第18話 天竜の巫女

宮に飛び込んだ藍には、全員の呆気に取られた様子を余興にする余裕も、滑稽だと思う余裕もなかった。ついさっきまで二度と見たくないと思っていた母と瓜二つの乃依をじっと見つめ、しかし苦痛を思い出せなかった。それほど藍は混乱し、切羽詰まっていた。

 藍のやりたいことをすぐに悟ってくれたのは昴だった。村長の屋敷で寝入ってしまった自分に、昴が袍をかけてくれていたことに気付いていたが、今、宮の内部にいて、目の前に乃依がいて、そんなことは頭の中から吹っ飛んでいた。ゆえに、昴に礼をいうのはまた後のことになる。が、この状況で言葉も交わさず、目線一つで藍の意図を理解してくれた昴には、しばらく頭が上がらないと思った。

 昴が引きずり出す形で弥生月と鈴が出て行き、宮の中には藍と乃依の二人きりになると、妙に緊張して、言葉につまった。何と言って切り出せばいいのか――いや、その前に自分の正体を明かさなくてはならないのかもしれない。

「どうしたのです?」

 あれやこれやと考えていると、乃依から声がかかって、彼女を見た。警戒することもなく、にっこりと笑って藍を見ている。あまりに無防備な様子に、私が刺客だったらどうするんだ――というおせっかいがうまれた。

「どうぞかけてください。喬殿にお礼をしていませんもの」

 しかし、藍の心配などどこ吹く風。それはそれは呑気に、乃依は茶など注いで藍をもてなそうとしている。彼女独特のほんわかした雰囲気に飲み込まれそうになっていた藍だったが、途中でハッとした。何の為に自分は跳び起きてきたのか。

「夜叉が来ます」

 茶を注ぐ乃依の動きが一瞬止まった。しんと静まった宮に張り詰めた空気が漂い、壁の向こうの外が遠のいた気がした。

「……あなたは――」

「巫女です」

 言って、頭に巻いていた布を取り払う。自分の髪が流れ落ちるのを感じた。

「女性だったのですか」

「はい。今まで色々あって……」

「そうですか……」

 もっと驚かれるかと思ったが、案外そうでもなく、藍の突発的な新たなる自己紹介に、乃依は冷静に対処していた。藍が巫女であることは昴にさえ教えていないのに――と、自分でも何でこんなことをしているのか、夜叉のことで頭がいっぱいになっている今は考える余裕はなかった。

 とにかく話の続きを短縮して伝えねば、と思い、藍は関を切ったように再び喋り始めた。

「私は巫女の役目はほぼ全て習得しております。中でも私だけが身につけることの出来た力があって、それが夜叉の気配の感知です。村で休んでくれという乃依様のお言葉に甘えさせていただいたのも、南の方角に気配を感じていたからです。つい先程までは一塊のまま動く様子はなかったのですが、私が休ませていただいている間、動きだしました。こちらにゆっくりと向かっていて……かなり大きな群れかと――」

 もう一度意識を集中すると、夜叉の群れが確かに動いているのを感じた。そのせいで僅かに伴う吐き気をぐっと堪え、藍は乃依を見据える。

「この村の指揮は貴殿にあるとお見受け致します。――如何なさいますか」

 藍が問うても、乃依は全く動かなかった。凍り付いたように、瞬きも息もしないで、藍の視線を捕らえたまま放そうとしない。藍も藍で萎縮して反らせなかった。互いが互いから目を反らさず、身動きもせず、時間が止まったかのような感覚が藍と乃依の間を満たしていた。

 と、乃依が立ち上がった。突然のことに藍は驚いたが、目を見張るに留めた。

 乃依は部屋の隅にある机に座り、筆を取って何かを書き始めた。何をするのだろう――と、ぼんやりとしているうちにも、乃依はさっさと腕を動かし、どう見ても手紙と呼ぶにはあまりにお粗末な文字数の紙を、乾くのも待たずに折りたたみ、手に持った。

