第3話
小学四年生
1
時代が流れ……相楽茄乃は、小学四年生となった。
九月十日、金曜日。
「転校生の子、あんまりかわいくないんだって」
「ふへっ?」
灼熱に照らされた凄まじい暑さを有した八月はすでに世界を通り過ぎている。二学期がはじまり、すでに十日を数えていた。順応性の高い小学生だけあり、一か月半と長かった夏休み惚けはもうほとんど残っていない。
ただし、通っている愛名西小学校は十五日まで半日授業のため、まだ夏休みの延長上にいるような空気が学校全体を包んでいる。過ごしている時間を『日常』と呼ぶには、もう少し時間がかかりそうだった。
「転校生ぇ?」
耳にしたのが予測していなかった単語だったため、思わず声が引っ繰り返る。大きく瞬きをして、頭上に巨大なクェスチョンマークを浮かべていく女の子は、相楽茄乃、小学四年生。今年から部活に入ることができるようになり、迷うことなくソフトボール部に入部した。先月までの夏休みにはたくさんグラウンドで練習していた影響で、肌は小麦色に焼けている。外跳ねの髪は、チューリップを逆さまにしたみたい。
茄乃は黄色いTシャツの上にある頭を小さく傾けて、クラスメートの
「転校生って?」
「……呆れた。茄乃、もしかして、知らなかったの? えっ、二学期から隣のクラスに転校生がきてたこと知らなかったの?」
「うむむ?」
一瞬だけきょとんっとし、眉間に皺を寄せて、返す言葉を逡巡する。相手が『こんなこと誰でも知ってることだよ。知らないなんて、どんなけ世間に疎いのよ。あんた、半分寝てるんじゃないの。夏休み惚けもいい加減にしてちゃうだい』なんて言うもんだから、知らない現実を正直に伝えられず、知ったか振りをしようと思った。けれど、『台風一過』のとき、『一過』を『一家』と勘違いしていて、『お母さんは台風五号ぐらいかな?』なんて、しなくてもいい自爆した苦い経験がある。どうしようか迷い……今回はやめておく。
人間、素直が一番。
「そう、二組に転校生がいるんだ? へー。へー」
「へー、知らなかった。へー。へー。やっぱり」
右側だけヘアピンで留めている美弥は、『あんた、どうして知らないの? ほんとにソフトのことしか頭にないんだから』と嘆息した。両肩を竦めてから、口を動かしていく。
「女の子なんだって。でね、詳しくは知らないけど、なんか、身内に不幸があったとかで、こっちに転校してきたらしいよ」
「身内に不幸があると、転校しなくちゃいけないの?」
「えーと……いや、よく知らないけど、そういうこと、あるんじゃない? 大人の事情ってやつよ、きっと」
美弥は視線だけで周囲の様子を確認し、口に手をやる。声を潜めて。
「それがまたかわいくないんだってー。声かけても、無視されるらしいのよ。無視だよ、無視。最初はみんなも『転校してきたばっかで緊張してるのかな?』ってやさしくしてたんだけど、ずっと無視されるもんだから、みんなも呆れて相手にしなくなったんだって」
「うむむ。それはちょっと聞き捨てならない」
「でしょでしょ。転校生が無視してくるなんて、信じられないよね。もっと調和性を大事にすべきよ。いや、『調和性』の意味はいまいちよく分からないけど」
「その子、かわいそうだよー」
「でしょでしょ。その子がかわいそ……んっ、かわいそう?」
「だって、転校生だよ。きっと慣れない学校で、不安だと思う。だいたい、転校してきたのは身内の人に不幸があったからでしょ? なら、ショックだってあるだろうし。なのに、なんでそんな相手の悪口言うの? そっちの方がひどい」
「わ、わたしがそんなこと言ってるわけじゃないよ。そりゃ、ちょっとはかわいそうな気もするけど……でもでも、とにかく愛想がなくてかわいくないんだって」
「『かわいくない』なんて言ってる子の方がかわいくない。よし、今から注意しにいこう」
「注意? 今から?」
「注意! 今から!」
四時間目が終わったばかりで、半日授業の今日はもうすぐ帰りのホームルームを残すのみ。けれど、茄乃は一分一秒を無駄にしないとばかり、勢いよく立ち上がった。
クラスメートはすっかり帰り支度を済ませ、ランドセルを机の上に置いて雑談。そうやって持て余す時間を過ごしていいなら、茄乃も茄乃の思うように行動するだけ。男子が腕相撲しているのを横目にして廊下に出て、隣の四年二組に顔を出す。
隣の二組もまだホームルームがはじまっておらず、担任がいない教室には賑やかな声が満ちていた。どの教室でも、おとなしく待っている子供など皆無なように。
廊下と教室ぎりぎりに立って中を覗く。各机には主が座って横を向いたり後ろを向いたりして雑談している。教室後方にはロッカーが並んでおり、紙粘土の動物が飾られていた。夏休みの工作宿題であり、やけに象が多い。
紙粘土の動物は一組の教室にも展示しており、茄乃はちょこんっと座る蛙を作った。みんなが犬や猫といった身近な動物なのに。蛙のかわいらしさを押売りするかのごとく。
「えーと、転校生……転校生……」
教室と廊下の境界線に立ち、あくまで入ろうとしない。ぎりぎりの爪先立ち。そこから先に足を踏み入れることを禁じられているような立ち方である。別段隣のクラスに入っても問題ないのだが、入ってしまうと、なんか別の家に勝手にお邪魔するようで居心地が悪く、廊下から教室を覗くに留める。
「ねぇ、美弥ちゃん、転校生の子ってどこにいる?」
「ちょっと待って。うーんとね……ああ、ほら、あの子だよ。後ろの席の髪の長い子」
「……髪の長い子?」
ホームルーム終了後に日直が戸締りをするため、窓はすべて開けられている。そんな窓側の一番後ろの席に、白いワンピースを着た女の子が座っていた。ストレートの髪は長く、立ち上がったら腰までありそう。これまで日差しの強い夏だったのに、肌はまるで豆腐のように真っ白。今はクラスの誰とも話すことなく、静かに手にした本に目を落としている。
その女の子を目にした瞬間、茄乃の全身に稲妻が落雷したかと思った。体がびくんっ! と一度縦に揺れたかと思うと、双眸が巨大化する。
「あぁ!」
口からは、本人が出そうとして出したわけではない仰天の声。思いの外、大きなものだったが、直面した驚きがあまりにも強烈で、恥じらいを感じる余裕もない。
あるのは、突如として訪れた偶然への興味のみ。
(あの子だぁ!)
目に映ったのは、見覚えのある女の子。そう思ったときはもう、横に美弥がいることも、ここが隣のクラスであることも忘れ、ずかずかと教室に入っていく。目に映っている女の子に真っ直ぐ進むように。
それはもう、茄乃まっしぐら。
さきほどこの教室に響いた素っ頓狂な声と、このクラスではない人間が入ってきたことに、茄乃はクラス中の注目を浴びるが……そんなこと一切関係なく、その目は髪の長い女の子を見つめている。
「こんにちはぁ。あたしのこと、覚えてるかな?」
いい印象を持ってもらえるように意識した最高の笑みとともに声をかけると、相手は読んでいる本から顔を上げた。茄乃は『こんにちは』という意味合いで胸の前で小さく手を振ってみる。その行為がますますこのクラスの注目を浴びる結果であることを気にする以前に、気づくことすらない。
「覚えてないかな? ほら、夏休みの朝にちゃまろの散歩してるとき。この前はありがとね。ああ言ってもらえて、助かっちゃった。あたし、ずっと落ち込んでたから」
先月、ソフトボールの試合に負けたこと、最終打席で三振したこと、さらには三年前の姉を罵倒した思い出が蘇り、激しく胸を痛めた。日常生活に支障をきたすぐらい覇気がなくなっていたのである。そのせいで、青願神社で特訓してくれるカエルからバットを握ることを禁じられたぐらい。
そこを救われた、目の前にいる女の子がかけてくれた言葉に。あれがあったからこそ、茄乃は気持ちを吹っ切り、立ち直ることができた。
つまりは、目の前にいる髪の長い女の子こそ恩人。
「あれ、覚えてないかな? そっか、転校してきたばかりだもんね、いっぱい人がいて覚えられないよね」
一度は顔が上がったものの、女の子の視線が手元の本に戻ったことに、茄乃は小さく首を傾げる。なんとかして思い出してもらうと、出逢ったときの状況を頭に思い描き、その視線は虚空を漂って……手をぱんっと叩いた。
「ほら、朝の六時ぐらいに、公園の近くを散歩してたよね。今日みたいに白いワンピース着てさ。えーと、ちゃまろが飛びついて、迷惑かけちゃって。ごめんね、急に飛び出しちゃったから」
去年から飼っている柴犬の名前が『ちゃまろ』である。
「あの時、ああ言ってもらえて嬉しかった。おかげで元気になれたよ。ありがとね。感謝してもしきれないぐらいだよ。お礼が言えてなかったから、ずっと気になってたんだけど、こうして直接本人に言えてよかったよ」
「…………」
「あたしね、全然知らなかったんだけど、転校生だったんだね。名前は、えーと……」
胸につけられている名札を見ると『鮎川』とある。
「さかなうらない、川さん?」
「……ごめんなさい」
「んっ……?」
茄乃の瞼が上下運動。
「ど、どうして謝るの? さかなうらない川さんは悪いことなんかしてないのに」
「……
「たはははっ。そっかそっか。よろしくね、鮎川さん」
にっこり微笑んだタイミングで、二組の担任の女性教師が教室に入ってきた。瞬間、自分が隣の教室にいること、また、今はまだ放課後ではないことを思い出す。慌てて教室から出ていった。
廊下で振り返り、小さく手を振ったが、相手はこちらを見ていなかった。けれど、そんなこと気にならない。今は再会できたことの喜びで満ちている。
(へー、あの子、鮎川さんっていうんだー)
どこの誰とも分からなかった女の子が、まさか隣の教室にいたなんて、世間が狭いというより、これはもう運命を感じてしまう。茄乃のことは覚えてもらえていなかったが、それでも感謝の言葉を伝えることができたこと、気持ちが高揚して仕方ない。
(あーあ、もっとお話ししたかったなー)
意識すると、小さくスキップを踏みたくなる心境。自然と口角が上がっていくのを止めることはできなかった。
夕方。『これでもか!』というほど、空一面が色濃い茜色に塗りたくられている。ついさっきまで公園で遊ぶ子供の声があったが、今はもうない。九月に入り、徐々に日が短くなっていることを実感。不快でしかなかった蒸し暑さがなくなり、季節は間違いなく夏から秋へと移り変わっていた。もう寝苦しい夜はなくなっている。蚊はまだいるけれど。
「それでね、鮎川さんって、ちょっとクラスで浮いちゃってるの……でもでも、絶対いい子なんだよ。だってだって、あの子のおかげで元気になれて、こうしてまたカエルさんにバッティングのこと教えてもらえてるんだもん」
百段ある石段の頂上にある青願神社。澄んだ涼しい風が、いくつもある銀杏の枝を揺らし、心地よい清涼感を醸し出す。今年もこの神社一帯が黄色く季節が近づき、毎年見物に多くの人が訪れるようになるだろう。だが、今はまだ兆候はなく、参拝客も皆無であった。
そんな人気のない境内で、銀色の金属バットを握り、顎を少し引くことを意識し、力を抜いた自然体で構える茄乃。素振りをするとき、頭で向かってくるボールを手元まで引きつけるイメージし、バットヘッドはボールの上に当たるよう、腰を回転させてスイング。
しゅんっ! と空気を切った。
「残念なのはね、ちょっとおとなしいっていうか、奥手というか……そのせいでね、みんなに勘違いされちゃってるみたいなの」
再びバットを構えて、前方にある真っ赤な鳥居を見つめる。相手ピッチャーをイメージして、内角のボールに対し、腕を畳み込むようにスイング。
しゅんっ!
