青願神社なの

@miumiumiumiu

第1話


       ※過去


 九月十八日、土曜日。

 終焉の日。


 日本には大型の台風十八号が接近。中心気圧は九百五十ヘクトパスカル、最大瞬間風速が三十メートル、尖閣諸島に位置し、時速二十キロメートルで北東に進んでいる。日本上空に浮かぶ雲は、川の濁流のように物凄いスピードで流れていく。地上にも影響を及ぼし、多くの樹木が軋み、海の波は高く、台風接近独特の湿っぽさがあった。漂う空気は不穏な雰囲気を孕んでいる。


 成田空港。雨は降っていないが、台風の影響で風が強く出発が懸念された。しかし、多くの乗員乗客を乗せた華本かほん航空五十二便は無事に離陸。

 それが最悪と呼ばれる飛行機事故につながるものと知る由もなく。


 成田空港から飛び立った華本航空五十二便は、懸念された天候によるトラブルもなく、雲の上を西方へ飛行。雲の上に出てしまえば、台風の影響をほとんど受けることはない。太陽が照らす青空の下、真っ白な翼を大きく広げ、実に快適なフライトであった。

(はあー……一か月、か……)

 落ち着いた白色の内装をした機内で、通路側の席にぐったりと深く腰かけているのは、山下颯史やましたそうし、二十五歳。職業は会社員。今は両手を頭の後ろに回し、視線を斜め上に彷徨わせている。これから送らなければならない日々を想像しては、どよーんっ! と頭を重くさせた。

 今日は、会社の新工場立ち上げによる立ち合いで中国出張初日。現地には一か月間滞在する予定で、工場の生産ラインを始動させなければならない重要な任務を負っている。ただ、事前の情報によると、現地の工事が予定よりも大幅に遅れているという。中国では往々にしてそういったことがあるらしい。

 難航している事前情報もあり、知らない土地でのことを考えると、憂鬱で仕方なかった。できることなら台風の影響で延期になってくれることを願ったが、飛行機は無事に成田空港を飛び立っている。

 残念。

(あーあ……)

 土曜日。周囲には颯史と同じく背広を着た人が多く見受けられる。日本人だけでなく、白人や黒人の姿もあり、少数ではあるが小さな子供を連れた家族連れもあった。左隣の席に赤いワンピースの女の子がおり、奥の母親と楽しそうにお喋りしている。『自分も将来、ああして家族と一緒に旅行にいくのかな?』と来年からはじまる新婚生活を夢想しては、思わず口元をだらしなく緩めた。そうやって婚約者との明るい未来を思い描いていないと、これから向かう中国での仕事のことを考え、鬱になってしまう。

 サンドイッチの昼食後に、颯史は時差も考慮して、少し仮眠を取ることにした。昨日は午前四時まで寝つけなかったし、胃が軋むように体調も優れない。であれば、休めるうちに休んでおくのが一番。中国に着けば、多くのトラブルが手ぐすね引いて待っているか分かったものでない。せめて到着するまではゆっくりしたかった。

(…………)

 紅茶を一口、配布されたアイマスクを装着。背もたれに体重を預けて、薄暗い世界へと意識が吸い込まれていく……刹那! 思いもしない騒々しさに襲われた。

(……っ!?)

 がくんっ! 機体が縦に揺れるような激しい衝撃に見舞われたのである!? 乗用車が電柱にぶつかるような衝撃で、思わず上体が前のめりとなって頭をぶつけそうになった。

 寝ぼけていたこともあり、颯史は最初、地震だと思った。だが、アイマスクを外すとすぐ前の座席が目に映り、飛行機内であることを思い出す。その瞬間、避難しなければならないという思考を停止させた。空の上である以上、どこにも逃げ場などない。

(今のはいったい!?)

 さきほどの激しい縦揺れに、乗客のざわめきが波を打つように広がっていく。そんな不安を助長するよう、各座席にビニールと酸素マスクと黄色い救命胴衣が落ちてきた。連動して酸素マスク着用を促す放送が流れる。あらかじめ録音された男性のもので、緊急時に流れるものだろう。

(これって……)

 颯史は通路側の席で、多くの乗客を確認できる。誰かが大声で奇声を上げたかと思うと、不安の波はあっという間に広がっていく。今、前の座席にいたワイシャツ姿の男性が立ち上がった拍子にバランスを崩し、転倒した。

(気流の影響か?)

 混乱する周囲の慌ただしさは、なぜだか颯史の頭を落ち着かせる効力があった。自分よりもさらに取り乱している人間を見ると急に落ち着くというが、それと同じかもしれない。

 颯史は、さきほど地震へと進もうとしていた思考を、今度は日本に接近している台風に向ける。雲の上とはいえ、暴風の影響で気流に影響が出ているのかもしれない……けど、確かめようにも客室にいる颯史には分からない。情報が不確かだからこそ、見えない不安に怯えることに。

 頭では、考えたくないいやな想像や予感が渦巻いた。墜落や海上での溺死、飛行機そのものが爆発して炎上するかもしれない。そういった恐怖が思い浮かぶ度に、心は圧迫するばかり。

 放送が流れる。今度は女性の肉声で、酸素マスクとシートベルトの着用を促していた。搭乗した際に説明を受けたが、まさか本当に使う羽目になるとは。

 颯史は周囲の様子を窺い、真似るように装着。ビニール製のマスクを押し当てている鼻の頭辺りが少し痒くなった。肌に合わないというより、緊迫した精神状態によるもの。大事な会議前など、よく痒くなる。

 青空のような制服に身を包んだキャビンアテンダントは慣れているのか、一切取り乱すことなく、各座席の様子を順番に確認して回っている。足元の覚束ない揺れる機内でも、座席の背もたれ部分をしっかり掴んで踏ん張りながら、乗客全員に安全姿勢を取るように指示を出していた。

 颯史も言われた通り、前席に両手を重ね合わせ、頭部を抱え込むが……ふと思うことがあった。考えたくはないが、万が一ということもある。ワイシャツの胸ポケットから手帳を取り出し、白紙ページにボールペンで殴り書き。切り取って握り込んだ。

 右隣の乗客はすでに前傾姿勢となっている。視界の隅にある窓には、さきほどまで青空が広がっていたのに、今は薄暗くなっていた。きっと雨雲によって光が遮られたからだろう。つまりは、飛行機が高度を落としていることを意味する。

 と、機内の照明が瞬いたかと思う、ぱっと消えた。機内が一瞬にして闇に覆われることで、一斉に悲鳴に似た呻き声が上がる。だが、どれだけ機内が阿鼻叫喚に覆われたところで、照明が元に戻ることはなかった。

 機体は大きく左右に揺れる。座席でシートベルトを締めている分には遊園地のアトラクションのようだが、今度は四十五度ぐらい左に傾いたまま座席が固定した。それはまるで幼い巨人に飛行機が遊ばれているみたい。

『なんで!? なんでこんなに揺れてるの!?』

 若いキャビンアテンダントの、恐怖を含んだ尋常ならざる叫び声。悲鳴や奇声といってもいい。ついさきほどまで気丈に振る舞っていたのに、今は異常事態に我を忘れて、迫りくる絶対的な恐怖に脅えるように、首を左右に動かしていた。とても大きく速い周期で。それはまさに、緊急事態に陥っていることを物語るに充分だった。

 そのキャビンアテンダントの取り乱しこそが、未だに揺れが収まることのない機内の雰囲気を悪化させる。緊迫は津波のように機内全員を荒立たせ、ただただ不安を冗長させるように多くの人間の叫び声が空間を飛び交う。冷静に現状を分析できる人間は皆無で、恐怖の感情が空間に満ちていく。

(いったいどうなってんだ!?)

