第3章 西の古城 北の口伝

第22話 大司空

藍は呆然として、軍の先頭の馬に跨がる男を見つめていた。色鮮やかなわけでも派手なわけでもないが、質の良さそうな鎧を着、長くて大きく――パッと見、少し使いにくそうな弓を携え、白い羽のついた矢の束を背負っている。威厳と迫力のある威風堂々たる姿が、嫌でも目に付いた。

 周りでは既に軍の者が夜叉に向かっていた。彼の後に控えていた何十という兵がそれぞれに声をあげて切り掛かっている。まるで波が砂浜に押し寄せているようだった。

 藍を囲んでいた犬妖を射た男は、馬に乗ったまま、悠々と戦いの合間を抜けて藍の元へと来た。

「妙な剣を持っている」

 完全に動きの止まってしまっている藍を、男はおもしろそうに見下ろしていた。

「その歳で一人犬妖向かっていくとは、並大抵の小僧じゃねーな」

 声も耳によく入らなかった。まだ年若いはずなのに、同じ年頃の者とは比べものにならない覇気に、藍は萎縮していた。完全にその場の雰囲気に飲み込まれ、夜叉のことも忘れて、ただただ馬上の男を見ることだけに集中している自分はどんなに滑稽に見えるのだろう――と、考える自分を遠くに感じた。

「白西国軍を束ねる者か」

 急に聞き慣れた声が聞こえて、藍はそちらを振り向いた。相手の出で立ちも風貌も気にせず、むしろ普通ならこちらが気合い負けしてしまうであろうに、何の矜持か自信か。昴は堂々とその男に詰問した。

「そうだ。早馬の連絡を受けてね。東城から三日で来た。誉めてくれ」

 ニッと笑い、昴と藍に目配せすると、男は馬を御しながら、夜叉の群れへと突っ込んで行った。

 目の前の光景に圧倒される藍の背後で、ガッ――という何かがぶつかる音が響いた。慌てて振り向くと、そこには脚を蹴り上げた状態の昴と、砂煙の中地面に叩き付けられた夜叉の姿があって。

「気をそらすな」

 緊張の中、いつになく低く真剣に言われれば、黙って頷くしかなかった。藍は昴に昴は藍に、と互いに背後を任せながら構える。動揺をなんとか抑えようと、藍は自分自身に言い聞かせた。――あの男より、今は夜叉だ。

「でも……本当だったんだ……」

 詰め寄ってくる犬妖を見据えながら、藍は呟く。今し方起きた出来事から自分を現実に引き戻す為の言葉だった。背後で昴が、何が、と問うて来た。

「分かったよ」

 自嘲気味に笑うと、昴がちらりと藍の様子を伺ったのが分かった。

「お前が人殺しじゃないって」

 剣を振るうと、剣先は犬妖の首と胴を別個にした。動きが止まり、そのまま地面にどさっと倒れ――ボロボロと崩れて消える夜叉を眺めながら、藍は呟いた。

 昴の斬った夜叉は血を流し、運がよければ一瞬で絶命して、悪ければ死ねずにもがき苦しんでいる。確認のため、藍は白西国軍の兵が切り付けた夜叉を視界に収めてみるが、やはり全部が血を流し死んでいた。死骸が残らないのは藍の斬った夜叉だけだった。


 状況は一転した。

 待ちに待った大司空率いる軍の到着に、犬妖が現れたことで戦意を失っていた村人達の目に、再び光が戻った。村人はもといた人数からまた少し減っていた。おそらく怪我で退却しているのだろう。人の骸は転がっていなかった。

 白西国軍は強かった。武術を極めたそのものの手つきで、剣、槍、弓を器用に使い、ばっさばっさと夜叉を蹴散らしていく。

 中でも、先程の男の腕は軒並み外れていた。放った矢は、寸分違わぬことなく夜叉の眼を貫き、視界が効かなくなったところで、他の兵が、その首を叩き斬る。矢を放つ。斬る。矢を放つ。斬る。それを何度も繰り返すうちに、彼の周りの夜叉は地面に伏し、血溜まりの中に白い鎧だけが目立っているのだ。よく見れば、鎧にだって泥一つついていない。