話しながらだが、バットを振るときは集中。空気を切る音が、鋭いことを確認しながら。
感覚はいい。
「きっと口下手なんだと思う。最初に会ったときもそうだったし。そのせいでみんなと打ち解けないみたいなの。こっちに引っ越してきたばかりだから、知ってる人もいないしね」
「それで、お前はどうするんだ?」
ポケットのたくさんある黄緑色の作業着に身を包んだカエルは、男性としては大きな瞳で茄乃のフォームをチェックしながら、言葉を投げかけていく。
「クラスが違うんだろ? その子は無視されてるんだろ? で、お前はどうするんだ? 恩人が困ってるのに、お前もみんなと一緒に無視する気か?」
「そぉ!」
それは、これまで十年間の人生で最大級の音量を持った『そ』であった。
「そんなことしないよぉ! なんであたしが──わわわっ!?」
かけられた声に集中が乱れてしまう。スイングの際にバットが下から出て、斜め上へと上がっていくアッパースイング。もちろん空気を切る音はしない。いつもと違うバットの軌道に、体に余分な負担がかかり、反動によりバランスを崩した。捻った腰に痛みが走ったが、どうということはない。
大丈夫。
きっと眉を吊り上げた。
「もぉー、カエルさんが変なこと言うから、おかしくなっちゃったじゃなーい。いい、あたしは鮎川さんと仲よくしたいの。なのに、なんで二組のみんなみたいに無視しなきゃいけないの? そんなことするわけないじゃん」
「だったら、みんなのことなんて気にする必要ないだろ?」
「どういうこと?」
「みんなが無視してようがいじめようが、お前が仲よくするのに関係ないだろう? お前が仲よくしたいなら、仲よくすればいいんだけのことじゃないか。単純明快。だろ?」
「そんなの、カエルさんに言われなくても分かってるよ」
下唇を突き出す。
「分かってるけど、クラスが違うってのはね、結構難しいもんがあるの。カエルさんには分からないだろうけど」
「いやいや、勝手に決めつけるなよ。俺だってな、一度は小学生やってるんだから、それぐらいのこと、分かるといえば分かる。分からないといえば、分からない」
「どっちなのぉ? もぉー、いい加減だなー」
睨むように木造の社殿に腰かけるカエルに顔を向けるが、カエルからの反応はなかった。
その隣に座っている柴犬のちゃまろは、退屈そうにうつ伏せになって眠っている。苦労なさそうに。
ふと思うことが。
「そういえば、最近神様見ないね」
「お前がこんなの連れてくるからだろうが」
「別に、ちゃまろのせいじゃないと思うけど……」
バットを構える。
「……それで、カエルさんはどうしたらいいと思う?」
「お困りであるか? 抜群にいい方法があるぞよ」
「……カエルさん、前から気になってたんだけど、そのたまに言う『ぞよ』って、何?」
「……お、お前が使ってたんじゃねーか。『あるぞ』とか『ぞよ』とか『苦しゅうない』とか、おどけるようなときにお前が」
「そんなことないよー。あたし、そんな変な喋り方しないもーん。そんな風に喋ってたら、ちょっとおかしな人じゃん」
「……過去の自分を平気で否定する小学生、相楽茄乃。なんて末恐ろしい存在なんだ」
カエルの額に大粒の汗が浮かんだ。
「まっ、とにかくだ。クラスが違っても、その子と仲よくする方法がある。そうすれば万事解決だ」
「ほんとぉ?」
胸をどんっと叩いて自信満々の笑みを浮かべるカエルに、茄乃の双眸がショートケーキでも見るかのように輝きを放っていく。
「教えてよ教えてよ。どうすればいいのかな? どうすれば鮎川さんともっと仲よくなれるかな?」
「まずその『鮎川さん』ってのをやめることだ」
「どうして?」
「友達なら、下の名前で呼ぶようにしろ。どうせ知らないだろう? ちゃんと本人に教えてもらえよ」
「そういえば、鮎川さんの名前、何っていうんだろう?」
そんなこと、気にも留めなかった。ただただ再会できた感動で胸いっぱいで。
「名前はちゃんと教えてもらうね。で、仲よくなれる方法は?」
「それもいいけど、今はしっかりスイングに集中する。気が散ってるようじゃ怪我するぞ。そんなんじゃいつまで経ってもホームラン打てない」
「うん! じゃあ、今はこっちに集中する。だから、終わったら教えてね。意地悪なんかしちゃいやだよ」
その日、茄乃は暗くなる前にいつもの日課である素振り百本を済まし、カエルに『隣のクラスの子と仲よくなれる方法』を教えてもらった。
『あっ、なるほどねー』
カエルの助言に、ぽんっと手を打つ茄乃の感想が、それ。そうなった自分たちのことを想像し、思わず口元を緩めた。
2
九月二十二日、月曜日。
昼まで雨が降っていた。放課後には青空が雲の狭間に覗くこともあったが、まだ灰色の雲が空を覆っている。その影響で、愛名西小学校のグラウンド隅には赤い旗が置かれていた。赤い旗は『グラウンド使用禁止』を表すもの。ソフトボール部の練習は中止となった。
放課後。茄乃は帰宅してランドセルを机に放り投げると、冷蔵庫を開けて一リットルパックの牛乳を飲み、Tシャツとハーフパンツに着替える。庭にある犬小屋から体を乗り出し、ちぎれんばかりに尻尾を振る柴犬の『ちゃまろ』のリードを引いて、家を飛び出した。見上げた空に雨の心配もあったが、傘は置いていく。
学校から寄り道することなく帰ったため、通学路にはまだランドセルを背負った多くの児童の姿。
ちゃまろのちょこちょこっとした歩調に合わせて歩き……その背中を見つけた。瞬間、ぱぁーっと花咲くような気持ちに。
「おーい、
その目には、背中と赤いランドセルに挟まれる髪の毛が腰まで達した女の子が映る。今日は白いシャツと足首まである長いスカートを穿いていて、袖から出ている腕は透き通るぐらいの真っ白な肌。
「今帰りぃ?」
相手がランドセルを背負っているので、当たり前の質問を当たり前のようにしたが、気にしない。
足元にいるちゃまろは関心を示すように俯き加減の
「ごめんね、この前は。この子が横着しちゃったせいで迷惑かけちゃって。ほら、ちゃまろも謝るの。って、そんな器用じゃないか」
謝罪を促すようにリードをくいっと引っ張ってみたが、引っ張られたことに顔を上げて、茄乃の心情などお構いなく、実に嬉しそうに尻尾を振っている。
嘆息。
「ねぇ、爽ちゃんは犬好き?」
茄乃の身長は百四十センチ、クラスでも後ろから数えて五番目。に対し、隣にいる爽佳はクラスでも前から二番目と背が低く、並んでみると同級生というより下級生のよう。ましてや爽佳はいつも視線を下げて少し猫背であるため、余計小さく見える。
問いかけたことに相手からの返答はない。だが、構わず言葉をつなげていく。
「あたしは好きだよ。どうしても飼ってみたかったから、お父さんにおねだりしたんだ。テストで百点取って」
「…………」
「ちゃまろは、ほら、茶色い毛で、目の上に白い点みたいな眉毛っぽいのがあるでしょ? あれが昔の『麻呂でおじゃる』っていう人の眉毛に似てて」
麻呂眉。
「だから、『ちゃまろ』って名前にしたの。あたしが命名したんだよ。えっへん」
茶色い毛の麻呂眉みたいなのがある犬、ちゃまろ。
「かわいいでしょ? 散歩のときとご飯のときは吠えるけど、それ以外は全然吠えないの。ああ、別に賢いわけじゃないよ。知らない人見ても、通りかかった猫見ても全然吠えないから。この子、ちっとも番犬になりゃしない。飼い主として恥ずかしいよ」
「……ごめんなさい」
「んっ……? ど、どうして爽ちゃんが謝るの? 悪いのはちゃまろの方。こら、お前のことだよ、ちゃまろ。ちゃまろってば、聞いてる? ほらね、全然分かってない」
「……して……」
「んっ……? どうかした、爽ちゃん?」
『爽佳』という名前はすでに本人から教えてもらっている。『爽ちゃんと呼んでいい?』というのも、押し売りのように本人から了承を得た。相手が頷いたかどうかの僅かな首の動きを、都合よく許可してもらえたものとして。
「爽ちゃん?」
歩いている道は、二階建ての住宅が並んでいる住宅街で、乗用車が余裕を持って擦れ違える広さ。けれど、だからといって交通量が多いわけでなく、愛名西小学校の通学路に指定されていた。前の方にも赤いランドセルが二つ見え、後ろを振り返っても児童の姿が見える。前かごに買い物袋を入れた主婦の自転車が、すぐ横を通り過ぎていった。
視界には、大きな壁みたいな十階建てのマンションが見える。目的地である青願神社は、あのマンション前の公園内にあった。
「ちゃまろ、かわいくない?」。
「……どうして、話しかけて、くる、の?」
「どうして?」
目をぱちくりっ。茄乃は問われたことに、言葉が詰まった。ただ、返答が難しいからできなかったわけでない。当たり前のことを当たり前のようにしているだけで、説明するような言葉を持ち合わせていなかった。『なぜ人間は一日三食の食事をするのか?』と問われて、即答できないように。
「うむむ?」
問われたのだとすれば返答するしかない。どうして爽佳に話しかけているのか?
考えてみて、考えてみることで、そんなこと考えるまでもないことに思い当たる。ごく自然のことだから。難しく考えることなく、回答は単純明快でいい。
「だって、爽ちゃんともっと仲よくなりたいだもん」
それだけのこと。
これまで学校で話しかけても、あまり相手にしてもらえなかった。それでもめげずに話しかけ、無理矢理にでも名前を教えてもらい、『爽ちゃん』って呼ぶところまで漕ぎつけている。けれど、まだカエルから伝授された、『隣のクラスの子とより仲よくなれる方法』が実現できていない。なんとしてもそれを成し遂げるため、こうしてまた声をかけていく。
「ねぇねぇ、爽ちゃん、一緒にソフトボールやろうよ。絶対楽しいよ」
その誘い文句、これまで幾度となく爽佳に投げかけてきた。それこそがカエルから伝授された『隣のクラスの子でも仲よくなれる方法』である。
同級生といっても、小学校ではそれぞれの教室で独自の文化を形成しており、他のクラスの人間と関わり合うことが難しい。けれど、同じ部活に入れば、毎日練習で会うので、自然と顔を合わす回数が増える。当然その分親密になることができる。
「ソフトボールおもしろいよ。かっきーんっ! ってホームランだって打てるんだから。って、あたしはまだ打ったことないけど……けどけど、打ったことないから、打てるように特訓してるんだ。そうだ、一緒に特訓しようよ? あたしね、朝と夕方に特訓してるんだ。ねっ? 爽ちゃん、ちょっと特訓していこうよ? よーし、そうと決まれば出発だー」
言うが早いか、ちゃまろのリードを持っていない左手で爽佳の手を握り、公園内にある石段へ向かっていく。
(よかったー)
自然な流れで爽佳の手を握ったつもりだが、爽佳に拒否されるかもしれないという懸念があった。しかし、手を握っても相手から拒絶されることはない。ほっと胸を撫で下ろす。
その顔には、満面の笑みを浮かんでいた。
「ごめんなさい」
ごめんなさい。
「……わたし、は、駄目よ……まともに話すことも、できない、から……」
百段の石段の上にある青願神社。赤色の手摺りが特徴的な木造建ての社殿には、地面から一メートル高くなった床がある。そこに腰かけ、立てば腰まである長い髪の爽佳の口から、小さく途切れ途切れに言葉が紡がれていく。
「……おじいちゃん、死んじゃって……それで、ここ、引っ越して、きて……でも、うまく、喋ることができない、し……」
か細い声は、誰かの鼓膜を振動させる前に、この空間に溶けてしまいそう。けれど、爽佳としては懸命に、奥底にある思いを吐き出していく。
「……だから、駄目……もう、悲しいことが、いや、だから……」
「おじいちゃん死んじゃったの、悲しいよね。ショックだもん。それは爽ちゃんだけじゃなくて、みんなそうだと思うよ。あたしだって泣いちゃったもん」
茄乃は、いつも社殿の下に隠している銀色の金属バットを構え、腰を回転させてスイング。途切れ途切れとはいえ、打ち明けてくれる爽佳の実情に、少しだけ寂しい気持ちとなる。茄乃も祖父を亡くしているから、気持ちはよく分かった。
ここまで聞いた話によると、爽佳は一緒に暮らしていた祖父が他界し、祖母は施設に入所したため、愛名市に引っ越してきたという。であれば、右も左も知らない土地で、不安なのだろう。うまく笑えなかったり、話せなかったりすること、仕方ないと思う。思うも……けれど、学校ではそれが無視だとみんなに誤解されているのが現状。それはよくない。
茄乃にとって爽佳は、落ち込んでいた夏休みに立ち直るきっかけをくれた恩人。祖父の死で気持ちが沈んでいるなら、元気になってもらいたい。クラスメートに勘違いされているなら、誤解を解いてあげたい。そして一緒にソフトボールをしたい。
もっともっと仲よくなりたいから。
「ショックだったのは分かるけど、いつまでも元気がないのはよくないと思うよ」
後ろを振り返ると、社殿に腰かける爽佳の横にはちゃまろが丸くなって眠っている。その背中に手を置いている爽佳の位置は、普段ならカエルが座っている場所だが、今日は珍しく見当たらなかった。
意識して手に力を入れてスイングし、力を入れた分軌道がぶれたことに小さくぺろっと舌を出す。息を素早く吐き出し、肩を上下に動かして、余計な力が入らないようにリラックス。いつもの自然体でいることを意識し、どっしりと構えていく。
「悲しいことは仕方のないことかもしれないけど、でも、もっと元気出していこうよ。それだと、みんなだって爽ちゃんのこと誤解しちゃうし、それに、爽ちゃんがそんなんじゃ、お家にいるお父さんやお母さんだって心配しちゃうよ」
「…………」
「やっぱり元気なのが一番。悲しいことだってあるかもしれないけど、いつまでもそんなんじゃいけない」
「……もう、いい」
「んっ……? どうかした?」
「もういいよ……」
唇を噛みしめる爽佳。表情に影が差す。
「放って、おいて。あなたには、分からない」
「ど、どうしてそんなこというの? いやだよ。あたし、爽ちゃんともっと仲よくなりたいもん。そんなこと言うの、やめてほしい」
「…………」
下唇を噛みしめる爽佳。喉を鳴らして、小さく口を開けていく。
「……あなたに、わたしのこと、分からない」
