第2話


 小学一年生



       1


 八月八日、日曜日。

「痛たたたたたたたぁ!」

 どっすーんっ! という大きな音とともに、痛みが体を突き抜けていくほど強く尻餅をついていた。しかも、運悪く地面から頭を出している飛び石の上に。当然痛い。物凄く痛い。激痛であり、自然とその瞳に涙が浮かぶ。

 近くでは、かんからかーんっ! と派手に音を立てながら金属バットが転がる。二メートル先にも埋め込まれた飛び石があり、引っかかるように止まった。

「もおーっ!」

 嘆きの声を上げるのは、半袖の黄色いワンピースを着た女の子、相楽茄乃さがらなの、小学一年生。置かれている現状に納得いかないように、肩にかかる外跳ねの髪を忙しくなく動かす。苦悶の表情で、打ちつけた尻を擦りながらゆっくりと立ち上がった。

「おかしいな? なんで転んじゃったんだろ?」

 理解できない現象に突き当たったとばかり、大きく首を傾ける。角度は深く、頬が肩につきそう。

 転倒する際に地面についた手を見ると、小石がたくさんついていた。手を動かすとそれがきらきらっと光る。ぱんぱんっと払うと、じくじくじくじくっ、想像しなかった痛みが走った。血は見えないが、もしかしたら擦り剥いているのかもしれない。顔をしかめ、近くには手洗い場があるのでそちらに足を向ける。

 屋根つきの手洗い場には、柄の長い二本の勺が別々の方向を向いて置かれていた。銅製の龍の口から出ている水で手を洗うと、水が染みた。痛い。耐えながら掬って口にする。冷たくておいしかった。額に浮かぶ汗を拭い、もう一度手を洗う。濡れた手は着ているワンピースで拭った。そこだけ黄色がくすむ。

「…………」

 周囲に多くの銀杏の木があり、すべて茄乃の十倍以上ある大きさ。この夏に命を燃やす蝉が、嗄れんばかりの大音量で鳴きつづけている。空から降ってくるようだった。

 周囲に生えている木々の枝葉に歪な形に切り取られる空には、もくもくっと立ち昇る入道雲を見える。今はその白色が僅かな赤色に染まっていた。

 風が吹き、周囲にある大きな木々を一斉にざわめかせた。揺らめきは、緑豊かな枝葉によって覆い尽くさん躍動がある。枝の間の抜けてくる光の筋が空気中を舞い、なんとも幻想的な光景を作り出していた。

 茄乃は、半分開けられた口を閉じることなく、目の前で次々と交差していく光の筋を目に……視界の隅に銀色の金属バットが落ちているのを認識した。さきほど転倒した際、放り投げたもの。

 頭を空っぽに、ぼぉーっと見つめていた瞳に色を戻し、足を向ける。『今度こそ』と強く拳を握って。

「あたしは絶対、お姉ちゃんみたいにならない」

 大きな鳥居から社殿までつづく飛び石の中央部に、金属バットが落ちている。しゃがみ込んでグリップを握った。上体を起こして、素振りをするために両手で持ち上げて胸の高さで構えようとして……そのタイミングで、瞳が大きく瞬きする。

(……あれ?)

 人がいた。境内に誰もいなかったのに、いつの間にか社殿に人が座り込んでいたのである。きっと手を洗っている間だと思うが、誰かがやって来た気配はまるでなかった。

 不思議。

(あれれ?)

 木造建ての社殿の淵に腰かけた男性は、特徴的な赤い手摺りに背を預け、空中に足を投げ出している。大きな鈴と賽銭箱がある右側の位置で、地面から一メートルほど高さ。

 男性は上下黄緑色の作業着に身を包み、髪の毛は男性としては長く、耳にかかっている。今は手にしているものを呆然と見つめている様子。

 突如として現れた男性に、茄乃は金属バットを持ったまま逡巡する。

(誰だろ?)

 ここなら誰もいないと思ってやって来たのに、あの男性がいては、素振りの邪魔になるかもしれない。いや、それ以前に素振りすると怒られる恐れもある。ここは神聖なる神社で、断じてバットを振り回していいグラウンドでないのだから。

 いや、そんなことよりも、考えるという行為の手前で、茄乃の存在自体が、そこにいる男性の雰囲気に惹かれていた。その理由はよく分からないが、なんとなく見て見ぬ振りをができなかったのである。引っ張られるというか、思わず声をかけたくなるというか……それはまるで、すぐ崩れる砂の城だからこそ、触れて壊したくなる衝動に似ていたかもしれない。触ってはいけないと思いつつ、だからこそ手を伸ばしていく。

(あの人……)

 かんかんかんかんっ、金属バットを引きずりながら歩いていき、社殿にいる男性の前に立つ。顔を斜め上に上げて、男性の顔を見つめる。じぃーっと、真っ直ぐ、一切の迷いなく。

「おじさん、この神社の人?」

 茄乃の知らない男性だが、着ているポケットの多い作業着は、掃除するのにぴったりな気がした。だから、清掃の人だと思うも……見渡しても、竹箒やごみ袋も見当たらないし、今は座っているだけで作業していない。

 そればかりか、茄乃が目の前に立っているのに、一切変わることなく手にしたものを見つめている。

「おじさん」

 見てみると……手には小さな人形があった。

 大人の男性が、人形を見つめたまま、神社の社殿に腰かけている。

 この状況、茄乃は小首を傾げることに。

 怪しい。

「おじさん、暇な人?」

「…………」

「おじさん、変な人?」

「…………」

「おじさん、お返事できない人?」

「…………」

「おじさん、話しかけちゃいけない人?」

「…………」

「おじさん、危ない人なんだ。なるほどなるほど」

「……俺のことか?」

「うん。そうであるぞよ」

 目を丸くした男性に、茄乃は胸を張って大きく頷いた。ようやく相手をしてもらえたこと、おどけるように『えっへん』と上体を逸らせる。

「おじさんはここで何しているの? 休憩? 修行? って、それ、おじさんのお人形なの? あ、カエルさんだぁ。かわいい」

 男性が手にしていたのは、毛糸でできた蛙の人形。緑色で目が細かく、両目は『へ』の字で笑っている。開いた口からは『けろけろけろけろっ』と鳴き声が聞こえてきそう。

「かわいいカエルさんだね。いいないいな。おじさん、それ、あたしにちょうだい。ちょうだいちょうだいちょうだいちょうだい。だってだって、かわいいんだもーん」

「悪いな。これは大事なお守りだから、あげられない……まっ、お守りっていうか、結局のところ駄洒落なんだけど。あっ、そうか、だからこうなってるのかもしれないな……」

「んんっ?」

 どこか遠い目をする男性の発言、茄乃にはさっぱり理解できなかった。茄乃がまだ幼い子供だから理解できないものだと判断するが、それでも蛙の人形はもらえそうにないことは分かった。粘りたいところだが……男性の大事なものだとしたら諦めるのが妥当だろう。

「ねぇねぇ、カエルさんのおじさん、ここでお仕事してるの?」

「……俺はまだ『おじさん』なんて呼ばれるような年じゃない」

「『カエルさんのおじさん』じゃ駄目なの? うむむ? わたし、おじさんのこと知らない」

 言われたことを頭でしっかり考えるように腕組みし、こくこくこくこくっと首を左右に傾けながら、『そっかそっか、『おじさん』が駄目なんだねー』という結論を出す。同時に、解決策を見つけた。

「じゃあ、カエルさん」

「……その人形を持ってるだけなんだけど」

「カエルさんはここでお仕事してるのぉ?」

「『カエルさん』で押し切る気なんだな。まっ、別にいいけど……いや、俺は仕事なんてしないんだ。そうする必要がないから」

「大人なのにお仕事しないんだ? 変なのぉ」

「そういう大人だっているんだよ」

「ふーん……」

 まったくもって納得できないため、頭上にクェスチョンマークが瞬いていく……ふと、自分の右手が金属バットを持っていることを思い出した。

 ならば、見知らぬ男性に話しかけている場合でない。

「あのね、カエルさん、危ないからあんまり近くにきちゃ駄目よ。人がいるところでやっちゃ駄目なんだから。いい、絶対よ」

 びしっ! と相手の顔に人差し指を突きつけ、飛び石の真ん中まで移動していく。両足を肩幅ぐらいに広げて、両手で握った金属バットを振りかぶった。

 すると、後ろに引いた金属バットに引っ張られるように体が流れていき、慌てて反対側に体重を移動させながら、大きく円を描くようにスイング。そうして自身が生み出した遠心力に弄ばれるようにバランスを崩した。捩じった体のままその場で半回転。周囲の景色がぐるりっと回っている間に、すとんっと落ちるように尻餅をつく。

 手から離れた金属バットは、かんからかんかんかーんっ! と大きな音を立てながら地面を転がっていく。その音にびっくりしたのか、一瞬だけ降り注ぐ蝉の音がなくなった。

「痛たたたたっ。また失敗しちゃったー」

 強かに打ちつけた臀部を擦りつつも、そんなことでは一切めげることなく立ち上がる。ワンピースは、特に尻の部分が茶色く変色しているが、気にしない。茄乃はまたバットを拾ってスイングして……その姿、バットを振っているというより、バットに振られるよう。

 三度目の転倒。

「痛たたたたたたっ。あれ、おっかしいなぁ? どうしてうまくいかないんだろ?」

「……なあ、お前、さっきから何してんだ?」

「茄乃だよぉ、わたし。相楽茄乃」

「……茄乃は何してるんだ?」

「んっ? カエルさん、もしかして野球も知らないのぉ? 遅れてるぅー。そんなだから、大人なのにろくにお仕事もできないんだよー。あたしは将来そんな風にはならないから」

 言い放ってから、体がぴくりっと反応した。学校のホームルームを思い出す。

「そうだ、そういう怪しい大人にあんまり近づいちゃいけないんだ。お菓子もらってもついていっちゃ駄目だし」

 茄乃は人差し指を立て、『ちっちっちっちっ』と短い周期で横に振った。得意気に口を動かし、屈んで地面に落ちた金属バットを拾う。やはりこの程度の失敗でめげることはない。

「いつまでもカエルさんがお仕事できない人だと駄目だから、あたしがちゃんと教えてあげるね。野球ってのはね、ピッチャーがボールを投げて、こうやってバット持ってるバッターがね、かっきーんって打ち返す──わわわっ!?」

 バットを振った勢いのまま、またまたまたまた尻餅をついてしまった。どってーんっ! と。進歩がない。成長がない。地面に金属バットの転がる音、耳が痛くなる。

 尻餅をついたまま、格好悪そうに苦笑い。上半身だけ振り返り、そこで表情を硬直させているカエルの顔を見上げていく。

「分かった?」

「……それ、ちゃんと誰かに教えてもらわないと、怪我するぞ。取り返しのつかないことになっても知らないからな」

「今日ね、学校でソフトボールの試合があったの。お姉ちゃんの応援だったんだけどね、お姉ちゃんったらひどいんだよ」

 思い出したら不愉快になり、茄乃は頬をぷくぅーっと膨らます。感情に揺り動かされているよう、勢いよく立ち上がって地団駄を踏んだ。

「お姉ちゃんね、三振しちゃったんだ。三振だよ、三振。信じられなーい、なんであそこで三振なんてするのかなぁ? あたしだったら、かっきーんっ! ってホームランなのに」

「……まったく話が見えないんだけど」

「んっ……? 分からないの? うむむ、これだからカエルさんはお仕事ができないんだよ。まったく困った大人だなー」

 どう説明しようか逡巡するように虚空を見つめ、首を二度左右に傾けてから口を動かす。

「いい、見逃し三振なんだよ、見逃しの三振。あろうことかだよ。せっかく逆転のチャンスだったのに。そんなことしたら負けるに決まってるじゃーん」


 ソフトボールの試合。

 最終回。一点差で負けていた愛名西小学校は、ツーアウトながら満塁という、一打逆転の大チャンスを迎えていた。バッターボックスには茄乃の姉、亜紀あきが立つ。背番号『5』の亜紀は五年生でありながらレギュラーとして試合に出場していた。

 結果は、早々とツーストライクと追い込まれ、三球目の外角低めの球に手が出ない。直後に主審のストライクコールが起こり、見逃し三振。同時に試合終了。愛名西小学校の敗退が決定した。

 茄乃は試合を応援していて、最後の見逃し三振が、納得いかなかった。せっかくのチャンスで、ピッチャーがストライクを投げたのに、あろうことかバットを振ることもなく三振だなんて。そんなことするぐらいなら、試合に出ない方がましである。

 試合終了後、茄乃は爆発せんばかりの憤りと不満を姉にぶちまけた。『なんであんな三振しちゃったの? 逆転のチャンスだったのに。あたしだったら、あんなこと絶対しないよ』その声に、俯いている姉からの反応はない。茄乃はますます苛立ちが募っていく。『お姉ちゃん、あんなの絶対駄目なんだからね。ちゃんと分かってるの!? ホームラン打たないと。ホームラン。あたしなら、絶対逆転満塁ホームラン打つからね』そう茄乃が言い終わると同時に、ぱっと顔を上げた亜紀に頬を引っ叩かれた。

『だったら、あんたがやってみなさいよ!』

 亜紀が目に涙を溜め、唇を強く噛みしめていたこと、今でも茄乃の目に焼きついている。

 いきなり叩かれたことに、茄乃は頭が空っぽとなり、惚けるように表情をなくした。ただただ左頬がひりひりっする。痛みはなかったが、背中を向けているユニホーム姿の姉が目に涙を溜めていたこと、それが意外だった。それ以上に驚いた。そんな弱々しい姿、これまで一度も見たことなかったから。

 そうして暫く惚けていき……我に返るのに、三分もかからなかったと思う。小さくなる亜紀の背番号『5』を見つめながら、茄乃の内側にふつふつっと湧き上がるものがあった。

『なんだよなんだよ!? あたしなら、絶対ホームランだよ。あんな情けないの、絶対やんないんだから』

 そう思ったが早いか、茄乃は激戦の余韻残るグラウンドから急いで家に帰る。箒や日曜大工道具がしまわれた倉庫から、父親が草野球で使う金属バットを持ち出した。

 危ないから、周囲に人がいる所でバットを振っていけないことは分かっている。だからこそ、自分が知っている場所で、あまり人のいない青願せいがん神社を選んだ。

 百段ある石段を上がり、誰もいない境内で金属バットを構えるまではよかった。しかし、重たく感じる両手でスイングしては、思うように振ることができない。バットに弄ばれているようにバランスを大きく崩してその場で転倒。

