れる才能さ。お前はそれに優れている」
「ま、待てよ。さすがに言いがかりだろそれは。僕は兄貴を陥れるつもりなんて全く無かった。ただの戯言を本気にしたあいつらが悪いんだ」
「そう、戯言だ。だがお前はそういうちょっとした戯言が上手い。大きく人を貶めるような真似は基本しないけど、ちょっと自分が有利になるような、罪悪感の薄い嘘、陥れ方が上手いんだ」
例えば、と兄は続ける。
「企業の面接を受ける際にだ。同じ面接を受ける人と軽く話をして、その人の主張や考え方をそれとなくパクったり。あるいはマラソンの時に、友人と一緒にゴールしようと走って、いざゴールが近くなったら温存していた力を出して自分だけ先にゴールするとかな。ちょっとお前の同級生に聞いただけでもこんな事例がザラに出てくる。どうだ、何か言いたいことはあるか?」
「……」
いつの間に調べたんだ。
僕がそういう、細かくてみみっちいやり方で人生を歩んできた事を。
凡人だから少しでも人の先を行く為にはこうするしかなかった。
それをバラされる事ほど僕の中では嫌なものはない。
兄はバットの先を僕に突き付ける。
「それにお前は言ってたな。事あるごとに兄貴と比べられて、僕がどんな気持ちになったかってさ」
「……」
「兄貴は凄すぎて、とても嫉妬するような気持ちなんて湧かないって。でも、その言葉は嘘なんだよ。自分に言い聞かせてただけで、心の奥底では妬みや嫉み、憎しみみたいな気持ちがふつふつとどす黒く煮え滾っていた。いつ爆発させようか機会を伺っていた。だからそういう嘘をついた」
どうだ、当たっているだろうと兄は言う。
僕は歯ぎしり以外の返事を出来なかった。
その音を聞いて、満足気に目を細める兄。
もしかしたらそうなのかもしれない。
あまりにも眩く輝く兄が憎らしくて、羨ましくて、でも手が届かなくて。きっと自分はその領域まで絶対に辿り着けない。
だったら、その輝きを地に落としてしまえば少しは自分の気持ちも晴れるかもしれない。些細な気持ちで吐いた嘘。
けど、ここまで大ごとになるなんて思いもしなかった。先輩方にシメられるだけで済むだろうと考えていたのは、甘すぎたのか。
「昔の俺は嫉妬心を抱いた奴の怖さってのが理解できなかった。凡人の気持ちってのがどんなものか、考えも及ばなかった。だからああいう事故に遭ったんだって、今なら理解できる」
更に兄は一歩踏み込んで、しゃがんだ。
僕と視線を同じ高さに落として前髪を掴む。
歯をむき出しにして、叫ぶ兄。
「足を引っ張る奴はどこにでもいる。そして俺みたいに目立つ奴には、よりたくさん引っ張る腕がまとわりついてくるんだよ。ゾンビ映画みたいな感じでな」
「……許してくれよ。頼むよ」
「許す? 何を言ってるんだ? 俺はお前には感謝してるって言ったじゃないか。俺は運動以外にも才能にあふれている事に気づけたんだから」
兄は僕の座っているソファを思い切りスイングし、叩いた。
打撃音がバッティングセンター中に響き渡り、衝撃が僕の背中に伝わる。
ソファ越しなのに体の芯にまで貫くような打撃。これが頭に当たったらどうなるかなんて、想像すらしたくない。
「ひっ」
「怖いか。この程度でビビってんじゃねえよ」
次いでもう一度、今度は僕の肩を叩いた。
「あがっ」
鈍い打撃音。しかし手加減しているのか、骨が折れた感触は無かった。
「おっと。折角兄弟水入らずの時間だってのに、こんな事やってる場合じゃねえ」
兄は懐からナイフを取り出して、体を拘束している縄を切った。
「お前、利き腕はどっちだっけ?」
「……右」
「じゃあ、グラブは左だな」
そう言って、いつの間にか準備していた野球用のグラブを僕に投げ渡す。
「何のつもりだよ」
「久しぶりに兄弟で野球でもやろうぜ。子どもの時みたいに。あの時のように」
兄は無邪気な笑顔で言い、いつの間にか周囲に集まっている黒服――どの連中も一様にいかつい――から、バッティングセンターで使われている軟式野球用のボールをもらい、僕から距離を取ってスーツを脱いだ。
「ノックをしてやるよ。ガチで打つから、ちゃんと捕らないとケガするぜ」
経験者のノックなんか、ド素人の僕が受けられるはずがない。
今更僕は後悔した。
口にした嘘が、結果的に兄を地べたに這いずり回らせる事になったのを。
今の状況を。
そうだ。兄は何でもできる奴だった。
運動がよくできたからそれが目立っていただけなのだ。
「いくぜ」
キン、という乾いた音が鳴り響き、次いでボールが飛んでバウンドする。
速い。目で追いきれない。
グラブを前に差し出す間もなく、ボールは僕のみぞおちに深くめり込んだ。
「がふっ、げえっ」
朝に食べたものが胃から吐き出され、コンクリートの地面にべちゃべちゃと吐しゃ物が落ちる。酸っぱくて苦い味が口の中に溢れる。
冗談じゃない。こんなのは遊びですらない。ただのなぶり殺しだ。
「おいおい、そんなのも取れないのか? まだ30%くらいのスイングなんだけど。それすら取れないようじゃお前そのうち死んじゃうかもなぁ。それじゃ面白くないだろう。俺も、お前も」
満面の笑みで僕を見て言い、次のノックを打つ。
今度はバウンドするゴロじゃなく、ライナー性の当たり。
やはりその球速は僕の鈍い反射神経では捉えきれない。グローブで顔面を覆うのが精いっぱいだ。
それでも避けきれず、まともに額にボールが当たり、僕は地面に倒れ伏す。
「倒れている暇はないぞ。次だ次だ!」
次のノックも矢継ぎ早に来て、僕の体に当たる。
容赦のない攻撃に、僕の意識は少しずつ薄れていく。
兄の笑い声と金属バットの打撃音と、僕の体にボールが当たる音だけが周囲に響き渡る。
僕はとんでもない間違いを犯したんじゃないか。
あの時つい嘘を言ってしまったが、そのせいでとんでもない怪物を生み出してしまったんじゃないか。
兄には才能があった。
どんな事もできる才能が。
僕はそれを目覚めさせてしまった。
もう兄を止める手段はない。止められない。
彼がやりたいと思った事はどんなことがあっても実行するだろう。
今、彼が何を思っているのか。僕には手に取るようにわかる。
一段と鋭い金属音が聞こえ、ボールが飛来する音が近づいてきた。
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