晶の森の採掘士
坂水
第1話 保護司マリア
〈晶の森〉では生きとし生けるもの全てが凍てつき晶化する。
人の身体も、声も、想いすら、硬質に、純粋に、透明に。
だからこそ、人は晶の森に足を踏み入れる。
――その生命とすら引き換えに。
正午を過ぎ、雪が激しさを増した。白いというよりも砕いた水晶の煌きが目を射る。空は分厚い雲に覆われ太陽はただ煙っていたが、吹き付ける欠片はわずかな光を反射させ、きらりきらりと舞い落ちた。
……〈
空模様が風雪から風晶へ変わった。森の最奥に棲まう蒼の魔獣アグーが午睡から目覚め、大あくびをしたのだ。
そう頭の中で思い描いて、マリアは小さく笑った。それはリーテランドの民が幼子に聞かせる御伽噺だ。誰もアグーに出くわしたこともなければ、〈晶の森〉の深奥から還ってきた者もいない。だからこそ安心して大人は嘘を吐ける。
もっとも今日の学都では、風晶は森の北西に聳えるケレーレ山脈の谷間から生まれて吹き降りてくるという説が有力だそうだ。どちらにせよ、ケレーレ山脈は長らく緊張状態が続く国境帯となるので、誰も踏み込めない。こうして御伽噺は守られる。
マリアは自身の長い金髪が入り込んだため、ずらしていた
防寒と防晶で、装備は自ずと重くなった。そしてさらに仕事道具を背負うている。だが、十年近くこの仕事に従じていれば、不思議なもので重くとも動けるようになる。決して軽く感じるようにはならないが。
そして、どれほど長年勤めていようと、この無垢で無慈悲で無遠慮な景観に見飽きることはなかった。なんなら愛していると言い換えても差し支えないほどに。
ヒョウっと、風音よりも一段高い音が、雪にも吸い込まれずに鳴り響いた。
巡回中はこうして半時に一度は笛を鳴らし合い、互いの無事を確認する。森の奥まで踏み込み過ぎないための措置でもあった。
もうそんな時間かと、自身の胸元に入れてあった紐付きの笛を引っ張り出す。こうでもして温めておかねば、唇の皮がはりついて、心底痛い目にあうのだ。念のために息を吹きかける。分厚い手袋に埋まったそれは、形も相まってクロウタドリの雛鳥を思わせた。その子を暖める心地でひと息、ふた息。
無愛想さからか、顔色の悪さからか、侵入者への塩対応からか、仲間内では冷血などと呼ばれているが、それでも吐息は温かい。生きていれば熱を放つ。それは当然の摂理だった。その逆も。
と、ヒョウっ、ヒョウっと、笛が続いて二回短く鳴いた。まさか雛鳥の妄想を相棒が嗅ぎ取ったわけではあるまい。
一瞬、緊急事態かと身構えるが、その後が続かない。どうやら単なる呼び出しのようだ。
マリアは踏み出しかけた右足を思い直してもう一度左足の隣へと置いた。
正直なところ、呼び出しに応じるのは気が進まない。大体、くだらない事由が多いのだ。やれ、今日の昼飯何にするだの、ゆきやけ痛いだの、シャルルに会いたいだの。
そこにはある種の負い目と、牽制、怠慢、そして情がある。だからこそ、油断できない。
マリアは警笛を無視して、樹晶と化した森の奥へと目をやった。
御伽噺の昔――大陸人がウラフト大陸北西部に突き出たここムルカ半島にやってきた頃から、すでに風晶は吹いていた。人が生きるにまったく適さない不毛の地。だからこそ〈晶の森〉は広大でありながら手付かずでありえたのだが。あとは、いくつかの嘘と苦労と命を支払って。
現在では〈晶の森〉は保護区となっており、森の保護を司る〝保護司〟がそれぞれの
風晶はさほど強くない。ならば、今日はもう少し探索を進めたい。まだ誰も還ってきていない〈晶の森〉の深奥へと。
王都の木漏れ日溢れる開かれた森を散策するのとはわけが違う、一人で大した装備も計画も地図も無しに迷い込むのは自殺行為も同じだ。でもだからこそ、誰にも邪魔されない。
マリア、と。深奥から呼ばれた気がした。
目をこらすが、鋼色の木々の間からは風晶が吹き付けるのみ。もちろん、願望だとわかっていた。声が、
だが。
ウォンっ!
