兄と僕のことについて
綿貫むじな
第一話
電車が規則的に揺れる。
人がみっちりと詰まった満員電車の中で、僕はなんとか出入り口付近で手すりに掴まって体の安定を確保していた。手すりにも吊り輪にも掴まっていない人は、どうにか自らの足で踏ん張ろうとしていたり、あるいは流されるままに体重をほかの人に押し付けたりと様々だ。朝の殺人的なラッシュにどうにか慣れて来たとは言え、目の前に整髪料や香水をふんだんに付けた人が居るとそれはもう辛いものがある。
電車の出入り口の上にあるモニタでは、ニュースを報じていた。
曰く、高校生が部活動の「シゴキ」のエスカレートによって自殺したと。
退部することも許されず、憔悴しきった上での事だった。
自殺するくらいなら、なりふり構わず逃げてしまえばいいのにと思うのは、僕が身も心も健康で考える余裕があるからだろうか。いじめを受けた人々は考える余裕すら失ってしまうとは聞く。そんな弱り切った人に、逃げろと言っても逃げられないのは詮無い事なのかもしれない。
憂鬱な報道を見るたびに、僕は昔の事を思い出す。
まだ僕が一人暮らしする前の、子どもの頃から学生時代にかけての事だった。
僕には兄が居た。
その兄は、一言で言えば何でもできる人だった。特に運動にその才能を発揮し、徒競走でもサッカーでも、バレー、テニスやバスケットでも、球技だろうが何だろうがとにかく体を動かす事にかけては右に出る者がいないほどに凄かった。何処のクラブの指導者でも一度動きを見るだけで、是非我がクラブチームに入ってくれ、という言葉が出ない事はなかった。
特に野球での活躍ぶりが目覚ましく、たまたま地域のクラブチームに入ったらすぐに四番でピッチャーになり、ほぼ一人で弱小だったチームを全国大会に導くという偉業を成し遂げた。さすがにその時は全国大会一回戦で敗退してしまったものの、チームが一躍有名になったことで周囲から才能のある子が集い、兄が小学六年生になったときに改めて全国大会の優勝を果たしたのだ。
昔から兄はその才能を認められ、常に周囲の人々からの賞賛を受けていた。またそれに何の疑問も感じていなかった。自分のすることが周囲を喜ばせ、褒められるのが当たり前。そんな環境に居るために、僕たちのような平凡な人間の事は何一つ理解できないでいた。
なぜこの程度の事ができないのだろう? という眼差しを僕は受け続けていた。自分が簡単にできる動作ができない。なぜ? 出来るが故の自然な傲慢。
そんな兄に対して、僕はどこにでもいる子どもだった。
誰も僕には期待せず、関心も持たない。親ですら。親は兄にばかり目を向けて、僕に対しては半ば放置に近い扱いだった。おかげで自暴自棄になりかけた時もある。
でもそれは悪い事ばかりでもない。
誰も僕を注目してないし興味も無かったおかげで、僕は自分が興味を持った事をのびのびと出来た。飽きれば放り投げてまた別の事を出来た。兄はそうはいかなかった。一度始めた野球を途中で放り投げるわけにもいかない。何より兄はチームの核として存在していた。よほどの理由が無い限りは野球をやめる事は出来なかった。
僕は平凡だけど自由でいられた。それだけは良かったと言える。
僕が色々やっている中学三年生の頃、兄は全国でも野球で有名な高校に推薦で進学し、そこでも一年生のうちにレギュラーの座を掴んでいた。
その年の夏休み。
甲子園にピッチャーとして出場し、活躍する兄の姿を僕はぼんやりと電器店の売り物のモニターで見ていた。何台も並べられた大きなモニターには、兄の投球するシーンが映し出されている。
ちょうど僕のクラスメイトも偶然居て、僕に話しかけて来た。
「アキラのお兄さん、凄いよね。高校一年生でレギュラーでしかもピッチャーで四番でしょ? ズバズバ三振取るし、ホームランも一杯打ってるし。野球の申し子って感じだよね」
明るく無邪気に話すクラスメイトに、なんと返事したのかいまいち覚えていない。
曖昧にああ、うん、そうだね、みたいな感じの返事をしていたような気がする。
逆に、その時の僕の返事を聞いたクラスメイトの怪訝な顔は、今でも鮮明に覚えている。
なんで身内が大活躍しているのにあまりうれしそうじゃないのだろう。
そう言いたげだった。
普通はそう思うのだろう。間違いなく。
あまりにも僕は兄と比較されすぎてしまった。身内が活躍したからと言って素直に喜べるような心は既に持ち合わせていなかったのだ。
躍動する兄の姿をいくつも並べられているモニターから眺めていた僕は、果たしてどういう顔をしていたのだろう。
電器店から家に帰ると、テレビでは兄の高校が優勝しているシーンが映し出されていた。両親と集まった親戚がその様子を見て涙を流して喜んでいた。
ことあるごとに兄と比較され、そのたびに普通だ平凡だと揶揄されていたから、兄に嫉妬でもしていたんじゃないかと言われる事はたびたびあった。
とんでもない。嫉妬というのは近いレベルの相手に起こす心の働きだ。
兄と僕はレベルどころか次元が違う。
もとより嫉妬心を起こすような相手ではない。
僕とは違う、何か別の存在と思うほかなかった。
兄がまた目覚ましい活躍をするたびに、僕はその思いをより一層強くするだろう。
そう思っていた矢先の事だった。
甲子園が終わった後の冬に事件は起きた。
兄が自動車事故に遭ったのだ。
なんとか一命は取りとめたものの、下半身の状態がひどい。膝から下は粉砕骨折していると聞いたときはぞっとした。粉砕って、それは元の脚に戻れるのだろうか。
当然、そのような怪我では残りの二年間は野球など出来るはずもない。骨がくっついたとしても怪我する前の状態にリハビリでどれだけ近づけるのだろうか。近づけたとして、おそらくは二度と満足に野球はできないのではないか。
事故後、家族に連れられて病院で窓際のベッドに横たわっている兄を見舞った。
右膝を包帯とギプスで固められ、ボルトまで入って固定され吊り下げられている。
両親の心配する声にも反応する様子が無い。ぼんやりと外の風景を眺めているだけだ。明朗快活だった以前の姿はもはや見る影もない。
ベッドのサイドテーブルにはグラブとボールが、ベッドに立てかけられている形でバットが置いてある。もう二度と満足に野球ができないだろうにも関わらず、それでも野球道具は捨てられないようだ。
のちにもう一度見舞いに来た時に、たまにボールを握ったりバットを持ったりしている姿も見たことがあるけど、なんとも言えない微妙な表情をしていた。泣いているのか、笑っているのかその間のような、奇妙な顔。ずっとやってきたことを突然取り上げられた人間は、その事実とどう向き合えばいいのかわからないのだ。多分。
病室の窓から外を眺めていた兄の横顔は、今でも忘れる事が出来ない。
ある程度治って、松葉杖をついて歩けるようになって兄は退院した。
しかし学校に行く様子もなく、兄は事故後ずっと家に引きこもっていた。
高校は野球推薦で入った以上、部活動を継続できなければ他の科に入り直すか退学となる。この学校の普通科は進学を重視しているため、ほぼ野球漬けの日々を送っていた兄では学力が足りなかった。機械科や電気科ならまだ転科できたかもしれないが、兄はそれを望まず、結局退学した。
その頃の僕はと言えば、貯めていた貯金を使って買ったパソコンに夢中で、ホームページなんかを作ったりしていた。なんとなく、これが僕の好きで向いてることなんじゃないかと感じ始めていた。
僕はある時、兄の部屋から借りっぱなしにしていた漫画の存在を思い出し、返しに部屋に入った。