 そして、蛙の人形を持つ男性と知り合うこととなった。


「ねっ? ひどいでしょ?」

「……いや、話があっちやこっちに飛ぶもんだから、把握するのに難しいもんがあったけど……要は『姉ちゃんは三振したけど、茄乃だったら三振しない』ってことだろ?」

「違う違う! カエルさん、そんなことじゃいつまで経ってもお仕事できないよ」

 大きく肩を竦めていく。

 やれやれ。

「いい、あたしだったら三振しないんじゃなくて、あたしだったらホームラン打ってるよ。かっきーんっ! って特大の」

 口元を大きく緩めた満面の笑み。その存在は『無邪気』という言葉に直接命を吹き込まれたみたい。真っ直ぐ前を見つめる眼差しに一切の曇りがない。

「いつ出番が回ってきてもいいように、今から練習しようと思ったの。ホームラン打ちたいからね」

「……まともにスイングもできないのに?」

「うむむ……そんなのすぐうまくなるもん。だって、練習すればうまくなるんだから。そうやって五月女さおとめ先生も言ってたよ」

「さ、五月女先生ぃ!?」

 カエルの目が白黒した。思わぬところで思いがけない名前をぶつかったみたいに。

「それってのは、もしかして学校の先生のことか?」

「へへーんだ、五月女先生は、あたしのクラスの先生だよ。『どんなことだって真剣に頑張ればきっとうまくいく』って言ってた。だからね、こうして一所懸命頑張るの」

 茄乃はにかっと歯を出すと、再び金属バットを握る。しかし、前向きな発言とは裏腹に、現実はうまくいかない。何度もリプレーするように体が金属バットに振られてしまい、その場に転倒。

 尻餅は何度でも痛かった。

「うむむ。おかしいな、なんで転んじゃうんだろ?」

「…………」

「バットがいけないのかな?」

「……お前さ、うまくなる方法があったとしたら、知りたいか?」

「カエルさんが教えてくれるの?」

「まあ」

「お仕事もしてないのに?」

「……そこはそっとしといてくれ」

 痛いところを突かれ、語尾に力がなくなるカエルではあったが……そんなのは一瞬のこと。手にした人形の蛙を作業着の胸ポケットにしまい、真っ赤な鳥居を指差す。

「そこに石段あるだろ、あれを下から勢いよく上がってこれるか?」

「どういうこと?」

「一回も休憩せずに勢いよく上がってこれれば、ホームランが打てるかもしれないぞ」

「えっ、そんなんでいいの? できるに決まってるじゃーん。簡単過ぎて小躍りしちゃいますぞよ。うん、簡単過ぎて体が勝手にサンバのリズムを刻んじゃうぞよぞよ」

 茄乃に根拠はないが、自信満々で言い放った。ワンピースの裾をひらひらっと翻らせながら、身長の何倍もある赤い鳥居の下に立つ。有り余る元気で勢いよくジャンプしたが、頭上にあるしめ縄に届くことはなかった。その高さ、大人がやっても届きはしないだろう。

 この青願神社は、百段ある石段の上にある。下には公園が広がっていた。ここからでも鉄棒やジャングルジムや砂場やブランコを確認することができ、今は西方にある椀状の大きな滑り台に男の子が三人遊んでいる。

 茄乃は、外跳ねの髪をぴょんぴょんぴょんぴょんっ弾ませながら、鉄製の手摺りの横を下っていく。最後の三段を一気にジャンプして下に到着。着地の際、体操選手のように両腕を広げた。びしっ! 跳ねるように後ろを振り返り、石段の上を見上げる。

「おおーい、カエルさーん、あたしはここだよー。おーいおーい。ちょっと待っててねー、今いくからー」

 下から見上げると、神社のある場所は小山のように盛り上がっていることがよく分かる。境内と同じく無数の銀杏の木が生えており、この季節を精一杯生きる蝉の声がどこからともなく響いてきた。真ん中に手摺りのある石段は、銀杏の木の群れを突き抜けているみたいに、真っ直ぐ上まで伸びている。

「よーし!」

 社殿に座るカエルの姿は見えないが、目標である頂上を見据えた。勢いよく地面を蹴って、石段を上がっていく。大きく前後に両腕を振っての全力疾走。

(簡単、簡単)

 たんたんたんたんっと小気味よいリズムで上がっていく。怒濤のごとく後ろへ流れていく風景を、まるで自分が風になかったみたいに感じながら快調に疾走していき……半分ほど過ぎたぐらいから、急激にスピードが落ちた。

(あれれ……?)

 体の内側が圧迫されるようで、それが全身を狂わし、勢いを保つことができなくなる。もはや走っているというより歩いていると表現した方が的確で、それでも決して立ち止まることなく頂上を目指すも……最後の十段はいつその場に座り込んでもおかしくないような、立っているのがやっとの状態に。鉄製の手摺りにしがみつきながら、よろよろっとした足取りで、俊敏性からは程遠い状態でどうにか頂上にある赤い鳥居に到着。

「はぁはぁはぁはぁ!」

 もはや疲労困憊。

「はぁはぁはぁはぁ!」

 荒れる息。全身汗だく。顎を伝ってぽたっ、ぽたっと落ちていっては、地面の茶色に黒い染みを作った。呼吸の乱れは、尋常なものでない。

「はぁはぁはぁはぁ! ほら、ね……はぁはぁはぁはぁ! で、できたでしょ……はぁはぁはぁはぁ!」

「……いや、それで『できた』と言い張る負けん気、心がダイヤモンドでできてるとしか思えんな」

 変わらず社殿に腰かけたままのカエル。戻ってきたと思ったら膝に手をついて大きく肩を上下させながら、まともに顔を上げることもできなくなった茄乃の姿に、思わず嘆息。『こいつは、いったいどうしたものやら?』と考えるように少しだけ目を細めて、右頬をぽりぽりっと掻いていく。

「まともにバットを振りたかったら、まずこの石段を勢い一気に上がってこれるようにならないとな。それぐらいの足腰の強さが必要だ。それができないのにバットを握るなんて百年早い」

「はぁはぁはぁはぁ……な、なんでそんなこと……はぁはぁはぁはぁ……カエルさんに分かる、の? はぁはぁはぁはぁ……走るのと、バット、関係ない、気が、する……はぁはぁはぁはぁ……」

「野球やってたことがあるからな、こういうことは茄乃よりも詳しいんだ。いいか、まずはここまで一気に上がってこれないと、スイングなんてとんでもない」

「だ、だったら……はぁはぁ……だったら、そうするから……はぁはぁ……そしたら、カエルさん、教えて、くれる? はぁはぁ……バットのこと……」

「そのためにも、まずは石段ダッシュだ」

「うん!」

 ようやく整った息とともに、茄乃はこっくりっ! と頷いた。昼間の真っ青な空に輝く太陽のような笑顔とともに。

 と思った矢先、また黄色いワンピースをはためかせながら百段ある石段を下っていく。元気いっぱい。それはもう髪の毛は別の生き物であるように、わさわさっと空間に舞る。

(カエルさん、お仕事してないなら、野球教えるお仕事すればいいのに)

 いらない世話を考えながら、上に戻ったら助言してあげようと思案し、下に到着。

(よーし、今度こそ!)

 再び見据えた頂上を見つめ、握る拳に力を入れる。小さく息を吐いてから、力いっぱい地面を蹴った。すると、景色が次々に後ろへと流れていって……一回目の挑戦では、半分ぐらいまで勢いよく上がっていけたのに、今度は二十段も無理だった。爆発しそうな胸の苦しさは絶頂を迎え、途中で立ち止まってしまう。

「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ!」

 苦しくて苦しくて、脈動が体内を暴れ回っているよう。呼吸困難に近く、激しく脈打つ心臓が口から飛び出すかもしれない。風邪を引いたときは頭が呆然として、咳をすると呼吸が荒くなるのだが、今はあれの十倍苦しく感じた。強い脈が打つ度に、体がばらばらっに砕けていくみたいで、自分の体でないみたい。

「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ!」

 五分間、そうやって中腰で荒れる息に表情を曇らせた。滴り落ちる汗の黒い点が石段に十を数えたとき、ようやく顔を上げる。

「カエルさーん、また駄目だったー」

 残念な結果に、しょんぼり。根拠はないくせに、なぜだか自信だけはあったからこそ、がっくりである。

 けれど、こんなことで落ち込んでいる場合でないし、そう簡単に落ち込まないのが茄乃である。挑戦はまだはじまったばかり。チャンスはいくらでもある。

「次こそはぁ!」

「茄乃ぉ! 茄乃ぉ!」

「んっ……?」

 声がした。境内のある石段の上からでなく、公園南方にある道路から。巨大な壁のように聳える十階建てのマンションがあり、手前は白いガードレールで保護された歩道。その歩道に黄緑色のエプロン姿の人が口に手を当ててこちらを呼んでいる。

「あっ、お母さんだ」

 自分を迎えにきてくれたのだと思い、『あれ、もうご飯の時間かな?』頭に過った瞬間、空腹を得た。希望だが、夕食はがっつりとハンバーグを食べたい気分である。

「おーい、お母さーん。おーい」

「茄乃ぉ! 亜紀が大変なのぉ! 今すぐお母さんと一緒に病院にいかなくちゃあ!」

「んっ……? お姉ちゃん?」

 意味はさっぱり分からないが、声を荒げている母親の慌てた様子が、切迫さを物語っていた。まだ何が起きたかも分からないのに、早くも小さな胸は強大な力で押し潰されているような緊張感に見舞われている。

(お姉ちゃんが、大変!?)

 胸がどきどきっした。これは『いやなどきどき』である。教科書を忘れたときに感じるものと同じ。予防注射があるときもそうだった。だからこそ、分かる。これからいやなことが待っている。

 張り詰める気持ちに体が小刻みに震え、心がきゅっ! と押さえつけられる苦痛を得た。


 愛名大学付属総合病院の二階。廊下の革張りのソファーに腰かけ、視線を一切動かすことなく、照明が反射するリノリウムの床を見つめる茄乃。表情は冴えない。それは夕食のテーブルに嫌いな椎茸を前にしたときの百万倍だった。

(お姉ちゃん……)

 次々と込み上げてくる思いがあり、最後の線が切れないように、唇を噛むことでなんとか耐えている。でないと、双眸から不安な気持ちが流れてしまいそうだから。

 緊迫した状況に身を置いているからこそ、空間に漂う病院独特の、鼻をつんっと刺すような薬品の匂いは気にならなかった。

(お姉、ちゃん……)

 ただ今は、そこに座っているだけで精一杯。

(…………)

 姉の亜紀は、交通事故に遭った。試合のあったグラウンドの帰り、家がもう目と鼻の先という交差点で、一旦停止を無視した乗用車に撥ねられたのである。救急車でこの愛名大学付属総合病院に運ばれ、現在は医師による診断が行われている。

(…………)

 今日は日曜日だから、両親とも在宅していた。連絡を受けた父親は急いで病院に向かい、夕食の準備をしていた母親はエプロンを外すことも忘れて、青願神社まで茄乃を迎えにきた。ソファーに座る両親とも、家にいるような明るさはなく、静かに流れる時間に溶け込むように黙り込んでいる。

(…………)

 姉の容体に関し、医師が両親に説明しているのを隣に立って見ていたが、説明される難しい言葉に頭がついていけなかった。ただ、両親が家では見たことのない真剣な表情をしていたので、不安を掻き立てるものとなる。

 気持ちが悪い、すぐにでも絶頂の悲しみが訪れる予感がして。

 内側では、黒々とした不安だけが増殖をつづけるばかり。

 怖い。

(……ぁ)

 刹那、廊下の照明が一度だけ瞬いた。反応するように茄乃の体がびくんっと縦に揺れる。連動するよう、脳裏には真っ白なスクリーンが出る。色鮮やかな光が照らし出されたかと思うと、今日のグラウンドでのことが投影された。

(……いや、だよ)

 思い返されるのは、試合終了後のこと。あろうことか見逃し三振で戻ってきた亜紀を罵倒した。納得いかない感情をそのままに、口調を厳しいものにして……あの時、茄乃としては当然のことを言ったと思った……けれど、今にして思えば、見当違いなことを言っていた気がする。応援しているときは、スイングもしないで見逃し三振となった亜紀に、やる気のなさを感じて憤慨した。ただ、それはあくまでも外野から印象で、試合をしている亜紀は必死だったに違いない。

 亜紀は唯一の五年生のレギュラーとして挑み、負ければ六年生が引退となる大事な試合で懸命にプレーしていた。きっと緊張は想像を絶するものだっただろう。真剣だったからこそ、あの最終打席になったのだと思われる。誰だって三振したくて打席に立つバッターなどいないのだから。

 できることなら、あれをやり直したい。傷心する相手に、もうちょっと違う言葉をかけてあげたい。けれど、どうすることもできなくて、ただただ気持ちのやり場がない。

 こんなの、いやだ。こんな気持ちのままお別れなんて、そんなのいやに決まっている。ちゃんと仲直りして、また姉妹一緒にお喋りしたい。お風呂にだって入りたいし、ご飯だって食べたい。家族で旅行に出かけて、同じ部屋で四人並んで横になる……そこから姉がいなくなるなんて、そんなのいやだ。

 いやだいやだいやだいやだ。

(こんなのいやだよぉ!)

 この世から家族の一人がいなくなるなんて、そんなのいいはずがない。

 死んじゃうなんて、そんなのいやだ。

(お姉ちゃぁん!)

 この場は水を打ったみたいに静かなもので、それが余計に不安を助長させていく。次の瞬間、空調の音が大きく聞こえたこと、激しい苛立ちを得た。

 重々しい空気に身をじっと縮め、鼻の頭が熱くなってきた感情を決死な思いで我慢。しかし、茄乃の心臓はそうして悲鳴を上げるみたいに脈動を強めた。

 どくどくどくどくどくどくどくどくっ!

 もはやこの体、自分のものでないみたい。

 こうして正常さを失った体を気持ち悪く思う。おかしくなった自分がいて、この場所は命の火が消えていくかもしれない場所で、茄乃は姿なき恐怖に食べられてしまいそう。

(お姉ちゃん!)

 もし何でも願いを叶えてくれる神様がいるなら、助けてほしい。亜紀のことを助けてほしい。茄乃にはそう願うことしかできない。心の奥底から願いをかける。

 助けてください。

 助けてください!

