第19話 真と偽
ずかずかと大股で、藍は村長の屋敷の方へ向かっていた。あの閉ざされた独特の空間から開放され、ようやく息がつけると思っていたのだが、宮から離れれば離れる歩数と比例して頭に響く乃依の声は大きくなっていた。
――なぜ私達の幸を願おうとするのです……か。
立ち止まって、藍は空を見上げた。夕暮れの強い色が覆っていた。昼間とは異なる美しい茜色の空を睨み付けながら、藍は考える。
――鈴と徨来を助けた理由?そんなの……。
草むらに転がっていたから。それだけだ。別に彼等の幸なんてちっとも考えてなかったし、この村に夜叉が来ることを伝えたのだって――。
――それが事実だからだろう。
幸か不幸かどころか、損か得かも考えていなかった。いたから連れていった。来るから伝えた。なぜそれが乃依の言う、「自らの善の心を捨てるのに必死になっている」という言葉に繋がるのか分からない。
藍に善の心なんてない。そんな綺麗なもの、とうの昔にこの胸の内から消えてしまった。
「……あまえているのかもしれないな」
再び歩き始めた藍は一人呟いた。
どこかしら、藍は人を頼っている部分があるのかもしれない。克羅では喬や琴音がいないと何も出来なかったし、巫女姫の権限で将達を動かしたことがなかった。それは多分、父が長だから自分は別に――という客観から来ていたのだと思う。国を追われてからも、親のない、弟と二人での生活をすることになった彼に出会わなければ、死んでいたはず。
「そう考えると、あいつもそのうちの一人になるのか」
昴。藍は彼を駒と表した。だったら捨てても構わないはずなのに、そうしていないのは、藍が駒に甘えているからだ。彼を信じる事は駒を信じる事。とてもおもしろいと思うけれど、それは幼稚以外の何ものでもない。これから一国の王を殺そうという人間が、なんて情けないのだろう。
乃依が使いを出すよう言い付けたせいか、ざわざわと慌ただしい村長の家に戻り、もといた部屋に戻った藍は、深く息をつき、壁に背を預け、天井を見上げた。屋敷の奥の方にあるここまでは、物音もあまり聞こえてこない。
――一人になるか。
ここまで来てから別離してもあまり意味はないだろうが、昴と別れて旅をしようか。白西国に入っているのだから、もう難所はないし、道案内などなくとも、仁多まで行き着く自信はある。いざとなれば、ここに来るらしい白西国の軍についていけばいい。
ふと、床に広がる袍に気が付いた。藍はそれを拾ってから広げ、ぼんやりと見た。
「結局、あいつは私自身を見ることはなかった」
克羅の姫と関わりのある者としか、藍を認識していなかった。まあ、藍自身、彼を理解しようとしなかったから、これで相子かもしれない。少し悲しいと思ってしまうのは、卑怯だ。
袍を握りしめ、藍は再び表へと繰り出した。
昴はすぐに見つかった。村の中心部にある広場で、松の木の下に座り込んでいた。周りに小さな影があることを除けばいつも通りだったので、藍は近寄った。
「琴音」
藍の足音に気付いた昴が顔をあげた。腕の中に見覚えのある子供が抱かれていて、藍は立ち止まり、唖然とその光景を見ていた。
――昴と……徨来?