兄の部屋のドアの前に立つ。
「ヒデト兄貴? 入るよ」
「……ああ」
ドアノブを捻る。
ゆっくりドアを開けると、布団に転がって携帯を弄っている兄の姿があった。
布団の周りにはゴミや漫画が散らかっている。片づける気も無い様子だ。
「この漫画、ずっと借りてたからいい加減返すよ」
僕は本棚の空いているスペースに、アウトロー漫画を差し込む。
兄は僕に視線も向けずに、ただただ携帯で何かアプリを操作している。
「じゃあ」
「待てよ」
僕が部屋から出ようとすると、不意に兄が上半身を起こしてこちらを見た。
右足はまだギプスで固定されている。傍らには歩行補助の松葉杖が置かれている。
兄の眼は僕が見たことのない暗さを湛えていた。
「お前はのうのうと気楽に生きてて良いよな」
「いきなりなんだよ、言いがかり?」
「別に。パソコンだか弄ってさ、漫画とか読んで呑気に笑ってられるお前が羨ましいなって思っただけだよ」
さすがにこの物言いには僕も頭に来た。
「兄貴は僕なんか見てもいなかった癖に、よくそんな事言えるな。いくら怪我人だからって言っていい事と悪い事くらいの区別はつけられないのか」
「うるせえな。お前はだから良いって言ってんだ。好きな事ずっと続けて来たんだろ。俺はずっと野球しかやってこれなかったのに、いきなり野球できなくなったんだ。俺の苦しみや苛立ちがお前にわかるか」
「そんなの、僕が知るわけないだろ」
「なんだと?」
「僕は兄貴じゃないし、怪我した事も無いからそんな人の気持ちなんかわかりゃしないね。それに、兄貴だって僕の気持ちなんかわかるわけないだろ。ずっと事あるごとに兄貴と比較される、凡人の僕の気持ちなんか考えた事、一度でもあるかよ」
「……」
「人生の表舞台を今まで歩いてきた兄貴と、普通で平凡な僕、って毎回毎回誰かに比較されるんだぜ。そのたびに僕がどういう気持ちになってたかなんて想像もつかないだろ。何とか言って見たらどうなんだよ!」
僕はいつの間にか叫んでいた。全部言い切った辺りで肺の空気がなくなり、荒く喘いでいた。兄は僕の眼を見据えて黙り込んでいる。
重い沈黙がしばらく流れた後に、兄がようやく口を開いた。
「別に俺は、野球なんて最初からやりたいわけじゃなかった。たまたま、これが一番上手くできて、みんなが喜んだからやってただけだ。ほかの事だって、多分やればうまくできたと思う。運動ならな。でも、足がこれじゃ、俺の取り柄なんてもうないじゃん。どうしたらいいんだよ。わかんねえよ」
俯いて、弱音を吐く兄。初めて見た姿に、僕はにわかに困惑を隠せなかった。
僕が今まで見て来た兄は、こんな背中を丸めてべそをかく姿を見せるような人じゃなかったはずだ。いつもの堂々とした態度とあまりにもかけ離れていて、それが無性に腹が立って仕方無かった。
「そんなの僕に聞かれてもわからないよ。足がもし元通りにならなかったとしても、パラリンピックの選手とかあるでしょ。運動以外にだってなんか出来る事はいくらでもあるじゃん。成績だって悪いわけじゃないんだもの。なんでもやってみればいいじゃん。僕みたいにさ」
「……」
何も答えず、俯いている兄。
僕はその姿を顧みることなく部屋を後にした。
その後、兄と会話をした記憶はない。
リハビリをしてようやく歩けるようになったが、激しい運動はやはり出来なかった。
兄の落胆ぶりはすさまじいもので、リハビリが終わった後の数カ月は誰とも口を利かなかった。その後何とか立ち直っても、苛立ちから物に当たったり、誰彼構わず喧嘩を売ったりと今までの様子からは嘘みたいに荒れた。足が悪くても喧嘩はなぜかめっぽう強く、いつの間にか不良の仲間入りを果たしていた。
家族どころか周囲に迷惑を振りまく兄を見て、僕は内心ほくそえんでいた。
