第4話
巡る季節
1
六月二十七日、土曜日。
梅雨真っ只中。梅雨前線が日本列島に北上しており、昨日は一日中雨だった。今日もどんよりとした灰色の雲がかかっているが、どうにか夕方まではもちそうである。
百段ある石段の上に建つ青願神社。多くの銀杏の木に囲まれた境内は、紅葉の時期でもないのに多くの人で賑わっていた。背広姿はもちろん、女性はきれいな着物やワンピースで着飾り、色鮮やかなアクセサリーを身に着けている。場がとても華やいでいた。
その中でも一際目を引くのが、中央にいる和装姿の女性、本日の主役である。橙色の下地に多くの鶴が優雅に舞い、金色の帯は華やかさと高級感を漂わせる。アップにした髪につけられた花飾りは大輪の花を咲かせ、誰もが目を引くような美しさを有していた。
本日、青願神社では結婚式が執り行われた。すでに社殿での式は済まされ、今は外で社殿を背後に親族による記念撮影の最中。袴姿の女性神主がいる中央部には、花婿と花嫁が並んで椅子に腰かけている。
カメラの前で幸せそうに微笑む花嫁は、この春に教職員を退職した五月女ひかり。笑顔には、この世に一つとして不幸のない輝く光が宿っている。ひかりにとって、この瞬間こそが、人生の最良であるように。
吹いてきた風に、周囲にある多くの銀杏の木が小さく揺れる。今はざわめきすら今日というめでたき日を祝福しているみたいに。
「…………」
溢れんばかりの幸せが覆い尽くした青願神社境内に、いつものように多くのポケットがついた黄緑色の作業着姿のカエルがいた。ただじっとその場に立ち、ただじっと花嫁の姿を目に映して。そこにある輝きに魅入られているように。
「…………」
こうして見つめているからといって、相手と目が合うことはない。こちらから声を届かせることもできず、触れることも存在を知られることもない。ただただカエルは、じっと銅像の龍が口から水を吐きだしている手洗い場の前で立ち尽くしている。
見つめる光景に一切の言葉はない。思考することもない。表に出る感情はとても静かなもので、目の前にある光景を目に映している。その魂に焼きつけるようにして。
瞳に、最愛の人を認めながら。
「…………」
「……カエルさん、五月女先生、結婚しちゃったね」
髪の毛に大きなリボンをつけ、普段はまず着ることのない薄ピンク色のワンピースに身を包んだ相楽茄乃。隣人に対して声をかけるが、断じて相手に顔を向けることなく、二枚目の写真が撮られている花嫁を見つめる。
「きれいだよね、五月女先生……って、もう先生じゃなくなっちゃったけど」
「…………」
「ねぇ、カエルさん、将来あたしもああいう風になれるかな?」
「…………」
「なんか、こう、『いいなー』って思っちゃうよね、見てるだけで」
「…………」
「こうしていると、五月女先生の幸せが掴めちゃいそう」
「…………」
「ああいうの、きっと『美男美女』っていうのかな?」
「…………」
「あ、でも、安心して。あの人には悪いけど、あの人よりもカエルさんの方が何倍も格好いいからね」
「……だろうな」
「うん」
社殿前での写真撮影が終わったようで、袴姿の女性神主を先頭に、大きな鳥居を潜って石段に向かっていく。すぐ後ろを花婿と花嫁がゆったりとした足取りでついていく。新たな門出を祝福する多くの人にお辞儀しながら、この場所にたくさんの幸せを振り撒いて。
茄乃は、少しだけ胸をくすぐるような思いに駆られ、それを包み隠すことなく口にする。
「……ほんとは、カエルさんがあそこにいるはずだったのにね。残念だったね」
「うーん、そうかもしれないけど……けど、理屈からいえば、誰だっていいんだ。これは別に強がりじゃないぞ。俺の幸せは、あいつが幸せになることなんだから」
「……意地っ張りぃ。悔しいなら悔しいって言えばいいのに。素直じゃないよね」
「それが俺のいいところだ」
「どこが……」
急に茄乃の声が震えてきた。この地には涙を流すような辛いことなんてないはずなのに、胸に生じた気がかりに、不安定に声が震え、鼻の頭が熱を持つ。訪れた変化に強制されるよう、胸にある大切な部分がきゅっと縮こまっていく。
茄乃の視界では、花婿と花嫁は境内を後にし、鳥居の向こう側へいった。もうここからでは二人の姿を見ることはできない。参列者も鳥居の向こうにいなくなり、賑やかだった境内には、茄乃とカエルだけになった。
視線が僅かに上がる。顔を上げることにより、込み上げてくるものを抑えるようにして。
「…………」