 背後に殺気を感じて、藍は咄嗟に左へ避けた。間一髪、今藍がいたその場所を、犬妖の爪が掻いていた。ゴロリと夜叉の死体の合間を転がり体勢を立て直して見ると、犬妖は藍を睨み付け、刹那、突進してきた。藍は低く構え、夜叉が跳び上がった瞬間、スッ――と、音もなくその下に潜り込み、剣を真上に突き出した。下敷きにならないよう剣から手を離し、転がり離れると、犬妖はうめき声をあげながら大きな音をたてて地面に落ちた。――そしてすぐに砂となり、消えた。

 ――何故だ……。

 残った月華を急ぎ拾いあげ、今度は覆いかぶさるようにして正面から迫って来た人妖を交わしながら、藍は心の中で呟いた。続いて左にいた一匹を流し斬り、もう一度、今度は背後から突っ込んで来た人妖の前足を払い、体勢が崩れたところで、剣を真上から突き刺す。

 ――なぜ血を流さない。

 剣の刃から腕に伝わる感触には、確かに生々しい何かがある。けれど、藍は他のものを斬ったことがないから、それが夜叉特有のものなのか、生き物全般にあるものなのか、あるいは藍の斬る夜叉だけに――跡形もなく砂のように消えていく夜叉だけにあるものなのか、判断出来ない。藍が唯一分かることといえば、稽古で木剣しか使ったことがなかった頃には、この感触を経験したことがない、ということだけだった。

 もう一頭の犬妖を斬り倒し、一息ついてから、藍は昴を盗み見た。剣先は完璧な半弧を描いて夜叉を切り裂いていた。戦っている最中だというのに、不覚にも、嬉しいと思ってしまう。

 ――彼は村の人を殺してはいなかった。

 多分、心のどこかで分かっていた。共に旅をして、朝から晩まで一緒にいて、昴が大勢の人を殺すなんてことをするような人物ではないと知ってしまった。藍がそれを認めなかっただけで、昴はいつも優しかった。克羅の姫のためだろうが、何だろうが、それが事実で真実なのだ。

「礼を……」

 小さく呟いて、藍は目の前の夜叉を一刀両断にした。何体目になるのか数えていたはずなのに、数字は口から出てこなかった。

 ――言うべきなのかもしれない。

 彼の名を呼んで、感謝の意を示して、謝罪をするべきなのかもしれない。助けられたのは現実だし、藍が昴は人殺しだと疑ってしまっていたのも現実だ。今まではそのことを知らず、故に非はなかったが、こうなった以上は認めざるをえない。認められない程自分は幼稚じゃないし、そうなることは矜持が許さない。

 右前方から飛び掛かって来た夜叉を、藍はわけなくかわした。僅か一瞬、背を向けた犬妖の背中に狙いを定め、右足で地面を蹴り、軽く跳躍する。角張った背骨の小さな一山一山が見えるぐらいまで寄ったときには、月華は茶色の体に深く食い込んでいた。


 斬って斬って斬り続けて、目で見る限り夜叉は減っていた。こちら側――つまり、村人や兵の中には、怪我をしている人はいたが、やはり死者は出ていない。昴の剣術の稽古が幸を成したのだろう。

