第二話
僕と兄はロビーのソファに、お互い向かい合って座っていた。
キッチリと決めた服装の兄に、ネクタイの首元を緩めてスーツの上着を脱いだ、極めてラフな僕。
数年も消息不明でいたくせに、いきなり僕の目の前に姿を現したのは一体どういうつもりなんだろう。まず僕よりも会うべき相手なんかいくらでもいるだろう。
「なんでいきなり来たかって面してるな」
「そりゃそうだろ。僕の携帯に連絡するわけでもなく、いきなり会社に来るとかわけがわからない」
「電話じゃ積もる話もしきれないからな。とりあえず会うのが一番だと思って、つい来ちまったわけよ」
兄はにこりと笑顔を見せた。
かつて野球をやっていた時期の笑顔と全く同じで、その笑顔がまた僕を苛むのだ。
兄はエントランスとロビーを見回して言った。
「大きな企業なんだろ、ここ。お前、結構頑張ったんだな。見直したぜ」
見直した? 僕の事はずっと眼中になかったくせに、よくもまあそんなことを言えるものだ。
「それこそヘド吐くくらいにはね。でも、周囲の人はもっとすごいよ。だから僕は食らいつくので精一杯だよ」
「大丈夫だよ、お前なら」
「そうかな」
兄の態度がよくわからず、僕は訝しむ事しかできない。
家を出ていく前の兄はこういう人間ではなかった。
もしかしたら、出ていったあとに心を入れ替えた可能性も無くはないが……あまりの変わりように驚くばかりだ。
「なあ、用件はなんだよ」
「まあそう焦るなよ」
兄は懐からタバコを取り出して火を点けようとしたが、禁煙の文字を見てタバコをしまった。
「最近はどこもかしこも建物の中はタバコが吸えなくて嫌になるな」
「で、用件は何? そろそろ僕は仕事に戻りたいんだけど」
「お前、腹減ってないか?」
「は?」
ますます意味がわからない。
「朝食。ちゃんと食ってるの?」
「今日はバナナ一本とスムージーだけだよ」
「そんなんじゃいい仕事出来ねえだろ。朝からやってる旨い中華の店があるんだ。今から行こうぜ」
「は、今からって……?」
「今日はもう有給取って、休みにしちまえばいいじゃねえか。ちょっとその会社の方の携帯貸せよ」
兄は勝手に僕の携帯を取り、上司に連絡してしまっていた。
「もしもし? アキラの上司さん? 課長? 申し訳ないんだがね、今日はアキラはお休みだ。なんでって? 私用だよ。私用。じゃあそういう事でよろしく」
本当に勝手な奴だ。こういう所は昔から変わっていない。
「じゃ、早速行こうか」
有無を言わせずに、さっそく外に出る兄。
結局僕はその流れに逆らえずに、せっかく出社したのに会社を休む羽目になった。
早足でずかずかと歩いていく兄の背中を追いかける。
「おい、もう少しペース緩めろよ。ついていけねえよ」
「お、すまんすまん」
「にしてもさ、足、よくなったのか?」
その言葉に、兄はにっこりと笑って右膝をバシンと叩いた。
「ああ。最近はいい人工関節があってな、すっかり具合も良くなったよ。走る事だってできるぞ」
そう言って、兄は走るそぶりを見せようとする。
「走らなくていいよ。ついていけねえっての」
「つっても、昔みたいなスピードは出ないけどな」
一瞬だけ、沈黙が僕たちの間を支配する。
「数駅乗るぞ」
兄はすぐに笑い、駅へと歩を進めていく。
朝のラッシュを過ぎた後の駅構内及び電車の中は比較的空いていて、座席に座る余裕があった。電車の中で兄は懐からスマホを取り出してなにやら色々とチェックしたり、返信したりしていて忙しそうで、喋る事は無かった。
兄は野球少年だった頃もファッションに興味はあったが、野球部の連中はなぜかクソダサい服装をする奴が多く、多分に漏れず兄もそうだった。
しかし今の服装は、まるで渋谷のどこかの企業の社長のような雰囲気がある。
僕の視線に気づいた兄は、ニカっと笑って言った。
「俺のかわりように驚いたか? 前はクソダサい芋野郎だったからな」
「一体何がどうしてこうなったんだ?」
「それは店に着いてから話そう。降りるぞ」
電車を降り、曲がりくねって狭い路地裏を二人で歩いて行った先に、隠れ家のようにひっそりと建っている中華料理店が目の前に姿を現した。
見た目は築30年かそれ以上経過している古ぼけた木造の店みたいだが、中に入るとそれと感じさせない綺麗な内装をしている。いかにも個人で経営している中華料理店でござい、といった店だが掃除も行き届いており小汚さは全くない。
店の広さはそれほどではなく、何人かが座れるカウンター席と、テーブル席が三つしかないので20人ほど入ればそれで満席になってしまう。