(お姉ちゃんを助けてください!)

 もうわがままはしません。椎茸だってちゃんと食べるし、お母さんの手伝いも率先してします。算数も嫌いにならないし、宿題だってちゃんとやります。だから、お願いです。助けてください。

 お姉ちゃんのことを助けてください。

(助けてください!)

 けれど、全身全霊を込めた願いを訴えたところで、肌を凍らすような緊迫感は少しも衰えることがない。この場所では、変わることなく時間だけが一定のスピードで流れていく。

(お願い、します、から……)

 遠くの方に見える非常口の黄緑色が、少しだけ色を薄くした気がした。けれど、色はとても大きく滲んでいて、今の茄乃にはちゃんと見つめることができない。

 瞳からは、今にも激情が溢れていってしまいそう。


 なんだか、気味が悪かった。

 それ以上に恐怖を感じた。

 怖かった。

 心が震えて身の毛がよだっていく。

 気がつけば、自由を失っていた。掃除道具入れのような狭い場所に閉じ込められた窮屈さに似ていて、思うように体を動かせない。

 首の根元辺りが、じくじくじくじくっと痛む。体全体は、これまで感じたことのない重苦しいものとなっていた。

 胸には心が引き裂かれそうな不快な思い。大量の汗が全身から噴き出して、真っ黒な暗闇に吸い込まれていく冷酷さに苛まれる。

 やけに喉が渇いていた。それは生命として黄色信号から赤色信号に移行する由々しき事態で、一刻も早く対処する必要がある。だが、全身が雁字搦めに縛られた状態ではどうすることもできない。

 心は、当たり前のように身近にあった大切な輝きが、すでに失われている強迫観念に駆られた。存在にぽっかりと空けられた巨大な穴は、どうにも埋めることができない。世界からは希望ある光が次々と失われ、失われていって失われていって失われていって失われていって……そうして絶望の暗黒だけが残される。

 それはもう、世界そのものから疎まれているように。

 どこからも居場所をなくしたかのごとく。

(…………)

 言葉を発せられなくて、何も見ることができなくて、音を聞くことができなくて、感覚を得ることができなくて……ただ存在は横たわっている。

 暗黒世界。

(……っ)

 と、一瞬、声がした。あってないようなか細いものだったが、静寂のみが支配する空間では耳が痛くなるぐらい大きく響く。

 そう意識を持つことができたから……この絶無の暗黒に変化が訪れた。

(……誰?)

 また聞こえた。すべてを失った暗黒世界に横たえているだけなのに、耳朶には声が届けられる。声はプールに潜ったときのようにぼやけたが、なぜだかそれが今の自分を呼んでいるものであると確信できた。

(……あたし)

 声がする。名前を呼ぶ声がする。

 だから、声を求めていく。

(……ここだよ)

 悪い魔法使いに呪われたみたいに、言葉を発することができない。ただ、思いの強さは自身の存在を強く主張し、世界に波紋を広げていく。

(ここにいるよ)

 ここにいるよ。すべてが真っ暗闇の世界の、ここにいるよ。

 ちゃんとここで生きているよ。

 ここで、力いっぱい、生きてるよ。

(あたしは、ここにいるよ)

 一滴分の思念が生まれ、世界に落ちていく……大きな重圧を受ける背中は波打つようで、大きな変動を迎えつつある異常な世界に、存在が少しずつ色を発していく。

 胸に空いた大きな穴から溢れ出す七色の光が、存在そのものを満たす。それが温かな安らぎとなった。

 ただし、安らぎという安定を得る一方で、その手からは本当に大切なものが消えていく喪失感。

 今あるものは決してなくしたくないのに、ずっとずっと大切にしなければならないものなのに、意識すればするほど、抱いていた輝きが離れていってしまう。それは両手で掬った水が次から次へと指と指の間から零れ落ちていくみたい。

(あたしは、ここに、いる。ここにいるのに……)

 満たされる心と反比例するように、喪失感が絶頂に達した。さまざまな色によって形成された大切な存在は、無色透明なものに化すように消えていく。

 消えていって消えていって消えていって消えていって……その刹那、目の前に姉である亜紀の顔が浮かんだ。

 とてもとても大切な存在。

 なくしてしまいたくないのに。

 なのに。

 消えていってしまう。

(ぁ!)

 胸にあるきらめきが、目の前にいる亜紀の存在を消していく。巨大な太陽によって見えなくなる昼間の星のように、見えなくなる。それは、どれだけ茄乃がもがいたところで止めることはできなかった。ただ一方的に消されていき、世界からいなくなってしまう。

(いや、だ……)

 ようやく見つけられたのに、とても大切な存在である亜紀が消えていってしまう。紅茶に溶ける砂糖のように、見えなくなる。

 消える。

 なくす。

 失われる。

 そんなこと、望みはしないのに。

(っ!?)

 刹那、絶望の闇に突き落とされた。存在した場所の足場が消えて、足掻いたところでどこにも掴まることができず、ただただ落ちていく。満たされた輝きは瞬く間に闇へと呑み込まれた。

 目の前に浮かんでいた亜紀の顔が、しゃぼん玉のように希薄となり、ぱっと弾ける。跡形も残すことなく。

 もうない。なくなってしまった。微塵もかけらを残すことなく、目の前から消えてしまったのである。

(お姉ちゃあああぁん!)

 失った。


「……がぁ!」

 全身がびくりっ! と痙攣した勢いのまま、閉じられていた瞳が大きく見開かれた。そしてその瞳は目の前にいる人物の顔を見つめることに。

 紺色のユニホームの上にある顔、それは耳にかかる程度と短い髪が特徴的な姉の顔。

 亜紀。

「お姉ちゃん……?」

 そこには亜紀の顔がある。ずっと一緒に暮らしている姉である以上、見間違えるはずがない。

 亜紀がいた。

「お姉ちゃん、どうして……?」

 さっき消えたのに?

「…………」

「あー、やっと起きた。お母さーん、茄乃が起きたよー」

「……あれ?」

 視界にある見慣れない天井には煌々と灯る照明があった。眩しいので視線を逸らすと、周囲の白い壁と、規則正しく並んでいるいくつもの扉が見える。

 状況をうまく掴むことができず、巨大なクェスチョンマークが乱舞する思想を無理矢理誤魔化すように、大きく息を吐き出した。反動をつけて勢いよく上半身を起き上がらせると、廊下に設置された茶色のソファーに横たわっていたことを知る。眠っていたらしい。

 着ている黄色いワンピースは、特に背中がぐっしょりと濡れていた。寝汗の量は尋常でなく、首筋辺りが気持ち悪いことこの上ない。きっと見ていた夢のせいだろう。うまく思い出すことはできないが、いやなものだったことは覚えている。

 改めて周囲を見渡し、亜紀の姿を認める。幻でなく、ちゃんとそこにいてくれる。急に頭が熱くなってきた。半分開けられた口を閉じることなく、無意識に動かしていった人差し指には、瞳から溢れた涙が移っていく。

「……あれ? あれれ?」

「ちょっとちょっと、なんであんた泣いてるのよ?」

「知らないよぉ。そんなの知らないよおぉ」

 茄乃は、どうして涙を流しているのか、さっぱり理解できない。不可思議な現象に直面した原因を解明することができず、ただただ首を横に振るのみ。それでも、多くの涙が瞳から溢れてくる。涙腺が壊れたように。

「なんであたしぃ、泣いてるのぉ……」

 上擦る声。乱れる心。不安定となった存在。一瞬にして正常さを失う。

 その異常さ、茄乃では制御することができなかった。

「わあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ」

 泣いていた。躊躇なく。迷うことなく。そうすることが茄乃であるように。後先を一切考えることができず、ひたすらに声を上げて泣く。

「わあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ」

 泣く。泣く。泣く。泣く。

 静まり返った病院の廊下に木霊する声は、世界に大きな波紋を発した。

「わあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ」

 亜紀が無事だった。体の内側には嬉しい気持ちがたくさん広がっているのに、なぜだか涙が出てくる。次から次に溢れてくる。そんなこと、これまで経験したことがない。

 もうなにがなんだか分からない。

 分からない分からない分からない分からない。

 分からないままに、泣くことしかできない。

 泣いて泣いて泣いて泣いて、そうして泣きじゃくることで、ここに存在を安定させる。

「わあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ」

 妙な話だが、自身の泣き声を耳にすると、青願神社で聞いた蝉の声が蘇った。この夏、命を燃やして声の限りに鳴きつづけている蝉もまた、今の茄乃と同じように懸命であった。世界をその音のみで覆い尽くさんばかりに声を嗄らして。

 と、青願神社のことが頭に浮かんだ瞬間、境内に金属バットを忘れていることを思い出した。泣いている状況下で、そんな思考に至る奇妙さが、おかしくて仕方がない。もしかすると、体と感情が擦れ違っているのかもしれない。頭では青願神社のことを考えているのに、とにかく今は泣きじゃくる。

「わあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ」

 一度染み出した泣き声は、まだまだ空間に向かって発せられる。命を燃やすように。

 茄乃は、胸に燻る思いを吐き出していく。それは姉のために。自分が姉の無念を晴らしていく。

「あだじが」

 あたしが。

「お姉ちゃんの分まで」

 お姉ちゃんの分まで。

「ボームラン打つがらねぇ!」

 ホームラン打つからね。

 健気で本気で熱い誓いが空間を震わせた。


 近所の交差点で乗用車に追突された亜紀だが、相手が急ブレーキを踏んだことも幸いし、打撲と、倒れたときに道路についた左手の中指骨折という、全治一か月の診断で済んだ。当然、命に別状はない。

 茄乃は、大切な姉、亜紀を失うことなく、その事実は、どうしようもないぐらい尊いことだと実感した。

 それは小学一年生の夏休みのこと。


       2


 九月六日、月曜日。

「九十五ぉ。九十六ぅ。九十七ぃ。九十八ぃ。九十九ぅ。百ぅ!」

 太陽が西の空に顔を出し、まだ一時間も経っていない。今日も朝食をしっかりと食べて近所の子供と一緒に愛名西小学校に登校する。あれだけ長いと思っていた夏休みはもう終わっていた。

 けれど、茄乃はまだ夏休みの延長にいるみたいに、父親も姉もまだ起きることのない午前六時に目を覚ましている。欠伸混じりに朝食の準備をしていた母親に『おはよぉ!』と元気に挨拶をして、黄色い半袖のパジャマから白いTシャツの黒いハーフパンツに着替える。『いってきまーす!』と玄関に残し、足取り軽く近所にある青願神社にやって来た。

 夏休みにラジオ体操をした青願公園の奥に山のように小高い場所があり、数えきれないほど銀杏の木が生えている。その銀杏を突き抜けるようにして長い石段が存在し、その数は百あった。石段の頂上に青願神社があり、見上げた先にある真っ赤な鳥居が、今日も自分に試練を課すかのようにどっしりと聳えている。

 茄乃は石段の頂上を見据えてから、地面を力いっぱい蹴る。握り拳を作った腕を大きく前後に振りながら全力で駆け上がっていく。先月の自分なら途中で息切れしたが、今日は頂上まで一気に駆け抜けることができた。最後まで石段を数える余裕を持って。

 頂上にある巨大な鳥居の下で、肩を小さく上下させ、瞬発的な運動によって顔を紅潮させつつ、額に浮かぶ汗を拭ったそこには満面の笑みが浮かべる。

「やったぁ。やったよぉ、カエルさん。もう休憩なしでも上がってこれるようになったよぉ。ほらね、昨日のはたまたまじゃなかったんだからぁ」

「……子供の成長、目まぐるしいな」

「えっへん。褒めてもよいぞよ」

 両腕を大きく前後に動かし、ゆっくりと深呼吸。まだまだ汗が引くことはないが、呼吸は整った。心肺機能の急激な成長である。

「カエルさんカエルさん、もう休憩なしでここまでこれるようになったから、バット持っても大丈夫だよね?」

「甘い。それは甘いぞ」

「甘い?」

「ああ。『なんとなく将来サラリーマンだけはやりたくないよなー』っていう中学生の人生設計ぐらい甘い。ふざけるんじゃねー、サラリーマンやるのが、どれだけしんどいか知りもしないくせに。仕事舐めんじゃねーっての。課長からわけの分からん仕事をすぐ振られるし、残業規制はうるさいし。きぃーっ!」

 暫くぶつぶつっと呟いてから、カエルは大げさに、ぐおほんっ! と咳払い。

「いいか、この石段はホームランにつづく最初のステップに過ぎない。つまりはホームランなんてそんな簡単に打つことはできないし、バットを握るにも百年早い。茄乃にはもっともっと鍛練が必要だ」

「えぇー」

 見開かれる瞳。そこに苦情の色が滲む。とても納得いかないものに直面したみたいに。両の頬は蛙のように、ぷくぅーっ! と膨らんだ。

「百年経ったら、おばあちゃんになっちゃうよぉ」

「……いや、比喩だから。安心しろ、実際にはそんなにかからない。おばあちゃんにホームランは打てんだろう?」

「でもでも、階段上がってこれたら、バットのこと教えてくれるって言ったー。嘘つきは泥棒のはじまり。仕事してないからって、泥棒になったら警察に逮捕されちゃうよ。臭い飯食べるなんて、かわいそう」

「最近の小学一年生は『臭い飯』なんて言葉、知ってるんだ……」

 なぜだか大粒の汗が浮かんでしまう。

「いいか、バットを握る前に、まだすることがある。そうしないと怪我をする。怪我したらホームランなんて打てないぞ」

「ぶぅー」

「お前の姉ちゃん、怪我でソフトボールができないんじゃなかったっけ? お前もそうなっていいのか?」

「ぶぅー」

 茄乃は相手への相槌として、下唇を突き出した。最初のは不満を表すものだったが、二回目のは怪我するかもしれない自分への警告が含まれている。

 茄乃は、姉の亜紀が交通事故に遭った八月八日から、この青願神社に毎日通っている。目的は、カエルにバットスイングを教えてもらうため。朝は六時に起きてここまで駆けてきて、夕方も石段にチャレンジするために通っていた。それが昨日、とうとう石段を一度の休憩することなく、一気に上がることができたのだ。ようやくバットスイングを教えてもらえると張り切っていたのに、目の前のカエルには『まだ早い』と首を横に振られた。