「んっ? そりゃ、爽ちゃんのことはあんまり知らないけど、でも、そんなの言ってくれなきゃ分からないよ」
構えていたバットから力を抜く。
「さっきも言ったけど、あたし、爽ちゃんのこともっと知りたい。困ってることとか悩んでることがあるなら、打ち明けてほしいな」
「…………」
「爽ちゃん?」
「……知ったって、どうにも、ならない」
「そんなの、言ってくれなきゃ分からないよ」
口の堅い相手に、茄乃の感情が荒くなっていくのが分かる。このままではいけないので、一回分の呼吸を意識する。
すー、はー。
「あたし、爽ちゃんの力になりたいもん」
「……わたしが、元気ない、と、『お父さんとお母さんが心配する』って……そんなこと、ない……」
「どうしてどうして? 爽ちゃんが元気ないなら、お父さんもお母さんも心配するでしょ?」
「……ない、よ……」
「んっ? 爽ちゃん……?」
一瞬、茄乃は神社の空気に冷気を感じた。構えていたバットを地面に下ろす。
見つめる先……そこにはこれまでにない爽佳がいた。深く沈み込むように俯き、ちゃまろの背中から引っ込めた手で、両膝を抱えている。
そうして二人の間に、壁を作るよう。
その光景を見つめる茄乃の喉が、ごくりっと大きく鳴っていた。
「さ、爽ちゃん、どうしたの?」
「……いない」
いない。
「いない、の」
いない。そんなのいない。もういなくなってしまった。
みんなにとって当たり前の存在が、いない。
「……お父さん、お母さん、いない、から」
他界したから。
「……ごめんなさい」
「えっ……!? だ、だって、今の家って?」
まったく予期しなかった展開に、茄乃の頭が白濁される。置かれている現状にあたふたし、双眸の焦点があちこちに飛び交うばかり。自分がこうして存在する世界が、常識から外れる奇妙さを得た。
「い、一緒に暮らしてるんじゃないの?」
冷たい風が全身を駆け抜けていく。揺れる木々のざわめきが、茄乃の心を狭くて暗い場所に押し込めていくみたいに。
3
届けられた事実に、愕然とする。爽佳の両親がすでに他界しているという。瞬間、思想はこれまでに得た情報の疑問点に囚われた。
『爽佳は祖父の死、祖母の施設入所によって、やむを得ず愛名市に引っ越してきた』
考えてみればおかしな話である。祖父が他界して祖母が入所したとしても、両親とともに暮らしているなら、引っ越す必要なんかない。けれど、爽佳は『祖父の死』によって引っ越しを余儀なくされた。
意味するものは、『両親がおらず、祖父と祖母に育てられていた』ということ。
「……あの、爽ちゃん……」
「お父さん、と、お母さん、は……死んだ、から……」
爽佳の両親は、祖父が亡くなるもっと前に他界している。それも抗えなかった大きな悲劇によって。
「わたしには、お父さんも、お母さんも、いない、から……」
「…………」
「四年前の事故で、死んじゃった、から……」
とても弱々しいものでありながらも、その声には凍てつくような厳しさが含まれている。爽佳は亡き両親のことを考えると、壊れそうな意思をどうにか保つよう、両の拳が強く握る。今は震える声で、震える全身で、震える心で、爽佳はその場から動くことはない。とても不安定で危うい精神状態のまま、そうして存在していく。
「分からない、でしょ。お父さんと、お母さんが、いる、あなたには。こんなわたしの、気持ち、なんて」
「…………」
「もういないの」
「…………」
「いなくなっちゃったんだから……」
「…………」
自身の内側を吐き出し、倒れるように抱えていた膝に顔を埋める爽佳に対し、茄乃は何もできなかった。その弱々しい姿、なんとしても言葉を返さなければならない衝動に駆られるが、かける言葉が見つからない。
できたことといえば、ただそこで立ち尽くすのみ。
(…………)
知らないこととはいえ、あまりに不用意に立ち入った領域……罪悪感が募っていく。
爽佳の悲しみを呼び起こしたこと、茄乃には悔やんでも悔やみきれない。
(……駄目、だ)
頭では、現状をどうにか好転させようと思案するが、その一方で後退りしている。一歩、二歩。とても手に負えない。両親を亡くたという計り知れない重い悲しみに立ち向かっていくことができず、ここにあるすべてを投げ出して逃避したい。
(…………)
目の前の女の子は大きな悲痛を抱えていた。そんなことも知らず、気楽な気持ちで声をかけ、『仲よくなりたい』という名目で、執拗なまでに付きまとって。
両親が健在である茄乃には、この場を凍りつかせる爽佳の悲しみに対応できない。三年前に姉が交通事故に遭い、家族を失う恐怖を得た。目の前が真っ暗になり、全身の震えを抑えられなかったのである。姉が事故に遭っただけでああなったのだ、実際に家族が死んでしまったら、きっと心が壊れていただろう……そんな絶望に、目の前の女の子がある。
また後退り。爽佳をこの場に残して、顔には苦々しい笑みを浮かべながら、すぐにでも背中を向けて石段を駆け下りたい。
(…………)
視界には、ちゃまろの姿。こちらの心境も知らずに呑気に眠っている。置いていくわけにはいかず、飼い主の心情を察して駆けてきてくれればいいのだが……そんな意思の疎通はできない。
嘆息。
(ちゃまろちゃまろちゃまろちゃまろ)
心で強く念じると……通じたのか、ちゃまろの顔が小さく上がった。
(ちゃまろ!)
感動に似た思い。茄乃は手振りでこちらにくるように訴えるが……ちゃまろは小さく欠伸をして、また体に顔を埋めた。
(…………)
全身にずっしりと重たい疲れが伸しかかる。
小さく蹲る爽佳の姿を目に映す。寂しそうな姿。刹那、全身がびくりっ! と揺れた。
体が重い。
(……駄目だ)
駄目。こんなの駄目。
逃げちゃ駄目。
膝を抱える爽佳。そうしたのは誰でもない、茄乃である。過去の話を思い出させて、あのような姿にしてしまった。
であれば、そこから背を逸らすわけにはいかない。
(あたし……)
爽佳についてここまで深く踏み入っている以上、投げ出せるわけがない。そもそも茄乃は爽佳の友達になりたいと願っている。
(あたしが)
さっき、辛いことを打ち明けてくれた。学校のクラスメートでも担任の先生でもない、ここにいる茄乃に苦しみを晒してくれた。であれば、その相手を無視するようなこと、していいはずがない。
でなければ、友達になる資格なんてない。
(なんとかしなきゃ)
脇の下に流れていく冷たい汗、ごくりっと大きく喉が鳴ったことに戸惑いを得る。けれど、挫けそうな心にぐっと力を入れ、崩れそうな体を懸命に保っていく。
ずっと閉じられていた口……ゆっくりと開く。それこそが今の茄乃にできること。
「あ、あのね、爽ちゃん……その、爽ちゃんの気持ちも知らずに、その、無責任なこと言っちゃって、ごめんなさい」
ごめんなさい。今できる最初の一歩。心からの素直な気持ち。そんなことで許されるものでないかもしれないが、それがなければ次がない。
「でもね、あたしが爽ちゃんと友達になりたいのはほんとだよ。一緒にソフトボールやりたいし、お喋りだってたくさんしたいし」
「…………」
「せっかくこうして知り合えたんだもん、やっぱり楽しい方がいいよ。その、ほんとに無責任な言い方になっちゃうけど、天国のお父さんとお母さんも、きっと爽ちゃんが楽しそうにしてる方がいいと思ってるよ」
「……そんなの、誰にも、分からない。死んじゃってる、んだから。いい加減なこと、言わないで」
「そ、そうかもしれないけど……でもでも、死んじゃった人だって、爽ちゃんの幸せを願っているはずよ」
絶対に願っている。そういう存在を知っているから。
「だから、あたしは──」
「もういい!」
爽佳は声を荒げ、提示されるすべてを拒絶するように首を振る。振って振って振って振って、両手で耳を塞いでいった。
「わたしなんて……わたしなんて、一緒に死んだ方が、よかった。こんなに寂しい気持ち、なら、死んだ方が」
心に鉛のように重たい思いを得る爽佳。
両親と一緒に死んだ方がよかった、こんなにも苦しい思いをしなくて済んだから。生きているばかりに、辛い。
なんで生きているのだろう? 死んだ方がどれだけ楽だったか。
「わたしも一緒に死んだ方が、お父さんもお母さんも、よかったはず。そうよ、そうに決まってる。死んだ方がよかったんだ」
「…………」
「なんでよ!? なんでわたし生きてるの!? なんでわたしだけが生き残っちゃったの!? あの事故で、たくさん人が死んだのに。いっぱいいっぱい死んだのに……なのに、どうしてわたしだけが生き残っちゃったの!?」
唇を噛みしめ、そこに血が滲むことも気づかぬまま、口を半開きにしてこちらを見つめる茄乃を睨みつける。本人にその認識はないが、こういった感情の起伏は、ここ数年忘れていたこと。
「生きてても楽しいことなんてない。辛いことばっかり。だから、何度だって死のうとした。だって、生きてる意味ないもの。こんなに苦しい思いしなくちゃいけないなら、早く死んで楽になりたいよ」
だから、ずっと死にたかった。
そして、死ぬチャンスならいくらでもあった。高い場所から飛び下りてもいい、流れの速い川に飛び込んでもいいし、包丁で手首を切ってもいい。絶望の闇に呑み込まれ、生きていることに希望を見出せない爽佳にとって、それらは必然である。
死にたくて死にたくて死にたくて死にたくて……けれど、できなかった。
死ぬことができなかった。
死ねなかったから。
今はまだ。
「……自分の命なんてどうでもよかった。けど……けどね、わたしにはやらなくちゃいけないことがある。だから、まだ、死ねない……」
生に未練も執着もない。誰かが殺してくれるなら、喜んで身を捧げるだろう。ただ、死ぬ前にどうしても果たすべきことがある。それは自身の望みでなく、託された思い。それを成就させたいという思いが、死への最後の一歩を踏み留めていた。
「……でも、そんなこと、わたしには無理。絶対にできっこないことだから。こんなわたしじゃ、絶対に……」
「そ、そんなことないよ」
半端な慰めでは相手を傷つけてしまう。ここは黙って聞いている方が無難なのかもしれないが、茄乃は口を開けた。握った拳を震わせながら。
「やろうとすれば絶対できるはずよ。爽ちゃんがしたいことなら、諦めなければ絶対できる。あ、あたしだってね、ソフトボールでホームラン打ちたくて、毎日練習してて……そりゃ、まだ打つことはできてないけど、でも、できるって信じて練習してれば絶対打てるはずだもん。だからね、爽ちゃんも諦めちゃ駄目よ」
「無理よ……わたし、ホームランを、打つ、なんて、努力、できない……わたしじゃ、絶対に見つかりっこない……」
「爽ちゃんは見つけたいものがあるの? なら、見つけられるよ。諦めなければ見つかるはずだから。あたしなら絶対──」
とても深く暗い場所に沈み込んだ爽佳に、茄乃は『できる!』と声を荒げるはずだった。相手を励まして希望を持たせてあげるつもりだったが……心に生じた歯止めによって言葉が途切れる。
胸に鈍い痛みが走ったから。
『お姉ちゃん、あんなの絶対駄目。ホームラン打たないと。ホームラン。あたしなら、絶対逆転満塁ホームラン打つ』
それは三年前、姉の亜紀に向けて口にした茄乃の言葉。あまりにもいい加減で、相手を配慮することのない無責任な言葉。当時の茄乃としては激励するつもりだったが、結局それは落ち込んでいた姉の亜紀に追い打ちをかけるような、ひどく傷つけるものだった。
(…………)
爽佳に対して、伝える言葉が止まったのは、もしかしたら、あの繰り返しになることを恐れたからかもしれない。あの大罪を犯すことを回避するように、前に踏み出す勇気を失い、届けるはずだった言葉が失った。
また大切な人を傷つけ、自責の念に潰されるのはいやだから。
(……あたし、は)
止まった唇。紡げなくなった言葉。そうすることで、目の前の相手との関わりを絶つことになるが……首を強く振った。爽佳を放っておけない。仲よくなって、友達になりたい。
いつだって誰かを傷つけようなんて思わない。それは三年前も今も同じこと。ただ、茄乃に力がないだけ、発言した言霊を現実に興すだけの力が。それは今もホームランを打てない自分が証明している。
結局、茄乃では駄目。
することができない。
やることができない。
それだけの力がない。
所詮、口だけだから。
(…………)
目の前に、じっと膝を抱える爽佳がいる。茄乃はそれを助けてあげたい。爽佳は恩人であるし、目の前に悲しい思いを抱えている爽佳がいるなら、黙って見過ごせない……けど、触れるだけの力がない。
駄目。茄乃では駄目。
困っている相手と一緒になって足掻くことすらできない。
心身ともに未熟な存在であるから。
無知な子供であるから。
(…………)
覇気の低下とともに徐々に下がっていく視線。このままでは二度と顔を上げられずに、挫けてしまう。どうすることもできずに、諦めてしまう。直面した目の前のものから目を逸らし、逃げ出して。
できっこないから。
こんな自分では。
あまりにも荷が重い。
(…………)
地の底まで落ちていく思想は、深みにある漆黒の闇へと溶け、このまま呑み込まれて何もかもなくなってしまうだろう。光なく、心なく、状況に潰されるように、すべてをなかったことに。
そんなこと、茄乃は望まないが、状況が世界を闇色に塗りたくっていく。
このままでは。
もう二度と。
触れられない。
(……ぁ)
どうすることもできずに、どうなることもできずに、ただ闇に溶けていく思想……そこに一瞬の閃きが訪れた。とても小さな光だが、立ち止まることしかできない茄乃の心を大きく揺り動かす。
夏の日にもらった大切な言葉。
『やれないことはやれないけど、やれることがあるなら、やればいい』
試合に負けたことに落ち込んでいた茄乃に、目の前の爽佳がくれた大切な言葉。
それが今もこうして残っている。なら、挫けていい場面ではない。やれることはまだある。今度はこっちが助けてあげる番。
(……できる)
できるに決まっている。まだホームランは打てないが、でも、沈んでいた気持ちを立て直すことはできた。それを経験したなら、今度は自分がそれを与えてあげることだってできるはず。
できる!
