第20話 準備

早馬が帰って来たのは翌日の夕刻だった。使いの者が、大司空からの――すぐに出発する、と、簡潔に書かれた手紙が乃依に届けられたのを、藍は知っている。

 村の隅々まで、乃依の報告は伝わり、それぞれが恐怖に打ちのめされながらも、武器を装備し、家に入って来られないよう、また壊されないよう、可能な限り補強していた。怪我人の為の薬草も大量に補充された。

 藍はといえば、村長の家から出ることはなかった。既に夜叉の気配はちらつく影ではなくなり、四六時中藍を苦痛に陥れるものと化している。それをおして村をいちいち回ることもないと思ったし、ほとんどの時間帯に部屋に昴はいなかった。部屋にいないということは、外にいるということ。出歩けば、嫌でも顔を合わせることになる。それはどうしても憚られた。

 今までにない程の大きな夜叉の気配に、恐れを感じている自分がいるのは明らかだった。以前、碧の国の滅亡の際に、藍は現在と同様、夜叉の気配を感じた。あの時よりかは小さい。だが、村一つぐらい簡単に潰せる程の気配の強さ。藍はこれからそれと戦おうとしているのだ。

 今のままでは勝てる見込みはない。村の男達が全員夜叉と戦ったとしても、勝つ可能性は極めて低い。それが分かっているのは藍だけで、だから尚の事恐怖が増すのだ。


 乃依に事を伝えてから、三日目の夜の帳が降りた。その間ずっと部屋に閉じこもり、藍は夜叉の気配だけを追っていた。そして経った今、彼らとの距離がほとんどない事を確信し、ついに立ち上がった。

 丁度、村長の家の使用人が、藍と昴の食事の用意をしているときで、いつも壁際でじっとしていた藍が突然立ち上がったものだから、女は驚いて茶碗を取り落とした。

「村長に伝えてください」

 独り言のように藍が言うと、女は唖然と見ていたが、それが自分に向けられた言葉だと気付くと、勢いよく首を縦に振った。

 ありがとう、と藍は先に礼を言い、言葉を選んで、言付けを頼む。

「今夜には来ます。出来る限りの準備を、と」

 夜叉はもう間近に迫っていた。


 外は思いのほか明るかった。

 篝火が至る所に用意されていたし、見張りが多いせいもあるからか、夜という感じがしない。村を囲む低い柵の内側だけが、眠りを受け入れていなかった。

 藍は立ち止まって、その向こうを睨み付けた。

 今日は満月だからか、普段よりか視界は良い。実際、はるか遠くの、空と山の境目の線が見えるほど明るく、雲がないことも救いだった。だが、藍だけに分かる、空とはまた異なる空間では、数歩先は闇一面に覆われていた。特に南の――夜叉が来る方角。

 たった今、暗闇の中に二つの鋭い眼光が浮かんで、飛び掛かって来られるとしても、それは有り得ることなのだ。それぐらい、夜叉は間近に迫っている。

 歩を進めて、藍は宮を目指した。今夜から明日の朝にかけて、あいつらはこの村に来る。

 ――それにしても……。

 藍は妙なことに気付いていた。ここに来るまでにやつらが進行を止めることはなく、一直線に天竜の村を目指していたのだ。途中に村はいくらでもあったはずなのに、そこに立ち寄った様子もない。まるで、何かを追っているかのような――そんな錯覚を覚えてしまう。

「……ありえない」

 夜叉は人を無差別に襲うことで通っている。視界に獲物が入れば、食うか裂く。それ以上もそれ以下もしない邪悪なものだ。危惧は意味のない苦労でしかない。

「ありえない」

 もう一度呟いて――正確には自分に言い聞かせて、藍は再び歩を進めた。先程より早足になりながら。

 宮に着くと、取り次いだのは弥生月ではなく、かといって鈴や昴のわけでもなかった。藍の知らない、三、四十代くらいの女性で、藍の姿を見るなり、ハッとして宮へ小走りに去って行った。――正確には取り次いだとは言えないのかもしれない。

 仕方なく、藍は宮へあがる階段に腰掛けた。

 ――村の男が七十人前後……戦えるのは五十人くらいか……。

 女子供を含め、村人の数はおよそ二百。五十で百五十を守るのはかなり難しい。やはりここは、白西国の軍が来ないとどうにもならないだろう。だが、最低でもあと三日――いや、四日はかかる。