 がっかり。

 ただし、姉の亜紀が怪我をしたせいでソフトボールができなくなっているのも事実。だとしたら、同じになるわけにはいかない。今バットを握ることで怪我するなら、怪我をしないための準備が必要。

 なんたって茄乃は、怪我をした姉の亜紀の分まで頑張ることを決めたから。

 ホームランを打つ。

「じゃあ、次はどうすればいいの?」

「そうだな、筋力アップのために腕立て伏せをしよう」

「ウデタタササ?」

「……その『ササ』って何だよ? パンダでも食いにくるのか?」

「んっ? パンダさんがいるの? どこどこ?」

「……いないよ。どこにもいないよ。あとパンダの目ってイメージよりも鋭くて怖いから、じっくり見るんじゃねーぞ」

 苦笑い。

「バットって重たいだろ? お前、散々振り回されてたよな。それは、体が小さくて、力がないからだ。つまり、バットを重たく感じるうちは、まともなスイングなんてできっこない。だから、バットが重たく感じなくなるように、腕力を鍛えるぞ」

「そうすると、どうしてバットが軽くなるの?」

「……軽くはならないけど、軽く感じられるようにはなる」

 社殿の前、カエルは地面に手をついてうつ伏せの状態に。全身の体重を両手と両脚の爪先の四点で支え、肘を曲げて全身を地面ぎりぎりの高さまで下げていく。五回、六回とその動作を繰り返す。姿勢は常に頭部から足先まで一本の丸太のように真っ直ぐ伸びていた。

「これが腕立て伏せだ。どうだ、茄乃にやれるか? いや、きっと今の茄乃にはまだ早いんだろうな」

「そんなことないよそんなことないよー。そんなの簡単だよぉ」

 カエルの真似をして、その場にうつ伏せになり、全身を四点で支える。くいっと肘を曲げ、視線の先が地面に近づいては遠ざかっていく。近づいては遠ざかる。近づいては遠ざかる。それはもう尋常でないスピードで。

 カエルに向ける視線は満足げ。

「ほら、できたぁ」

「……それ、首を前後させてるだけなんじゃ」

 カエルの前で展開された茄乃の腕立て伏せは、横から見ると尻を突き上げた『へ』の字で、肘をちょっと曲げる程度。首が大きく前後に動かす、というもの。やらないよりはましだが、とても『腕立て伏せ』と評せるものでない。それ以前に、小さな子供がしていることとはいえ、なんだかその様は横から見ていると痛々しくあった。

「まずちゃんと一回できるようにならないといけないな。頑張ろうか?」

「うむむ? あたし、カエルさんと同じこと、ちゃんとできてると思うけどなぁ?」

「できてないから。全然。かけらも。微塵も。これっぽっちも」

「うむむ?」

 そうして石段特訓を見事にやり遂げた茄乃は、次のステップである腕立て伏せ特訓がはじまった。目的のバットスイング、その先に待っているソフトボールの試合に出場してのホームラン。成し遂げるまで、まだまだ道程は遠そうである。だが、特訓してくれるカエルに全幅の信頼を置いて、目先に提示された目標に向かって突き進んでいく。

 まずはちゃんとした腕立て伏せを一回やること。


 九月である。二学期である。あの永遠にすら思えた長い夏休みはすでに過去のもの。朝になったら近所の子供と小学校に登校しなければならない。通学路に立つ、まったく緑色をしていない緑のおばさんに元気に挨拶し、校門で迎えてくれる先生にも元気に挨拶して、下駄箱へ。

 茄乃は、北校舎一階にある一年一組の教室でクラスメートとともに授業を受けるが……気がつくと、黒板も机もカーテンも天井から鎖でぶら下げられた照明も後ろのロッカーも掃除道具入れもなく、まったく知らない場所に迷い込んでいた。

 周囲の空間はぼんやりとした白色が目につき、その色によって世界が形成されている。地面がふわふわっと足元が覚束なく、なんだかとても気持ちいい。どろどろっと溶けてしまいそうな思惟に、『いけないいけない、そんなことでは駄目!』と感覚的に分かっているが、冬の寒い日に炬燵に入ったときに襲われる睡魔のように、自身を引っ張る力に抗うことができない。まろやかな快感に誘われるように身を委ねていく。どっぷりと。

 そこでは、力という力を必要とせず、思考力を完全に停止させることができ、とても安らかな気持ちのままに時間が過ぎる。

 一度でもこれを知ったら、もう元の世界に戻れない。抵抗しようとする意思が一切機能しなくなり、ただコーヒーに溶け込むミルクのように色を変えていく。

 と、目の前にいつも特訓してくれるカエルがいた。男性としては大きな瞳を今は細くさせて、今日も毛糸でできた蛙の人形を胸ポケットに入れている。

 茄乃はいつものように特訓をしてもらおうと声をかけたいところだが、思考がまどろんでいる現状では口を開けることもできない。

 カエルの隣には、後ろで髪を縛った大人の女性がいた。茄乃が所属する一年一組の担任、五月女ひかりである。ひかりはカエルの隣に腰かけて、どこか遠くの方を見つめていた。その瞳はとても寂しそう。

 ふと、そこが青願神社であることが分かった。その瞬間、真っ白な空間に社殿や銀杏の木々が浮き上がってくる。しかし、目には特徴的な赤色の手摺りがある木造の社殿を見ることができなかった。だから感覚的に、社殿から二人のことを見つめているのだと察する。

 並ぶ二つの背中は、一定の間隔を保ったまま近づくことはない。そればかりか、その視線が交わることもなく、互いが干渉しないままにそこにそうして存在している。

『おかしいな?』頭に過った。具体的にどこかどうおかしいのかは分からないが、並ぶ二人の後ろ姿にそういった印象を受けたのである。

(そうしたいなら、もっと近づけばいいのに)

 二人を見て茄乃の抱いた感想がそれだった。そう願っているのに、そうしようとしない二人の関係が焦れったくて仕方がない。

 と、次の瞬間、不可思議な現象が起きた。なんと茄乃の体が宙に浮き上がっていくではないか!? 翼のない人類には永久に得ることのない浮遊感を身に、大空へと飛び立っていく。今までいた青願神社があっという間に眼下となり、指よりも小さなものに。

 浮かんでいるのは大空なのに世界はどこも真っ白なもの。ゆったりと体を漂わせていく。それは夏休みに通った学校のプールの水面にのんびりと浮かんでいる感覚に似ていて、とても気持ちよかった。

 頬を撫でる風は心地よく、空間にすべてを預けて、世界の白さをその瞳に映す。

(……っ!?)

 刹那! 猛スピードで巨大な壁に激突したような衝撃に襲われた。浮遊していた体が、上から凄い力で押しつけられるように落ちていく。落ちていく落ちていく落ちていく落ちていく。大空から地上へと落ちていってしまう。

 爆ぜるように暴発する絶頂の恐怖が、小さな体を雁字搦めに縛りつけた。侵される非日常的な絶望は、二度と安息を得られない恐怖を有している。

(わあわあわあわあぁ!)

 どれだけもがいても、全身のあらゆる部位に力を入れて抵抗を試みようとしても、やはりこの星を縛りつける重力からは解き放たれることはない。目前に迫った大地がその瞳に映ったとき、全身ががくんっ! と大きく痙攣した。


(……あれ?)

 ぼんやりした頭で、茄乃は瞳を開けた。そこに映るのは……目の前に見慣れない天井。白色のそこには僅かに黒い染みがあり、ぼんやりする視界ではそれがアゲハ蝶のように見える。意識するまでもなく気持ちが昂っていること、鼓動がいつもより強く脈打っていること、なんともおかしな気がした。

(…………)

 目覚めたばかりで、頭にぼんやりと霧がかかっている。無意識に手の甲で目を擦りながら、視線を動かす。

 すぐ横にはカーテンが引かれた窓があり、直射日光を遮っていてくれる。横たわっているのは真っ白なシーツのあるベッド。窓とは反対側には白色のカーテンが引かれているが、こちらのはベッドを取り囲むもの。

 カーテンもシーツも天井も、取り囲む色は白色だらけ。さっきまで空を飛んでいたおかしな世界みたい。

(ここ……?)

 身に着けているのは襟元だけ赤色の白シャツ。ベッドに面していた背中に大量の汗を掻いていた。不快に感じるも、ここは冷房がきいているみたいで、口を開けたままぼんやりしていたら、やけに喉が渇いていたことに気づく。

(どこだろ?)

 徐々に意識が覚醒していき、頭にかかる霞が晴れていく……横着にもベッドの上に立ち上がり、囲んでいるカーテンを上から覗き込もうとして……背伸びしても身長が足りなく、断念。カーテンの端を探っていき、ちょっと捲ってみた。

 覗いた場所、そこはあまり訪れる場所でないが、だからといって茄乃の知らない場所ではない。

(……保健室だ)

 春の体力測定で訪れたことがある。あの時使用した身長と体重を計測する装置が目に飛び込んできた。隣には視力検査で使う『C』の字が並ぶ視力検査表があるので間違いない。茄乃はあの『C』をすべて見ることができたので、苦戦するクラスメートの気持ちがちっとも理解できなかった。『あんなのただ見ればいいだけなのに、どうしてみんなできなんだろ?』と首を傾げていたこと、鮮明に覚えている。今もばっちり一番下にある小さな『C』が右向きになっていることが分かった。

 ベッド下には、室内シューズが揃えられている。白色で、後ろ部分に『一年一組 相楽茄乃』とマジックペンで書かれている。まだ小学一年生なので自分の名前を漢字で書くことはできないが、『いくら一年生っていっても、自分の名前ぐらいは漢字にしないとね』そう母親が漢字で書いてくれた。名前が漢字で書かれた室内シューズを履いているのは、クラスで茄乃だけ。みんなと違うこと、ちょっと恥ずかしいような、ちょっと自慢なような……ただ、なるべく自分の名前を漢字で書けるように勉強しているものの、難しい字なのでなかなかうまくいかない。

 ベッドから出した宙ぶらりんの足で室内シューズに着地。すとんっと。そのまま手を使うことなくシューズを履く。その辺の器用さはあった。それ以前の横着さも。

「…………」

「あら、起きたみたいね、相楽ちゃん」

 不意に響いた声は、茄乃の位置からはベッドのカーテン死角からのもの。机に頬杖をした女性は、枠なしの楕円の眼鏡をかけ、全身を覆うような白衣を身に着けている。肩までの髪の毛は半分以上白色になっていて、顔に多くの皺が刻まれていた。

「相楽ちゃん、喉渇いたでしょ? ちょっと待ってね、今冷たい麦茶出してあげるから。ああ、こういうのはみんなに内緒ね。知られちゃったら、みんなが押し寄せて麦茶作るの大変になっちゃうから」

 この保健室の主、安藤優子あんどうゆうこ。冷蔵庫から二リットルのプラスチック容器を取り出し、二つのグラスに注ぐ。容器を冷蔵庫に戻して扉を閉めると、裏側がぶおぉんっと唸り声を上げた。安藤は黒いパイプでできた丸テーブルにグラスを置く。

「そこに座って、ほら、早く飲んじゃって」

「……はい、いただきます」

 恐る恐るといった感じでパイプ椅子に腰かける茄乃。床に足が届かなかった。不安定。

「…………」

 保健の先生は、健康診断のときに見たことがあることと、毎週行われる朝礼のときに校長先生の近くにいるのを見る程度。こうして麦茶をご馳走してもらえている相手なのに、行儀が悪いというか、愛想がないというか、なかなか視線を上げることができなかった。

 勧められているので、両手で表面に汗を掻いているグラスを掴む。ひんやりしていて、口をつけると、麦茶はあっという間になくなった。

「ごちそうさまでした」

「駄目よ、相楽ちゃん。こういう冷たいものは、ゆっくり飲まないと体に悪いの。お腹壊しちゃうよ。そういうこと、お母さんに言われない?」

「うむむ?」

「まあ、それはそれとして……どう、もう一杯いるかしら?」

「ううん」

 首を横に振った。一気に飲んだ影響で、腹が少しちゃぽんちゃぽんっしている。

 手持無沙汰で、視線を彷徨わせて横にある体重計を見つめて……じっとしていると、この保健室にいること、謎であった。

「あたし、どうしてここに……?」

 こうして保健の先生と向き合っている状況がまったくもって理解できない。眉を寄せた難しい顔をしながら記憶の糸を手繰っていくと……今朝も青願神社でカエルと腕立て伏せの特訓をして、家に帰って汗を掻いたので頭を洗って、家族揃って朝食を食べて、姉の亜紀と近所の子供たちと一緒に小学校に登校した。一年一組の教室で朝のホームルームを経て、午前の授業を受けて……その辺りで記憶がぷっつりと途切れている。思い出そうとしても思い出すことができない。その部分だけ深い霧に覆われているみたいに。

「どうしてあたし、保健室にいるの?」

「相楽ちゃんね、授業中に眠っちゃったのよ。覚えてない?」

「うむー……」

 そう言われると、なんとなく担任の五月女先生が自分を呼ぶ声が耳に残っているような気もするが……首を横に振る。

「……覚えてない」

「五月女先生があなたを抱えて連れてきたときは、びっくりしたわよ。九月に入って随分涼しくなったのに、熱中症にかかっちゃったのかなって。心配しちゃった」

 安藤は、ゆったりとした動作でグラスに手を伸ばし、麦茶を口に含んでいく。

「昨日は何時に寝たの? 遅くまでテレビ観てた?」

「昨日はね、八時に寝たよ。そうしないとお母さんが怒るから。お姉ちゃんはまだ起きてていいのに、あたしだけ早く寝ないといけないんだもん。ずるいよね」

「怒られるのいやだもんね。じゃあ、今日は何時に起きたかな?」

「六時。ちゃんと目覚まし時計よりも早く起きれたよ。お母さんは起きてたけど、まだお姉ちゃんもお父さんも寝てたんだから」

「あら、えらいわね。でも、学校いく時間まで結構あるけど、テレビでも観てるの?」

「ううん、カエルさんのところで特訓してる」

 夏休みから今日までつづくカエルとの特訓を説明する。姉が交通事故に遭った日以来、朝と夕方は神社に通い、カエルと秘密特訓していること。それは今もつづいていて、今朝も神社にいき、今日から新たな特訓である腕立て伏せに取り組むことになった。