(できるよ!)
助けてあげたい。
爽佳と友達になりたい。
例えそれが三年前みたいに無責任なものになっても、構いはしない。思いを込めた言葉をぶつけることで相手を傷つける結果になっても、構わない。茄乃は相手のためになりたいと懸命に願っているから。
だから。
だからこそ。
その口を動かしていく。
結果なんて、恐れることなく。
最大級の思いを込めて。
口にする。
「そんなことないよぉ!」
出た声。吐き出された言葉。茄乃の口から出たそれは随分と上擦ったもの。爽佳への励ましが含まれているし、迷っていた自身を吹っ切る意味合いも含まれている。
今の茄乃が言葉を口に出したこと、それこそが意義。
であれば、あとは全力投球のみ。
後先など考えることなく、正面から直球勝負で。
「できる。できるに決まってる。諦めなきゃ、いつか絶対できるよ。失敗したことに挫けたって、めげたって、しゅんとしたって、落ち込んだって、諦めなきゃ絶対できるよ。爽ちゃんがどんなことしようとしてるか分からないけど、でも、やればできるよ」
「……そんな根拠もない、いい加減なこと、言わないでほしい。そんなの、できっこない。できるわけがないから……」
「できる。できるよ。爽ちゃんは今、やろうとしないで逃げてるだけ。やればできる」
「できないよ……そんなの、できない……どんなに人がいると思ってるの!? そんなの見つけられっこない」
「見つかるよ! 見つけられてないってことは、爽ちゃんがまだそれを叶えていないだけだからぁ!」
迸る感情を示すように、ぎりぎりっ! 音が鳴るぐらい奥歯を強く噛みしめた。思いの強さに全身を強張らせる。
「あたしに教えてよ! 爽ちゃんは何を探してるっていうの! あたしなら絶対諦めたりしないから! だから、一緒に探そうよ!」
「……どうせ、言ったって、無駄だから」
「『どうせ』じゃない!」
「…………」
爽佳は、次々とぶつけられる言葉に、その迫力に気圧されるように上半身を後ろに引いた。立ち直すように呼吸を意識して、肩を上下させながらゆっくりと息を吐き出す……風に靡く髪の毛を気にしつつも、隣に置いてあるランドセルからそれを取り出す。
「……だったら、そこまで言うなら、これを、届けて」
爽佳が取り出したのは、折り畳まれた紙切れ。古いもので、今では茶色く変色して皺くちゃになっている。だがしかし、それこそが死を拒み、生きていく苦境に耐える理由。
「これ、わたしを助けてくれた人から、預かったもの。これを預けてくれた人のおかげで、わたしは助かったし、これのおかげで、わたしは、死ぬことが、できなかった」
それを受け取ったのは、両親を失うこととなった四年前の凄惨な事故。
あの日から、爽佳はその紙切れとともに命の灯を燃やしてきた。
思わず死を欲するほどの絶大な悲しみを抱きながらも。
刹那、脳裏には、凄絶な光景が通り過ぎていく。
あの地獄が。
※過去
鮎川爽佳は、もう何がなんだか分からなかった。就学することのない子供であるため、置かれている状況を把握する能力がなかっただけかもしれない。しかし、それは正確でなく、直面した事態があまりにも壮絶な現象で、非日常的であったために、突きつけられた生命の危機に呆然とする以外に術がなかった。
それは家族三人でいった旅行でのこと。
楽しみにしていた旅行は、二度と希望が持てない凄惨さに陥る。
父親は仕事の都合で家にいることが少なく、爽佳は何か月も前から予定していたこの旅行が楽しみで仕方なかった。お気に入りの赤いワンピースを着て、にこにこ顔が貼りついた表情はご機嫌そのもの。飛行機に乗るのははじめてだったが、座席に座って絵本を読んで、両親と一緒にいられることがとても楽しい……と、突然、座っていた場所が大きく揺れる。直後、周りにいる大人たちが騒ぎ出し、不穏な空気が空間を縛り上げていった。
機内を取り巻く雰囲気は、幼い爽佳にとって不気味なもので、胸を締めつけられる恐怖に呑み込まれていく。意味も分からず体が小刻みに震え、漠然とした巨大な恐れが足音を立てながら迫ってくる感覚。言い様のない心細さは、すぐ隣の席に母親がいるのに、まるで安心感を得られなかった。今はただ、唇を噛みしめて耐えることで精一杯。
ふと視線を逸らしてみると、母親が血の気をなくしていた。胸の前で忙しなく手を動かし、頻りに奥にいる父親に話しかけている。緊迫した雰囲気に、爽佳は現実から逃れるように瞼を下ろしていった。
怖い。小さな体は絶頂の恐怖に蝕まれ、置かれている現状をまったく把握できていない。緊迫感が爽佳の全身を狂わすように鼓動を強めていく。
ただ、そんな状況でも、爽佳は楽観的に考えていた。閉じている目をぱっと開けたとき、すべてが良好に向かっていると、淡い期待を抱いていたのである。一瞬にして悪夢から目覚めるように。仮に夢から覚めなかったとしても、きっと誰かが助けてくれる。テレビではいつも、そういった絶体絶命のときにヒーローが現れてくれたから。
(あぁ!)
がくんっ! 全体が大きく縦に揺れる激震に、爽佳は瞼を上げる。同時に小さな悲鳴を上げ、座席と座席の間に投げ出された。状況がろくに分からずに慌てたせいか、さきほどキャビンアテンダントに指示されたベルトを締められていなかったのだ。
床に強く右肩を打ちつける。激痛が走り、一気に涙が溢れてくる。胸には無数の黒々としたものが飛び交い、恐怖に震える精神状態が一線を越えた。堰を切ったかのように流れる涙とともに、幾度となく嗚咽が漏れていく。
床に横たわったまま、体も心も壊れたように、今は立ち上がることもできない。
泣きじゃくる爽佳は、パニック状態。恐怖が全身を雁字搦めに縛りつけ、横でこちらに手を伸ばしている母親の方に寄るどころか、手を伸ばすこともできなかった。
『もう駄目』
幼い爽佳には、いったい何が駄目なのか具体的に分からなかったが、それは思想以前にある心の奥底から溢れてきた言葉。
『このまま死んじゃうんだ』
諦め。絶望。死……。
(えっ……)
刹那、誰かに触れられる。大きな腕によって抱えられた。とても力強く、安息に包まれるように。
涙で滲む視界には、背広を着た見たことのない大人の男性がすぐ目の前にいた。見知らぬ人に抱きしめられている現状、一瞬状況を忘れてぽかーんっと口を開けてしまう。どうすればいいか判断できず、その人の胸でぎゅっと小さく身を縮めるのみ。
と、次の瞬間、抱えてくれている人から、何かを預けられた。どういったものなのか分からないが、爽佳はこくこくっと頷いて、渡されたものを強く握りしめる。拳にすっぽり入る小さなもので、重さはほとんど感じなかった。
刹那! 機内に急激な変化!? まるでプールの底から水面に出るみたいに、全身が浮き上がる錯覚を得たのだ。同時に、耳が聞こえなくなる。周りにある空気が、きーんっ! と頭を強く圧迫しており、苦しくて、痛くて、恐ろしくて、爽佳はまた目を閉じた。
そしてそのまま、爽佳は世の中から強制的に除外されるように、意識を失う。張り詰めた糸が切れるようにして……。
世界中のあらゆる恐怖が目の前を駆け抜けていく凄惨な衝撃、それが小さな体を突き抜けていった……意識すると、鉄が焼けるような不快な匂い。ぴくりっと痙攣した肩に覚醒が促され、ゆっくりと瞼を開けると……窓から入る僅かな光が赤いという認識を得た。しかし、その色は深い霧に包まれているような、とてもぼんやりとしたもの。まだ本当の意味では覚醒できていないのかもしれない。
爽佳は男性に抱えられているため、動くことができず、それ以前に全身が麻痺したみたいに感覚が希薄だった。
できることといえば、その場に存在することのみ。
周辺の空気はとても煙っぽく淀んでいて、薄暗い空間に『うう……』とか『ああ……』とか、苦しそうな呻き声が聞こえるが、爽佳はそれすらもすることができない。ぐったりと地の底に沈んでいて、体に力が入らなかった。
『……さわ、か』
意識がぴくりっと反応する。届けられた母親の声に、閉じられていた視界が僅かに開かれた。しかし、正常な視覚が回復することなく、双眸に霞がかかっているよう。
『さわか……』
また母親の声。そんなものあってないような弱々しいもの。すぐ近くに聞こえているはずなのに、今はとても遠くに感じる。
(わたしは、ここ。ここだよ。ここにいるよ)
強く念じても、爽佳の思いが言霊になることはない。伸ばしたい手を動かすこともできずに、全身から抜けていく力とともに、意識は刈り取られていった。
爽佳にとって、世界はとても暗いものだった。寝る前に照明を消した直後のような、周囲のすべてが漆黒の闇の閉ざされている……だがしかし、真っ暗な場所に、小さな光が生まれた。そう意識できた直後には、大勢の声。ただ爽佳には理解できない言語であり、そう思ったとき、自分が旅行のために海外へ向かう飛行機に乗っていたことを思い出す。
華本航空五十二便に。
異国の病院。
病室での生活は、無気力に日々を過ごしていく。異国の地で、周囲に知っている人間は皆無。知らない場所で知らない大人に知らない言葉で次々に話しかけられ、戸惑うばかり。感情を伝えられず、要件を告げられず、どこにも安心感を得られない。できないできないできないできない。ただただ大きな不安を胸に、横たわるベッドで膝を抱えるのみ。
数日後、祖父が駆けつけてくれた。暫く会っていなかったせいか、髪は白く、顔の皺が随分増えたような気がする。だから、最初は本人かどうか首を傾げたのだが……ともあれ、知っている人の顔を見ることができ、心がほっと休まった。こんな気持ちになれたこと、奇跡的なことかもしれない。
ただ、わざわざ異国までやって来てくれた祖父には申し訳ないが、今は離れ離れになった両親の顔が見たかった。現状は心細く、一人でいると心が砕けてしまいそう。一刻も早く両親と再会したい。それだけが絶望の淵に立つ爽佳の希望だった。
それが叶ったのは、三日後のこと。
ようやく顔を見ることができた両親……両親は、いつものように爽佳に微笑みかけてくれることはない。頭を撫でてくれることもなく、話しかけてくれることもなく、横たわったまま瞼を上げてくれることもない。両親が両親でなくなり、黄色く変色した顔で静かに眠っている。腹の上で手を組んだ状態で、呼吸すらすることなく。
安置所の毛布の上、両親の命が消えていた。
死。
大勢の死体と横並びで再会した両親を目の当たりに、悲しい思いよりも先に、世界から見捨てられる絶望を得る。
瞬間、もう自分はここに生きていてはいけないと思った。
ショックは、存在を形成している根底部分をずたずたに引き裂き、暴力的に破壊してしまう……もはや修復することなど、不可能。
一生このまま、絶望の闇から抜け出せず、人生の幕を下ろすのだろう。
両親の死。すっかり放心状態の爽佳は、気がつくと日本に帰国していた。祖父母の家で暮らすこととなり、膝を抱える毎日を送ることとなる。
祖父母がどれだけやさしく接してくれたところで、心はずっと曇ったまま。来年就学を控えた同級生は、外で元気に走り回っているのに、太陽の下に出ることすらなく、心をどこかに置き忘れたみたいに惚けていた。
『これはすべて夢』と現実から逃避するように。夜になって布団に入り、次に目覚めたら、当たり前のように父親と母親がいて、これまで通り三人で暮らせるものだと信じていた……しかし、どれだけ朝を迎えたところで、状況が変わることはない。いつまで経っても悪夢から覚めることなく、両親は現れてくれなかった。
もう両親と一緒に動物園にいくことができない。母親のハンバーグを食べることができず、父親と一緒にお風呂に入って頭を洗ってもらうことができない。髪の毛を切ってもらうことも、同じ布団で眠ることも、テレビを観ることも買い物にいくこともカラオケにいくこともプールにいくことも、すべてできなくなった。
できないできないできないできない。両親と何かをすることができない。
死んでしまったから。
もうこの世に存在しないから。
それが『死』というものだった。
祖父母の家は山間の田舎にある。友達どころか知り合いもいない。保育園に通おうにも車で一時間かかる。仮に交通の便が解消されたところで、ショックから立ち直ることのできない爽佳では、通うような心境にならなかっただろう。
何もできないまま、何もしようとしないまま、願いも希望もなく、季節はあっという間に過ぎていく……いよいよ春を迎えた。爽佳は就学する。
入学式。普段着ることのないブラウスにジャケット、胸には赤いリボン、赤茶のチェックスカートを着た。腰までの長い髪を縛ることなく、家を出た足取りはとても重たい。登校というよりは、祖母の後ろをついて歩いていくだけ。他のみんなは新しい環境に胸躍らせながら、母親と一緒に手をつないで登校し、校門の前で記念写真を撮っている。爽佳も撮ってもらったが、笑顔を浮かべることはできなかった。以前はカメラの前でポーズをとるのがとても楽しかったのに。
周囲を見渡すと、どの親子も明るい笑顔で満たされている。そんな笑顔で溢れた会場で、爽佳は一切笑うことができず、終始俯いたまま入学式を終えた。
小学校に通う生活がはじまる。祖父母の家に引っ越してきた秋以来、ずっと家に籠っていたため、肌はすっかり白くなり、体力的にも同級生のように外を走り回る元気もない。けれど、爽佳は休むことなく小学校に通った。休まずに通わないといけない気がして、毎日気力を振り絞っていたのである。自分にやさしい声をかけてくれる祖父母の姿が、爽佳の心の奥底にある大切な場所を強く刺激するようで、そんな祖父母に心配をかけるわけにはいかない。晴れることのない心の痛みに屈しないよう、浮かない気持ちを押し殺して小学校に通う。無理してその身に鞭打って。
友達を作ることはできなかった。クラスメートが話しかけてくれたが、こちらに向けられる笑顔があまりにも眩しく、顔を逸らすばかり。飛行機事故のショックに心が閉ざされ、半年以上覇気なく過ごした爽佳にとって、向けられるものと同じ笑顔を作ることは不可能。愛想がないというより、愛想を作ることができないのである。話しかけてきてくれる相手に困惑し、ただ俯きながらすべてにうまく接することができずにいたら、いつの間にか話しかけてきてくれるクラスメートが皆無となった。
笑い声が響く教室で、いつも一人。
やることといえば、図書室で借りてきた本を読むこと。本はよく母親と一緒に読んでいたから、小学校一年生とはいえ、漢字が少ないのであれば読むことができた。けれど、母親と一緒に読んでいたときみたいに、楽しくはない。
教室で取り出した本の文章を読み進めていき、文字を追って、ページを捲って、そうして最終ページを迎える。それはさながら、目で字を追う作業を強いられたみたいに……その影響もあり、同じ要領で授業中は教科書を読んでいたため、成績はよかった。テストではいつも満点近い点数を取れたのである。その点について、先生と祖父母に褒められたこと、胸のどこかが疼くものもあったが、うまく表現できなかった。
両親を亡くすという、断じて乗り越えられないショックを抱えたまま、無気力な日々はあまりに淡々と過ぎ去っていく……クラスメートは遠足や運動会といった行事に一喜一憂しているが、クラスメートがそうやって騒いでいればいるほど、心は重々しさを増すばかり。きっと自分も一緒になって騒ぐことができれば楽しいのだろうが、誰にも合わせられない。担任の先生によくそのことを注意されたが、思いをうまく言葉にすることができなかった。注意されたことに頷きはするものの、頷いたところで実行に移せない。きっと感情の揺れ幅が他の子供よりも小さいのだろう……ただし、悲しみの感情だけは誰よりも深い。だからこそ、その深みから抜け出せず、他の感情に揺れることがないに違いない。
両親を失って塞ぎ込む状態は、仕方がないことだと自身に言い聞かせ、状態を改善させることなく、他者への対応策として、
『ごめんなさい』
その言葉がとても有効なものだと学習した。注意されたとき、クラスメートに何かを言われたとき、その言葉さえ口にすればだいたい無難にやり過ごすことができた。
相手に対し、自分が何を苛立たせているのか分からない。どういった悪いことをしたのか分からない。けれど、相手は怒っている。なら、『ごめんなさい』の一言で、いつもその場は丸く収まる。とても便利な言葉。
『ごめんなさい』
いつだってその言葉を俯きながら口にすればいい。場が収まり、また一日が過ぎていく。それこそが爽佳の日常であり、すべてであった。飛行機事故に遭うまではあれほど世界が輝いていたのに、たくさんの楽しいことに囲まれていたのに、悔しいことに力いっぱい地団駄を踏んでいたのに……それらはもうない。なくなってしまった。
『ごめんなさい』
生きていて、ごめんなさい。
こんな自分で、ごめんなさい。
あの事故で唯一生き残って、ごめんなさい。
『ごめんなさい』
爽佳は自分について、『本当はあの事故で死んだのかもしれない』と思った。抜け殻の状態で、中身はもうこの世から消滅している方が現状を正確に表している気がしたから。
だからかもしれない、存在していることに常に不安を感じるのは。
生まれてきたこと、後悔したくなる。
すべてに挫けてしまっているから。
すべてを諦めてしまっているから。
ただ……ただ、そんな爽佳でも、生きていくことに執着をなくした爽佳にも、一つだけ気がかりがあった。それが飛行機事故以来、爽佳の心をずっと縛りつけている。
それは、いつもランドセルに入れている紙切れについて。今ではすっかり茶色く変色し、一度水に浸ったことでしわくちゃになっているものの、ずっと手放すことができない。
飛行機事故のときにあの人から預かった紙切れ。気を失っている間も、中国で検査を受けているときも、ベッドで眠っているときも、ずっとずっと握りしめていた。それを握りしめることで、あの事故から唯一生き残ることができたのかもしれない。
できることなら、この紙切れの意義を成し遂げてあげたかった。この世のどこかに、この紙切れを待っている人がいる。いつかその人に巡り合い、手渡すために爽佳は生かされているのかもしれない。
でなければ、両親を失った絶望の果てに、命をとっくに投げ捨てていたから。
季節が巡り、気がつくと小学四年生。その年、爽佳を取り巻く環境が大きく変わる。またしても、望みはしないのに。
春、洗面台の前で祖父が倒れた。救急車で病院に搬送され、そのまま入院。詳しい症状について爽佳は知らされなかったが、祖父はみるみると痩せ細っていく……最初はベッドに体を起こしてお喋りしていたのに、口数が時間とともに減っていく。暫くすると、ベッドで上半身を起こすこともできなくなった。
夏を前にして鼻に管を通されて、生きているというより、ベッドを取り囲む医療機器に命をつながれていく。自身では呼吸もままならない状態が数週間つづき……夏の終わりを迎えることなく、祖父は他界した。
大切な人を失うことなど、四年前の飛行機事故でいやというほど思い知ったのに、祖父の死は再び爽佳を闇のどん底へ突き落とす。
さらには、祖父の看病で祖母が腰を悪くし、日常生活に支障をきたした。親戚の意向もあり、祖父の死を契機に祖母は養護老人ホームに入所することが決まったのである。
こうして四年前から祖父母の家に暮らしていた爽佳は、夏の終わりを前にして、太平洋側に面する愛名市に引っ越すこととなった。伯父と伯母の元に引き取られて。
引っ越し先の伯父と伯母には高校生の息子がいるが、北海道にある全寮制の学校に通っているため、伯父と伯母と爽佳の三人暮らしがはじまった。それが八月下旬のこと。
祖父の死に爽佳の心を凍りつかせ、気分がとても深い場所まで沈む。それが四年前の両親を亡くした悲しみを蘇らせ、生気をなくした。どれだけ伯父と伯母にやさしく接してもらったところで、返事するどころか、上手に反応することもできない。伯父と伯母は、これから自立するまでの長い間ずっと育ててもらう相手なのに、希薄な反応しかできない自分は、きっとかわいくないに違いない。そう自覚することはできるが、だからといって打開策は浮かばない。駄目な自分をいつまでも返上できず、塞ぎ込む日々。
一度、そんな日常から逃げ出したくなって、家出を試みた。朝早く起きて家を出て……その途中で逢った女の子との会話で思い留まり、家に引き返したのである。
強烈な暑さを有した八月が足早に過ぎていき、九月となる。小学校では二学期が開始された。愛名西小学校に転校し、三年前に祖父に買ってもらった赤いランドセルを背に、俯きながら新たな校門を潜る。そうして新生活をはじめたが……やはりここでもうまく友達を作れなかった。
興味を持って話しかけてくれるクラスメートは何人かいたが、せめて愛想笑いぐらいできればよかっただろうに、前の学校と同じように戸惑いながら、視線を落とすばかり。
新しい環境、新しい学校で、また独りぼっち。けれど、決して寂しいことではない。前の学校でもそうだったし、すぐに当たり前になる。それに関しては、何の不安もなく受け入れることができた。
所詮爽佳では、学校生活に、これからの未来に対して、一切の希望を見出すことができないのだから。
そうしてまた新しい学校でも、決して拭うことのできない深い悲しみと、当然のように迎え入れることとなる孤独をその身に宿す、はずだった。
変わることなく、孤独に身を置くはずだったのに……しかし、風向きが変わる。それは相楽茄乃という女の子に出逢うことによって。
茄乃は『ごめんなさい』という言葉が通用しない相手。
そればかりか、突如として目の前に現れ、ずっと停滞して動くことのない爽佳の気持ちを揺り動かす力があった。
その存在、爽佳には眩いばかり。
何の飾り気もない灰色だった爽佳の世界に、新たな色が生まれようとしていた。
愛名西小学校に転校する前のこと……夏の終わりを目前に、伯父と伯母の元にいることが窮屈となり、家出を覚悟して朝早く出た。その際に出逢うことができた女の子、それが相楽茄乃。あの子のおかげで、少しだけ風向きを変えることができたと思う。溢れる元気を分けてもらえたのかもしれない。少なくとも、あの日は伯父と伯母の家に帰ることができた。でなければ、現実から逃げようとしていたから。向かう先は、死。
伯父と伯母のやさしさが、とても重たい。しかし、何かを頑張ろうとしていた茄乃の存在に、自分が置かれる状況を受け入れる勇気が持てた。
4
「飛行機事故……!?」
青願神社の境内。茄乃は手渡された茶色い紙切れを目に、さらには目の前にいる『鮎川爽佳』という存在の巡り合わせに、目を見開いては驚きを隠し切れない。
「えっ、えっ、あの事故の唯一生き残ったのってぇ!?」
華本航空五十二便墜落事故が起きたとき、茄乃はまだ幼稚園に通っており、それほど関心を持てなかった。だから、テレビでも雑誌でも大きなニュースになっていることを記憶していない。大人たちが騒いでいることで、自分の生活とは無縁だったから……だが、その事故については翌年知ることとなる。この神社を訪れ、カエルに出逢うことによって。
「あれって、爽ちゃんのことだったんだぁ!」
畳まれた茶色い紙。少し力を入れただけでも破れてしまいそう。慎重に開いていき……そこに滲む文字を目に、ここに込められた意味を知る。
誰が誰に残した思いであるかを。
「……できる」
できる。思いを遂げることができる。
現に、ここに一つの偶然が起きている。
奇跡がある。
なら、彷徨う運命を結ぶことぐらい、できないわけがない。
「できるよ。あたしが責任持って爽ちゃんの願いを叶えてあげる!」
「……気休めでも、いい加減なこと、言わないで、ほしい……できるわけ、ない。その紙の意味も、分からない、くせに」
「そんなのことない! できる! できるよ!」
不安も迷いも一切含まれない真っ直ぐな言葉。そう強く言い切れるだけの自信がある。
力なく俯く爽佳をじっと見つめ、もう二度とそこから逸らすことなく視線を固定させたまま、この奇妙なつながりをしっかりと束ねていく。
それこそが、茄乃がこの地にいる使命であるように。
そうすることをできるのだが、茄乃であるから。
「爽ちゃんができないって思うなら、あたしがなんとしても叶えてみせるよ。だから」
だから。
「もう二度と、死ぬなんて悲しいこと言わないでほしい」
今後、悲しいことは一切考えず、しっかり前を向いて生きてほしい。ここにちゃんと生きているのだから。
天国にいる両親のためにも。
その命を救ってくれた人のためにも。
「約束して。この紙をちゃんと届けることができたら、絶対に自分が死のうなんて考えないで。でもってでもって、あたしと一緒にソフトボールしてくれると嬉しいな」
「……そんな、できるわけ、ない」
「できるよ! だって、あたしは諦めないからぁ!」
言葉には確かな強さがある。曲がることのない思い。茄乃が全霊をぶつける意義がある。
爽佳を救ってあげたい。
そして友達になりたい。
それを叶えるために、自分の全力をぶつける覚悟がある。
なんとしても叶えてみせる。
できるから、やる。できることがあるから、やる。自分にはそれをすることができる。だから、やってみせる。そう教えてくれた爽佳のために。
「約束したからね!」
満面の笑みを浮かべる茄乃は、手にした紙切れを破らないように丁寧に折り畳み、爽佳に返した。
ふと見上げた空は、夕日が西の空に沈もうとしている。暗くなってきた青願神社の境内に、外灯の淡い光がここにある空間を照らしていた。
ここにいる二人を、そこにしっかり存在させるように。
秋の風は、周囲にある銀杏の木を騒がしくさせる。止まっているものなど、この世に存在しないように。
※過去
八月十日、日曜日。
今日も朝から三十度を超える大気が世界を覆い尽くした。不快指数の針がレッドゾーンを振り切れ、今日も今日とて猛烈に蒸し暑い一日。
朝には少し雲が出たが、昼過ぎにはすっかりなくなり、青空に浮かぶ太陽からは強烈な日差しが愛名市を焼きつけんばかりに照らしつける。今日も多くの人が日射病で倒れ、病院に運ばれることだろう。
太平洋側に面した愛名市。北区には東西に流れる
そんな庄乃川の河川敷に北区営グラウンドがあり、休日には草野球や少年野球の試合が行われている。しかし、本日は普段と少しだけ毛色の違う試合が行われていた。
愛名市少女ソフトボール大会決勝戦。
大きな声を張り上げる女の子が、炎天下をもろともせずにグラウンドを躍動する。ここまで勝ち上がってきた愛名西小学校と愛名東小学校の一戦は初回から乱打戦となり、最終回を迎えて七対八と愛名西小学校は一点ビハインド。
先頭バッターがフォアボールで出塁し、次のバッターの送りバントは、ダブルプレーを焦ったピッチャーの野選でノーアウトランナー一塁、二塁。次のバッターが確実に送りバントを決めてワンアウト二塁、三塁。これで同点のランナーが三塁、逆転のランナーが二塁という一打逆転の大チャンス。バットにボールが当たるのとともにランナーがスタートを切れば、内野ゴロでも同点である。
愛名西小学校ソフトボール部は、そんなビッグチャンスを迎えたのに、残念ながら今日ノーヒットの四番松井が空振り三振。ツーアウト二塁、三塁。五番バッターは敬遠となり、ツーアウト満塁。そしてバッターボックスに、四年生で唯一試合に出場している相楽茄乃が立つ。
ツーアウト満塁。一打逆転の大チャンス。と同時に、凡打となればそこで試合終了。最終局面であり、試合を大きく左右する大事な打席。
茄乃はこの大会、初戦は代打要員だった。一回戦、二回戦ともに代打でヒットを放ち、バッティングが買われて三回戦から六年生の先輩を退けて六番ライトとして先発出場を果たす。選ばれたからには常に全力プレーで挑み、チームの勝利に貢献する意気込み。今日の決勝戦もここまで二安打と好調をキープしていた。
この大事な場面、ヒットが出れば、チームの勝利に大きく貢献。天下分け目の一打席。胸に『愛名西』と書かれた紺色のユニホームに身を包んだ茄乃は、バッターボックスでピッチャーを睨みつけるように見つめて、金属バットを握る手に力を込めた。
視線の先、白地に赤い線のあるユニホーム姿のピッチャーが、キャッチャーとサインの交換をし、前傾になりながら動作を開始直後に素早くステップ。上半身を移動させながら右腕を小さく回転させてボールを放つ。
投じられたボールに対し、茄乃は構えたバットを動かすことなく見送ると、外角に外れた。ワンボール。
今日の試合、勝っても負けても六年生は最後の試合となる。通常なら最終回のこの打席、引退する六年生に役目を譲るところだが、監督から重要なこの場面を託されていた。であれば、絶対にヒットを打って逆転し、優勝して先輩を送り出してあげたい。強い思いが浮き足立つように緊張を増長させ、バットを握る手に余分な力が入る。
投じられた二球目も外角に外れ、ボール。三球目は内角いっぱいに決まり、ストライク。四球目は茄乃が仰け反らなければならないぐらい内側に食い込んできて、ボール。
(……逆転もいいけど、ここはまず同点にしちゃくっちゃ)
これでスリーボール。満塁である以上、頭では押し出しの一点が過る。ピッチャーのコントロールは前の回から乱れているので、このまま待っていれば押し出しの一点が入る確率が極めて高い。
茄乃は、打てるかどうかも分からないヒットより、確実に同点にすることが先決だと考えた。そうすることで、この回での負けはなくなる。
五球目は外角高めとなり、茄乃にはかなり遠くに感じた。これで同点になるとバットを置こうとしたが……ワンテンポ遅れて主審の右手は上がる。ストライク。
フルカウント。
(…………)
依然押し出しのチャンス。けれど、ツーストライクと追い込まれた……瞬間、全身におかしな感覚が芽生える。
バッターボックスに入るまでは、『なんとしても自分が決めてやる!』と意気込んでいたのに、今はおどおどと足が地に着いていないみたいで、まともにバットを握れていない錯覚を得た。毎日神社にいってカエルの指導の下、欠かさずに素振りをしているのに、いつも気にかけている自然体というものが分からなくなった。
大事な局面でバッターボックスに立つのは、普段とはかけ離れたバッター茄乃。ろくにピッチャーの投げるボールを見えず、不安定な心で胸の鼓動が大きく乱れていく。
どくどくどくどくどくどくどくどくっ!