「駄目か……」

 此処にいれば、助からない。多分死ぬ。自分一人が剣技に優れているとしても、こればかりはどうしようもない。

 けれど、だからと言って逃げる気にもならなかった。むしろ、駄目という実感が沸かない。夜叉の気配は藍に痛みを与え、現実は確実なのに。多分、藍の経験の少なさと、何処からか沸く「死なない」という自信が、逃走心を掻き消しているのだと思う。

 これを言えば、また乃依はまくし立てるのだろうな、と藍は思った。藍が逃げないのはこの村人の幸を願っているからだ、とか、やはりあなたは優しい人だ、とか――母に似たあの顔で必死になって言うのだ。その言葉は自信を持って否定できるが、村に留まっている明確な理由が藍にあるわけでもなかった。

「喬……殿……」

 ふと、背後で自分の偽名を呼ぶ声が聞こえて、藍は振り返った。

「乃依様が……お待ちでございます」

 弥生月だった。苦々しげに藍を睨み、ぐいっと無理矢理藍に向かって頭を下げる。藍の顔も見たくないのか、下げたまま上げようとしない。

 藍は薄く笑った。彼女が藍の顔を見ないのをいいことに、声を出さずに嘲った。――私の二の舞を踏むのか。それはそれで興味深い。

 弥生月に声をかけず、藍は物音一つたてずに、宮へと入った。もともと軽い自分の体だ。別に気を使わなくとも床が音をたてることはない。たてたって誰も構いやしないだろうが、たった今、皆が藍の存在に気付かないでいてくれるとしたら、これほど気分の良いことはなかった。

 宮に入ってすぐの大部屋には、人っ子一人いなかった。前回、藍はこの部屋で乃依と話をしたのだが、あの時とは様子がかなり異なっていた。

 部屋にあった小物は全て無くなり、窓という窓の全てが閉められていた。外から開けられぬよう、板が壁と窓に打ち付けられ、補強されている。そのくせ篝火だけはたくさんあって、部屋は炎の橙で、夕焼けのように赤く染まっていた。

 奥の方から声が聞こえて、藍はそっちに足を進めた。長い廊を進み進むうちに、声は大きくなり、それが乃依のものであると認識出来た。どうやら祝詞をあげているらしい。藍は大きく息を吸い、扉の向こうに声をかけた。

「喬です」

 途端声が止まり、しばらく経ってから、入ってください、との言葉があった。遠慮なく藍は扉を開けた。

 こぢんまりした部屋だった。藍と昴が寝泊まりしている村長の客間の半分ぐらいしかなかった。大の大人が四人ほど床に寝転んだら、足の踏み場がなくなる――それぐらいの小さな部屋。だがしかし、この部屋こそが、天竜を祭る村の宮である証なのだと、藍はすぐに分かった。部屋の中央に祭られているのは、木で出来た見事な竜の像で、それを囲む縄の紋様は豪奢だった。そして、台座に置かれているのは色あせた木簡。紐で繋がれていて、普通のものの数倍はある。今の時代、木簡はほとんど使われないから、まだ紙の技術が発達していなかった頃のものだろう。だとすれば、これは二千年以上前のものということになる。