振り返るよりも早く、その黒い疾風は森の深奥へと向いたマリアの前へと回り込んだ。
「……スヴァット」
名とともに溜息とも吐息ともつかないそれがマスクの中でこもった。
雪と晶で構成された寒々とした色彩の中、その漆黒の毛並みの獣は、妙な話だがひどく鮮やかだった。彼もまた目を傷めないよう、特注の防晶眼鏡をかけている。自分よりもずっと似合っていた。
スヴァットはブーツの手前で座ると、マリアを見上げもう一声吠えた。生粋のムルカ犬である彼は、長く艶やかな毛並みと、ツンと尖った耳、そして凍えた大気をふるわせる深みのある声を持つ。
彼と防晶眼鏡ごしに見つめ合い、しばし。
相棒を無視できても、〈晶の森〉の最も有能な番人を袖にできるはずがない。彼が出動したならば、くだる用事なのだろう。
マリアは歩き出したスヴァットの輝く尻尾に導かれながら、帰ったら念入りにブラッシングして〈晶〉を払い落としてやらねばと考えた。
紫煙が細く立ち昇る。
風晶はごくごく弱まり、時折、ちらちらと空中に残光を撒き散らすのみ。
樹晶が途切れていくらか視界の開けた空間に、枯れ木のごとき細いシルエットと、その根元に蹲る何かを認め、マリアは足を速めた。
「エーリヒ、状態は?」
呼べば、相棒はやはり枯れ枝じみた片手をゆらりと上げた。防護服をまとっているというのに、痩せこけた印象は拭えない。
自分よりいくつか歳上の三十がらみの男だ。すでに防晶眼鏡をずらし、マスクも下げている。ブラウンの短髪と無精ひげ、そしてけだるげな眼差しがのぞいていた。
マリアも防晶眼鏡をずらし、男の口元に鋭い視線をやる。エーリヒが咥えた煙草からは今にも灰が落ちるところで、彼自身気付くとポケットから革の吸殻入れを取り出した。保護司が〈晶の森〉を汚すなど言語道断だ。森の汚れは、森の価値を下げる。価値が下がれば、保護する意味がなくなる。意味がなくなれば、自分たちは職を失う。
「もう晶化は始まっている? 何日目?」
問えば、エーリヒはひらひらと片手を振るばかり。スヴァットはゆさゆさを尻尾を振るばかり。マリアはぱちぱちと目を瞬いた。まあ、自分で確かめたほう手っ取り早いわけだが。
しゃがみこみ、エーリヒの足元の塊に触れる。一抱え、いや二抱えほどもあるそれ。想像したよりも柔らかく、意外なほど上質な手触りだった。
〈晶の森〉では生きとし生けるもの全てが凍てつき晶化する。人の身体も、声も、想いすら、硬質に、純粋に、透明に。保護司の巡回には、晶化した人間――晶像の保護も含まれていた。
できうる限り丁寧にその塊をほどいてゆく。顔を覆っていた腕を、折り畳まれた足を、曲げられた腰を。晶化が進み、固まり切ってしまう前に身元を確認できるものを見つけなければ。
まだ若い女だった。いや、子どもと呼べるほど幼い。〈晶の森〉に迷い込んだ、あるいは逃げ込んだ者は数あれど、こんな子どもが一人でというケースは珍しい。そして、妖精の取替え子と言われても信じてしまいそうなほど綺麗な娘だった。
フードからこぼれた髪は白金、顔立ちの何もかもが小作りで、雪や晶に劣らぬほど色が白く、けれど頬は薔薇色で……
違和感を覚え、マリアは顔を顔を上げた。これは、まだ。そうエーリヒに問おうとした時。
「……もう、朝?」
晶像が動いた。いや、これはまだ晶像ではない。未晶化。生きている。生身。生もの。
極小の刷毛めいた睫毛を瞬かせ、娘はのそのそと身を起こし始めた。その拍子に毛皮のフードが完全に落ちる。当然だが、彼女の耳は妖精のそれではなかった。
「……いいえ、
「ここ、どこ?」
「〈晶の森〉北西地区」
「あなた、だれ?」
「保護司マリア」
娘の寝ぼけ口調に端的に答えてやり、あなたは? と問い掛ける。
外傷はないようだが、なぜこんなところで行き倒れていたのか。リーテランドの
こちらの考えがだだ漏れだったのだろう、エーリヒがいやいやと首を振る。本気で考えたわけじゃない。マリアは小さく肩をすくめた。
保護司、と娘はぼんやりとひとりごちた。完全に目が覚め切っていないのか、なんらかの精神的外傷を負っているのか――きな臭い可能性に気付く。娘の着衣に乱れはなかったが。
「あなた、まさか、」
言い淀む。生きている人間を相手に会話するのは苦手だ。気遣うべき相手ならばなおさら。マリアが躊躇したその一瞬。娘はおきあがりこぼしの唐突さで立ち上がった。そして。
「私を弟子にしてください!」
〈晶の森〉は一年を通して雪と晶に覆われた、無色の世界だ。色も、音も、温もりも、無へと還される。娘の深々とした礼と共に放たれた一声も、すぐさま雪と晶に吸いこまれて色と音を失う。
だというのに。マリアは唖然としてとるべき行動を見失った。お辞儀をした娘のあらわになった首筋を、桜貝めいて色づいた耳たぶを、ただ見つめる。
……降ってきたぞ。相棒の言葉に我に返れば、天より白い礫が後から後からふりこぼされていた。
晶の森の採掘士 坂水 @sakamizu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。晶の森の採掘士の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます