夜の沈没船

馬田ふらい

夜の沈没船

 ピチッと、ウエットスーツを装着するわけではない。ボンベを担いで潜るわけではない。誰もがそうするように、夜はパジャマを着て、羽毛ぶとんの下に潜り込むだけ。

 ただ一つ違っているとすれば、それは枕の下に写真を仕込んでいることだ。これは俺のに他ならない。


 俺は自分の無意識の底に潜り込む。何もない真っ暗な空間の中を泳ぐ。細かい泡のようなものが浮かんでくる。これに触れてはならないことを俺はよく知っている。もし触れてしまったら、今までの悲喜こもごもの記憶に四方を塞がれてそのまま夢に溺れてしまう。それはそれで愉快だが、俺が辿り着きたいのはそこではない。

 意識のもっと深層の、沈没船が目指す場所。暗黒の中を挫けず進むとマストの折れた大型帆船が見えてくる。


 俺はゆったりと水をかき、腐った甲板に着地する。相変わらずボロボロだ。木片と化した扉をどかして船室の中に入ると、今でもそこに彼女がいる。朽ちた船には似つかわしくない、永久に若々しく固まっている。

「また、来てしまったよ」

 彼女は当然、目を覚まさない。俺の声だけが部屋を震わせる。

「すまなかった。助けてやれなくて」

 嵐の中、目の前で彼女が流される姿を俺は救護ボートから黙って見守るしかなかった。

「あれから、いろいろなことがあったよ。別のパートナーができて、結婚して、子供ができて、その子も独立して、俺は仕事を辞めた。だけど、妻には悪いけど、俺は君が忘れられないんだ。毎晩、君の写真を枕にしているのは誰にも内緒さ」

 ついに、彼女は何も語らなかった。

「また来るよ。来れたらね」

 俺が彼女に背を向けた途端と、彼女の肉が溶けて白骨だけが残る。だから俺は振り返らなかった。


 布団から出ると朝だ。妻の目覚めていないのを確認すると、枕元から写真を除いて、フレームに直した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜の沈没船 馬田ふらい @marghery

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