いや、それだけではない。鈴も昴の隣にピッタリと張り付き、何やら笑顔で藍を見上げていた。今さっきまで、楽しく笑い合っていたのが、その場の雰囲気で分かった。
「もういいのか?話はついたんだな?」
「……ああ」
藍が頷くと昴は笑んで、そうか、と満足げな表情を見せた。その笑顔を見て、藍の胸がドクンと大きく鳴った。
「さて。じゃあこの二人を返すかな。お前が話し込んでいる間預かってくれって言われて――」
昴の言葉を藍は聞いていなかった。
胸が痛い。もう一緒に旅をすることもない。この村での滞在が、最後となる。
「琴音?」
――怖い。
また独りになる。阿古達と別れてから、長い間放浪していたあの時が思い出されてならない。ずっと寂しくて、悲しかった。
「大丈夫か?」
昴は立ち上がって、肩に手を置いた。藍は唇を噛んで、目の前のまだ少年らしさの残る青年を見上げる。
――けれど、甘えない。
多分、思う以上に藍は昴をあてにしていた。それこそ、旅の間、朝から晩までずっと一緒にいて、食べ物も、服装も、野宿も、宿に泊まるのも、移動の手段の馬でさえ、昴のおかげでなんとかなっている。
「話がある」
手にある袍を再び強く握りしめ、藍は挑むように言った。
「話……?」
昴はポカンとして藍を見た。
「いいけど、具合はいいのか?顔色悪いぞ?」
「……別に何ともない」
ふいっと顔を背け、無愛想に藍は言った。そんな藍を、昴は不思議そうに首を傾けて見ていたが、一つ溜息をついた。その時。
「弥生月おねえちゃん!」
昴の足元で大人しくしていた鈴が、声をあげた。藍も昴もその声に反応して見ると、弥生月が少し疲れた様子でこちらにやってくる所だった。
「昴と……」
弥生月はそこで言葉を切った。藍のことを睨み付け、ふんと鼻を鳴らすと、素通りして昴に歩み寄った。
「なんであなたが徨来を?」
「乃依様に頼まれました」
「乃依様に?なんで?いつ?」
「弥生月殿が乃依様の頼まれ事を受けていらっしゃる間に。理由は分かりませんが、おそらく喬との話に関係あるかと思われます」
昴の言葉に、藍は顔をしかめた。思ったとおり、弥生月はくるりと藍を振り返り、詰め寄ってきた。
「あんた、乃依様に何を吹き込んだのよ。いつもすっとぼけたような事をおっしゃるような方が、あんなに緊迫しておられるのを私は初めて見たわ。私達を騙そうったってそうはいかないわよ!」
腕をまくしあげんばかりの勢いに、お前のせいだ、と弥生月の背後にいる昴を睨み付けると、昴は肩をすくませて見せただけだった。弥生月がこうすることを分かっていてたきつけたらしい。弥生月が何故藍を毛嫌いしているのかは知らないが、昴も弥生月も、藍と乃依の密談の内容を知りたがっていることは分かった。
「夜叉が来るから報告していた」
ならばお望み通りに、と、藍は簡潔に答えた。言うのに何の感情も沸かなかった。どうせ昴も弥生月も、信じない。唖然としている間抜けな二人の姿を見ていると、莫迦加減さにむしろ呆れた。こんな突拍子もないことを信じているのは乃依くらいだ。
「ちょっと待ってよ。夜叉ですって?」
まさか、と笑いながら弥生月は藍を見ていた。
「冗談はやめてよ。ここは天竜の末裔が守る地よ?そんなもの来るわけ……」
「段々近付いている。来るのは多分三、四日後。大きい群れだ。あなたも出来るだけ準備しておいた方が良い」
「嘘言わないで」
弥生月はあくまでも藍の言葉を信じようとしていなかった。相変わらず藍を警戒の目で睨み付け、拒絶している。
「乃依様があなたみたいな得体の知れない者の言うことを、鵜呑みになさるはずがないわ。……そうよ。あなた、乃依様を脅したんでしょう!?その腰元にある剣を突き付けたんでしょう!?そうよ。そうに決まっているわ」
「弥生月殿」
昴が諌める声をあげたが、興奮している弥生月は言葉を止めない。
「突然村にやってきて、鈴や徨来を救ったのをいいことに乃依様をたぶらかそうとしたって、そうはいかないわ!この村は私達の者よ。天竜の名に引かれて来た俗物なんかにくれてやるものですか!」
「弥生月お姉ちゃん!」
「鈴は黙ってなさい!」
突然、昴の腕の中にいた徨来が泣き出した。昴は慌てて背中を優しく叩いたり、あやしたりするが、効果はなかった。
「弥生月殿、あなたは巫女見習いでしたよね?」
「だったら何なのよ!」
藍の質問に、弥生月はとうとう怒鳴って答えた。そんな弥生月に、藍は冷笑して言う。
「すぐに辞めた方がいい」
「な……」
藍の言葉を侮辱と取った弥生月は、怒りで顔を赤くしながらしかし、声が出なかった。藍は更に続ける。
