第21話 暗闇

村人の要請で、昴は再び村の男への剣や槍、弓を教えに戻った。今更教えても習得出来るはずのないことを、昴は知っているだろうから、多分味方に自信を持たせるために承諾したのだろう。いい年した男共が、自分より年下の少年に寄ってたかって教えを請うているのがいい証拠だ。

 ――三日間、あいつはああやって教えていたのか……。

 藍と随分な差があるなと思う。

 閉じこもって何もしていなかった藍と、外に出て出来るかぎり何かをしようとしていた昴。まるで正反対の自分と彼。

 一人が頭を下げて立ち去っていくと、今度は三人が昴に詰め寄って何やら聞いていた。昴は一人一人に丁寧に答えている。声までは聞こえてこないけれど、昴の表情はいつになく真剣だった。

 急に心配になって、藍は立ち上がり、鞘から剣を抜いた。

 三日も剣を振るっていない。大丈夫だろうとなんとなく思っていたが、何を根拠にそう思っていたのだろう。自信があるから――それは嘘ではないが、あんなに大きな気配の夜叉に対して自信があったって何の意味もないではないか。

 誰も見ていないのと、昴が教えるのに真剣になっているのを確認してから、藍は構えた。スッ――と息を吸って、空を斬る。縦に、右に、左に。

 ――うん。

 鈍っていない。むしろ、緊張のせいか、太刀筋がいいと自分でも思った。藍は剣をしまった。万全とは言えないが、準備は整っている。

 ――見回りでもしようかな……。

 することもなく、ぼんやりと思ったその時だった。

 突如として悪寒が走った。ぞわっ――と、冷たいもので背中を撫でられたような、気味の悪い感覚。はっとして暗闇を見つめ、次いで空を見上げた。

「月が……」

 雲が空を覆っていた。いくらなんでも早過ぎる。小さく空の片隅に浮いていただけだったのに――あれから半刻も経っていない。

「くっ……」

 藍は全力で走り出した。道を塞いでいた兵を蹴散らし、周りが驚くのにも気を止めずに、走った。

 村人全員に合図を送らなければならない。兵もまだ定位置についていないのだ。もっと遅く来ると思っていた。――藍の落ち度だ。来るのはもっと後だと、村長から皆に伝えてもらったのは藍だった。先見を違えた。

「村長!」

 台座の上の紙面を、数人と指差してあれやこれやと論じ、確認していた村長は藍の声に顔をあげた。

「おお、喬殿。どうじゃ、夜叉は近付――」

 ガンッと勢いあまって藍は台座にぶつかり、置いてあった椀が派手に倒れた。あっ、と誰かが声をあげた時にはもう、作戦書から乃依の書き置きまで全てずぶ濡れになっていた。じわじわと墨が広がって、黒い小さな染みがたくさん出来る。

「何をするんじゃ喬殿!」

 書いたばかりなのであろう紙面を、慌てて持ち上げながら、村長は大声をあげた。

「これは夜叉に対抗する為に、練りに練った作戦の――」

「来ます」

 全力疾走して、乱れた息を整えながら喘ぎ喘ぎ言った。

「来ます。すぐそこにいます」

 刹那、暗闇に低い音が響いた。間近からではなく、かといって遠くからでもない――夜叉の慟哭。こだまして、台座の上に広がる水滴がわずかに揺れた。

 今の今まで作戦を練っていた村の主立った面々は、呆然と立ちすくんで藍を見ていた。嘘だと言うのを待っているかのように、目線を離さず、指一本ピクリともさせない。

 出来ることなら藍も同じ状態になりたかった。思考回路停止。突っ立っているだけの埴輪。そうなれたらどんなにいいか。

「早く鏑矢〈かぶらや〉を!」

 しかし、藍は慣れていた。夜叉であろうが追剥ぎであろうが、近付けば攻撃体勢を取るという本能が、旅の間に身についていた。

 傍らに控えていた合図を送る鏑矢を持つ男に、藍は鋭く言ったが、彼もまた、倒れることのない大木と成り果てていた。

 走り寄って、藍はその男から鏑矢と弓を奪い取って、構えた。

 弓矢を使ったことがないでもないが、腕は自分でも分かるくらい情けないものだった。一度だけ父に連れられて狩りに行ったことがある程度で、しかも獲物は雉〈きじ〉一匹すら捕えられなかった。

 だがこの状況では、経験の浅い藍が弓を引くのも仕方ないのかもしれない。目の前にいる、いかにも頼りがいのある頼れない男達は、藍の一言を上手く処理できずにいるのだから。

 弓を強く引いて上空に放った。矢はぴゅう――という壊れた笛の音のような音をたて、闇に消えていった。

 その音が、その場の雰囲気を一転させた。ハッとした村長が、

「何をしておる、急げ!」

 と怒鳴ったのをきっかけに、周りが慌ただしく動き始めた。悲鳴に近い命令と、聞く者のいない怒号。

 錯乱に近い騒動の中で、藍は弓矢を押し付けて返し、再び走り出した。

 ――南へ……。

 本陣――村長のいるあの場所を本陣と呼んで良いのか疑問だが、本陣は北にある。藍がそうさせたのだ。 夜叉は南から来るから、本部は北に、と。

 だから普通は南方に兵が集中しているはずなのだが、走っている最中ふと見ると、なぜか一部の男達が村の中央に集まっていた。先日、昴と鈴と徨来とが座り込んで話していたあの広場に、十五、六人くらいだろうか。武器を持ったまま、何やら話し込んでいる。

「何をしているのですか?」

 藍は足を止めた。男達は一人残らず藍の方を見た。

「合図を聞いたでしょう?夜叉はもう近い。早く決められた定位置につかないと」

 混乱させないよう、藍は出来るだけ落ち着いた声で言った。それが幸を成したといえばいいのか、皮肉にも、目の前の彼等は、頷くでも返事をするでもなく、藍を見て顔をしかめた。

「今話してたんだが……」

 一人の男が言った。

「なんであんたには夜叉が来るのがわかるんだ?」

 藍は眉根に皺を寄せた。

「生れつきです」

「そんなことってあるんか?」

「現に今、私は夜叉が来ると――」

「けど、それが事実だという証拠はないじゃねーか」

 その言葉を聞いて、藍はようやく把握出来た。この男達は脆すぎる。

 ――今になって現実逃避か。

 恐ろしくなったのだ。夜叉と対峙することが。だから、夜叉が来ると言った――平和を掻き乱す言葉を吐いた藍を責めたいのだ。

「お前、弥生月の言うように、本当は天竜目当てでこの村に乗り込んできたんだろ。夜叉が来るっつって混乱させてその隙に――」

 藍はこめかみを押さえた。これはまずい。戦いを避けたがる輩が出るであろうことを予期していなかったわけではないが、数が多すぎる。戦える兵が五十人しかいないのに、戦いたくない者が、三割を占めているなんて。

 藍は彼等を睨み付けた。もう時間がない。戦いを受け入れた者の士気を落とすことだけは避けたかった。

「ここは私の村じゃない」

 せめてもの思いで、彼等に鋭く言い放つ。

「あなたたちの村だ」

 それだけ言って、その場を離れた。


「喬!」

 呼んだのは昴だった。村人を定位置につかせ、既に攻撃体勢は整っていた。先に炎のある矢をいつでも放てるよう、皆準備している。

「いつでも放てる。だがいつ打てば良いか分からない。月明かりが――」

「私が合図する」

 昴の脇に立ち、藍は低く言った。

「村長から指揮権をもらったか?」

「ああ」

「じゃあ構えさせて。私が言うよりお前が言った方が村人は素直に聞く」

 昴は村人に、三日間戦い方を教えた。だから、彼等は昴を信頼しているだろうし、昴の戦闘能力の高さを知っているだろうから、誰も疑問に思ったり、文句を言ったりしないはずだ。この場の統率が取れているのも、村人が昴の言うことを聞いていて、昴が混乱していないからだろう。

「わかった」

 藍の言葉に、昴は頷いた。

 構えろ、と大声で鋭く言うと、柵の手前で皆が火矢を構えた。慣れない手つきで、けれど矢を取り落とす者はいなかった。

 藍は暗闇を見た。月明かりもない、星の光もない、篝火の明かりが届かない先の闇で、何かがうごめき、近寄ってくる。体に走る痛みはもはやなくなり、代わりに、生きてやるという本能が藍の思考を支配し始めていた。