「写ってしまいますが解読できないこともないでしょう」

 自分に言い聞かせた言葉だったのか、藍に向けた言葉だったのか分からなかったが、昴や弥生月がつい先程出ていった扉の方へ歩いて行く際小さく呟き、そして扉を叩き開けた。バーンッという凄まじい音が宮内に響き、その音が反響して、藍の鼓膜を揺らした。あまりに予想外な乃依の行動に、藍は耳を塞ぐのも忘れて唖然と彼女の背中を眺めていた。

 ――一体……。

 身なりも整えず、此処に突然飛び込んで来た先程の自分が奇怪だったというのは十分承知していたが、乃依も負けず劣らず五十歩百歩だと思った。

 弥生月と乃依の声が微かに聞こえた。入口に乃依がいるため、三人の姿は見えない。

 しかしそれだけが理由ではなく、藍は孤独を感じた。

 ――どうして動き出したんだ……。

 目を閉じて、夜叉の気配を感じ取る。暗い闇の塊は、少しずつだが迷うことなく確実にこちらに向かっていた。


 ついさっき、いつの間にか仮眠を取っていた藍は、強烈な恐怖に駆られて跳び起きた。頭がズキズキと痛み、心臓がバクバク鳴っている。一瞬何がなんだか分からなくて、呆然としていたが、すぐに状況を理解した。

 止まっていたはずの夜叉の群れが動きだしたのと、それを感じている自分がいた。考えるよりも先に、藍は部屋を飛び出していた。

 ――知らせないと……。

 そう思って立ち上がり、村長の屋敷を抜け出して宮へ直行したのが、目が覚めてからの藍の行動だった。

 藍は、再び顔をあげた。

 用事の終わったらしい乃依は、さっき叩き開けた扉を今度は丁寧にキッチリ閉め、再び宮に戻って来た。彼女の表情は伺えない。笑顔がないことは確かで、当たり前といえば当たり前なのだが、それが杞憂によるものなのか、恐怖によるものなのか、藍には分からなかった。

「お聞きしたいことが多々あるのですが、よろしいでしょうか?」

 さっき座っていた場所に腰を降ろしなおし、乃依は言った。藍は頷いて、可能な限り居住まいを正して、背筋を伸ばした。

「夜叉の数はどれくらいになるか分かりますか?」

 藍は驚いて乃依を見た。

「し、信じて下さるのですか?」

 自分は女で巫女で、しかも夜叉の気配が分かるなどと突然言い出した、見ず知らずの小娘を乃依は信じるのか。何の根拠もないのに――。

「事実なのでしょう?」

「それはそうですが……」

「なら問題はないじゃないですか」

 藍の言っていることが真実であると、どうやって伝えようか思案していたので、乃依の言葉には拍子抜けしてしまった。

 驚いて凝視している藍にも気付かず、乃依は言葉を続けた。

「手紙を東城へ届けるよう、弥生月に言付けました。じき軍がこちらへ来るでしょう。速くても五日はかかるでしょうが……」

「東城に使いを?あそこは確か地方政務の東部中心だったと思いますが……白西国は地方も軍を保持していました……?」

「大司空が視察に来ておられるのですよ。来て頂くのは仁多王の軍です」

「……は?」

 藍は間抜けな声をあげた。

「仁多王の……軍?」

「ええ」

 乃依は当たり前のように頷いているが、事実なら、これはとんでもないことだった。

 乃依が助けを呼んでくれたおかげで、藍は国の軍を動かす言動を与えてしまったことになるのだ。確かに、感じる夜叉の気配は多いし強い。軍の力がないと、この村を守りきることは出来ないだろう。だからといって、藍の一言を信じて軍の助けを要請するなど、はっきり言って正気の沙汰じゃない。天竜の子孫だからそんな大それたことが躊躇なく出来るのだろうか。碧の国がまだ存在していて、正式に克羅の姫であると認められていたとしても、藍なら出来ないに違いなかった。

「昴殿はあなたについて話してくださった」

 乃依は藍の驚愕などには全く興味を示さず、その上夜叉についても触れないで、にっこりと笑って昴の名を出した。

「旅の途中で出会ったそうですね。命にかかわる出会いだったと昴殿がおっしゃっていましたよ」

 話の変化に藍はついていけなかった。さっきまで夜叉や仁多王やその軍についての情報を教えてもらったり教えたりしていたのに、何で昴と藍の出会いの話になっているのだろう?