まだ店内には誰もいない。開店時間は午前九時で今は九時半なのだが、小さく流れている有線の中華っぽいBGM以外は主人が準備している音以外には聞こえない。
僕たち二人はカウンター席に並んで座った。
「おっちゃん。中華粥二つと、あと小籠包つけて。食後にデザートね」
「あいよ」
注文を受けると、不愛想な店主はすぐに料理に取り掛かる。
「ここの中華粥がさ、すげえ旨いんだ。俺は毎朝食べに来る」
「朝にしては遅くない? そろそろ十時になるじゃん」
「九時半ならまだ朝だろ? まあ俺は朝起きるの遅いからな」
「朝が遅いって羨ましいな。どんな仕事してるのさ」
「俺か? 渋谷で社長してるよ」
マジか。思っていた事がマジだとわかると人間わかりやすく顔に出るようだ。
兄は僕の表情を見て、驚いたか、みたいな自慢げな顔をしている。妙に腹が立つ。
「野球しかやってなかったのに?」
「あの後、お前に言われたように色々やってみたんだ。でもさすがに勉強は無理だったな。ある程度成績は取れるけど、本物の天才にはかなわん。だから最初は営業をやってみたんだよ。人当り良いとか言われるし、それなら出来そうかなって安易に考えてたんだけど、やっぱ大変だったわ。買う気の無い人に商品買わせる気にさせる話術を会得するのが大変でな」
「それでもすぐにトップにはなれたんだろ。どうせ兄貴のことだからな」
「すぐにってわけにはいかねーよ。一年くらいは最下位一歩手前だったわ」
「意外だな」
僕の言葉に、兄は苦笑気味に言う。
「やっぱ仕事をこなすのは大変なんだよ。みんな俺の事を何でもデキる天才だって思ってるけどさ、それなりに努力しなきゃ何だって上手くはならねえ。野球だって努力しないで呆けていたら、あっという間に他の連中に抜かされちまう」
水を一口飲み、ネクタイを緩める兄。
それにしても、兄は驚くほど変わっていた。
怪我をした時の荒れた暗い印象は嘘のようになくなり、野球をしていた時よりも更に明るく、よく喋り、よく笑うようになっていた。
「それで、どういう経緯で会社設立したわけ?」
「お前も知ってただろうけど、俺はファッションにも興味あったからな。入った会社もそういう系統だったし。ノウハウは色々勉強させてもらったんだ。もともと俺は一会社員なんかで終わる気は更々無かったし、ノウハウ吸収したらすぐ独立しようと思ってたんだ。こないだ独立したんだけど、物の試しで作ったブランドがかなり流行って、あっという間に数店舗まで構えるようになったんだ。まあ、どうにか経営するだけでヒーコラ言うような有様なんだけどさ」
だから服買ってくれよ、安くするからさと懇願する兄。その笑顔は人の懐にするりと入り込むような人懐っこさがある。
「へい中華粥お待ち」
武骨で無愛想な店主がカウンターの向こうから粥を差し出してきた。
溶き卵とネギのみのシンプルな具材のみの中華粥。鼻腔をくすぐる香りと湯気を立ち上らせている。すぐに小籠包も来た。
「うひょう、来た来た」
兄はすぐにレンゲを手に取り、粥を一口啜った。
「あぁ、優しい味だな。二日酔いの後にこれ食べると更に旨いんだけどな」
横目に見ながら僕もそれにならって粥をレンゲで掬い、口に入れる。
「!」
これは確かに旨い。朝起きてすぐにでも食べられそうな味わい。口の中でコメと卵とネギが調和し、ゆるゆるとほどけて食道をスムーズに通過し、胃に降りていく。中華だしで程よく味付けされていて、それがまたレンゲを進ませる。小籠包の中身も肉ではなく、エビと野菜が主な具材でとてもあっさりしている。
「毎日食べたいけど、僕の住んでるところからは遠いな、ここ」
「アキラ、今どこに住んでんの?」
「千葉の西船橋。ワンルームで家賃五万くらい」
「料理してんのか?」
「コンロが貧弱すぎて全くやってない。電子レンジで作れる簡単なものばかり作って食べてる」
「なんだよ。もっと良い所に住めばいいのに」
「給料が今よりもっと上がったらな」
お互いに笑い合った。
粥も小籠包も旨く、すぐに平らげてしまった。
もしかしたら、兄は気づいていないのかもしれない。
そうだったらいいな、と思いながら僕は水を飲み、食後すぐに出るというデザートを待っていた。そのはずだった。
背後から店の玄関の鈴が鳴る音が聞こえる。僕たち以外にも客が来たようだ。
足音が僕たちの背後を通り過ぎる。その音が聞こえるはずだった。
僕の意識が闇の中に放り込まれた事に気づいたのは、次に目覚めた後だった。
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