 交通事故に遭って今も包帯を外せない姉の代わりに、いつでも試合に出て、ホームランを打つために努力しつづけている。まだバットを振ることもできていないけど。

 この愛名西小学校では四年生にならないと部活に入ることができず、最低でもあと三年は試合に出るどころかソフトボール部に入部もできない。だが、ホームランに向かってまっしぐらの茄乃には知る由もなく、毎日情熱を持ってひたむきに努力を重ねている。

「お姉ちゃんは今怪我しちゃったから、お姉ちゃんの分もあたしが頑張らないと」

「そう。相楽ちゃんはお姉ちゃん思いなんだね」

「えへへっ」

「でもね、お姉ちゃん思いもいいけど、ほどほどにね。あんまり五月女先生に心配かけちゃ駄目。五月女先生ね、去年とっても悲しいことがあって、そのせいでずっと学校を休んでたの。春になってなんとか仕事には戻ってきてくれたけど、まだあんまりね……」

「先生、悲しいの?」

「大切な人を、事故で亡くしちゃったのよ。相楽ちゃんも好きな人が死んだら悲しいでしょ?」

「うん……」

『死』という言葉を耳にした瞬間、頭が真っ白なペンキをぶちまけられた気がした。先月あった亜紀の交通事故を思い出したから。

 静かな病院の廊下で、押し潰されそうになる苦しい思い。亜紀は指の骨折で済んだが、廊下で待っているときは死を覚悟して、姉を失う恐怖に震えることしかできなかった。家族が死ぬ恐怖は、心をぐちゃぐちゃに壊れそうなほど強烈だったと覚えている。

 けれど、五月女先生の場合は実際に死んだという。きっと茄乃が病院の廊下で震えた以上の苦しい思いに襲われ、すべてが砕けるような心境に陥ったに違いない。そう思うと、自分のせいでいらない心配をかけている現状は、物凄く申し訳ない。

 反省。

 急にしゅんとなり、顔を伏せる。

「……ごめんなさい」

「それは五月女先生に言おうね。心配をかけちゃったんだから」

「うん……」

 と、その時、チャイムが響く。きーんこーんかーんこーん……壁にかけられている時計は十二時三十五分。四時間目終了のチャイム。これから給食だった。

 給食のことを思うと、くぅーっとお腹が鳴る。

「えへへっ。お腹空いちゃった」

「教室戻って給食にしようか。五月女先生には連絡しておくから。今日はね、プリンが出るみたいよ」

「本当? やったぁ」

『プリン』という響きには威力は絶大なものがある。今の今まで落ち込んでいたのに、ぱっと顔を上げたかと思うと、外跳ねの髪をふわふわっ弾ませた。


 その後、担任である五月女ひかりに授業中に居眠りしたことを謝り、許してもらう。

 その際、青願神社にいるカエルについて尋ねてみた。さっき見た夢でひかりとカエルが一緒にいて、とても寂しそうに見えたから。しかし、首を横に振られるのみ。茄乃の説明が『蛙の人形を持ってて、仕事せずにずっと神社にいて、ホームランを打たせてくれる大人の人』だったため、通じなかっただけかもしれないが……茄乃の第六感は、言い様のない引っかかりを得ている。しかし、だからといって具体的にどういうものなのかも掴めておらず、どうしていいかも分からない。

 その後も茄乃はこの引っかかりを抱きながら、小学校と神社の間をいったり来たり。

 本人としては、一日も早くホームランを打つため。

 存在は、行動する影響を周囲に振り撒きながら。


       3


 九月二十一日、金曜日。

 五月女ひかり。二十五歳。職業は教員、愛名西小学校で教鞭を執っている。子供が好きで、教育学部に進学し、教員免許を取得。大学を卒業するとすぐこの職業に就いた。今年で四年目、今は一年生を受け持っている。一年生はとても小さくかわいらしいが、『無邪気』という言葉がちょくちょく暴走して、収拾がつかなくなる。相手をしていると精神的はもちろんのこと、肉体的に疲労することに。けれど、やっぱり子供と接していると、大変な思いをすることよりも楽しい気持ちになることの方が多い。想像するだけで、思わず口角が上がっていく。ひかりにとってこの仕事は、まさに天職であった。

 ひかりは昨年、大きな過ちを犯した。去年は六年生を受け持っていたが、あろうことか秋からずっと職場を放棄したのだ。自宅に籠り、結局卒業式にも出なかった。六年生は体も大きく、多感な年頃。職場放棄したこと、いろいろと迷惑と苦労をかけたと申し訳なく思うも……けれど、当時はそんな気配りもできない。ただ大切なものを失った悲しみに打ちひしがれ、自殺も考えたぐらいだったから。

 昨年の秋、ひかりは婚約者を事故で亡くした。ショックは世界からあらゆる光が奪われたよう。衝撃はひかりの思想をずたずたに引き裂き、一生立ち直ることができない深い傷を負った。ろくに未来を見ることができず、寝そべった場所から起き上がることもままならない。現実から目を逸らすばかりで、暗い場所で心を閉ざすことしかできなかった。

 しかし、自宅で膝を抱えていたところで、どうにもなるものではない。なくしたものは、一生取り戻すことができない……けれど、時間の経過とともに婚約者を失ったショックを少しずつ和らいでいることを知る。婚約者を失った瞬間は二度と立ち直れないと思われた心のざわめきが、気がつくと薄らいでいることに戸惑いもした。刺々しかった気持ちがすっかり穏やかなものになって……そうして新年度、ひかりは再び愛名西小学校に戻った。絶望を乗り越えて。

 だからこそ、仕事にはより真摯に取り組もうとしている。去年受け持っていた六年生を送り出すことができなかったのは、どれだけ懺悔したところで取り戻すことはできない。その罪意識が、ひかりにより仕事への情熱をたぎらせていく。

 簡単には癒えることのない婚約者を亡くした悲しみを、仕事をすることで誤魔化しているだけかもしれないが。いつまでも気持ちの整理をつけることができずに。


 昨年受け持った六年生と比べて、就学したばかりの一年生に理屈を重ねてもなかなか伝わらない。教師というよりは保母になった心境で接し、どうにか一学期を無事に終えることができた。担当クラスは一年一組で、どの学年の子供よりもかわいらしい分、手間のかかる児童ばかり。一学期を無事に過ごすだけでも凄まじい疲労感を得る。しかし、大きな充実感も抱くことができた。

 一か月半の夏休みを経て二学期がはじまった。またあの賑やかな日常が帰ってきたのである。子供たちを明るい未来へ導くために、その身を粉にして教育に挑んでいく覚悟。

 だというのに、ひかりには心ここにあらずといった空白状態に陥ることがあった。始業のチャイムが鳴っていても、職員室の席に座ってぼぉーっと窓の外を眺めたり、教科書を間違えて持っていったり……さすがに授業中にそんなミスしていないと思うが、客観的な観測ができないため、怪しいものである。ちゃんとしないと駄目だが、やはりそう簡単に割り切れるものでない。それぐらい、昨年受けた衝撃は大きなものだった。失った愛は五月女ひかりの大部分を占めていたのである。

 そんななか、ひかりが担当する一年一組には、夏休み明け早々にある問題が起きていた。クラスの女子、相楽茄乃が授業に居眠りしてしまう。そんな児童、教師生活四年目にしてはじめてのこと。去年受け持った六年生にだっていなかった……中学生ならともかく、小学生にはいない。実際、他の教師に尋ねても、返答は同じもの。

 由々しき事態である。一年生からそんな授業態度を取っていては、この先が心配。健全な成長を促進するためにも、一刻も早く手を打つ必要があった。

 ひかりはその児童を放課後に職員室に呼び、居眠りする事情を尋ねる。すると、眠たくなった原因は夜更しをしているとか授業が退屈とか、そういった気の抜けた理由ではないことが判明した。その点については一安心。

 本人は朝夕とソフトボールの練習をしていて、その疲れが出たのだという。先月交通事故に遭った姉の分まで自分が頑張るのだと張り切っており、輝く瞳で言われると、やる気に水を差せない。『カエルさん』という正体不明な人物が関係していることは少し首を傾げることになるが、きっと近所に世話好きな人がいるのだと気にしないでおく。『カエルさんのこと、知らないの?』と問われたが、知る由もなかった。ただ『蛙の人形を持っている』という部分に、惹かれるものがあったが……ともあれ、授業中の居眠りではあるが、理由が理由だけに頭ごなしに叱ることはできず、口頭注意のみ。『同じことがないように』と。

 この時、注意するのにもっと違う方法があったのかもしれないが……曖昧に処理することを選択した。この辺りが、昨年のことを引きずって今に集中できていないことを表していたのかもしれない。


 いよいよ九月十八日を迎える。昨年、突如として生きていく希望を失った絶望の日。

 華本航空五十二便墜落事故から丸一年。テレビでは追悼の追悼番組が放送された。遺族は中国へ渡り、飛行機が墜落した時刻に黙禱を捧げたという。婚約者の両親もそうしたみたいだが、ひかりは仕事を理由に断っていた。

 ここ最近、心の水面に去年帯びた絶頂の悲しみが再浮上することに脅える日々。職務を放棄した去年を繰り返すわけにはいかない。テレビを観るとまた塞ぎ込んでしまうので、なるべく何も考えることなく、外出することもなく、ただ部屋でじっと過ごしていく。せっかくの休みなのに、不健康な時間の過ごし方しかできなくて……翌週になると、まだ心に重たいものを抱えながら職場に足を運ぶ。

 意識外の部分で不安と恐れが風船のように膨らんでいたのかもしれない。些細なことに苛立つようになり、それがどうして許せなくなって、児童を怒鳴り散らしてしまった。

 標的は、授業中の居眠りを繰り返す茄乃。再三注意しても改善がみられず、クラスメートの前で執拗に怒鳴りつけた。だからといって溜飲が下がることはなく、ついにはその原因すら排除しようと考えたのだ。つまりは、放課後に茄乃に特訓しているという『カエルさん』に会いにいくことにしたのである。

 この時、なぜ得体の知れない人物に会おうと思ったのか、よく分からない。児童のことなので、通常であれば両親に面会するところであろう。しかし、ひかりは茄乃をそそのかしている『カエルさん』にどうしても会わなければならない気がした。

 いや、もしかしたら、どこかで惹かれていたのかもしれない。『特訓』について、茄乃が実に楽しそうに話す相手のことを見ておきたい気持ちが芽生え……本人としては児童を疲労させて生活に支障を与える人物に遺憾の意を表しているが……ともあれ、学校帰りの茄乃とともに特訓しているという青願神社に向かった。『怒』の感情を昂らせ、鼻息を荒く、足取りを強くして。いつもより歩幅は広い。


 青願神社。ここはひかりにとってとても思い入れのある場所。意識すると、もしかしたら『カエルさん』という人物に会いたいわけでなく、久し振りにこの場所を訪れてみたかったのかもしれない。昨年以来、足を運んでいなかったから。

 あの日以来。

 このかけがえのない場所に。

 僅かに心が痺れていく。

「……早いですよ、相楽さん。ちょっと待ってください」

 青願神社は小高くなった場所の上にある。具体的な数字を示すと、百段ある石段の上。そこを赤いランドセルを背負った茄乃は一度も休むことなく元気に駆け上がっていったのだ。ひかりにとっては目を見張る光景。『さすがは毎日特訓しているだけあるわね』と思わず感心するぐらい……いや、注意するためにここを訪れたので、感心している場合でないと慌てて首を振った。

 運動なんて高校を卒業して以来していない。跳ねるように駆け上がっていく茄乃についていけず、石段を一段ずつ上がっていくことで精一杯。ここまでの憤りはすっかりどこか飛んでいっており、ただ今は『石段』という自身の前に立ち塞がる試練に挑んでいく。

 一歩ずつ、着実に。

「ちょ、ちゃんと待っていてくださいね、すぐいきますから」

 九月も下旬となり、あの強烈だった夏の暑さが消えている。朝夕などは少し肌寒いぐらい……だというのに、上着はまだ半袖なのに全身に激しい熱を帯びていた。紺色のロングスカートが吹いてきた風に大きく靡いていく。頂上を見上げると挫けそうになるので、目の前にある次の段だけを意識して、一歩ずつ足を動かす。一段上がって、一段上がって、一段上がって、一段上がって、後ろで縛った髪がリズム悪く揺れていくのを繰り返して……どうにか頂上にある赤い鳥居に辿り着いた。通勤用でなく、体育用の運動靴を履いてきて正解である。

 走ったわけでないので息が切れることはないが、それでも鼓動の周期は正常のものと比べると速い。苦しくはあるが、どこか心地よい感覚もあった。

 とはいえ、まさかこんなことで体力低下に直面しようとは……単純にショックだった。意識としては通勤する際に見るスカートの短い女子高生と変わらない気でいたが、石段を上がった程度でこんなに苦しくなるなんて……その身に、歳月が流れていることを痛感させられた。『若い若い』と思ったところで、本物の若さは気づかない間に失われていたようである。その認めたくない事実を自分の体に突きつけられた。

 吐息。

(変わらないな……)

 石段の頂上にあるこの青願神社を訪れたのは、昨年の四月二十三日以来。今でもその日付をはっきり覚えているには理由がある。あの日、この場所がひかりにとってかけがえのない場所となったから。だから、その日が特別な記念日となり、この場所には強い思い入れがある。思い返してみても、胸がはち切れんばかりに膨大な希望の光を放っていたと思うし、今も心に深く刻まれている。

 だがしかし、あの時発したその光は、もうなくなった。世界中を探したところで、もう二度と見ることは叶わない。

 失われているのだから。

(…………)

 ひかりが立っている赤い鳥居から、真っ直ぐ飛び石が木造の社殿まで伸びている。境内には多くの銀杏の木が生えており、青々とした葉をつけていた。一か月もすれば、眩いばかりの黄色に染まることだろう。この神社で催される『銀杏祭り』は有名で、県外からも観光客が訪れるぐらい。

(…………)

 歩いていく飛び石の左手には屋根つきの手洗い場があり、銅製である龍の口から水が吐き出している。横にはいくつかの絵馬が飾られていた。正月には多くの参拝客で賑わうのだろうが、時期外れである今は誰もおらず、閑散としている。

(…………)

 前回訪れたときと違い、今回は心の中心に埋まることのない真っ黒な穴が空いている。どんよりとした雨雲を抱えている苦々しさ。

 その口からは、自然と溜め息が漏れていく。

「それで、相楽さん、『カエルさん』っていう人はどこにいるんですか?」

 前方には、まだまだ元気に跳ねている半袖のシャツにショートパンツ姿の茄乃がいる。外跳ねの髪を上下させて、きょろきょろと忙しなく首を動かす。『あれれ、おかしいなぁ?』と呟きながら。