 乃依の笑顔も、藍の不振を煽っていた。

「昴殿はあなたが女性だとご存知なのでしょう?」

「え……ええ」

「彼自身も気付いていないけれど、彼はあなたをとても大切に思っている。初めて出会ってから、たくさんの時間を経ているわけでもないのに、彼の中に占めるあなたは大きいですね」

 乃依の言葉に藍は驚いて、昴を思い浮かべたが、すぐに消えてしまった。代わりに、藍の知る昴の言葉が口から洩れた。

「……克羅の姫に親しい者」

「え?」

「彼は私の中に克羅の姫を見ているのです」

 初めて出会った時に、おかしいと思った。なぜ他人でしかない『琴音』に、白西国の仁多まで送る、などという普通では考えられない約束をしたのか。答えはこれ意外にありえなかった。

「国を失った姫が逃げおおせたとの噂がありましたが、既に死んでおります。彼はそれを聞き、姫を助けられなかった代わりに私を助けようとしているのです」

 ――彼は克羅の姫に固執している。

 それに気付いてから随分時間も経ち、昴は琴音という人間も理解し始めているようだったが、理解するだけで、藍自身を見ようとしたことはなかった。――だから少しだけ、藍は彼に心を開いた。

「……そして死んだ姫はここにいると?」

伏せていた顔を藍はあげた。乃依はもう笑っていなかった。真っ直ぐに藍を見つめ、視線を逸らそうとしない。乃依の言葉に一瞬凍り付いたが、慌てて取り繕い、まさか、と笑う。

「乃依様は私が克羅の姫君だとおっしゃるのですか?そんな莫迦な話――」

「青き髪を持つ娘は」

 乃依は瞳を閉じ、静かだが透る声で言う。

「禍の世から碧を救い、国を潤したと聞きます。才と知、勇と強、美と艶を兼ね備え、国の宝と謳われ――」

「違います」

「――謳われ、太古から続く国を治める為の主となるべく、日々学んでおられた。民からの信頼も厚く、主となるにふさわしい――」

「違う!」

 無意識のうちに立ち上がって、藍は叫んだ。

「そんな完璧な……出来た人間じゃない!国の宝なわけがあるものか!克羅の姫は何もしなかった――臆病で一人では何も出来ないただの傀儡で……。国と彼女は一心同体だったはずなのに、その国が敵の侵略を受けている間、克羅邸の宮で、意味があるのかないのかも分からない祈りをあげているだけだった。私は国を守り切れなかった……だからせめて――」

 はっと藍は口元を手で覆った。怖いくらいの緊張がその場に走り、藍は自分の発言の過ちに気付いた。改正しようと口を開いたが、言葉が出ない。

「克羅の姫」

 乃依は手をついて頭を下げた。地面に額をこすりつけている乃依を見て、藍の中で嫌悪とも憎悪とも取れる感情が沸き上がってくるのを感じた。

「違う……私は違う――」

「今までの数々の無礼をお許しください」

「やめて!」

 ガンッと、藍は床を足で叩いた。再び沈黙がその場を包んだ。

 克羅の姫だからと頭を下げられる程苦しいものはなかった。否、あの時の出来事を思い出させる言葉を誰にも吐いてほしくないと言った方が正しい。乃依から視線を逸らし、拳を握りしめる。爪が掌に食い込んでいることにすら気付かなかった。乃依の目を見ないことだけに意識を集中していた。

 ――母上……。

 また思い出していた。優しかった母と瓜二つの乃依。さっきまでは夜叉の接近を伝えるのに必死で、そんなことは気にも止めなかったのに、彼女の言葉一つで再び自分の中の記憶に戻される。

「現実を受け入れることが出来ぬのですか」

 藍は視線を乃依に戻した。戻したといっても、視界に映すだけで、それ以上はしない。

「私がそんなに似ておいでか」

 ――否定出来ない。

「目をお覚ましください」

 邪魔な木のように突っ立っている藍に向かって、乃依は敬意を払いながらも、親身になって言葉をかけてくれる。

「貴方が何を見て、何を見、何を失ったか、おっしゃらずとも解ります。ですが、あなたが今なさっていること、思っていることは絶えることのない憎しみでしかありません」

 ――分かっている……?