もう兄は特別な存在ではない。
むしろ僕よりも下の、劣った存在だ。
平凡な僕にすら嫉妬を覚えてしまうのだから。僕が嫉妬すらできなかった雲の上の住人のような存在から平凡以下に落ちた兄は、本当に可哀想だと憐憫の情すら湧いてくる有様だった。
その後、僕は大学生になって家を出たが、同時期に兄も家から居なくなったらしい。家族も友人も、兄の消息はわからないと言っていた。
本当に不幸な事故に遭ってくれて良かった。
心の底からそう思ってしまった僕は卑しい人間なのかもしれない。
けど、今まで比較され続けてきていい加減僕はうんざりしていた。少しくらいはそう思ったってバチは当たらないはずだ。
思いにふけっていたら、いつの間にか電車は降りる駅に着いていた。
電車の扉が開くと同時に、我先にと言わんばかりに人が外へと雪崩れていく。
手に持っていたスマホをポケットにしまい込み、僕もその流れに乗っていく。
そのまま長い長いエスカレーターに乗り、改札を出る。
そこから5分も歩けば僕の勤め先のビルがある。
パソコン弄りが高じてプログラミングにのめり込み、IT企業に僕は就職できた。
とはいえ、僕のスキルはたかが知れている。才能を発揮してバリバリ働くなんてのは到底かなわない。勉強して、会社に来ては誰かしらに教えを請い、失敗して誰かに助けてもらう日々を繰り返している。かつての兄のような姿にはどうあがいてもなれそうにはない。やはり僕は凡人なのだと自覚し嫌気が差す。が、それで上を見るのをやめるのはもっとくだらない。
自分なりに頑張っていくしかないのだ。
会社に着き、僕は自分のデスクに座ってようやく一息ついた。
仕事の前に鞄に入れている水筒のお茶を一口含み、飲み下す。満員電車で疲弊した体と精神を、これで少しでも落ち着ける。
「よし」
僕はPCの電源を点けてメールチェックを始めた。週明けだから結構な量が溜まっているが、とりわけ重要なものはなさそうだった。全て目を通したあと、重要度ごとに用件を並べ替えているところで社用携帯に着信があった。
「もしもし、日高アキラさんですか」
「そうですが何か?」
「受付ですが、日高さんにお客様が来ております」
「客ですか?」
客先に行ってレビューや打ち合わせなどをやることはあるが、一介の平社員の僕に用件のある客など、普通なら来るはずがない。
「何かの間違いではないでしょうか」
「いえ、確かに日高さんと面会したいという用件でお客様がいらっしゃってます」
首を傾げ、今日の予定などを軽く洗い直したがやはりそのような予定はない。
だが、もしかしたら自分が約束したのを忘れている事もあり得る。
「わかりました。すぐ行きます」
うちの会社の一階は主にエントランスと応対用のロビーが主となっている。
客はロビーの椅子に座って待っているというので、向かってみた。
一人の男が座っている。
ストライプの入ったスーツを着込み、髪の毛は若干明るくしているがきっちりとセットされている。僕は服飾に詳しくないが、着けている腕時計には宝石が埋め込んであり、それ以外にも先端の尖った革靴を履いたり、ネクタイピンもこじゃれたモノをつけていてなんだかやたらお洒落に気を使ってるな、という印象を受けた。
僕の取引先の会社の人々は同じIT系という事もあり、こういった人はあまり見かけない。むしろ身なりに気を使わない人が多い。
やはり何かの間違いじゃないかと思い、僕は引き返して受付嬢に居留守を使ってくれと頼もうとしたところで、背後から肩を叩かれた。
「やっぱりアキラだろ。随分見違えたじゃないか」
間近で顔を見て、僕はようやく気付いた。
「ヒデト兄貴……」
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