「どうしましたか? いつもここで特訓してるんですよね?」

「カエルさん、いつもはそこにいるんだけどなー。どうしちゃったんだろう? うむー……五月女先生、ちょっと待ってて。あたし、ちょっと捜してくるから」

「あっ、ちょっと、相楽さん」

 言うが早いか、茄乃はロケット花火のように社殿の向こう側へと駆けていった。石段のときもそうだったように、今のひかりに追いつけそうにない。その口からは、またもや出したくもない息が漏れる。

 はあぁー……。

(…………)

 ひかりは、手洗い場で口を漱ぎ、喉の奥へと流れていく冷水を感じることで、上昇していた体温を抑えることができた。

 周囲を見渡してみるが、銀杏の木々へと消えた茄乃が戻ってくる気配はない。スカートのポケットから財布を取り出し、社殿正面にある賽銭箱に百円玉を入れる。目を閉じて手を合わせるが……祈ることが思いつかなかった。叶えることのできない願いなら、今の自分を大きく占めているのに、それはどうしたところで叶えられないもの。例え全知全能の神様の力を借りたとしても無理である。死者は断じて生き返ることがないのだから。

 真っ白な頭のまま、合わせていた手を下ろし、瞼を上げた。

(…………)

 賽銭箱の横には地面から一メートルの高さに足場があり、目立つ赤色の手摺りがある。足場に腰かけて、社殿を背にして飛び石の奥にある真っ赤な鳥居を目に映していく。

 社殿に腰かけようという横着な発想、普段のひかりには存在しない。にもかかわらず、行為に迷いがなかったのは、去年もまったく同じことをしたから。今と同じように腰かけ、正面にある鳥居を見つめて。

 ぐいっと視線を上げると、頭上には銀杏の葉の隙間に見える真っ青な空。注意してみると、少しずつ赤色を滲んでいるのが分かった。夏が過ぎて、日はどんどん短くなっていく。季節の移ろいを意識したとき、小さな切なさが目の前を通り抜けていった。

 遠くの方からチャイムが聞こえてくる。きーんこーんかーんこーん……それは学校のチャイムと同じだが、決して学校のものではなく、近くの会社から流れてくるもの。ここまで届くほど、学校は近くない。

(……こんな感じだったかもしれないな、あの時も)

 一緒にきた茄乃がいなくなり、ここにはひかり以外、誰もいなかった。先月なら蝉の声があっただろうし、もう少しすると秋の虫の音が聞こえるかもしれない。だが、今は水を打ったみたいに静まり返っている。透き通るぐらい澄んだ空気と、清涼感ある風に身を漂わせるひかりは、多くの人間によって形成される社会から押し出された気分がした。

 夏の暑さを失った風が、周囲の木々をざわめかせていくと同時に、後ろで縛った髪を大きく揺らしていく。

 胸に、僅かながら失われた思いが灯った。

(……颯史さん)

 この場所を訪れたからこそ、普段は意識しない奥底に閉じ込めた思いが蘇っていく。

 ひかりは社殿の手摺りに壁に背を預け、両膝を抱える。

 絶頂の切なさを孕ませて。

(…………)

 瞼を閉じていくと、その意識は過ぎ去った世界へと飛翔した。

 あの日へと。




       ※過去


「全国に千三百もあるんだってさ。凄くない?」

「何がです?」

「これ」

 さきほどまでは茜色が空を鮮やかに染め上げていたが、今は東の空から徐々に広がる闇色が勢力を強めつつある。時間帯が影響しているのか、人気のない静かな境内には、地面を指差している男性、山下颯史。下に向いているその指は、真っ赤な鳥居からつづく飛び石ではなく、この神社そのものを示していた。

 周囲にある木々を騒がせる風により、耳にかかる髪を揺らしながら、男性としては大きな瞳を隣人に向けていく。

「青願神社って、全国で千三百もあるんだって」

 紺色のスーツの袖から出た右手は、無糖の缶コーヒーをゆっくりと口に運び、腰かけている木製の社殿に置いた。

「凄くない?」

「どういうことですか?」

「確か富士信仰っていうやつらしくて、その、富士山を神として祀ってるとか、その他を祀ってるとか……なんかいろいろあるらしい。で、神社は主に富士山の麓に多くあるらしいけど、青願神社っていう名前の神社がさ、全国に千三百もあるんだってさ。凄くない?」

「凄いかどうかは……本当ですか、その話?」

「まあ、嘘だけど」

「…………」

「いやだな、冗談じゃん、冗談」

「……もしかして、そんなことのために呼んだんですか!?」

 ぱちぱちぱちぱちっと瞬きを繰り返した直後に、大きく瞳が見開かれる女性、五月女ひかり。昼休みに連絡があり、『大事な話がある』と仕事後に呼び出されたと思ったら、内容がそれであった。今日は金曜日で、そのような理由なら、明日だってよかったはず。いや、それ以前に連絡してきた電話で充分。

「…………」

 季節は春から初夏に移ろうとしている。だが、朝夕はまだ肌寒い。茶色のワンピースの上に薄い上着を羽織り、得心のいかない状況に置かれていることに、両肩を大きく上下させる。口から特大な息が漏れていった。

「……わたし、今日、連休明けのテスト問題を作る予定でした」

 ひかりは小学校の教師で、現在は六年生を受け持っている。来週からはじまるゴールデンウイークが明けると、国語と算数と社会のテストをしなければならない。生徒の大半は公立の中学校に進学するが、私立受験する生徒も一部おり、一学期の成績はとても重要になってくる。である以上、成績に大きく反映されるテスト問題作成は慎重に行わなければならないのだ。本音としては、教師生活三年目のひかりには少し荷が重い。だからこそ、時間に追われることなく余裕を持って進めようと計画していた。

 つまりは、今日は大事なテスト問題制作をキャンセルしてまでこの神社にやって来た。『どうしても伝えたいことがあるから』と昼休みに電話で呼び出されて。わざわざ。こうして。自分の足で。長い石段を上がって。

 だというのに、伝達事項がこの神社についてのうんちくについて、の嘘……もっと輝くようなことを期待していたばかりに、がっくりにがっかりである。

「そんなおもしろくもない冗談を聞くために、わたしはここにいるんですか?」

「しょうがねーだろ……でも、ここは二人にとって大事な場所だから」

「……どうしてわたしたちにとって大事な場所なのかが理解できないです」

 それでもこのやり取りによって口元が緩んでしまうから不思議である。ひかりはオレンジ色の外灯が煌々と光る敷地内に目を移す。

 今こうして並んで腰かけているのは、木造建ての社殿で、地面から一メールの足場。後ろには手摺りもあるのでもたれかかることもできるが、そうせずに背筋を伸ばしている。

 右手には賽銭箱と巨大な鈴があり、社殿を使わせていただくという意味で、賽銭箱にはさきほど百円硬貨を入れておいた。ついでに二人のことと受け持っている児童の健康と繁栄も。考えてみると、賽銭百円で随分と図々しかったかもしれない。

 社殿からは真っ直ぐ飛び石が巨大な鳥居までつづいている。高い場所で太いしめ縄のある真っ赤な鳥居の向こう側には百段ある石段があり、下には大きな公園があった。耳を澄ますと、さきほどまであった子供のはしゃぎ声が聞こえなくなっている。時間が時間だけに、まだ遊んでいるようなら、教師という立場上注意しなければならないが、できることなら叱りたくはないので、そうしなくて済んだことにほっとしている。

 神社には空に向かって枝を広げる多くの銀杏の木があった。どれもひかりの何倍もある大きさで、秋には神社全体が黄色い絨毯に覆われるに違いない。

 鳥居と社殿とつなぐ飛び石の西方には屋根つきの手洗い場がある。銅製の龍の口から水がちょろちょろと出ており、長い柄のついた木製の勺が、きれいに二つ並べられている。手洗い場の横には参拝者による絵馬が飾られているが、時期的にその数は両手で数える程度しかなかった。

 風が吹いた。銀杏の枝を揺らすとともに、ひかりの後ろで縛った髪を揺らしていく。手で押さえながら、静かでまったりとした空間に、ぽろっと零すように言葉を生み出す。

「お仕事の方がどうですか? この前『うざったい』みたいなことを言ってた上司の方とは、うまくいってますか? 駄目ですよ、喧嘩なんかしては」

「相変わらず厄介なことを振られまくってるよ。あっという間に仕事振られて、二、三日したらもうフォローされちゃうからね。サラリーマンは辛いよ」

「公務員だって大変ですよ。子供はとにかく元気ですから、ついていくので精一杯。そういうのを見ていると、わたしも小さい頃はあんなだったのかな? って不思議に思います。今からは想像もできませんね」

 視線を上げた。何もない虚空に児童の顔を思い浮かぶ。

「子供の頃に見てたものとか、考えてたことって、覚えているようで覚えてないものですね。児童に接していて、ああいった純粋さがいつの間にかなくなっている、って痛感させられると、一抹の不安が過るといいますか……少し寂しい気持ちになってしまいます」

「……おいおい、えらい感慨深い話になってきたな。子供からセンチメンタルが伝染されてるんじゃ? けどさ、そんな風に思えるだけでも、ひかりにとっては今の仕事が充実したものなんだろうな。『大変だ大変だ』って割りに、楽しそうだし」

 颯史は隣人ではなく、茜色を失うつつある鳥居の向こう側の空に視線を移してから、次の言葉を重ねる。

「今度さ、中国で工場が新設されるんだ。もろもろの書類や手続きが必要になって、大変。で、秋ぐらいには現地に足を運ばないといけないんだよね。それで、その、えーと……今日って何の日か知ってるか?」

「……随分と話題の変わり方が唐突ですね。違和感しかありませんでした。急にどうかしたんですか?」

「今の、そんなに変だったか?」

「はい。その自覚が必要なほどに」

 苦笑するひかり。斜め上に視線を動かし、思考回路の電源を入れる。

「今日は四月二十三日、金曜日ですね。来週からいよいよゴールデンウイークに突入です。テスト問題を頑張って作らないといけません。あー、どうしましょう……えーとですね、うーんと、今日はお互いの誕生日でもないですし、付き合うことになったのはわたしの誕生日ですし、二人で沖縄旅行にいったのは冬ですし、ボーナスで回ってないお寿司を食べたのは去年の十二月のことですから……今日ですか?」

「二人にとってとても大事な日のはずなんだけどなー」

「大事な日ですか……」

 ひかりは右手の人差し指でこめかみをとんとんっと刺激する。颯史と出逢った高校一年生の頃から、今日までの主だった行事を時系列順に思い浮かべ、心のスクリーンに次々に投影させるが……来週からのゴールデンウイークの思い出なら思い当たるものがあるものの、『四月二十三日』に該当する記憶を見つけられなかった。

 小さく唇を噛みしめ、気まずそうに視線を下げる。ついに心のスクリーンは真っ白となり、上映が終了。『二人にとって大事な日』と言われているだけに、思い出せないことが悔しい。

「ごめんなさいです、覚えていません」

「じゃあさ、質問していい? どうしてひかりは結婚しないの?」

「……えーと、また話題が変わりました? って、よりにもよって結婚ですかぁ!?」

 ひかりの誕生日は一月二十日。次にそれを迎えると二十五歳になる。少し前なら結婚なんてまだまだ先で現実味なかったが、ちらほらと同級生からその報告を聞く現在、実に由々しき問題である。母親には父親がいるように、社会的に認められた終生に渡る相手を見つけなければならない年頃になったということだろう。最近『結婚』という言葉に敏感になっているのは否応ない事実だし、今だって反射的に眉がぴくりっと反応したぐらい。

 ただ、そんな質問を隣人にされるとは思ってもみなかった。現時点において、結婚相手の最有力なのに。

 ひかりは眉間に力を入れ、唇を尖らせていく。

「結婚願望ぐらいありますよ。ただ、これは一人ではどうすることもできないことですからね。できることなら、早く幸せになりたいものです。あーあ、どうしたものでしょう?」

「幸せね。幸せか。ふーん……ひかりの幸せって、どういうのだよ?」

「幸せは、幸せですけど」

 改めて問われると、返答は難しい。『幸せ』というものを漠然と追い求めて生活しているのだろうが、言語化しようとすると、なかなかうまくいかない。

「そうですね、互いに支え合えるような相手を見つけて、その人と結婚して、生涯同じ時間を過ごしていきたいです。子供もいて、家族で一緒にご飯食べたり、お喋りをしたり、お休みの日はいろんな所に遊びにいきたいですね」

「へー、ひかりの幸せって、随分と庶民的なんだな」

「……庶民ですから」

 自分の身の丈が分かっている。高級マンションでブランド物に囲まれる生活とか、豪華客船で優雅に世界一周する生活とか、そんな生活は縁がないと思っているし、そもそも魅力を感じない。ひかりは、両親とともに生活してきた時間を、今度は自分が作りたかった。

 きっとそれが、これまで明確に意識したことのない『幸せ』というものなのだろう。この瞬間にそう確信した。

「颯史さんはどうなんですか? 颯史さんの幸せを教えてください」

「俺のは単純明快だぜ」

 颯史は、隣にいる相手ではなく正面を向いたまま、さも当然のことのように口を開ける。

「俺の幸せは、お前が幸せになることだよ」

「……えーと」

 瞼がぱちぱちっ。告げられたことに、ひかりはちらっと相手の横顔を見つめてから、また同じように正面にある鳥居を目に。

「なんか、その、そう言っていただけて嬉しいです。ありがとうございます」

「じゃあ、そういうことだから」

「どういうことです?」

「結婚するぞ」

「……はい」

 体温上昇を感じながら、ひかりの視線は徐々に下がっていく。華々しい歓喜の渦が自身を覆い尽くしているが、今は感情をぐっと噛みしめるように身動きしない。

 視線の先には飛び石と茶色い地面があり、包まれる膨大な歓喜の渦に、恥ずかしいやら幸せやらで、顔を上げることができなくなった。胸に手を当てなくても心臓の鼓動の周期が乱れまくっているのが分かる。鏡を見ればきっと秋の紅葉のように紅潮しているだろう。

 心を落ち着かせるように意識して大きく息を吸い込み、止める……いつまでも下を向いているわけにはいかない。一度しかない人生において、今はとても大切な時間。この瞬間を一生心に刻んで生きていく。だからこそ、俯くばかりでなく、しっかり相手の顔を見つめなければならない。