 一際大きな犬妖が藍に差し迫ってきたが、これで何頭目だろう――と思っただけで、なんの躊躇もなく剣を振るった。

「やったか?」

 返り血で紅く染まった袍を気にする様子もなく、息切れ気味の昴が寄って来て、唸るように言った。

「ああ」

 丁度今斬った夜叉が砂へと変わり、風に流されていくところだった。それを見つめていると、昴は剣に着いた血を払いながら、

「なんで琴音の斬った夜叉はこうなるんだ?」

 と、静かに聞いた。ようやく戦いの佐中で分かった事実を聞ける状況になった。

「分からない」

 息も途切れ途切れで、額に浮かんだ汗を拭いながら、藍は剣を鞘に収め、答えた。

「初めて斬った時からこうだった。だから、夜叉は血を持たない生き物だと思っていたのに」

「あの時襲い掛かってきたのはそのせいか」

 昴の言うあの時が、初めて会い、剣を交えた時のことだと分かって、藍は頷く。

 昴、藍と続いて動きを止める人数が徐々に増えてきた。白西国軍の兵の一人が最後の人妖を倒して、夜叉の全てが死んだ。兵の全員が全員、返り血で真っ赤だった。

「終わったか……」

 藍のすぐ近くにいた兵が、ほっと一息つきながら、剣を鞘に納めていた。それをきっかけに、村人や白西国の兵が挙げる声が少しずつ大きくなり、ついには歓声があがっていた。

「人妖、犬妖の群れ……初めて見るな」

「異種間の夜叉は行動を共にしない?」

「しない。そんな話聞いたことがない。俺は何度も夜叉に遭遇しているが、どれもこれも同種で行動していた」

「そう……」

 その歓声に参加せず、代わりに額をもう一度拭いながら、藍は倒れている夜叉を見て、続いて昴を見上げた。

 血にまみれた彼は正直怖い。記憶が蘇ってくる。だが、藍には伝えるべきことがある。非を認めるのだ。

「昴」

 掠れた声で、初めてその名を呼んだ。もう一ヶ月以上一緒にいたのに、一度も名を呼んだことがなかったなんて、不可解なこともあるものだ。よく覚えていたと、自分を誉めてやりたかった。

「……ありがとう」

 ずっと固かった頬は、やはり固いままだった。上手く笑えもせず――元々笑顔になるつもりなどなかったのだが――引き攣ったような顔になって、これは絶対醜女だな、とわけもなく確信した。

「それと、悪かった」

 昴は藍をじっと見ていた。ほんの少しも動かなかった。

「ずっと疑ってた。あ、いや、ちょっと違うかな。緑北国で村を襲ったのはお前だと思い込もうとしていた。お前が返り血を浴びていたという理由だけで。それと色々――」

 藍は続ける。

「色々と助けてもらった。私はずっと疑っていたのに、昴は私によくしてくれた。その事実は変わらないから――だから、ありがとう」

 柄〈がら〉じゃないと思った。昴は唖然として凝視しているし、藍は藍で、ありがとうなんていう言葉は随分と使っていなかったから、照れ臭かった。

「琴音……」

「うん」

 昴は口を開きかけたが、また閉じてしまった。どう反応すればいいのか分からないようだった。

「昴お兄ちゃん!喬お兄ちゃん!」

 と、戦場跡に相応しくない高い声が聞こえて、藍は振り向いた。

「鈴!」

 藍は驚いて叫び、剣を置いて膝をつく。迷わず鈴は藍に飛び付いて来た。

「おねえちゃ~ん……」

 泣きそうな声で、しかし藍が本当は女だということが周りにばれないよう気を使っているようで、耳元で鈴は小さく言った。

「駄目じゃないか鈴!こんな場所に出てくるなんて!」

 今更だが、藍は辺り一面血まみれのこの光景を見せないよう、鈴の頭を自分の胸に押し付けた。

「夜叉は倒したけど、まだ……」

 藍はぼんやりと胸の中の少女を見つめた。

 震えながら藍の服を握りしめ、離れようとしない。藍は戸惑って近くにいた昴を見上げた。鈴が懐いているのは、どちらかといえば昴の方ではないのか。藍は別に鈴とたくさんの話をしたわけでもないし、特別多く顔を合わせてもいない。