「現実を受け入れられず、頭からそれを否定して他のせいにする巫女など、いるだけ無駄だ。その巫女を信じる村人はどうなる。今現在、あなたがこの村の巫女であったなら、三日後にはこの村は消えてなくなっている」
――目の前の者が、以前の自分と被る……。
「巫女なら巫女らしく、民にとって信じられる存在でいたらどうだ?そして信じられているならそれに応えろ。でなければ、害を被るのは彼らだ」
藍は踵を返した。信じられないほど体が震えていた。寒くて寒くて、鳥肌がたつ。その場から急ぎ足で離れることだけに集中した。
「まるで自分への言葉じゃないか……」
情けなさで涙が出そうだった。
再び村長の家に戻った藍は、もといた部屋の庭の見える縁に座ると、花のない梅の木をぼんやりと見ていた。春になれば美しい花が咲くのであろうが、今は見る影もない。茶色い枝が好き勝手に伸びているだけだ。
――なんだか混乱してきた……。
乃依は母に似ているし、昴とはもう一緒にいられないことを話さなければならないし、夜叉は攻めてくるし、おまけに弥生月ときたものだ。彼女のしていること、言っていることは、以前の自分となんら変わりないように思えた。
「……消えたい」
膝を抱えて、顔を埋め、藍は呟いた。
「消えたいよ……」
「何故?」
突然の声に、藍は驚いて振り返った。部屋の入口に立っていたのは、昴だった。
「袍を返してもらおうと思って」
言うなり昴は歩み寄って来て、藍の横に置いてあった袍を取り、羽織った。
「やっぱり袍なしじゃ、外は寒い」
「そう……」
礼を言おう言おうと思っていたのに、口から出て来た言葉はそれだけだった。あまり淡白な言葉に藍自身が呆然とした。もうすぐ昴と会えなくなるというのに。最後くらい例を尽くしたらどうなのだ。
「隣、いいか?」
しかし、昴は藍の常識ではありえない仕打ちなど全く気にした様子はなく、むしろ当たり前のように受け取っているようだった。
「……うん」
相変わらず膝を抱えたまま、藍は小さく頷いた。昴は腰を降ろし、ふぅー、と溜息をついた。
「徨来は全く泣き止んでくれなくてな。参ったよ。結局鈴があやしてなんとかなった。ついでだからって、弥生月殿が乃依様の所に連れて帰ってくれた」
「彼女、怒っていただろう?」
「いや」
藍の言葉を、昴は否定した。
「考え込んでいた……呆然としていたとも言えるか。何やら衝撃を受けたみたいだった」
「……それは予想外だな」
藍は自嘲気味に笑った。
「怒り狂って殴り掛かってくるかと思っていたけれど」
「……お前」
昴が少し声の調子を低くしたので、藍はぼんやりとそちらを見た。
「何?」
「苦しくないか?」
藍は眉をひそめた。
「……それはどういう意味だ?」
「そのままの意味だ。一応言っておくが、体の具合を聞いているんじゃないからな。……もっとも、それだって好調だとは言えないようだが」
昴の瞳に、再び強い色が浮かんでいた。
「いい加減、俺を信用してくれないか。もう一月も寝食共にしてるんだぞ。なのに俺はお前の事知らない」
「それは私も同じだろう。私もお前のこと、何も知らない。知っているのは名前くらいじゃないか?」
それを言うと、昴は口をつぐんだ。
「……さっき、話があると言っただろう?」
再び庭に視線を戻し、藍はポツリと呟いた。昴の視線が自分にあてられているのがよく分かった。
「私、お前とはもう一緒にいないことにした」
なんとなく、頭に巻いた布を取った。多分、無意識に心のどこかで、昴との出会いを思い出していたのだと思う。右隣を見れば、驚愕した顔があった。藍は微かに笑い、言葉を続ける。
「随分世話になった。だが、礼をする気はない。勝手に案内すると言い出したのはお前だし、旅の為の道具を揃えたのもお前だ。私から頼んだことは一度もない。私はいつでもお前を捨てていいはずだ」
――昴は駒だ。
「結局、私はお前の人殺し疑惑を解いてない。だから最後まで信用しない」
――もういらない。
「お前のことを知りたいとも思わないし、私のことを教える気もない」
「琴音……」
「そういうわけだから。――私はあと四、五日はこの村に残るけど、お前はどうする?明日にでも出発するか?だったらお前に借りていた馬だけど、村長の息子が欲しいって言ってたから路銀に変えてもらったら?」
「琴音」
「買った値段より高い値段で売り付ければいい。この村は天竜のせいもあって裕福だ。損はないよ。ついでに余分なものも全部売ってしまえ。きっと気前よく買ってくれるから」
「琴音!」
ぐいっと、何故か藍は昴の方を向いていた。両手首を強い力で掴まれ、一瞬わけがわからなかったが、すぐに怒りでカッとなった。
「何す……」
「それはずっと思っていたことか?」