 これからともに歩んでいく愛しい人を。

 見つめていく。

「んっ……? ぷっ」

 瞬間、吹き出した。

「……颯史さん、耳が真っ赤ですよ」

「そ、そりゃ、緊張したからな、昼からずっと」

「昼からですか?」

「そうだよ。お前に電話してからずっと。昼飯食ってたら、なんとなく思い立ってな、今日プロポーズしようって。理由はよく分かんないけど、『思い立ったら吉日』って言うだろ。思いを今日完全燃焼させたくてさ、もう居ても立ってもいられなくなった。悪いか?」

「いえ、嬉しいです」

「さっき言ったけど、これが今日どうして伝えたいことだから」

 満面の笑み。

「ほらなっ? この神社は二人にとって大事な場所だし、四月二十三日は特別な日だったろ?」

「あー、そうなってしまいましたね。一生忘れられない日です。ずっとずっと大切にしていきたいと思います」

 紅茶に溶けるミルクのように、とろけそうになるほどの温かさに見舞われた。これほど颯史の隣にいたいと思ったことはないし、爆発せんばかりの感情の昂りは心地よく、どうあったところで緩んだ頬を元に戻すことはできない。

 生きてきたすべてが、この時空に集約されている。

「プロポーズって、人生の一大イベントで、どこからともなく花火が打ち上がるような大々的なものだと思ってました。けど、やってみると結構あっさりしてるんですね。こういうものなのでしょうか?」

「こういうものだろ。密かに花火師でも用意してれば別だけど、テレビじゃあるまいし」

「あらら、随分とあっさりしたコメントですね。昼間からどきどきしてたくせに、そんなこと言うんですか?」

「……おかげで今日は仕事にならなかったよ」

「ぷはははっ」

 ひかりは社殿の足場に膝を揃えて、相手と正面から向き合っていく。

「颯史さん、これからもよろしくお願いします。あの、その、なんといいますか、不束者ではありますが」

「知ってるよ、そんなの」

「……グーで叩いていいですか?」

 力の籠ったひかりの言葉が、この地に存在を刻みつけるように、色濃く空間に伝わっていった。

 ふと見上げれば、すっかり茜色を失った夜空に、いくつか星が瞬いている。そうして新たなスタートラインに立った二人を祝福しているように。


 恋人からのプロポーズを受け、ひかりは婚約をした。相手はもちろん、颯史である。これからの時間をともに歩んでいく。

『善は急げ』という言葉を地でいくように、翌週のゴールデンウイークに互いの両親に挨拶を済ませ、来年の六月に結婚式を予約。職場にも報告し、職員室のみんなに祝福してもらったが、受け持っている六年生の生徒には内緒にした。私立受験を控える大事な時期を迎える児童もいることだし、できることなら、卒業式で発表しようと思った。みんなを驚かせるために。みんながどんな顔をしてくれるのか、三月が楽しみである。

 まだ一緒に暮らしてはいないが、それでも相手のことが強く感じられるようになった。きっと気のせいなのかもしれないが、けれど、心のどこかでこれまでにないつながりを持つことができた気がする。

 これから、幸せになる。二人でともに、輝ける未来に歩んでいって……そう疑うことなく夢想していた矢先、颯史から出張の話が出た。事業拡大による新工場の立ち上げのため、中国に一か月間滞在するという。

 婚約したばかりの身としては、一か月間会えないのは寂しいものがあるし、慣れない海外での生活が心配でもある。だからひかりは、一か月とはいえ、海外生活を送らなければならない颯史のことを案じて、お守りを兼ねた人形を作って渡した。『うわっ、駄洒落なんだ!?』と言われたが、ちゃんと受け取ってくれた。

 そして九月十八日を迎えることとなる……輝かしい幸せが、音を立てて崩壊した瞬間を。


 九月十八日。日本列島には朝から台風十八号が接近していたが、颯史の乗る華本航空五十二便は無事に離陸……だからこそ、颯史が持つお守りに込めたひかりの願いは、叶えられることはなくなった。

 ひかりはその日、暴風警報が発令されたこともあり、一日中家にいた。土曜日で、持ち帰った先週行ったテストの採点に励んで……窓を見ると、横殴りをするような窓を強く叩く暴雨に、なんとも気の重くなる。

 そして、午後四時を過ぎ、雨も小降りとなり、そろそろ夕食の買い出しにいこうかと準備をはじめたとき、電話が鳴った。相手は颯史の母親。告げられた内容は、颯史の乗った飛行機が墜落したというショッキングなもの。ひかりが存在する世界はあらゆる色を失い、時間がこれまでにない方角へ進んでいく錯覚を得た。

 緊迫した気持ちに、一人暮らししていた部屋から颯史の実家までタクシーを使ったのか電車に乗ったのか、それすら覚えていないが……すぐにでも崩れそうな震える思いで、颯史の母親とともにテレビに釘づけとなる。

 テレビ画面で、『山下颯史』の名前を見つけた。がたがたがたがたっ! と世界が大きな音を立てて崩れ、漆黒の闇に覆われていく。

 絶望。

 二週間後……颯史の遺体と対面。黄色く変色したそれは、ひかりの知るどの颯史とも違った。だからこそ、とても受け入れることができない、颯史が死んだなんて。

 葬儀で多くの花に包まれる遺影の写真は、やさしい笑顔を浮かべている。

 飛行機事故の影響で、多くのマスコミが会場にいた。静粛な場だというのに、容赦なくカメラのストロボが焚かれ、婚約者であるひかりは取材を依頼された記憶はあるが、どう対応したか覚えていない。

 事故は、定期点検時に実施した修理が不適切であったことが原因とされた。被害者の会が発足され、航空会社相手に話し合いが多くもたらされる。

 飛行の乗客乗員は四百八十一名で、死者数は四百八十名であった。つまり、奇跡的に生存者が一名いたことになる。

 テレビ報道によると、なんと颯史はその一名の命を救ったという。中国東部の山間に墜落した飛行機の残骸から、颯史は座席に挟まれるようにして、唯一の生存者である女の子を抱えて死んでいるのを発見。そのことから、颯史はあの墜落事故の被害者としても特別扱いとなり、葬儀にも多くの報道関係者が訪れていた。

 颯史がその身を挺して女の子の命を救った。ひかりが渡したお守りをポケットにしまったまま……ただ、世間が美談として騒いでいるだけで、ひかりには一切関係ない。どういった状況であれ、大切な婚約者を失ったことに変わりはしないのだから。

 ずっと仕事を休んでいた。あらゆることに無気力となり、覇気を失った。食事もろくに摂ることができず、ただただ部屋の隅で丸くなって途方に暮れるのみ。

 受け持っていたのは六年生という大事な児童だったのに、私情によってそれを投げ出してしまった。逃げるように実家に帰り、自室に籠る毎日。

 結局、卒業式も出ないまま、受け持っていた六年生とお別れとなった。


 未来を見つめることができない曇った瞳で過ごす毎日。自分を包み込むのは暗黒の闇しかないと思っていた無力な時間に、唯一の望みがあった。それは、飛行機事故で助かった女の子の存在。できることなら、会ってみたかった。会って話してみたかった。会って、最愛の人の最後を聞いてみたかった。

 未成年のため、女の子について詳細な情報は報道されていない。助かった命なのだ、きっと今も元気に生きているのだろう。けれど、情報がないため、女の子と会える可能性は皆無。マスコミに問い合わしたところでどうにかなるとは思えない……ただ、部屋で引き籠っているだけでは、絶対に会えないと思った。向こうから自分の部屋を訪れてくれることなどあるはずないのだから。

 あってないような僅かな光かもしれないが、会える望みがあるなら、自分から動こうと思った。だからこそ、籠っていた部屋から外に出たのである。そうして新年度から職場に復帰。仕事をしながら、いつか女の子に話が聞ける日がくるのを願って。

 そこに生きる希望を見出した。

 そしてひかりは、愛名西小学校一年一組を受け持つこととなる。相楽茄乃という児童がいるクラスを。


       4


 絶望を突きつけられた飛行機事故からすでに一年という歳月が過ぎている。ひかりは心の整理をつけられないままに、ここ一年、無理してでも日常というものを取り戻そうと足掻いていた。それが証拠に、ふとした瞬間、颯史とどこかで会えるんじゃないかと思ってしまう。狭い路地だったり、交差点の向こう側だったり、マンションの前だったり、近所のスーパーだったり……こちらを見つめて、歯を出して大きく手を振ってくる颯史がいる気がして、つい最愛の人を捜してしまう。絶対に見つけることはできないのに。

 だからかもしれない、これほど日々に身を置いていることが不安で仕方ないのは。まだあると信じていたいものが、本当はなくなっていることを認めたくなくて……夕焼けを見たとき、食事を準備しているとき、学校から帰宅するとき、休日が過ぎているとき……そういった時間の経過が狂おしく感じる。一日の経過が、一分の切なさが、確実にあの日から遠ざかっていく。それが怖い。すべてを忘れてしまいそうで。自分が自分でなくなってしまいそうで。

 不安である。胸が常にざわついている。ふとした拍子に、心が粉々に砕けそう。大切な人を失った世界に身を置いていること、怖くて、恐ろしくて、心細くて、不安……エレベーターのような静かな場所に一人でいると、世界から取り残される錯覚を得てしまう。

 怖い。こんな場所でなく、また部屋に閉じ籠ってしまいたい。また日常から逃げ出してしまいたい。それほどまでに心が大きく震える。

 あまりにも無慈悲に残酷で辛い日々を与えているような気がして仕方がなかった。

「…………」

 青願神社。颯史がプロポーズしてくれた場所。それを承諾した場所。かけがえのない場所。

 今はこうして何もすることなく、ただ時間の流れに身を置くことしかできていない。逃れられない沼地に足を突っ込み、どう足掻いたところで抜け出すことができないように。

 ひかりは、そこにいる。そこから動けずにいる。どちらが前とも分からずに、見つめる先を認識することもできず。

 社殿に腰かけている位置、前回座った場所とまったく同じ場所。

 大切な場所。

(……ぃ?)

 強い風が吹いた。これまでのは頬を撫でるやさしいものだったが、今のは土埃を巻き上げるほど強烈なもの。ひかりの瞳に刺さるような感触があったから、砂が入ったかもしれない。反射的に目を閉じ、右手で顔を保護する。細めた目を慎重に開いていって、そうしてそこに、

(っ!?)

 驚嘆が訪れた。

(これって……)

 視界がなくなった。そう錯覚するほど、暗黒の闇に塗りたくられたように、身を置く場所が光なき世界と化していた。

 何も見ることができない。何も感じることができない。真空の宇宙空間に放り出されたように、上下左右の感覚すらなく、ただそこに存在するのみ。一瞬前まで、確かに青願神社にいたのに。

 ただ、不思議と焦りも恐怖も得ることはなかった。説明することはできないが、このような異常事態でも、どこか安心感がある。

 ひかりは、暗黒空間に誰かの気配を得た。それは五感としてではなく、魂の感触として。

 いる。

 そこに、いる。

 いてくれる。

「…………」

『何やってんだ?』

「……座っているんですよ」

 かけられた声に、驚きはない。受け答えすることに一切の迷いが生じない。そればかりか、思考することを必要とせず、ひかりという存在が自然と言葉を返していた。

「そっちこそ、どうしたんですか?」

『困ってるみたいだから、お前の背中でも押してやろうと思って』

「……大きなお世話です」

 素っ気ない言葉だが、ひかりの口元は大きく緩んでいる。この自然なやり取りがとても温かくて。

 とても懐かしくて。

 とても愛しくて。

「わたしはちゃんと生きています。仕事だってしてますし、受け持っている子たちからも受けがいいんですよ」

『けど、いつまでもそうして止まったままなんだろ?』

「わたし、は……」

 急に、どういった言葉も思想に浮かんでこなくなった。ただ無意識に唇を噛みしめて、発想を閉じていく。

 かけられた言葉はひかりの現状を的確に捉えたもの。抵抗することも足掻くことすらも禁じられた。

「…………」

『学校だとさ、『みんなが同じことを同じようにやることが正しい』みたいな感じで教えられてきたじゃん。はみ出すことが間違いみたいにさ』

 姿なき声は、暗闇の小さく振動していく。

『で、最終的にはさ、『みんなが同じように頑張って、全員が幸せになれますように』ってなことになるじゃん。だからみんな、幸せを手に入れることが正しいことだって思って、そう思ったまま未来に進んでいくようになるんだよ』

「…………」

『けどさ、同じことを同じようにやってるつもりでも、やっぱりみんな違うんだよね。同じテレビを観てたって、感想はそれぞれ違うだろうし、同じように授業を受けても、テストの点数に差ができるみたいにさ。で、俺はそれが正解だと思うんだ』

 少しの間があり、言葉がつなげられていく。

『違うから、それぞれに個性があって、それぞれ好きになる相手ができて、星座のように結ばれていくんだよ。じゃなきゃ、みんなが同じ相手を好きになって、争いになっちまうからな。世の女性たちが俺を奪い合って、血で血を洗うような激しいものになるのを想像すると、恐ろしくて仕方ない』

「…………」

『さすが俺、罪深い』

「…………」

『ごほんっ。つまりな、それぞれがそれぞれ、別々の人間なんだってこと』

「…………」

『えーと、だからだね、どう言えばいいのかな……ともかく、人には人の幸せがあって、それは自分の幸せなんかじゃない。自分の幸せは自分の幸せでしかない』

「…………」

『自分の幸せってのは、自分しかないものなんだよね。それは誰だって持っていて、一つとして同じものはない。だからさ』

 だからさ、

『お前はお前の幸せを求めていくべきなんだ』

 幸せを求めていくべきであり、

『そうなることが俺の幸せなんだから』

 ひかりが幸せになることが、唯一の俺の幸せ。

『いつまでも立ち止まってる場合じゃないんだよね。わがままなことかもしれないけど、俺は俺で、俺の幸せを成就させたいから』

 ひかりの幸せを見届けたいんだ。

『だから、頼んだぞ』

 幸せを叶えてくれ。

 傍で見守ることができなくなった俺の分まで。

『ひかり』

「……ずるいです、そんなの」

 棘のある言葉。吐き出すひかりの声は震えている。真っ暗な闇に波紋を生み出すように、抱いている切ない気持ちを解き放つ。

「そうやって、自分のことも全部わたしに押しつけるんですから」

『……返す言葉はないけども』

「でも、そうですね」

 顔を上げる。揺れていた声が真っ直ぐ前に放つ。

「わたしはわたしで、そんな颯史さんを好きになったんです」

 思い返される颯史との日々は、どの時間よりも充実していた。好きなものを食べているときよりも、感動的な映画を観ているときよりも、子供たちと接しているときよりも、自身がこの世に誕生した瞬間よりも。