この青願神社にカエルと二人でいること、これこそがいつもの光景。今にして思うと、さきほどまでの賑わいはまるで夢か幻のよう……花婿と花嫁がいなくなった境内は、結婚式だからといって華やかな飾りがあるわけでなく、門出を祝福するような賑やかな音楽が流れているわけでもなく、いつもの静寂な空気が包み込んでいる。見渡すとたくさんの銀杏の木が目に映り、立派な鳥居がある。手洗い場の龍の口から水が出ていて、飛び石は社殿までつづいており、社殿の下には今も銀色の金属バットが隠されていた。
「…………」
いつもの二人。いつもの場所。
けれど、その内側は違う。
心はいつも通りではいられない。
平静を保っていた茄乃の感情が、ぼろぼろっと少しずつ形を失うように崩れていく。
そうしてまた、震える声を吐き出していく。そうすることができるのが、ここにいる茄乃である。
「……ねぇ、カエルさん」
「お前さ、泣いてる意味が分かんねーよ」
「っすん……だって、カエルさんが泣かないんだもん。ここ、カエルさんが泣かなきゃいけないところなのに……っすん……だから、頑固なカエルさんの代わりにあたしが泣いてあげてるのぉ」
涙を流しているからといって、唇を噛みしめることはない。溢れてくる感情に委ねるように、瞳から涙を零していく。これは茄乃の涙ではなくカエルの涙であるから、泣いて泣いて泣いて泣いて、このまま涸れていっても構いはしない。
心を解き放つように、感情を爆発させる。
「うわああああああああああああああああああぁぁぁ」
吐き出される息。零れていく感情。赤ん坊のように、すべてを隠すことなく存在そのもので涙を流す。
「うわああああああああああああああああああぁぁぁ」
嗄れる声。響いていく音声。茄乃のすべてを晒して、泣きじゃくる。
泣いて泣いて泣いて泣いて、涙が滴となって地面にいくつもの黒点を作っていく。点。点。点。点……茄乃は感情の頂点まで絞り出し、両手の甲で頬の涙を何度も何度も拭った。腹の中心に力を入れるようにぐっと息を止める。ゆっくりと瞳を閉じ、ゆっくりと息を吐いていって……そうしてぱっと瞼を上げた。
「カエルさん」
まだ声は震えているが、そんなことをいちいち気にかける必要はない。この場所に立っていることが、茄乃に課せられた使命。
茄乃は思いをぶつけていく。
「お願いが、ある」
「お願いされちゃうのかー。お前のそれには弱いからな」
「あのね、その胸のカエルさん、あたしにちょうだい」
茄乃が示した『胸のカエルさん』は、毛糸できた人形のこと。カエルの着ている作業着の胸ポケットから顔を出している。ずっと、そこで、そうして。
「大事にするから。一生宝物にするから。ねっ、いいでしょ?」
「駄目だ」
即答。一切の迷いなく。まるで台本があって、そう口にすることがずっと前から決まっていたみたいに。
「いくら茄乃の頼みとはいえ、こればっかりは譲れないな。なんたって、これは俺のお守りだから。これからも大事にしないといけない。最初にそう言ったはずだけど」
「そこをカエルさんのやさしさで譲ってほしい」
「駄目ったら、駄目。お母さんのやさしさでできている俺でも、さすがに譲れない」
「うむむー……カエルさん、お守りいるかな?」
「いるだろ、そりゃ。これから何があるか分からないじゃないか。こいつにしっかり守ってもらわないと」
「これから? これからねー」
「これからだ、これから。とにかく、これはどうあっても譲れないぞよ」
「……だから、たまに使う『ぞよ』の意味が分からないよー」
人形を譲ってもらえなかったことに、ぷくっと頬を膨らまして、右隣にいるカエルを意識する。そこにいることを感じて。
まだそこにいてくれることを強く願って。
それこそが本当の願いであるように。
「カエルさん、またホームラン打つね。なんたってチームの四番だもんね。えっへん。打席が回ってきたら、かっきーんっ! ってホームラン打たなきゃ」
「おう、頑張れよ。最初はどうなるかと思ったけど、どうにかなるもんだな。全部お前の頑張りだ。これからもばしばしっホームラン打ってくれ」
「よーし、こうなったら、これからの打席、もう全部ホームラン打っちゃうから」
「ああ、頼んだぞ」
「カエルさんカエルさん、そうなると、ホームラン王になっちゃうね」
「なれなれ。好きなだけなってみろ」
「世界の」
「それは……」
勢いのあった語尾に小さな抵抗を示して……吐き出す息とともに口元を緩めるカエル。
「実はな、どうして茄乃なんだろう? そう考えたことがある」
「どういうこと?」
「どうして茄乃がここにいるんだろう? って」
カエルを認識できるのが茄乃なのか?