「……まだか」

 昴が小さく言った。藍は無視し、代わりに眼を閉じた。その場が急に寒くなった――。

「今だっ!」

「放て!」

 鞘から剣を取り出し、藍は眼を開けた。昴の声を合図に、無数の小さな炎が闇に向かって飛び、その先にある物体に突き刺さる。

 人のものではない吠え声があがり、篝火の光の元に、ついにやつらが姿を現した。

 茶の皮膚。骨と皮だけの手足。鋭い爪と牙と、独特の臭気。

「人妖か」

 隣で昴も剣を抜いた。村の者も弓を置き、同じ行動をとった。

「行くぞ」

 藍は頷いた。柵を乗り越え、夜叉の群れに突っ込む。背後で男達が続いてくる掛け声が聞こえた。

 

闘いが始まった。

 迫って来たのが人妖の群れだということが、逆に村人の恐怖を取り払った。

 この世界には、人妖に食われても仕方ない、という言葉がある。人妖みたいな弱い夜叉に食われてもいいぐらい間抜けだ、雑魚だ、と相手を罵る為のこの言葉から分かるように、人妖は弱いのだ。それも、夜叉の中ではずば抜けて。村が潰されることはないうえ、群れの数は少ないし、農具で倒せてしまうほど脆い。

 だから、人々は、夜叉といっても人妖だったらあまり構えないし、逆にそれ以外の犬妖や猿妖といった夜叉に出くわせば、極度に恐れる。これはどこの国でもどこの村でも同じだった。

 おそらく、村の男達はその事を知っていたから、皆が皆立ち向かっているのだろう。

 十かそこらの数の群れしか満たさないはずの人妖を、藍は勢いまかせであっという間に、二十は斬った。砂となり消えていく夜叉に、すでに慣れ始めている。

 ――おかしい……。

 少ない群れを成すはずの人妖が数百いることもそうだが、何よりも、藍の感じた気配はこんな弱いものではなかった。今だって感じる。目に見える以外にも夜叉はいる。

 ――油断してはいけない……まだ何かある。

 そして突然、背中に衝撃が走った。奇妙な音と感覚が骨を伝って体全体に広がり、力が抜ける。

「くっ……」

 反動で藍は地面に倒れた。爪で掻かれてはいないと思う。背中に液体が伝う感触はない、が、すさまじい力で突進されたようだった。

 藍を狙っているの夜叉がいるのが、気配で分かった。取り落とした月華を掴み、転がると、さっきまで藍が倒れていたそこに、別の人妖が頭から突っ込んでいた。

 ――危なかった……。

 いくら弱いといっても、夜叉は夜叉。鋭い爪も牙も備えているのだから、掻かれたり噛まれたりした傷が深ければ、命に関わる。人妖が弱いといっても、絶対に殺されないわけではないのだ。

 ――どうせ背中を狙うなら掻けばいいものを……。

 知能の低い生き物だ。藍の背中に突進して来て何になる。他の夜叉なら、確実に藍の背中を裂いていたはず。

「危ない!」

 藍の正面にいた男が、こちらを見て叫んだ。え、と問い返す間もなく、状況を理解した藍は、慌てて振り向いた。

 ザンッ――と、鮮血がほとばしった。赤い液体。暗闇でも分かるそれ。目の前に走った色に、藍は自分の思考が停止するのを感じた。本能だけが無意識にその色を拒絶し、一歩引いた。

「さぼるな」

 血をどっぷりと浴びた昴が立っていた。藍は呆然として、見つめ、小さく呟いた。

「血……?」

「え?」

 震える手で昴の袍を指差す。

「お前の血じゃない……よな?」

 昴は顔をしかめた。

「返り血に決まっている」

「夜叉の?」

「人のものだと?」

 言葉に怒りを含んでいるのが分かった。逆に聞き返された藍は、でも――という言葉を飲み込んだ。

 ――でも夜叉は血を流さない……。

 昴は訝しんで藍を見ていたが、やがてふと思い付いたかのように、背を向け、再び夜叉の群れの中に入った。藍は、夜叉の攻撃を受けないよう、それとなく周囲に気を配っていたが、昴がしようとしていることは分かっていたので、眼を離さないよう気をつけた。

 昴は、藍が見ていることを確認すると、バッサリと夜叉を斬り倒した。すぐ近くで起こっていることだ。見間違えようもない。昴の斬った夜叉は血を流し、絶命し、死骸は地面に転がっていた。

 藍は周りを見回した。

 夜叉を倒す村人の人数が増えているとか、そんなことはどうでもよかった。中には、夜叉が人妖だということを聞いてきたのか、さっきまで村の中央で現実逃避していた面々もあったが、それよりも気になるのは、彼等が斬った夜叉の方だった。