「男性は入って来られないものだということは?」

「……存じております」

 乃依は微かに笑い、藍に座るよう言った。勧められるままに藍は腰を降ろした。

「単刀直入に聞いてもよろしいですか?」

「はい。単刀直入に言う為に来たのですから」

 極真面目に藍は答えた。乃依は頷き、重々しく口を開いた。

「いつ頃来ますか」

「今夜中」

「陽が登らぬうちに?」

「ええ」

「数は」

「犬妖なら百、鳥妖なら二百程度でしょう。夜叉がそんな大きな群を作るならの話ですが」

「どちらだと思われます?」

「……判断しかねます。わかりません」

「村の男達だけでは……」

「足りません」

 乃依は黙った。微かに震えながら、深く息をついた。

「大司空が来るまで耐えきれるでしょうか」

「無理でしょうね」

 淡泊な藍に、乃依は目を向けた。信じられない、と顔に書いてある。

「人の生死がかかっているのです。戦う者がいなくなれば、幼い命まで奪われる」

「奪われませんとも」

 言い切った。何を根拠に矛盾を断言しているのか、自分でもわからなかった。

「私は死にません」

 藍は立ち上がる。篝火を増やした方がいいと思った。月明かりだけでは対抗出来ない。

「私は死なない。だから女子供は助かる。上手くいけば男達も怪我だけですむかもしれない」

「……あなたは不死身ではないのですよ」

「でも死なない」

「生きとし生けるもの全て、何れは命は消えます。あなたの言うそれは、ただの傲慢な心です」

「こんなときまで私に悟りを開くか」

 乃依は黙った。藍をじっと見つめたまま。宮の奥深くに、静寂のみが漂う。

「戦えるものは全て表へ。それ以外のものは見つからない場所に隠れているよう伝えてください。特に南側に注意を」

「……承知いたしました」


 騒然とした雰囲気の中で、確かに藍は袍を着、剣を持ち、男達の中に混じって夜叉の到来を待っていた。周りにいるのはどれも二十代以上の男ばかりで、十三歳の小柄な喬は異質な存在だった。そのうえ、村長らに指示を出していれば目立つのは当たり前。しかし藍は好奇の目を無視した。危機が迫っている今、気を静めて冷静になっていないと、戦闘の際に正確な判断が出来ない。

 思い付く限りの指示を村長に与え終わると、無人の家の壁にもたれて、藍は柵の向こう側を睨み付けていた。蓐収の終わりの季節だというのに、風が妙に生温い。

 陽が降りてから、大分時間が経って、月は空の天高くに留まっていた。星は無数にあり、雲は遥か彼方に小さく一塊あるだけ。

 ――え?

 雲――。見て藍は手で口元を覆った。さっき見上げた時にはなかったはずだ。快晴だった。

 ――嫌な予感がする……。

 あの雲が風で流されれば、月光を遮り、頼れるものは地上の篝火だけになってしまう。一応数多く用意してもらっているが、月があるとないでは大きな差が出る。光がないと夜叉と対峙すれば、こちらがかなりの不利になるのだ。

 それだけは避けたいと、眉間に皺を寄せていると、ふと視界に見覚えのありすぎる男が目に入った。

 昴だった。何やら数人を相手に話をしている。いや、話に応じていると言った方が正しいか。

 緊張した様子で何やら言葉をかけているのは、村人の方だった。手に持った剣を不格好に構え、ビッと力任せに振るう。昴は頷いて、自分の太刀を抜き取り、構えた。男はそれを真似している。眼を見張る素早さと美しい型で空を斬る昴を、藍はいつの間にかじっと見ていた。

 続いて男が空を斬った。見よう見真似だろうが、真似したからだろう。先程よりずっと様になっている。昴が笑って何か言い、剣を収めると、男も頭を掻いて剣をしまった。確かにその口は、ありがとう――と動いていた。

 と、そこにいるのを初めからそこにいるのを知っていたかのように、突然昴がこちらを見た。彼の動きをぼんやりと無心で見ていた藍は、何の前触れもなく視線がぶつかったことに驚き、凍り付いた。

 昴はしばらくその場でじっと藍を見ていたが、ふっと笑むと、こちらに向かって歩いて来た。

 藍は慌てた。三日間も部屋に篭っていた理由の半分が、昴と会いたくないし話もしたくないからだというのに、今この時にわざわざ寄って来るなんて。村長の家にあまりいなかったのは、昴も昴で藍を避けていたからじゃなかったのか。それが今頃――。

「剣の稽古はしたのか」

 間近に立つ昴を、藍は座ったまま見上げていた。彼の姿を見るのも、声を聞くのも三日ぶりで、ずっと一緒にいたからか、かなり久しぶりに思えた。

「お前はいつも唐突だな」

思ったより平淡な言葉が口から出てきて、ほっとした。

 多分端から見れば、親しく見える会話であったのだろうが、藍と昴の間には、二人にしか見えない異様な空気が漂っていた。互いに牽制し合い、様子を伺っている。至近距離だからこそ感じるそれに、昴の顔には奇妙な笑顔が張り付いていた。

「隣、いいか?」

 三日前と全く同じ言葉を、昴はぎこちなく呟くように言った。藍は視線を反らし、膝を抱えてから、頷く。

 座ったからといって、昴は何をするわけでもなかった。近すぎず、かといって遠すぎない距離をあけて、藍の隣で藍と同じように柵の向こうの暗闇を見つめているだけ。

「さっき……」

 藍は唸るように言った。

「村の男と何を話していたんだ?」

 昴は驚いたように藍を見た。藍はむすっと唇をヘの字に曲げて、まだ暗闇を睨み付けていた。昴の方から寄って来たのに、藍が話し掛けているのが、妙に苛立つ。沈黙の方がもっと嫌だけれど。