 混乱状態にある機内、颯史はただひたすら歯を食い縛って状況を耐えるしかなかった。この先、必ず機内が正常さを取り戻すことができると信じて。

 どんな緊急事態だろうと、まだ死ぬわけにはいかない。日本にはかわいい婚約者が待っているのだから。

 ようやく幸せを手にすることができるのだから。

『きゃっ!』

 左隣から小さな悲鳴。赤いワンピースを着た女の子が座席から通路に投げ出されたようである。うまくシートベルトが締まっていなかったようで、床に丸くなっていた。

 母親と思われる中年女性が、慌てた様子で体を傾けて手を伸ばしているが、届いていない。少し冷静になれれば、シートベルトを外せば手が届くことに気づくのだろうが、機内の混乱状態に我を忘れているのだろう。

(助けてあげないと)

 我が子を必死に助けようとする母親の姿を目にしたら、不思議と女の子に手を差し伸べようとする勇気が湧いてきた。これまで無数の黒い毛玉が脳裏に蠢くみたいに思考の糸が絡んでいたのに、今はそれらを無理矢理引きちぎり、全身硬直から解き放たれる。

 女の子は颯史側の通路に倒れていた。颯史は手を差し伸べる。自分にとって、その行為が当たり前であるように。

「もう大丈夫だよ」

 颯史は右手を握った拳のまま両手で女の子のことを抱き寄せた。

 膝の上の女の子は、投げ出されたときに頭をぶつけたのか、両手で頭部を押さえながら、頬に涙を伝わせ、ただただ泣きじゃくっている。

 颯史は落ち着かせるように、頭をぽんぽんっ。

「大丈夫だからね」

 抱き寄せた女の子が、揺れる機内では舌を噛むといけないので、ポケットからハンカチを取り出して口に押し込んだ。

「泣くことなんてないよ。大丈夫。大丈夫だからね」

 がたがたがたがたっ! 小刻みな振動がさらに激しさを増す。この状況では女の子を二つ隣の席にいる母親に渡すことは不可能。もっと大きな揺れがきても守ってあげられるように、力いっぱい女の子のことを抱きしめる……その時、自分の右手がずっと握られていることに気づく。そこには万一に備えて手帳を破った紙がある。極限までの緊張状態のため、握り込んでいたことをすっかり忘れていた。

 苦笑い。

「お願いがあるんだ、俺の代わりにこれを持っていてくれないかな?」

 場の混乱に女の子は涙を流し、激しく取り乱して癇癪を起したようだが、それでも渡した紙はちゃんと受け取ってくれた。

 これで両手を使うことができる。なら、力いっぱい女の子のことを抱きしめられた。さきほど女の子を抱えるときに外れたビニールの酸素マスクを女の子にセットし、心配そうにしている母親の方に『大丈夫です』と視線を送る。颯史は空間すべてを覆い尽くすような絶対的な恐怖から女の子のことを守るべく、決死に抱きしめた。

 死を隣り合わせにした極限状態で思考することがあるなら、神という絶対的な存在に祈るしかない。いや、それ以前に、まったくもって根拠のない都合のいい話かもしれないが、絶体絶命の難局を乗り越えられると信じていた。信じていればどんな苦境だって乗り越えられる。これまでだってそうだったし、これからだってそれは変わらないはず。

 そう考えていなければ、こんな状況に追い込まれた自分が、さらには、胸にいる女の子が救われない気がして。

 もはや信じるしかない、この状況をも打開できると。神に祈るよりもよし。自分の生命の強さを信じるもよし。

(……ぁ!?)

 刹那、颯史の体が空中に浮き上がる感覚を得る。生きている人間としてまず感じることのない不可思議な現象に、『機体が急速度で落下している』ということを悟った。

 その時はもう、空間に意識がちぎられるような存在の希薄さと、一瞬にして全身から力が抜けていく絶望的な脱力感に見舞われている。

 シートベルトも酸素マスクも救命胴衣も、それら以外のどういったものがあったところで、この状況を打破することはできそうにない。

 助けてくれる神様も、まだ現れてはくれない。

 信じている命の強さも、強大な力で潰されていくよう。

(もう……)

 駄目。

 駄目だった。

 生命としての諦めは、実に簡単にできた。

(くそったれえええええぇ!)

 内側から裂かれるような暴力的な感情の末……最後の最後にその思想に浮かび上がったのは、来年六月に挙式を控えた婚約者の笑顔。

 これからずっと横にいるはずだった笑顔。

 もう二度と見ることのできない笑顔。

 そこから先は、もうない。

 なくなってしまう。

 思い描くことすらできなくなってしまう。

 失われていく。

 なくなる。

 無。


 それは機内に異常発生から僅か十分後のこと。

 山下颯史の生命が刈り取られた瞬間であった。

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