 あちらでも――こちらでも――全ての夜叉が剣に斬られ、血を流し、骸を残したまま死んでいる。

 一体これはどういうことなのだろう。

 藍の正面から夜叉が迫って来た。ちらりと昴を盗み見ると、彼はこっちを見ていた。

 それを確認した藍は、難無く夜叉を流し斬った。ズシリと重い感触が手に残る。だが振り向けば、首に太刀を当てられた夜叉は、そかからボロボロと崩れ、ついには砂となり、風に流されていった。


 攻防は長時間に渡って続いた。

 敵が弱く、たくさんの数を倒さなければならないから、余計に疲労が増していく。慣れているはずの藍ですら、体中から汗が吹き出し、そのせいで柄が滑って苛々した。

「……一体全体どういう群れなんだこれは」

 力任せに剣を奮いながら、藍は毒づいた。藍一人で百は斬った。村の男達も、一人二十は斬っているはずだから、合計しても千は超している。こんなことありえない。千を超す人妖の群れなど聞いたことがない。

 東の空は既に明るみはじめていた。村人達の疲れも目に見えて分かる。夜叉は見た目減りつつあるが、まだ多い。

「夜明けが来れば少しは楽になるはずだ!それまで絶えろ!」

 昴が間近で皆に聞こえるように言い、次いで藍にだけ聞こえるよう小さく言う。

「なんとかなるかもしれない。白西国の軍は必要ないかもな」

 しかし、藍は返事をしなかった。これだけで終わらないのは分かっていた。感じた気配はもっと強かった。

「あ……ああ」

 すぐ近くで奇妙な声が聞こえて、藍は動きを止めた。見れば村人の一人が、地面に座り込んで一転を見つめたまま後退している。

「どうしたのですか。怪我でも――」

 したのですか、と藍が走り寄り、言い終わる前に男は大きな悲鳴を上げた。

 辺りに奇妙な空気が流れた。

 人妖と戦う雑音がこだましているのに、あるのは静寂だけ。体は動いているのに、自分は立ちすくんでいる。

 そして藍は見た。頬を伝う汗と、使い過ぎて震える腕が、目以外の感覚機能で分かった。

「犬妖……」

 誰知れず藍は呟いた。他に出来ることはなかった。泥沼に足をすくわれたような、情けない気分だった。

 視線の先には、唸り声をあげる犬妖が無数にいた。普通の犬よりも一回りも二回りも大きく、人妖とは比較にならない程の醜い殺気。

 これは無理だ、と、思いの外藍はすんなり納得した。

 ――勝てない。

 恐怖はなかった。むしろあったのは嫌悪だった。

 ――折角ここまで闘ったのに。

 諦めたわけではない。勝てないとは思うが、負けるとは思わなかったし、藍が死ぬことは考えの中にはなかったから。

 ただ面倒だった。

 藍は掌を腿に押し付け、汗を拭いた。もうこの作業をどれだけ繰り返したか分からない。一つ息を吐くと、再び柄を握り直し、決然と犬妖に向かって行った。

「琴音!」

 喬という偽名を忘れて、昴が背後で叫んだ。

 目の前の犬妖は藍の喉を狙っている。右にも左にもいる犬妖達は、それぞれに藍を狩ろうとしているのが分かった。だが、それが何だというのだろう。この獲物は藍が殺すのだ。他の誰にもさせない。――嘉瀬村を殺す邪魔をするものは、何であろうと許さない。

 ヒュンッ――と、間近で空を斬る音が響いて、藍は反射的に立ち止まった。

 一瞬の出来事だった。

 たった一本の、白い羽根をつけた矢が、寸分の狂いもなく夜叉の心臓に突き刺さっていた。

 突然のことに呆然としている傍で、今度は続けざまに、ドスッ――ドスッ――と音が続いた。

 夜叉に刺さり、藍が斬ろうとしていた三匹は、既に息絶えていた。

「何、これ……」

 自失した藍は呟いた。上手く処理出来なかった。こんな――百発百中の弓の使い手が村人の中にいただろうか。

 無意識のうちに、藍は矢が放たれた方角を見た。そこで初めて、馬の足音が辺りに響いていることに気付いた。

 朝日が差す中、白西国軍がついに到来した。

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