最終回のツーアウト。茄乃がアウトになれば、試合終了。同時に、六年生は引退。せっかく勝ち上がることができた決勝戦で、一点差の惜敗なんて……そんなの許されない。勝って、笑顔で先輩を送り出さなければ。
どくどくどくどくどくどくどくどくっ!
茄乃は三年前から青願神社に通い、カエルにバットスイングを指導してもらっている。あの頃目標としていたホームランはまだ打てていないが、それでも毎日つづけてきたスイングは体に染み込んでいる。ならば、ちょっとやそっとの緊張ぐらいで乱れるはずがない。そのはずがないのに。
どくどくどくどくどくどくどくどくっ!
もうすぐ太陽が西の空へと傾こうとする時間帯だが、まだまだ日差しは殺人的に強い。グラウンドは焼けるようで、マウンド付近には陽炎のように空気が揺らめいている。ヘルメットから伝わる汗は、次々と首筋へ流れていった。ただ、極限状態による緊張のために、ユニホームの下では冷たい汗が脇の下をつつぅーっと垂れていく。
(…………)
視界にいるピッチャー、前傾姿勢から投球動作へ。胸を張って右腕を一回させてからボールを放つ。
放たれた白球を目にした瞬間、茄乃は『低い!』と判断した。これで押し出しとなり、同点になる。当然、構えるバットが動くことはなかった。
ボールは地面から数十センチの高さを向かってきて、足元を通過。その際、茄乃には急激に浮き上がってくる驚異を得た。けれど、見送ると決めた茄乃ではどうにもできない。
この場面、セオリーなら、低いと感じたとしても、カットしにいくべきだろう。普段の茄乃であれば、そうしたはずである。しかし、ここにいる茄乃は、茄乃であって普段の茄乃でない……見送った。頭では『これで押し出しの一点が入る。同点だ』と決めつけて。
白球は乾いた音とともにキャッチャーミットに収まっていく。その刹那、勢いよく主審の右腕が上がた。
ストライク!
見逃し三振。
スリーアウト。
ゲームセット。
七対八。愛名西小学校の惜敗。
(そんな……)
置かれた現実、愕然とするしかない。低く外れているとしか思えなかったのに、ストライクコールされるなんて。
まさかこんなことで、試合が終わろうとは。
(あたし……)
これで、六年生の引退となる……出た結果に、頭が真っ白。呆然と立ち尽くすのみ……チームメートが声をかけてきた。焦点の合わない目で機械的に頷き、わけが分からないままに整列。
試合終了。
試合後、グラウンドでは表彰式が行われた。敗退したとはいえ、市大会準優勝。賞状を手に、六年生のキャプテンは笑顔を浮かべたが……けれど、チームの目標はあくまでも優勝。ソフトボール部として、有終の美で六年生を送り出すはずだった。なのに、敗戦。すべては、最後の打席で茄乃が三振したから。それもバットを振ることなく。
霞がかかるようなぼんやりとする頭で事実を受け入れると、その脳裏に響く言葉がある。
『なんであんな三振しちゃったの? 逆転のチャンスだったのに。あたしだったら、あんなこと絶対しないよ』
『お姉ちゃん、あんなの絶対駄目なんだからね。ちゃんと分かってるの!? ホームラン打たないと。ホームラン。あたしなら、絶対逆転満塁ホームラン打つからね』
『なんだよなんだよ!? あたしなら、絶対ホームランだよ。あんな情けないの、絶対やんないんだから』
三年前に見逃し三振で試合終了となった姉に対して、茄乃がぶつけた言葉。ありありと蘇り、言葉が心の中を激しく反響する。まるで体内を蝕むよう。今はナイフで刺されるような激しい痛みが胸に走り、呼吸が苦しく、じっと俯くことしかできない。
(…………)
ホームランなんて、打てなかった。
そればかりか、見逃し三振をした。
こんなはずではなかったのに。
茄乃では打つことができなかった。
盆休みを挟んでソフトボール部の練習が再開されたのは、八月も残り一週間となる頃。気温はなかなか下がることなく、猛暑は九月になってもつづきそうである。
ソフトボール部には六年生がいなくなり、五年生と四年生となった少し寂しいグラウンドで……茄乃はまったくもって練習に身が入らなかった。簡単なゴロをエラーしてしまい、慌てて投げたのが悪送球。バットスイングも精彩がなく、顧問の先生に注意されるも、どうにも改善することができない。
もし茄乃が『スランプ』という言葉を知っていたなら、きっとそう評して練習を休んだだろう。それぐらい集中力を欠いていた。それは練習だけでなく、日常生活にも及び、ご飯を食べていてもテレビを観ていても、どこかぼぉーっとして、風呂に二時間も入って母親に心配された……輝きがすっかり消え失せ、自分というものを見失っていた。
原因は明確である。すべては最後の打席で見逃し三振をしたから。いつまでも引きずって……いや、試合に負けたこともそうだし、見逃し三振したことも要因だが、どん底を這うような不調の根底部分にあるのは、三年前に茄乃が姉の亜紀にぶつけた言葉。
『あたしなら、絶対逆転満塁ホームラン打つからね』
目を閉じると、瞼の裏には三年前の茄乃がいる。小さな茄乃から鈍い矢を次々と放たれ、躱すことが許されずに、正面から受けつづけることに。撃たれて撃たれて撃たれて撃たれて……いつしか自身を保てずに、その場に膝から崩れていく。力なく地面に横たえ、ろくに立ち上がることもできなくなった。
今考えれば、疑問でしかない。
『三年前の自分は、三振した相手に、なぜあんなにもひどいことが言えたのか!?』
過去の行いが大きなしこりとなり、体を拘束するように縛りつける。言葉は呪いとなり、少しずつ日常生活から覇気が失われた。
朝夕の青願神社でのトレーニングでも、やはり駄目。集中力がなく、やる気が出ない。カエルに発破をかけられるが、深く沈んだ気持ちが元通りになることはなかった。
カエルに呆れられ、無期限でバットを握ることを禁じられた。怪我をするといけないから、と。
茄乃はそれからの日々を筋力トレーニングに費やしていく……だが、それも上の空。
現状は、水を溜める樽の穴が空いたみたい。どれだけ注いだところで、その意味を成すことができなかった。
絶不調。
夏休み終盤。朝。茄乃にとって、とても深かった霧が晴れる希望の日。
三年前からの習慣で茄乃は毎日六時に起きる。もはや目覚まし時計を必要とせず、からくり人形の仕組まれた糸や歯車のよう、体内に午前六時に目が覚めることが習慣として組み込まれていた
パジャマから着替えたTシャツとハーフパンツ姿で、去年から飼っている柴犬の『ちゃまろ』のリードを引き、青願神社を目指す。
(…………)
試合に負けた日以来、意識がずっと沈んでいた。もう半月間もその状態にあり、深刻である。テレビを観ていてもランニングをしていても、意識はここでない遠い場所に置いてきたみたい。焦点の合わない目でぼぉーっとすることが多く、歩いているとよく車にクラクションを鳴らされた。信号が青になってもずっと立ち止まっていたりして……あの日のショックが大きくて、心に刺さる三年前の自分の言葉があまりに鋭くて、どうにも克服することができずに存在そのものが注意散漫となっている。
だからこそ、朝で散歩でちゃまろの手綱もしっかり掴むことができなかった。
それが今後の運命を変える。
『きゃっ』
近くで小さな悲鳴が。反射的に顔を向けると、ちゃまろが後ろ足で立ち、白色のワンピースを着た女の子の膝に襲いかかるようにしがみついているではないか!?
慌てて駆け寄り、両腕でちゃまろを抱える。
「ごめんね、大丈夫?」
かけた声に、目を大きくした髪の長い女の子が小さく頷いたこと、ほっと胸で撫で下ろす。どうやら怪我はなさそうで、本当によかった。
「ほんとにごめんね。ごめんなさい。なんか、最近、ぼぉーっとしちゃって……駄目だね、あたし」
リードを緩めた言い訳でないが、けれど、茄乃の口からは自然と言葉が零れる。
「ほんとにさ、最近のあたし、どうしちゃったんだろ……」
目の前の女の子は腰まである真っ直ぐな髪が印象的だった。盆を過ぎてもまだ日差しは強いのに、肌は透き通るぐらい白い。女の子のこと、これまで見かけたことはなかった。
だからかもしれない。茄乃の知らない子だからこそ、その口から零れ落ちるものがあった。知っている者では、弱音を曝け出すみたいで、とても口にできないから。
「ソフトボールやってるんだけどね、あたしのミスのせいで負けちゃったんだ。ちょっと落ち込んじゃってて……こんなことじゃ駄目だから、ちゃんとしないといけないとは思うんだけど、うまくできなくてね。心の整理がつかないというか……ううん、そうじゃないな。やらなくちゃいけないことがあるんだけど、なかなかそれができなくて……」
こんな状態の茄乃だからこそ、やらなくてはいけないことがある。それは茄乃にも分かっていた。やらなくてはいけないのだけれど、実行できないでいる。抱いている気持ちに素直になれなくて。
辛いことや見たくないものから、目を逸らして。
「駄目だよね、こんなんじゃ……」
「……ごめんなさい」
「あ、ううん、あなたが謝るようなことじゃなくて、あたしが不甲斐ないことがいけないんだから」
「あの……」
女の子の消え去りそうな小さな声。それが空間を震わせていく。
「……やれること、あるなら、やればいい……やりたくても、やれなくなることだって、あるから……」
「んっ……」
目の前の髪の長い女の子から伝えられた言葉を、茄乃はぼんやりと頭に浮かべて……刹那、電撃に打たれる。
(……あたし!)