「……この三日間、剣の稽古をつけてたんだ」

 昴はテキパキと答えた。藍が昴を見ようとしないからか、昴も藍を見ようとしない。しかし、むっつりと不機嫌な顔をしているのは藍だけだった。

「村兵はいいけど、一般の男は剣も槍ももったことのない者ばかりだったから。夜叉を倒すどころか、自分の身の上も守れなかったら武器を持つ意味がないだろうと思って。さっきの人にも稽古をつけたんだ」

 型の確認をしていただけさ、と昴はなんでもないといった調子で大して興味なさそうに言った。村人なんかどうでもいいということなのか、完璧に教えたから何も気にすることはないということなのか。前者ならただの偽善者だし、後者なら慢心もいいところだ。

「それはそれは、頼もしい限りですこと」

 藍は皮肉った。そして素早く立ち上がる。

 やはりこいつは好かない。克羅の姫と藍とを被せるだけでなく、それを分かっている相手の傍にのこのこと寄ってくるような無神経な男だ。あの時――村長の屋敷で話したあの時、昴は否定すらしなかった。

 ――こいつが寄ってくるなら私は離れてやる。

 と、不意に自分の手が取られ、その拍子に持っていた月華を取り落とした。藍は振り向いて昴を睨み付ける。

「何か?」

 手を振り払うでもなく、藍は上品に訪ねた。したたかに、狡猾に。昴が強気に出られないよう、慎ましい笑顔をむける。

「……今は言わない」

 しかし、昴には端からその気がないようだった。聞かせようとしているのではなく、聞いてほしいようで、ゆっくりと立ち上がる。先日のように、藍の手首を赤くなるまで握り、動きを封じるということはしなかった。

「お前の為にならないから」

「……それは据傲か?」

「かもしれない」

 昴は藍の手を離した。温もりが消えて支えがなくなって――急に虚しくなる。

「絶対に死ぬな」

 藍は眼を見張った。真剣そのものの表情で、昴は藍を見つめる。貫かれそうなほど瞳の色は強かった。

「戦っている最中は、今までの俺の所業を忘れてほしい。お前の周りをうろちょろしていても、疎まないでくれ」

 藍は眉を潜めた。所業を忘れろ――戦っている最中だけ――周りをうろちょろ――どうも話が繋がらない。一体昴は何がしたいのか。

「忘れろなんて、それこそ勝手すぎると思う。だけど、俺はお前に生きてもらわなくちゃならない」

「……いい加減にしろ」

 やはりそんなことかと思った。辟易した。うんざりだった。所業を忘れろと言った傍から、藍を、昴の妄想の姫として守るつもりなのだ。目の前にいる男は。

 どこまで俗物な人間なのだろう。

「お前の勝手に作り上げた夢の姫を、私に押し付けるな。生きてもらわないとだなんて、よく言える。それは、琴音という今現在生きている私に死ねと言っているのと同じだ」

「違う」

「何が違うんだ。お前は――」

「克羅の姫はもういいんだ」

 は、と藍は昴を見た。昴は微かに笑んで、地面に落ちていた月華の剣を拾った。

「生きていれば助ける。だがもう姫は死んでいる。そして琴音、お前は姫じゃない」

「……」

「夜叉との戦いが終わったら全部話す。本当はお前がもっと楽になってから言いたかったんだが……この村で別離するなら、この村で言うしかない」

 昴は続ける。

「お前を守るなんて、そんなことは言わない。だから死ぬなと、生きろと、克羅の姫ではなく、琴音に言った」

 頭の中がぐらぐら揺れているような気がして、けれど足から根が生えたかのように、藍は突っ立っていた。空と地面がひっくり返ったような驚きが胸中で渦巻いている。言葉を返せないどころか、返そうと思うこともかなわなかった。

 呆然としている藍を見て、昴は笑った。微笑でもなく、引き攣った笑みでもなく、多分心の底から笑っている。

 おかしな顔だ、と藍を見て茶化すように言い、拾った月華を藍に渡した。

「こんな重い剣、よく使えるな」

「え?」

 藍は本能的に聞き返した。

 ――重い?これが?

 しかし、昴はそのまま藍の横を素通りし、再び村の男達がいる方へと歩いて行った。

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