 突如として、藍の中で怒りが燃え広がった。うねるように腸を蠢くそれが、随分と前に感じたものと同じものだと気が付いた。

 ――この怒りと悲しみが……分かってたまるか……。

 落ち着いていた何かが再び吹出し始めていた。目の前の女に吐き気がした。母に似ているからではない。藍の記憶を――忘れてはならない現実を、侮辱したからだ。

「あなたの中に巣食っている闇は、他の誰にも抱えることが出来ないくらいの憎悪です。それは何も生まない。破壊と絶望だけをばらまく夜叉とおな――」

「悪いが」

 乃依の言葉を遮って藍は低く唸った。

「貴殿とは相いれられない」

「克羅の姫!」

「分かるだと?」

 鼻で笑うと、乃依は驚いて口をつぐんだ。

 何が分かるというのだろう?こんな田舎の、都から離れた何もない村に住み、ぬくぬくと庇護をうけている巫女なんかに、どうして全てを失った藍の気持ちが分かる。血と炎で真っ赤に染まった光景と、耳に響く轟音や悲鳴。鼻につく焼ける臭いの中には、確かに生き物のものもあった。

 もはや藍には、肉親も生活も帰る場所さえも残っていない。

 ――この気持ちが分かってたまるか。

 それこそ、鈴や徨来が目の前で息絶えないかぎり、乃依には理解できるはずもない。

「私の気持ちが分かるから、あなたはこうして私を諭そうとしているのか。憎しみを捨てろと?今のままでは夜叉と同じだと?だったら私に何を言っても無駄だ。私が今ここに生きている理由は一つしかない。柳瀬嘉瀬村を殺す為だけだ」

 藍は自分の両手の掌を見つめた。

 それを決心したとき、藍は何の迷いもなく夜叉を斬り捨てることができた。恐くなかったと言ったら嘘になる。だが、その恐怖に勝る程、藍の嘉瀬村への恨みは強かったのだ。現実を受け入れられない弱い自分を救ったのは、その強い憎しみだけだった。

「やつを殺す……その目的なしで、生きてゆけるものか」

 幸福を求めて生きていくことも出来る。過去を捨てることだって出来る。しかし、そんなことをしてしまえば、藍の中の大切な人達は、この掌から消えてしまうのだ。現実を受け入れて記憶にした。だが、記憶を思い出などにはしない。いや、させない。

 藍はぎゅっと拳を握った。そして解いた布を再び頭に巻き付け始めた。見ていた乃依は小さく言う。

「あなたは分かっていない……あなたは死んでいった者達の気持ちが分かっていない……」

「私はそれ以外を常として生きられない」

「だったらなぜ、鈴や徨来をお見捨て置きになさらなかったのですか!」

 急に怒鳴った乃依を、藍は目を細めて見た。

「貴方の生きる目的が、紅南国の王を滅ぼすためだけなら、道のはずれで泣く子供など気になさらなければよかったではありませんか!夜叉が迫るこの村など放っておけばよろしいではありませんか!一日でも早く目的を成す為に、先へ進めば良かったではありませんか!」

 段々と声量を大きくし、いつの間にか立ち上がって、乃依は真っ直ぐに藍を見て言った。

「憎しみだけがあなたの心なら、なぜ我々の命を救おうと、幸を願おうとなさるのです!先程だって息を切らして、夜叉の到来を伝えてくださいました。私には――私にはあなたが自らの善の心を捨てるのに、必死になっているように思えます。本当はお優しい方なのに、故意に鬼のように振る舞って……」

 藍は黙って見ていたが、嘲笑し、乃依に軽蔑の眼差しを向けると、一言、

「夜叉が来たら伝える」

 とだけ言って、踵を返して宮を出た。

 残された乃依は呆然と呟く。

「どうして、自ら堕ちようとなさるのですか……」

窓から差す光は、随分と傾いていた。

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