茄乃のすべきことは、やれること。実行できていないのは、やれないからでなく、やらないから。だとしたら、やればいい。
確かにやれないことはある。少なくとも、もう六年生と一緒にソフトボールの練習はできない。悔やんだところでどうすることもできないが、やれることがあるなら、やればいいだけのこと。
「そっか……」
やればいい。その胸にある思いとともに。
やればいい。素直な気落ちで。
やればいい。茄乃がやればいいだけのこと。
「やればいいんだよね。そっかそっか」
相手はおとなしそうな女の子で、茄乃のためにかけてきてくれた言葉に、目から鱗が落ちる心境であった。
『やれるのなら、やればいい』
気がつくと笑顔で頷くことができた。それはずっと忘れていたもの。これまで落ち着きなく過ごすことしかできなかったのに、ようやく笑みを取り戻すことができた。
これでもう大丈夫。溜め込んでいたものは吹っ切っている。
「なーんだ、簡単なことだったんだ」
茄乃の心に蓋をしていた重たい塊が消えた。その視界では、髪の長い女の子は、こちらを振り返ることなく歩いていく。その背中に小さく手を振り……相変わらず尻尾を元気に振って、目を輝かせているちゃまろに笑み。
「そうだよね、やれることなら、やらないといけないよね。あの子の言う通りよ」
にっこり。ここ数日、そんな簡単ことができなかったのが不思議なぐらいに口角が上がっていった。
「いくよ、ちゃまろ」
ちゃまろと青願神社へと向かっていく。その足取りはこれまでより軽く、力強いもの。気分よく、心地よく、その爽快さはどんよりと曇っていた心が一気に晴れ渡っていく。
その日、青願神社でカエルから、久し振りにバットを握る許可をもらえた。
「ごめんね、お姉ちゃん」
その言葉を口にする、それが茄乃のすべきこと。
「ひどいこと言って、ごめんなさい」
三年前、試合に負けた姉にぶつけた無神経な言葉の数々、そのすべてを謝罪する。試合に負けた日以来、そうしなければならないと思っていた。思っていて、そう思っているだけで、実行に移せなかったのである。素直になることができなかったから……けれど、今は違う。そうすることができている。でないと、このまま先に進めそうになかったから。
「ごめんなさい」
しおらしく頭を下げる茄乃に対し、亜紀は『そんなのいちいち覚えてないわよ、何年前のこと言ってんの?』そうやっておかしそうに笑った。あの日は帰り道で交通事故に遭ったこともあり、茄乃とのことなど記憶の彼方へ押しやられているかもしれない。けれど、口にした茄乃は覚えている。今でも思い出す度に心がちくりっと痛む。
だから、口にする。
心の奥底から解き放っていく気持ち。
「ごめんなさい」
それだけのことで、鉛のように重たかった心が軽くなった。そればかりか、今ではふわふわっの羽を得て飛んでいるみたい。
すべては自分の気持ちに向き合うことができたから。
自分の気持ちに素直になることができたから。
今朝出逢うことができた、あの髪の長い女の子のおかげで。
できることなら、またどこかで会いたい。こうして気持ちの整理がつけることができたと伝えたい。そして、こういう気持ちになることができたお礼を言いたい。
また会いたかった。
会って伝えたい気持ちがあった。
『ありがとう』
あの言葉をくれてありがとう。
髪の長い女の子からすれば、大した言葉ではなかったかもしれない。しかし、あの言葉のおかげで心が救われた。どん底に沈む気持ちを立ち直ることができた。あの言葉がなければ今でもずっと不調のまま、沈んだ日々を過ごしていたことだろう。そう考えると、あの女の子には感謝してもしきれない。
だからこそ、今ある感謝の気持ちを直接会って伝えたい。きっとまたどこかで、あの髪の長い女の子に出逢えることと願って、今日も元気に生きていく。
もしあの子が困っていることがあったら、今度は自分が助けてあげよう。
5
九月二十六日、金曜日。
放課後。
愛名西小学校には、ソフトボールの試合が二試合同時に行えるグラウンドがあり、校舎は囲むように『L』の字に建てられている。各クラスのある北側に建てられたのが北校舎、移動教室や体育館があるのが西校舎。その西校舎一階の職員室に黄色いシャツを着た茄乃は訪れた。
「先生、久し振りぃ」
「あらあら、相楽さん、お久し振りですね。暫く見ない間に、随分と大きくなったんじゃないですか?」
「へへへっ。百四十センチもあるもんねー」
「ふふふっ。その分だと、先生なんてすぐ追い越されちゃいそうですね。その調子で、苦手の算数はちゃんと克服してください。ファイトですよ」
「うむむむ……先生、それは言っちゃいけないことなんだよ。そうやって法律で決められてるんだから」
「それはきっと海外の法律なんでしょうね、日本には制定されていませんから。ふふふっ」
パソコンのキーボードに動かしていた手を止め、後ろで縛った肩まである髪の毛を小さく揺らすのは、教員である五月女ひかり。今日はベージュのシャツに同色のロングスカート姿で、背もたれには薄紅色のカーディガンがかけられている。
ひかりは現在、二年生を担当しているが、三年前は当時一年生である茄乃の担任だった。
「今日も元気ですね。とってもいいことですね。それはそれとして、練習はどうしたんですか? グラウンドは使えるみたいですけど」
「部活はこれからだよ。そうそう、明日学校でね、試合があるの。ホームラン打つから、応援してほしいな」
「あらあら、試合があるんですね。そうですか、ようやくその日がやって来ましたか。相楽さんとは以前そう約束しましたものね。はい、分かりました。是非応援にいきたいと思います。精一杯頑張ってくださいね。先生も全力で応援することにしますから。かきーんっ! と大きいのをお願いしますよ」
「うん!」
にっこり。まだ一度としてホームランを打ったこともないくせに、自身を追い込むような発言も、自信があったから言えたこと。
茄乃にとって、一人では絶対に巡り合えない大きな偶然を束ねた今が、ここにある。だとすれば、ずっと努力してきたホームランぐらい打てるはず。大丈夫。これからこの場所に一つの奇跡を起こそうとしているのだ、ホームランの一つや二つ、どってことない。
「でね、五月女先生、今日はあたしじゃなくて、この爽ちゃんが、用があるんだよ。ほら、爽ちゃん」
「……あ、あの……」
これまで茄乃の後ろに隠れるようにしていた爽佳は、着ている白いワンピースの裾を一度ぎゅっと握ってから、勇気を持って顔を上げる。
そこにいる大切な人を瞳に映して。
抑えられない鼓動に、全身が震えていくばかり。
心に力を入れて、言葉を口にする。
「……あの、わ、わたし……あの……」
「相楽さんのお友達? お名前伺ってもいいですか?」
「あ、ああ……」
爽佳はここにいる。最初は茄乃に声をかけられることがいやでいやで、こんな日が訪れるとは思いもいなかった。けど、気がついた、『いつも茄乃に声をかけられるのがいやで首を横に振っていた』のに、いつからか、『首を横に振っている自分がいやである』ことに。
だから、ここにいる。茄乃に頷き、手を引かれて。
「あ、あの……鮎川爽佳、です……」
爽佳は、緊張による鼓動の強さを苦々しく思いながら、ようやくこの場所に立てた喜びを感じた。
これでやっと果たすことができる。
漠然とした暗闇で、希望の光を掴み取ることができる。
爽佳は前へ踏み出す勇気を持って、問いかけていく。
震える思いを振り切って。
そこにいるかけがえのない存在に。
眼差しを向けていく。
「あの、『ひかりさん』ですか?」
「はい……? はい、そうですよ。ひかりという名前です。それ、相楽さんから聞いたんですか?」
「あの、これ」
爽佳は紙切れを差し出す。今は茶色く皺くちゃになったそれは、あの飛行機事故で、命を救ってくれた男性から預かったもの。
この場所に辿り着かせてくれた大切な思い。
「これ、ずっと、預かって、ました」
爽佳の視界、不思議そうに受けた取った紙切れを広げているひかりの姿。
ひかりは、畳まれていた紙を広げて、紙に書かれた滲む文字を目にした瞬間、双眸が勢いよく見開かれていく。
『ひかり、幸せになれ』
次の瞬間、ひかりは弾けるようにして爽佳を見つめてくる。半分開けられた口が閉じることのない表情は、信じられないものを目の当たりにしたみたい。
爽佳は、これでようやく託された願いを成し遂げられた。これでもう満足。あの事故の日以来、このためだけに生きてきた。目を大きくさせた表情を浮かべるひかりを前に、重たかった肩の荷を下ろすことができる。
であれば、もうすることはない。ただじっと黙ったまま、目の前にある驚愕の表情を見つめて……そうして、ここに起きた変化に大きく瞬きをする。
「……あの」
涙を見た。正面にいるひかりの瞳から零れた涙。
驚きでしかない。爽佳はこれまで大人の人の涙なんて見たことがなかった。それをこうして間の目の当たりにしている。その理由は爽佳があの紙を渡したから。
現実に気が動転し、どうしたらいいかも分からず、あたふたするように胸の前で手を動かしたところで、事態が好転することはない。
爽佳は、時間の流れるがまま、じっと立つ。
「ぁ」
と、次の瞬間、爽佳はひかりに抱きしめられた。正面から、力いっぱい、巨大な感情に呑み込まれるようにして。
「……あの、ひかりさん?」
「ありがとうございます」
感謝の言葉。ひかりから爽佳へ。この上ない最大級の好意。
「本当にありがとうございます。嬉しいです。凄く嬉しいです。こうしてあなたに会うことができて」
「…………」
「本当に、本当に、本当に嬉しいんですよ」
「…………」
爽佳には、ひかりの震える声が耳元で聞こえる。そうして強く抱きしめられる。その温かさはとても心地がよい。ずっとずっとそうしていたい。二人がまったく一つの塊となり、互いの鼓動が共鳴するかのよう。
瞬間、凍りついていた心がゆっくりととろけていく。
「……わたし」
預かったものを渡すこと……あの凄惨な事故に遭遇した日以来、この瞬間を迎えるために生きてきた。そして課せられた使命を遂げ、もう生きる意味はない。ここで死を欲したとしても、これまでのように最後の一歩を留めるものは存在しない。
しかし、だがしかし、爽佳は気づくこととなる。気持ちの奥底に、これまで抱いてきたどうしようもない悲壮感が、すっかりなくなっていることを。
両親を失い、絶望に覆われ、この先、生きていたところで意味のない時間だと思っていたのに……今は、まだまだ生きていきたい。これから経験していくことがたくさんあって、辛いこともたくさんあるかもしれないけど、こういった心地よさだって待っているはず。これからも生きて、もっともっとたくさんのことを経験していきたい。
死にたいなんてもう思わない。
生きていく。
生きていきたい。
この温もりを得る感動に出逢うことができたから。
自分にはまだ、これほど嬉しく思えるほどの感情が残されているから。
「……わたし」
生きる喜びを得た気がした。
閉ざされた心が、救われるようにして。
爽佳はここに生きている。
「わたし、は」
生きていく。
これからもずっと生きていく。
心の奥底から溢れ出る激情、決して止めることはできない。爽佳という存在のすべてから眩しい感情が解き放ち、双眸から零れていく。
「わたしは」
ずっと勘違いしていた。あの男性に託されたあの紙切れがあるから死ねないと思っていた。けれど、実際は違う。あの紙切れがあったからこそ、こうして今日まで生きてくることができた。絶望の闇に囚われても、あれが生きる支えになってくれたから。
「わたしはぁ!」
ここにいる爽佳は、決して空っぽではない。生きていくこと、諦めていいはずがない。これからの日々、投げ出すわけにはいかない。こうして助けられた命はとても尊いもので、ちゃんと育んでいかなければならない。
だからこそ、声を荒げていく。
心の底から発していく。
「ありがとぉ!」
ここに立たせてくれて。
6
放課後の職員室で、箍が外れたように泣き出した爽佳に、ひかりは気持ちを落ち着けるため、保健室に連れていく。保健教員の安藤は不在で、椅子に爽佳を座らせ、やさしく頭に手を載せる。
「分からないかもしれませんけど、わたしはこれまでずっと、ずっとずっとあなたに会いたかったんです。よかったです、こうして会うことができて。ちゃんと生きていてくれて。いつか会うことができると信じて頑張ってきて、本当によかったです」
ひかりは、やさしく宥めるように頭を撫でるが、爽佳の涙がなくなることはない。全身全霊で涙を流しているみたいに。
また力いっぱい抱きしめていく。もうその存在が二度と不安になることがないように。
あらゆる悲しみから守ってあげられるように。
「あんまり泣いちゃうと、せっかくのかわいいお顔が台なしですよ。うふふっ。この子、相楽さんが連れてきてくれたんですね? ありがとうございます。相楽さんは本当に不思議な人ですね」
「うむむ? あたしって、不思議なのかなぁ?」
二人の傍らに立ち、かけられた言葉にじっくりと腕組みをする茄乃。爽佳のことを抱きしめながら微笑みを向けてくるひかりに、熱を持った鼻の頭を誤魔化すように掻く。
「あたしは関係なくて、ずっと爽ちゃんが頑張ったからだよ。ずっとずっと一人で頑張ってきたから」
「本当によかったです、今ここにきてくれて。これでもう、本当の意味で踏ん切りをつくことができました」
「踏ん切り?」
茄乃は首を傾けていく。言葉の意味が分からない。
「先生……?」
「うふふっ。実はですね、まだみんなには内緒にしていることですが……先生、今年で先生を辞めることにしたんです」
「ええっ!?」
仰天。驚愕。そして目が点。驚きは動転となり、白黒する目が勢いよく飛び出しそう。
突如として伝えられた事実は、まさに寝耳に水。あまりに突飛なことに茄乃の頭はごちゃごちゃしてしまい、算数の難しい問題に直面したときのように軽いパニック状態に。
その心では、嵐のような凄まじい衝撃が駆け抜けていったことを知る。今後も大きな爪痕となって残りそうなほどに。
「なんでなんで? なんで先生辞めちゃうの? いやだよいやだよ。辞めちゃうだなんて」
「うふふっ。そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、これはもう決めたことですから。えーとですね、その……先生ね、来年、結婚するんです」
「へっ……」
照れくさそうにはにかむやさしい目に、茄乃は空間が凍りつく恐怖を感じた。光に照らされていた世界から、急に暗闇に突き落とされる失意。受けたショックに、自分の足で立っている感覚がしなかった。全身の力が抜けて床に落ちてしまいそう。
(結婚……?)
