花束
笠井ヨキ
花束
俺は、何をしているんだろう。
菊からビニールを引き抜く指は、水仕事をする指だ。シワが刻まれ、タコができ、あかぎれが割れてもものともしない、働き者の花屋の手だ。その手の持ち主が、かれこれ30分話し続けている。
「だから言ってやったんですよ、具合が悪くなったのは昨日だって。そしたらあの医者、そんなら昨日電話しろって言いましてね。ほら、おかしいでしょう。だから教えてやったんですよ。先生、昨日は病院がお休みでしたよ、だから1日我慢したんです、って。そしたらあの医者、鼻で笑って、いやぁ日曜でも誰かはいますからぁ? ってね、知らないじゃありませんか」
俺も知らない。その医者を知らない。
「私は待つのはちっとも苦になりません。でも病院の都合もあるんでしょうから、今度は予約の電話をね、かけてあげたんですよ。そしたら電話とった女がこれまた、1時にかけ直せって言うんですよ。おかしいじゃありませんか? 医者が自分で言ったんでしょう、日曜でも電話しろって、予約しろって。それで平日昼はだめだなんて、都合が悪いことは何でもかんでも患者のせいにするんだから、たまったもんじゃないですよ」
ユリのおしべを取る指先は、花びらを花粉で汚すことなく、赤茶色の粒を遠ざける。わずかに赤茶がかすれた指先を濡れ布巾できよめ、輪ゴムを引っ掛け、茎をまとめてゆく。
「奥様も、大変なことですね。入院なんて。お花は下に向けちゃだめですよ、水が垂れますからね。お花が長持ちするように、こうしてね、お水をしみこませてありますから」
俺に関係のある言葉が聞こえたので、職務放棄しかかった耳をひっぱり戻す。リボンを結ばれるのを待つ花束は、俺が注文したもので、カミさんへの見舞いの品だ。
入院したカミさんに、何か持っていこうと思った。身の回りの品は、自分で持っていったらしく、俺の出る幕はない。果物はどうだろう、いや、食事は病院が管理したいのではないか? あれはどうか、これはだめか、却下を繰り返す俺の目に、花屋がとまった。なるほど花ならいいだろう。いかにも見舞いらしい。カミさんには要らないかもしれないが、いずれ枯れるものだ、それまでそう邪魔にもなるまい。
入院している家内に、と注文したら、なるほど思いのこもった花束を作ってくれた。関係ない病院の関係ない医者に憤る関係ない花屋の思いがこもった花束だ。何もありがたくないが、花だけ見れば綺麗なものだ。
言われた通り、花を下に向けないように抱えると、まるで赤ん坊を抱くような格好になった。カミさんの入院は出産と関係ないが、このユリなど、ちょうど赤ん坊の顔のようではないか。カミさんはなんと言うだろう。居もしない我が子を思うだろうか。
結論を言えば、カミさんが俺を見て言ったのは「いらっしゃい。ガスの元栓しめてきた?」である。そもそもあけていないと告げると、自炊のしかたを説かれた。
カミさんは別に花束を無視したわけではない。病室に花を持ち込むのは禁止されていると、ナースセンターに花束を預かられたのだ。あれを抱える俺の姿を、カミさんは見ていない。
帰り際に、忘れ物のようにナースセンターで花束を返された。あ、見舞いの希望を聞いておけば良かった。欲しいものがあったかもしれないが、病室に戻るには、またこの花束を預けなければならない。俺はカミさんの病室には戻らず、そのまま病院を後にした。
アパートの玄関を、花束かかえてくぐる男。部屋には誰もいない。そういえば花瓶もない。おまえ、束のままでいいか、などと花に目線を送ったところで、答えはない。泣きも笑いもしない。しっかりしろ、俺。これは赤ん坊ではない。花だ。束ねた花だ。草だ。枝だ。
テレビの前に花束を置いて、麦茶を取りに行く。その場で1杯ぐびぐび飲み干し、おかわりを注いで戻ったら、違和感に足が止まった。空気が違う。何だこれは。
違和感の正体を察するのに2秒ほどかかった。無造作に置いた花束が、香っている。香りが部屋中に満ちて、うちとは思えない空気になっている。俺の口から、息が漏れた。気付かなかったが、どうやら俺は息をつめていたらしい。吐いたぶんの空気を吸い込むと、強い芳香が一緒に入ってきた。質量でもありそうな香り。今までこれを抱えていたのか。こんなに主張していたのか。腕の中で。顔の横で。ついさっきまで。
台所に引き返す。香りがついてくる。シンク下から鍋を引っ張り出し、なみなみと水を注いで、花束のもとへ戻る。重い。リボンをほどこうとしたが、照れ臭くて指が止まった。女の服じゃあるまいし、照れるのも馬鹿馬鹿しいが、意識してしまったものは仕方ない。セロハンもはがさずに、そのまま水に突っ込んだ。鍋に生けられた、ユリ、菊に似た花、知らない花、知らない花、知らない花。
俺は、何をしているんだろう。花瓶にされた鍋、病室に入れなかった花束を前に、2杯目の麦茶を飲んだ。うまかった。
花束 笠井ヨキ @kasaiyoki
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