掴まれた手首が痛んで、藍は顔をしかめた。思いの外強い力が、完全に藍の動きを封じている。
「離せ!」
「答えろ。お前はずっとそんな風に俺を見ていたのか?俺はお前にとって、ただの小道具にすぎなかったのか?」
昴の態度には逃避することを許さぬ何かがあった。この村に来たときと同じ、見られればすくんでしまう程の強い瞳と強い態度。どれだけ昴が真剣なのかが分かる。
「……」
言葉が出てこなかった。視線すら外せなかった。捕われたかのように、藍は息すら止めて昴を見ていた。
「お前が俺を信用していないのはわかっていた。だが、いて許される存在になりつつあると自負していた。最初の頃は口もきかなかったお前が、今では琴音の方から会話を始めることもあるし、僅かかもしれないが、絆もうまれていると思っていた」
昴の言うことはもっともだった。最初のうちは一緒にいるのも億劫だったのに、今では隣にいなければ、無意識のうちに目で探している。先程の乃依との対話を、言葉を使わず取り計らってくれたのも目の前にいる彼ではなかったか。
「別に俺のことをどう思おうとそれは琴音の勝手だ。俺がお前の旅仕度をしたのも勝手だったように。だが、だから捨てると言われて、はいどうぞ、とでも言えると思うか?」
「……捨てると言ったから怒っているのか」
「違う」
小さく言ってみたが、一蹴されてしまった。相変わらず手首を離そうとしない。血が通っているのか疑いたくなるほどじんじんと痛んでいるのだが、振り払うだけの力が藍にはない。
「捨てられない」
は、と藍は声をあげた。
「捨てられない?」
「ああ」
昴は肯定し、頷く。
「一度手にしたものは放せないな」
「……捨てるのは私だ」
ムッとして藍は低く唸った。
「私がお前を捨てるんだ。お前に決める権限はない」
「だとしても俺はお前を捨てない。引きずってでも仁多まで連れていく」
「そんなの振りほどいてやる」
「追い掛ける」
「逃げる」
「追い掛ける」
「逃げる」
ギッとしばらく睨み合って、唐突に昴は藍の腕を離した。
ある種の支えを失った藍は慌てて重心をずらし、床に座り込んだ。
赤くなった腕をさすり、しかし文句は何一つ言わないで我慢する。言えばこの競り合いに負けるような気がした。
「……全く、どこまで頑固なんだか」
情けない――という念を込めて昴が言っているのは明らかだった。藍は心中で、どっちが、と呟きながら、再び髪を隠すように頭に布を巻き付けた。昴との出会いを惜しむ気持ちはとうに失せていた。
「頑張って他の克羅の姫の代わりでも見つければ」
薄く笑って吐き捨てると、昴ははじかれたように藍を見た。そんな昴に軽蔑の眼差しをむけ、次いで立ち上がる。
「得意だろ?」
瞳を見開く姿が滑稽だった。
「言ったはずだ。私を克羅の姫の代わりとして見てようが、どうでもいいと」
克羅の姫は確かに藍だ。だが、昴はそれを知らない。――琴音はただの小娘にすぎないが、助けたかった姫と関係がある。姫が死んだのなら、代わりにこいつを助けよう。――そう考えているのであろう昴の胸中を藍はとうの昔によんでいた。藍が姫だから助けるよりもっと酷い。藍を姫の代わりとして助けるのだ。つまり、「琴音」は昴を満足させる為の道具。慈悲どころか、人としての敬意も、そこにはなかった。
利用されているなら、藍も利用してやろうと思った。昴が「琴音」を姫として扱うなら、藍は昴に心を開く。昴は姫が心を開いていると喜ぶであろうが、実際に開いているのは「琴音」だ。だからそこに通じるものはない。おそらくは絆すら。
――でも……。
だったら何故、昴は藍の言いたいことを理解してくれるのだろう?どうして藍は昴を信用しているのだろう?昴は、彼の創り上げた虚像である克羅の姫と、勝手に親交を深めているだけのはずなのに、どうして琴音は――いや、自分は――。
――一緒にいたいと思っているのだろう。
思っている自分に気がついて、藍は頭を振った。これは甘えだ。自分はこれを断ち切る為に昴に話をしているはずだ。
「夜叉がこの村に来たら私は戦う。お前もその様子だと剣を振るうつもりなのだろうが、死んでもが生きても、それが私達の最後だ。……そうだな、死んだら花ぐらい供えてやる」
「……琴音が生き残るのは決まりなのか」
ふっと、昴が笑いながら言った。それが自嘲の笑みなのか、藍を愚弄するものなのか、判断はつかなかったが、どうでもよかった。どちらにせよ、藍の心の奥底で疼く何かは、昴には絶対関係ない。
「私は死なない」
自分じゃない誰かがしゃべっているような気がした。
「嘉瀬村を亡き者にするまで死なない」
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