「頑張ってみますね。やれる自信は、あるような、ないような、ですけど……でも、こうしていても颯史さんの幸せは叶えてあげることができませんからね」

『頼んだぞ』

「頼まれました」

 深い闇。暗い黒。光なき世界。それでも、ひかりには一抹の不安もない。婚約者の死によって二度と埋まるはずのなかった気持ちが、満たされている。

 ここに生きる輝きを、ひかりは間違いなく有していた。

「カエルさん、なんですか?」

『ああ、誰かさんが作ってくれた駄洒落のお守りのおかげでね。凄まじいご利益だ。ありがたいことこの上ないね』

「そりゃ、お手製ですから」

『そうそう、茄乃のやつ、怪我した姉ちゃんの分まで頑張ろうとしてるんだ。ってより、頑張ってるところなんだ。少しぐらい大目に見てやってくれないか?』

「頑張ってる子は大好きですよ。でも、授業中に眠っちゃうのはどうかと思います」

『授業中、結構寝てたよな、お前。特に世界史』

「……高校生は高校生です。あの頃と今のわたしは別人です。一切関係がありません。わたしは生徒でなく、相楽さんの教師ですから」

 言い切った。迷いなく。淀みなく。きっぱりと。過去の所業など、まるで最初からなかったように。

「とはいえ、最近は駄目でした。うまくいかないことばかりで、いらいらして、つい怒鳴ったりもして……本当に駄目ですね、わたしって。悔やみたくなります、こんな自分になったこと。嫌いになりそうです」

『安心しろ、俺は好きだぞ』

「……ありがとうございます。けど、そんな話をしているわけじゃなくてですね、わたしのせいで、相楽さんにいやな気持ちにさせらと考えると……反省です」

『そうだ、反省しろ』

「……誰のせいだと思ってるんですか、まったく」

 にっこりと笑み。

「そちらこそ、少しは相楽さんの体のことも考えてあげてください。くれぐれも無茶させないようにお願いしますよ。怪我なんかさせたら、承知しませんから」

『ああ。そっちこそ頑張れよ、五月女先生』

「はい、頑張ります」

 瞬間、ちかっと、闇夜を彩る花火のような眩しい光が瞬いた。膨大な輝きが世界に溢れていく。ずっと縮こまることしかできなかったひかりから、七色どころか世界中のありとあらゆる光が解き放たれた。

 周囲を覆い尽くしていた漆黒の闇は一瞬にして消滅。

 正面には、毛糸でできた蛙の人形を持った、黄緑色の作業着姿の男性が立っている。

 ひかりにとって、大切な人。

 かけがえのない人。

「ちょっとだけ、待っていてください」

 希望で満ちた表情に、もう迷いはない。自身を縛りつけていた思念の重みは、すでに光の粒子となって消えている。ならば、もう視界が閉ざされることはないだろう。その瞳は未来を見つめることができる。その足で進むことができる。その手で掴むことができる。

 そうするだけの力が、ひかりに備わっているから。

「絶対に、幸せになってみせますから」

 歓喜に満たされた最上の笑顔。しかし、瞳から溢れる一筋の涙が頬を伝わる。

「わたし!」


       5


「…………」

「……おーい、五月女先生ってばぁ。先生ぃ」

「……相楽、さん」

 瞼を上げた。そこには心配そうにこちらを覗き込んでいる小さな顔がある。真ん丸の瞳、不思議そうに開けられた口、外跳ねの髪は肩まで達している……ひかりが担任をしている愛名西小学校一年一組の相楽茄乃が、すぐ前にいた。

「相楽さん、うまくなれるといいですね、ソフトボール」

「うむむ?」

 小鳥のように傾げる小首。

「うん。ホームラン打ちたいからね、頑張るよ」

「応援します。頑張ってくださいね」

「うん! そんなことより、五月女先生、どこか痛いの?」

「痛い、ですか?」

「だって、泣いてるよぉ」

「ああ……いえ、そんなことありませんよ」

 触れると、指に涙が付着していたことに気づいた。ひかりはポケットから花柄のハンカチを取り出し、そっと当てる。

「全然まったく違いますよ。これは痛いわけじゃなくて、嬉しかったんです。とってもとっても嬉しかったんです。だから、心配しないでくださいね。それと、ありがとね」

 意識を変えるため、手を組み、上に真っ直ぐ向けていく。伸ばしていって伸ばしていって伸ばしていって伸ばしていって……一気に脱力させると、少しだけ頭と体がふらふらっした。なんとも奇妙な感覚に、思わず苦笑い。

「ここは本当に、特別な場所ですね。本当に……」

 視界に映るのは、青願神社の境内。腰かけているのは木造の社殿で、多くの銀杏の木を突き抜けるように飛び石が巨大な鳥居までつづいている。

 空間すべてを澄み切った空気が満たしているよう。

「学校に戻って、来週のテスト問題を作らないといけないです」

「ええぇ!? テストあるの!? 国語? 社会?」

「相楽さんの大好きな算数ですよ」

「ぶぶぶぅー」

 これ以上ないほど、茄乃の唇が尖った。抗議の意味も込められているが、そんなことをしたからといって現実が変わるものでない。

 茄乃は不貞腐れるように視線を横に流し、口を素早く動かす。

「この世に、算数と椎茸は必要ないと思う」

「相楽さん、特訓もほどほどにしてくださいね。お姉ちゃんの分まで頑張ろうとするのは感心なことです。でも、そんなことして体を壊したら元も子もありませんよ」

「モトトコモ?」

「『相楽さんが怪我をしたら、先生もお姉ちゃんもとっても悲しい』ということです。頑張るのはいいことです。けど、頑張り過ぎるのはちょっと心配になります。ほどほどにしてください。分かりましたか?」

「うむむ?」

 がっちりと腕組み。分かったような分からないような……茄乃の首は徐々に傾く角度を深めていく。視界では、ゆっくりと立ち上がったひかりが鳥居の方へ歩いていくので、慌てて呼び止めた。

「先生ぇ。先生の好きな人って、カエルさんなのぉ?」

 茄乃には不可思議な感覚がした。とても暗い場所で、とても悲しい世界に閉じ込められたような……ただ、不思議と怖さはなかった。そこにカエルとひかりがいたから。いつか見た夢の光景。

 話している二人は、とても楽しそう。

 そんな二人のことを見ていたら、そこにある関係が手に取るように分かった。誰が昨年起きた飛行機事故に巻き込まれたのか? ひかりがなくした大切な人とは誰だったのか?

 茄乃はカエルの存在を知った。

 茄乃はひかりの存在を知った。

「カエルさんのこと……」

「カエルさんのことはもういいです。相楽さんのことは全幅の信頼を寄せてカエルさんにお任せしますから。そしてわたしはわたしの幸せを求めていきますね。ふふふっ。絶対カエルさんより素敵な人を見つけます。ふふふふっ。わたしはその人と、『これでもか!』っていうぐらい幸せになってみせますから」

 目を細めて微笑み、ひかりは小さく手を振った。

「相楽さんのソフトボール、今から楽しみにしてますから。試合があったら応援にいきますね。約束します。ですから、特訓、頑張ってください」

「うん!」

「あ、そうそう、相楽さん、知ってましたか? この青願神社って、日本中に千三百もあるんですよ。凄いですね。うふふふ」

「うむー?」

 見つめる先のひかりは、もうこちらを振り返ることなく鳥居を潜って下りの石段へと消えていく。茄乃にはその背中がとても活き活きしているように見えた。やさしかった先生に、これまでにない元気が備わったみたいに。

「よーし、先生も応援してくれるっていうし、特訓頑張らないとぉ」

 胸の前にある両拳に握りしめ、うつ伏せのまま両手と両足の爪先の四点で全身を支えて、肘を曲げていく。その際、腰を曲げないように、全身が真っ直ぐであることを意識して。

 腕立て伏せ。

「いーちぃ……」

 九月の上旬は腕立て伏せを一回もすることができなかった。けれど、あれからずっとこの神社に通い、

「にーいぃ……」

 茄乃専属コーチであるカエルに教えてもらうことで、

「さーん……」

 今朝は三回まで数えることができるようになっていた。

「よー……」

 カエルに言われる通り、足の先から頭部までを真っ直ぐに保つように意識する。肘をゆっくりと曲げ、地面すれすれの視界のまま、肘を伸ばそうと力を入れるが……これがなかなかうまくいかない。これまで三回の疲労により、腕がぷるぷるっ震えだし、うまく力を入れられなくなってしまった。

 こうなると、ギブアップまで時間の問題である。

「よぉー……」

 ぷるぷるぷるぷるっ! まるで両腕が笑っているよう。そうやって体を支えているのが精一杯。一度利き腕である右方に体重を傾けてから仕切り直そうとするが、そんなことで体力が回復することはない。

 一気に噴き出した汗が、顎を伝って、茶色い地面の色を濃くしていく。

「よぉー……」

「ほら、頑張れ。お前ならやれるはずだから」

「……あれ、カエルさん!? わわわっ!?」

 突如の登場に、かけられた声に、集中していた気が散った。瞬間に力尽き、あろうことか地面に顎を打ちつけてしまう。目の前に火花が散ったと思えるほどに痛かった。それはもう物凄く。

「痛たたたたたっ……もー、なんで邪魔するの、カエルさん!? もうちょっとで新記録だったのにぃ」

「……いや、今のは応援したつもりなんだけど」

「いきなりなんだもん、びっくりするじゃーん」

 苦情を放ちつつ、打ちつけた顎を擦りながら、黄緑色の作業服を見つめる。

「今までどこいってたの? ずっと捜してたんだから。五月女先生、もう帰っちゃったよ。せっかくきてくれたのにぃ」

「いや、別に俺の先生じゃないから構わないよ。そんなことより、いつになった十回できるようになるんだ? こりゃ一生かかってもホームランなんて打てないんだろうな」

「うむむ……打てるもん。絶対打てるもん。五月女先生だって応援してくれるし、ホームラン、絶対打つんだから」

 自身に言い聞かせるように吐き出して、今度は仰向けに横たわろうとして、

「って、あれれぇ?」

 茄乃の目がまん丸に。

「かわいいよぉ」

 茄乃の見つめる先は、作業着のさらに奥。社殿の床、そこに全身を毛で覆われた生物がいた。

「どうしたのぉ?」

 猫。猫がいる。ちょこんっと座り、耳を立てて。

「かわいいよぉ」

 灰色と黒色のまだな模様で、胸だけ白く、まるでエプロンでもしているかのよう。真っ直ぐ茄乃のことを見つめてくるみたい。

 茄乃は両手を伸ばした。

「カエルさんの猫さぁん?」

「こらこら。かわいいとか猫さぁんとか、失礼だぞ。このお猫様はだな、この神社の神様なんだぞ」

「神様ぁ!? こんなにかわいいのにぃ?」

 抱きしめる。ふわふわ、もこもこ。

 かわいい。

「神様なんて、猫さん、凄いねぇ」

「こら、茄乃。神様がいやがってるだろ」

 茄乃の胸で、猫の神様は斜めになって、いかにも『困ったにゃ』なんて表情で。助け船を出すしかない。

「そんなことしちゃ、いつまで経ってもホームラン打てないぞ。ほら、早く特訓に戻れ。神様を解放しろ。早く」

「はーいぃ」

 名残惜しそうに神様を社殿に戻す茄乃。素直。

「じゃあじゃあ、次は腹筋やるから、しっかり見ててね、カエルさん」

「その前に、ちゃんとストレッチやったのか? うわっ、なんだ、その露骨な分かりやすさは? まずいことがあると、急に視線が合わなくなるよな、お前……いいか、まずは柔軟体操からって言ってるだろ? 無茶ばっかやってると、五月女先生に言いつけるからな」

「……いやだな、カエルさん、これからやろうと思ってたよ。今からだよ、今から。今からやる気満々だよ」

「思うだけじゃ駄目なの。ちゃんとストレッチしてから特訓する」

「うむー」

 仰向けになって上体を起こし、両手を伸ばして黄色いシューズの土踏まずの部分を掴んだ。そのまま上体を曲げ、胸が脚にくっつける。

「いーちぃ、にーいぃ、さーん、よーん……」

 銀杏の枝の向こう側にある空は、すっかり茜色に染まっている。今日もこうして一日が幕を閉じていく。女の子にとっては、いつもの特訓に汗しながら。女の子の先生にとっては、これまで躊躇していた新たな一歩を踏み出して。

 包まれる空気には、もう夏の暑さは感じられない。季節は確実に移ろいでいく。いつまでも変わらないことなど存在しないように。時間の経過とともに、季節の移ろいとともに、世界は少しずつその色を変えていく。

 それは、誰だって、きっと。

 女の子でも、学校の先生でも、幽霊になった男性でも。

 カエルが大粒の汗を浮かべている意味をさっぱり理解できずに、茄乃は大きく首を傾けながらストレッチをつづけていくのだった。

「よし、ストレッチ終わったー」

「なあ、茄乃……俺でいいのか?」

 カエルの声は平板なもの。

「俺、約束を守れないようなやつだぞ。そんなやつのこと信用して……」

 その身では、触れることすらできない。

「その、もっと別の人に教えてもらった方がいいんじゃないか?」

 指導者は日本にたくさんいるし、学校にもいるし、両親や姉だっているだろう。

「茄乃……」

「カエルさんは教えてくれないの?」

「あ、いや、そういうわけじゃ……」

「なら、教えて。ホームラン打つから。まっ、カエルさんに教えてもらえなくても、ホームラン打つけどね」

「あ、そう……」

 カエルの額に大粒の汗が浮かぶ。『気遣う』とか『思い悩む』とか、そんなことする方が馬鹿みたいに。

「まあ、頑張るか」

「頑張るぞよ。そうだ、カエルさん、知ってた?」

「どうした?」

「この神社でって、千三百もあるんだって。凄いねー」

「…………」

 ただただ苦笑いするしかないカエルである。

 そんなカエルの横で、

『みあー』

 猫の神様が、小さく鳴いた。

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