「きっと、互いの目的を果たすのに、互いが必要だったんだろうな。茄乃はホームラン。俺は俺で」
茄乃の求めたホームランは達成された。そしてカエルの求めるもの、それは今さっき目に焼きつけた。
「お互い、自分だけじゃどうにもできなかったけど、互いが互いを求めることで、ここに茄乃がいるんだなって。そんなようなことを前に神様から聞いたことがある」
「えっ!? 神様って喋るの?」
「あれ、これは秘密だったかな? えーと……」
「ねぇねぇ、神様、喋れるの?」
「さあ?」
口元は緩んだまま。
「ありがとな、茄乃」
「ありがと、なのはこっち。カエルさんに教えてもらったおかげで、ホームランが打てたんだから。でも、神様のことはなんか誤魔化された気がするけど……ほんとにありがとね」
にっこり。茄乃は前を向いたまま……そのまま、小さく拳を握る。
「それでねそれでね、カエルさん、その、えーと、えーとね、えーと……」
もう言葉が出てこない。もっともっといっぱいお喋りしたいのに。
「あのねあのね、えーと、えーとね……」
もっともっとお喋りしていないと、いけない気がして。だから、だから!
「えーと、あれ、えーとえーと……」
「お前がホームラン打てるようになったし、ひかりの幸せを見届けることができたし……そろそろ、かな」
「カエルさん!?」
ここまでずっと右隣に感じられた気配が、急激に薄らいでいく。それはまるで、熱を感じるほど強い光で照らされていた光量が、一気に弱くなったみたいに。
その変化に、茄乃は慌ててそちらに顔を向けようとするが……思い留まる。
それ自体、しっかり受け入れないといけない。
そして、こんなことで相手に心配かけてはならない。
だからそこ、気持ちを強く保つ。震える思いを押し殺し、前にある鳥居を睨みつけるように見つめる。
(カエルさん!)
こんなことで泣くわけにはいかない。
ここは笑顔でなくちゃいけないから。
それが今できる最大のことだから。
茄乃のすべきことであるから。
「……あのね、カエルさんの所まで、あたしの打ったホームランは届くかな? そうできたらいいのにー」
「はははっ。グローブして待ってるよ。ばっちりキャッチするから、特大のを頼むぞよ」
「任されたぞよ」
「そう、そうだよ、そうやってお前がよく使ってたんだ」
風が吹く。二人の間を分けるようにして、一陣の風は吹き抜けていった。
「じゃあな、茄乃。茄乃も幸せになるんだぞ」
「……うん」
薄らいだカエルの気配が、訪れた突風とともに消えた。
もうない。なくなった。
茄乃は、風によって前へ流れた髪の毛を手で押さえながら、正面にある真っ赤な鳥居を見つめる。
ずっとずっと見つめていく。
流れ出そうとする激情を、奥歯を食い縛ることで耐えながら。
「カエルさん」
カエルさん、
「あたしも、五月女先生に負けないぐらい幸せになるからね」
誰にも負けないぐらい幸せになるからね。
立てた誓いは、境内に染み込むように溶けていく。
ともに過ごした時間とともに。
青願神社の境内に、巫女装束を着た二人の女性が戻ってきた。二人とも笑みが零れているので、担当した結婚式に達成感を抱いているのだろう。
茄乃はずっと前を向いたまま、決して後ろを振り返ることはない。意識して右足を前に踏み出していく。右足を踏み出して、左足を踏み出して、右足を踏み出して、左足を踏み出して……戻ってきた巫女二人と擦れ違う。茄乃の何倍もある大きな鳥居を潜り、今では当たり前のように下から上まで駆け上がることができる百段の石段を下っていく。
空にはまだどんよりとした雲が覆っているが、それが晴れれば今年も太陽が燦々と輝く夏がやって来る。あらゆる生命が活発的となり、世界そのものが躍動的になる季節。
茄乃は、力強い夏という季節を迎え撃つ大きな気迫で、石段の最後を力いっぱいジャンプした。着地と同時に両腕を水平に伸ばし、その顔に満面の笑みを浮かべていく。
それが、小学五年生の初夏のこと。
別れの日。
青願神社なの @miumiumiumiu
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