 だが昴は笑って、口だけ動かし、声に出さずに言った。

 お前に任せる。

 彼が血まみれだったというのもあるから、藍はこっくり頷いて、躊躇ってから、ポンポン――と鈴の背中を叩いた。

「鈴、私も昴も大丈夫だから」

「……」

「もう終わったよ。ね?」

「……うん」

 しかし鈴は離れようとしなかった。藍は息をつき、思わず苦笑う。

「――鈴は私が好きか?」

 パッと鈴が顔をあげた。満面の笑みで藍を見つめ何度も首を縦に振った。

「うん、好き。大好き!」

 屈託なく言われて、藍はにっこり笑った。

 何もしてあげていないし、言葉だってあまり交わしていない。それでも鈴は藍を好きだと言ってくれ、藍も鈴が好きだ。そこに理由はないのだろう。

「見事な剣の使い手だ」

 藍は顔をあげた。先程の男が馬から降りて、藍と昴を見ていた。

「お前ら、白西国の者か?」

「昴殿はそうですよ」

 答えたのは藍でも昴でもなかった。場に似つかわしくない、今度はやんわりと響く声の元を藍は見た。

「乃依様!」

 昴のすぐ近くに立っていた村の男が、驚いたように声をあげた。

「……これは」

 こんな血の穢れの多い場所にやってきて、彼女は平気なのだろうかと、乃依の登場に驚く藍だったが、それとは対照的に、白西国軍を率いてきた男は乃依を見て笑った。

「天竜が末裔、東野〈とうの〉の乃依女君とお見受け致します」

 片方の拳を、もう一方の手で覆う形で手を合わせ、頭を下げながら男は言った。それに習って兵も頭を下げる。

 それに応え、乃依は片膝をおり、しかし頭は下げない形の例を取った。白西国の礼儀作法の一般的なものだった。男は手を合わせ腰を折る。女は相手を見たまま片膝を折る。どちらかというと宮廷式のものだったが、藍は驚いてその光景を見つめていた。この礼作法は相手が同等の立場のときに使われるものだ。乃依の存在は白西国にとってそんなに大きいのだろうか。

「急な報せにも関わらず、こうして早々のご加勢とご助力、感謝いたします。では貴君が?」

「ええ」

 乃依の言葉に、男は礼の形を崩してから答えた。

「白西国が君主、仁多莢生〈にたさやき〉が私陣〈しじん〉白軍〈はくぐん〉軍師、大司空〈だいしくう〉祈真〈きさな〉です」

 藍の口がぱっかり開いた。あんまりのことに言葉が出なかった。

 ――この男が大司空……。

 白西国は王である仁多莢生が治める、巨大な律令国家だ。他のどの国よりも政〈まつりごと〉の形が複雑な仕組みになっている。

 王の下には、三つの機関が存在する。中央、地方、そして私陣だ。

 さらにそこから、中央は四つに、地方は五つに、私陣は三つに分かれる。中央は、民政、軍事、監督、財政の四つからなり、民政は法の整備が主な仕事だ。必要な法を作り、不要な法を廃止する。もちろん、采配は王がするものであるから、民政は新廃法の提出書を作成し、議会にかけ、王と官の承諾を得てから施行する。いわば法案作製機関といったところか。

 軍事はその名の通り、軍を保有する機関だ。軍の名は西軍〈せいぐん〉と呼ばれ、これは国の軍であり、王のものではない。国々にある北、南、東、西、中のそれぞれの小城に、警備も含めて小さく分かれ、駐留している。他国との戦が始まれば、数を増やし、仁多に集結して戦うのが普通だ。何十年か前の紅南国との戦の時もそうだった。

 監督は、二つに分かれておりそれぞれ内省〈ないせい〉と外省〈がいせい〉の名がついている。内省は、施行された法の監視、そして法を破った者を栽くのを主とする機関で、軍事と同じく、各城に分かれて置かれている。地方によって官、及び官吏の不正がないよう、月々罰した者の名と罪状、内情、裁判内容、刑罰内容、居住地、性別、家族構成から、死刑の場合はどこに葬られたかまでを書き入れた証書を作成し、都に送らなければならないのが決まりだ。更に、王の使者の抜き打ち調査もあり、地方の官が私情を挟んで栽いていた場合は、即刻その者は都に送還されてしまう。白西国で一番気を巡らして儲けられている機関が、この監督内省である。対し外省はいたって単純で、他の国々の監視や交渉、輸出入から使節まで、全てこの外省が担っている。簡潔だがしかし、白西国と他国との架け橋となる重要な機関だ。

 中央四つ目の機関は、財政。税の管理から建設費、仁多城維持費、官の給費、とにかく金とつくもの全て、財政が請け負っている。ここも不正がないよう注意されている機関の一つで、年間、納められた税と使用された金全て書かれた証書を王に提出しなければならない。

 続いて地方。これは、北、南、東、西、中の五つに分かれ、それぞれに里がある。国はこの五つの地に分けられ、それぞれの小城が里を作り、監視を行っている。都から派遣された軍事や監督内省の手助けと、徴収した税を都に届けるのが仕事だ。

 そして私陣。これは全てが王私有のもので、賄いは国が行っているが、王以外の者が口を挟むことは許されない。三つのうちのまず神祇部には、巫女から術者まで神と関係のあるものがここに所属し、祭や儀式の采配もこの部が行う。白西国が崇める白虎を祭る宮もこの部が所有している。

 次の舎人〈とねり〉部。これは、王の私用人で、王族の身の回りの世話をするものから、典医、乳母、教育役、宮廷音楽師、史実研究者など、とにかく政以外で仁多城に出入りする者はは、全てここに所属。中には、城内に住まう場所を与えられている者もいる。

 そしてもう一つは軍部。中央の軍事とはまた別で、規模は小さいが、精鋭はこちらの方に集中しており、強さは互角と取っていいだろう。軍事の西軍と対で、こちらは白軍〈はくぐん〉と呼ばれている。

 そしてこの私陣の神祇部、舎人部、軍部の三つを取り締まるのが、大司空だ。最も王に信頼され、最も王と距離の近い存在で、政治的存在も強く、議会への参加も許されている。

 ――そんな重要な役所〈やくどころ〉にこんな若い男が……。

 大司空が祈真という男だということは、藍も知っていた。嫌でも知っていなければならなかったし、だからこそ藍はもっと歳を取った男を想像していた。ただでさえ白西国の王は若いのだから、それを支える大司空は必然的にかなりの年配だろうと憶測していたのだ。

 だが、目の前にいる男は、どう見ても二十代前半くらいだった。鎧を着ているせいもあるのだろう、体つきが良くがっしりしている。だが顔付きは至って端正で、そこは教養の良さと、高い位さながらの気品があるように見えた。

 藍がポカンと見つめている際に、大司空と乃依は何やら細かいことを話し始めていた。村の者達も、最初は珍しそうに見ていたが、やがて飽きたのか、倒した夜叉の数を自慢したり、傷を痛そうに押さえたりしながら、村の方へと戻っていった。

 藍も、彼等の話の立ち聞きはまずいと思って、まだ抱き着いたままの鈴を抱き上げて、その場を少し離れる。

 人妖と犬妖の死骸の合間をぬって、少し開けた、比較的汚れていない地面に腰をおろした。

 ――疲れた……。

 自分の右腕を見ると、まだ震えていた。随分動かしたからな――と、開いたり閉じたりして力を入れてみる。

「おねえちゃん」

 腕の中の鈴が声をあげた。藍は手を離した。

「ん?」

「鈴、おねえちゃんにお願いがあるの」

 顔をあげて鈴は藍を見た。目をいっぱいに開いて見つめるその姿を見て、無条件に可愛らしいと思ってしまう。長い時間夜叉と闘ったあとだったから、尚更だった。

「鈴はね、おねえちゃんの心の中が分かるの」

「うん」

 藍は聞き流した。小さな子供が言う戯言だと思ったのだ。笑って頷く。

「嘘じゃないよ」

「そう……。鈴、やっぱり村に戻ろうか。この場はやっぱりいい光景じゃない」

 ふと、鈴の為にもよくないことに気付いた。鈴らしくない現実離れした言葉を言っているのも、ひょっとしたら、この血まみれの場が関係あるのかもしれない。誰が見ても気持ちの良いものではないだろう。

 藍は立ち上がった。鈴の方に片腕をのばす。

「行こう」

 しかし鈴は黙ったまま藍をじっと見ていた。藍は溜息をついて、辺りを見回す。

 白軍の兵も村の方へと向かっていた。休息を取るつもりだろう。乃依からの報せを受け、急いでも四日はかかる道のりを休む事なく移動し続けて三日で来て、すぐさま戦いに入ったのだ。疲労も大きいはず。

 昴はというと、実にさりげなく、乃依の近くに立って彼等の話を聞いていた。別段、楽しいこともないだろうに。少し彼らしくないかもしれない。

「鈴」

 藍はもう一度呼んだ。藍も村で休みたかった。ここ数日の連続した夜叉の気配を感じたときに生じる痛みと、今日の戦いで疲労が平生ではない。しかし――。

「おねえちゃんは、本当は姫様なんだ!」

 突然、藍の耳に届くよう、しかし他の者には聞こえぬよう、鈴は瞬きもせず藍を見つめ、叫んだ。

「碧の国の姫様で、お父さんもお母さんも死んじゃってる。だから仕返ししようとして、昴おにいちゃんを利用して……それが出来たらおねえちゃんは死んでもいいって思ってる」

言葉が出なかった。あまりのことに藍は鈴を睨み付ける。心臓を鷲掴みにされたような気分だった。

「何を……」

「優しいのに恐くなろうとしてる。間違ってるかもしれないって思ってるのに、その気持ちを押さえ付けてる。大切な人がいなくなって、悲しくて、自分が何をしようとしてるのか気付いてなくて……」

「鈴」

「おねえちゃんは、自分が悲しいから怨んでることに気付いてて、だから自分を悪いやつだって思ってるの。お父さんとお母さんが殺されたことが憎いんじゃないって。でも、おねえちゃんは本当はとても優しいから鈴は……鈴はおねえちゃんが好きなの」

「……」

「おねえちゃんの大切な人は……鈴みたいに、おねえちゃんのこと好きな人は、おねえちゃんが大切なんだよ。だから――」

 藍は見た。大きな黒い影。視界を一瞬覆うそれ。

 考える間もなく藍は鈴を引き寄せて庇い、横様に倒れた。同時に右上腕に鋭い痛みが走って、思わず顔を歪める。けれど必死に鈴に怪我をさせないよう、出来るかぎり背を黒い影に向けた。誰かの悲鳴が耳に入った。

「……っ」

「おねえちゃん!」

 腕の中の鈴が悲鳴に近い声をあげて、藍の様子を見ようともがいた。それをぐっと押し止め、第二の攻撃を受けないよう、藍は敵の姿を目におさめた。

 見たこともない形の夜叉だった。犬妖どころの騒ぎではない。二倍も三倍もある巨体で、こちらを伺っている。牙は二倍、爪は普通の三倍はある。低い唸り声が聞こえた。

 ――虎妖。

 とっさに思った。虎とは程遠い姿だが、藍の知る生き物の中で、目の前の化け物に一番近いのは、多分虎だ。爪も牙も体も何倍も大きいが。

 剣を持とうと腕に力を込めたが、動かなかった。見ると、縦に入った赤い線がみるみるうちに太くなっていく。かなり深く抉られたことを知り、自分の体温が急激に下がるのを感じた。犬妖でも危ない場面はあったのに、今度の相手はずっと巨体のうえ、怪我を負った、武器が使えない、子供を抱えている。この状況でどうやってこの化け物から逃れるというのだろう。

 ザッと目の前の影がこちらに跳躍した。一瞬のことなのに、その一瞬がばらばらに砕け、細かい破片を一つ一つ繋ぎ合わせてから、初めて次の瞬間が来る――そんな感じだった。瞬きをするだけの時間が永遠に思われた。

 体中の力が抜けて、随分前に感じた感覚が蘇って来た。命を奪われる瀬戸際の恐怖。克羅邸東殿で初めて経験した、殺される瞬間に脳裏に映る、たくさんの映像。

 目の前が暗くなったと思ったら、次の瞬間には真っ赤に染まった。

 胸から腹に、何かがぶつかる。凄まじい勢いで弾き飛ばされる。――そのまま背中が地面に打ち付けられた。

 自分の思考が停止しているのを感じた。一気に増えた悲鳴と怒声が遠くで聞こえる。自分に乗っているものは何なのだろう。――藍は体を起こした。

「……鈴?」

 藍にぶつかってぐったりとした鈴を、藍は抱き上げる。

「鈴、返事をして――」

 鈴の上衣にじわじわと広がる赤いものに気がついた。首筋から胸にかけて斜めに入った、深い傷。

「鈴!」

 藍の中で何かが切れた。

「鈴!鈴!しっかりして!」

 巨大な夜叉など、もはや藍の目には映らなかった。体中がどくどくと熱くなり、頭が真っ白になる。

「今手当てするから。な?だから返事をして。鈴……」

 震える左手と、ほとんど動かない右腕を使って藍は自分の着ていた袍を破り、鈴の傷口に押し付けた。腕に激痛が走ったが、そんなことには全く気付かなかった。

「大丈夫……大丈夫」

 鈴がピクリとも動いていないのは、藍の気のせいだ。息をしていない――いや、しているはずだ。だってさっきまで藍を見ていた。

「大丈夫だから……お願い……返事をして――」

 しかし、布はすぐに真っ赤に染まり、布の切れ端は湿って意味がなくなる。鈴の目も開くことはなく、声も出さなかった。

「こっちだ」

 誰かが座り込んだ藍の腕をぐいと引っ張り、無理やり立たせようとした。藍はそれにがんとして応じず、変わりに鈴をぎゅっと抱きしめる。

「立て」

「……嫌」

「邪魔になる。夜叉も襲ってくる。立て」

「嫌」

 背後で、グオオオオオ――という長く恐ろしい音が響いて、そして一気に辺りが静まり返った。

「やったか――」

 傍らの人物が深く息を吐いた。夜叉をやった――殺したのだ。あんな巨大なものをこんな短い時間で倒すなんて、白西軍の兵はなんと優秀なのだろう。だが、それに何の意味があるのだ。そんなもの、今はどうだっていい。鈴が血を流しているこんな時に――。

どよめきと物音がしばらく続いた。その間、藍も傍らの誰かも動かなかった。随分と時間がたち、だんだんと人が集まって来る。それでも藍は鈴を抱きしめ、絶対に離さないと心に決めていた。

「大司空……俺が」

 聞き慣れた声がしたが、藍は動かなかった。藍の腕を強い力で握っていた誰かは、その言葉を聞いて腕を離した。

「……琴音、離すんだ」

 ――嫌。

「琴音」

 ――嫌だよ……。

「鈴の仇はとった。あの夜叉は皆が殺した。だから……もう大丈夫だ」

 藍は顔をあげた。

「鈴は死んでなんかない」

「琴音、現実は変わらない。拒否は出来ない」

「……」

昴の顔を見て、それで視界がぼやけていることに気が付いた。目頭が熱く、震えが止まらず、かといって自分で制御出来るはずもない。

「私のせいだ……」

「琴音、違う」

「私が鈴を殺したんだ。私が……」

「琴音!」

「う……」

 ぎゅっと胸を押さえる。潰れてしまえばいいと思った。

「うあああああっ!」

 痛くて、叫ぶことしか出来ない。

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天錦宝史伝 〜新戦記編〜 花歌 @utahana

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