ひかりが結婚する。結婚してしまう。来年、この学校を去って。
青願神社には、まだ婚約者のカエルがいるのに。
(そんなぁ……)
心臓が強く鷲掴みされるように気が動揺。伝えられたこと、ひかりにとって喜ばしいことなのに、断じて認めたくない。
おめでたい話なのに、カエルを思う今の気持ちでは、とても手放しで祝福できない。
(…………)
経験値の少ない茄乃には、複雑に絡む現状をうまく処理できなかった。真っ白になった頭で、どうにも言葉を口にすることができず、その状態を翌日の試合に引きずってしまう。
7
九月二十七日、土曜日。
午後三時。
愛名西小学校のグラウンド。
本日は雲一つない天候に恵まれ、真っ青な空がどこまでも広がっている。グラウンドに涼しい風が吹き抜けていく。運動するにはぴったりの日。
(どうしよどうしよどうしよどうしよぉ!?)
紺色のユニホーム姿でヘルメットを被り、バッターボックスに立つ茄乃は、不調を極めていた。ここまで二打席凡退で、三打席目のこの打席も早くツーストライク。それは相手ピッチャーの調子でなく、自分を取り戻せずにいることが要因であった。
(どうしよどうしよどうしよどうしよぉ!?)
八月の市大会決勝で六年生が引退となり、四、五年生だけの新チームとなった愛名西小学校ソフトボール部は、四年生ながら茄乃が打撃を買われて四番バッターに座っている。そして今日、夏の大会で敗北した愛名東小学校との再戦があり、あの日の借りを返す意味でも勝つことに情熱を燃やしていたのに……まったく身が入らなかった。気力なく、体が自分のものではないように、うまく動かせない。
その要因は、昨日の放課後にある。
ひかりの結婚を知ったから。
(ぁ!)
ごちゃごちゃした茄乃の思想を突き抜けるようにして、ピッチャーの投じた三球目は内角を抉り、フォームを崩した無様なスイングで空振り三振。せっかくランナーが二塁にいたのに、凡退である。
(駄目だ、こんなんじゃ)
昨日、そして今朝、いつものように青願神社を訪れたが……結局、ひかりの結婚をカエルに打ち明けられなかった。胸に抱えたまま、口に出す勇気が持てなかったのである。ああいう存在となったカエルの寂しい姿など、見たくない。
『婚約した相手が、自分と違う相手と結婚する』そんなカエルの心境を考えると、どうにも言葉にできなかった。心の整理できず、昨日からずっと悩ましい思いを引きずっている。ユニホームを着てグラウンドに出ているのだが、ちっとも試合に入っていけない。ライトの守備でエラーこそしていないものの、バッティングでは三打席凡退のノーヒット。先輩を押し退けての四番バッターなのに、これでは面目を果たすことができない。
『相楽さーん、どんまいですよー』
試合が行われているのは学校のグラウンドで、取り囲んでいる保護者の中に、ひかりの姿があった。ひかりとホームランを約束したのに、この調子では約束を破ってしまうことになる。悔しくはあるが、これが現実。どうすることもできない。
情けない。
(…………)
グローブを左手に、小走りでライトの守備につく。視線を上げてマウンドにいるピッチャーの背中を見つめる……心はここになく、何か大きな不安に急かされているよう。万力のような力でじわじわと胸を締めつけられているみたい。
こんな気持ちで試合に挑めば、きっと負けてしまう。ホームランどころかヒットすら打つことができず、チームの足を引っ張ることだろう。できることなら代えてほしいが……上級生を差し置いて四年生の茄乃が先発なのだ、どれだけ不甲斐ないプレーをしたとしても、自分からそんなこと言えるはずがない。
(……っ)
ぼんやりしていた思想に、霞むような視界……その耳に、突然金属音が響いた。我に返るが視界がまだぼやけている。一瞬後に焦点が定まると、打球がこちらに飛んできた。低いライナーで、すぐ前に落ちそう。咄嗟に地面を蹴り、グローブを懸命に伸ばすが……キャッチどころか、前に落ちたボールをセンター方向へ弾いてしまった。ミスに体中が熱くなるのを意識しつつ、慌てて追いかけてボールを掴んだときには、打ったバッターランナーは二塁に到達。ノーアウトランナー二塁のピンチである。あろうことか、茄乃がピンチを招いてしまった。
(ああ……)
煙のように消えてしまいたい。
(…………)
九月下旬で、頬を撫でる涼しい風がグラウンドを吹き抜けていき、体を動かすに最適の気候。だというのに、茄乃の体からは大量の汗が分泌されていく。帽子から首筋へと流れる汗を不快なものとしか認識できず、拭っても拭っても止まることがない。
(…………)
こんなこと、もういやなのに。こんな気持ち、すぐにでも捨ててしまいたいのに。茄乃はこうしてグラウンドに立たなければならない。それが存在を圧迫するほど心苦しいものとなり、情けない現状に視線がどんどん下がっていく。
不甲斐ない現状を惨めに思うも、今の茄乃にはそれを修正できるゆとりがない。
今はただ、自身を情けなく思うことでしか、存在する意味を見つけられなかった。
最終回。いよいよ試合も大詰め。
五対六。茄乃のいる愛名西小学校は一点を追いかける展開。
ツーアウトランナー一塁という大詰めの場面で、四番バッターの茄乃がバッターボックスに立つ。今日ノーヒットだというのに、また打席が回ってきた。まともにスイングできないほど不調を極めているのに。
(…………)
今日の試合、展開としては、先月敗退した試合内容によく似ていた。初回から乱打戦で、現在一点差の最終回、ツーアウトになってからバッター茄乃。前回は見逃し三振となり、試合に負けた。同時に、六年生は有終の美を飾れぬままに引退。
バッターボックスに立つ茄乃は、前回同様にまた最後のバッターとして惨めな姿を晒すことになるかもしれない……こんなに気持ちが沈んでいては、ヒットなんて打てるわけがない。せいぜいピッチャーがコントロールを崩してフォアボールかデッドボールで出塁することしか望めないが、それは期待できそうにない。この回からマウンドに上がったピッチャーは非常にコントロールがよく、早くもツーストライクと追い込まれたから。
もう後がない。
絶体絶命。
(…………)
こんなにも集中力をなくして、ただただ力なくバッターボックスに立つことしかできない茄乃のことを、ベンチではチームメートが声を上げて励ましてくれる。
グラウンドを取り囲む観戦者にひかりの姿がある。手をメガホンのようにして精一杯応援してくれた。隣には小さな爽佳の姿もあり、爽佳もこちらをじっと見守ってくれている。視線を少し動かすと、母親の姿も見つけることができ、横には姉の姿も。引退した六年生の先輩の姿もあった。みんな、こうしてわざわざ応援しにきてくれている。そして今、その注目はバッターボックスの茄乃に集まり、一挙手一投足に手に汗を握っている……こうしてみんなに応援してもらっているからこそ、このままアウトになるわけにはいかない。なんとしても後ろにつなげなければ……だが、今の茄乃では打てる気がしなかった。
一切の希望すら持つことができないほど、覇気がない。
応援してもらっている現状、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいである。
情けない。
あまりにも情けない。
(……ぁ)
マウンド上のピッチャーが投じた一球は、内角を通過する。に対して、茄乃はバットを振るどころか、反応もできなかった。追い込まれている現状に潰されるように視界がぼやけ、集中できていない間に最後の一球を投げられたから。このまま試合終了では一生後悔することになることは確実。がっくりと肩を落とす……だがしかしだがしかし、主審の右手は上がらない。判定はボール。
命拾い。
(あー、駄目駄目だぁ! ちゃんと試合に集中しないとぉ!)
ぶんぶんぶんぶんっ! と邪念を振り払うように首を振ったのは、これで両手でも数えることができなくなった。もちろんその効果が得られていないため、数は増える一方。
どん底を這うような心境である。
(どうしよどうしよどうしよどうしよぉ!?)
駄目。
駄目だ。
このままではまた三振をして、試合に負けてしまう。
なんとかしないといけないが、どうすることもできない。
(どうしよどうしよどうしよどうしよぉ!?)
どこか遠い地へ逃げてしまいたい。
と、次の瞬間、事態が一変する。
『茄乃、肩の力を抜け。特訓通りにすれば打てるから』
(っ!?)
不意に声がした。最大の山場を迎えたグラウンドでは、それに見合うだけの雑踏が存在し、とても特定の人間が発した声など分かるはずない……だというのに、届けられた言葉は真っ直ぐ茄乃の耳に入ってきた。三年前からずっと聞いている声で、バッティングのことを教えてもらった恩人のもの。あの人の指導があったから、こうして下級生にもかかわらずレギュラーとして試合に出ることができている。
ホームランを打つという夢を見ることができている。
(カエルさん!?)
青願神社での『特訓』は三年間ずっと行っている。カエルには毎日相手をしてもらっている。すべては茄乃がホームランを打つため。ならば、果たさなければならない。今日までの積み重ねを、成果として出さなければ。
ぐだぐだ考えている場合でない。今である。今こそやるとき。やれることがあるとするならば、やるしかない。それが今の茄乃にやれることであるから。
やれる。やれるに決まっている。
なら、やってみせる。
見守ってくれるカエルのためにも。
(あたし、やってみるよぉ!)
カエルの言葉に従うように、力んで張っていた肩からすっと力を抜く。あの声を聞いただけで、重々しかった気持ちが一気に軽くなる。雁字搦めに縛られているかのように窮屈だった全身が、自由を取り戻した。
であれば、今の茄乃なら自然体でバットを握れている。いつも通りにスイングすることができる。マウンドから投じられたボールに、最短距離でバットを振り切ることができる。
今の茄乃にはそれができるから。
「こいっ!」
できることはできるし、できないことはできない。ひかりが結婚すること、それを止めることはできない。茄乃にできることは、茄乃にできることだけ。であれば、茄乃にとってやるべきことは、ひかりとのホームランの約束を果たすこと。ホームランを打って、ひかりの結婚に華を添えること。そうして、カエルとの特訓の日々を成果として出すこと。ずっと付き添ってくれたあのカエルとの特訓に報いるために、ここでホームランを打つ。 やれることをやる。それはあの夏休みの日、爽佳が教えてくれたこと。できることがあるなら、やれることがあるなら、それを実行するのみ。
(いっけえええぇ!)
きーんっ!
スイングとともに、グラウンドに小気味いい金属音が響いた。それはとても心を震わすもので、体の隅々まで響き渡っていく。
高めにきたボールを打ち返した。手応えとしては軽いもので、ボールの上がった角度が大きかったから、レフトに捕球されそうな……これで試合が終わってしまう。また茄乃のせいで負けてしまう。不甲斐ない結果に、また心が深く沈んでいくことだろう。あの夏休みのように、まともに前も見えなくなるぐらいに……そんないやな予感を、飛んでいく打球は完膚なきまでに打ち消してくれた。
(……嘘ぉ!)
バットにボールが当たった瞬間の感触は小さいものだったのに、打球は猛烈なスピードでショートの頭上に越え、レフトのさらに上を越えて、西校舎二階の壁にぶつかった。
打球の終着から一瞬遅れて、三塁塁審は突き上げた右腕を大きく回転させる。
ホームラン。
七対六、土壇場での逆転勝利であった。
(やっ!)
一塁ベースを回ったところで、ボールの行方を見届けて呆然としたが……直後に感情が奥底から弾けていく。
(やったぁ!)
追い込まれた土壇場で、茄乃はホームランを打つことができた。ここで。この場面で。生まれてはじめてのホームラン。
(やったぁ! やったぁ! やったぁ! やったぁ!)
全身に歓喜の渦が巻き起こっている。それは眩しいばかりの光を有し、ここにある生命がはち切れんばかりに躍動していた。
(ホームランだぁ!)
三年間ずっと青願神社で特訓してきて、特訓して特訓して特訓して特訓して、ようやく努力が報われた。我武者羅に追いかけていたホームランを打つことができたのである。
大きく跳ねるように、茄乃はダイヤモンドを一周。満開の笑みが弾けるチームメートの姿に、そのまま一直線に駆け込んでいく。
(やったよぉ、カエルさん!)
カエルさんのおかげで、ホームランを打つことができたよ。
(ありがとう!)
これでひかりとの約束を果たすことができた。カエルとの特訓の成果を出すことができた。自身がずっと追い求めてきたホームランを打つことができた。歓喜に包まれるグラウンドにおいて、茄乃は眩いばかりに輝く笑顔を浮かべられている。
それは、この世のすべての悲しみを振り払うようにして。
(カエルさん!)
最上の喜びが弾けていた。
それは小学四年生の秋のこと。
『みあー』
耳には、そんな鳴き声がした気がした。
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