春を告げる雫
木陰には根雪が積もっているけれど、日の当たる場所は僅かだが土の色が見え始めていた。解けた雪でもうもうと湯気が立ち上る。
枝の先では新芽が膨らみ、地面には小さな草が芽吹こうとしていた。
摘まれた石の傍らには、赤い実がたくさん飾られている。それを小鳥が啄んでいた。
フロウに気づくと、鳥たちは驚いて飛び立つ。
ディアの墓までは、雪が踏みしめられ、道ができていた。サナが毎朝のように通うからだ。
フロウは積み石の前に跪く。
祈りの言葉は知らない。おぼろげに覚えているのは、父がときどき何かを唱えていたことくらいだ。
今思えば、あれは殺めた命への鎮魂か。それとも懺悔か。
自分は、ディアの墓の前で何を思えばいいのか。
詫びればいいのか。感謝をすればいいのか。
できることなら——もう少しそばにいて、いろんなことを教えてもらいたかった。
そんなフロウの感傷は打ち破られる。
目の前に白い手が表れたかと思うと、顎を打たれた。そのまま指は頸動脈を絞めにかかる。
咄嗟に腕でガードしていなければ、ものの数秒で気を失っただろう。
食人鬼を殺せ——。
サナは養父の命令に今も支配されている。どれほど殺したくないと願っても、目の届くところで食人鬼が生きていることを是としない。
急所は躱したものの、サナは今度は気道を狙ってくる。
彼女は自分よりも腕力がある者を制する術をよく知っていた。フロウの上体を後ろに引き、じわじわと締め上げようとする。後方に身体が傾いでいては足を払うことも難しい。
このまま、サナに身を任せてしまおうか。そうしたら、サナは楽になれるのだろうか。
いや……違う。
楽になりたいのは、自分か。
自嘲気味に笑う。醜い。彼女のためと偽って死を選択しようとするなんて。
「放せ……ッ!」
片方の足を上げて腰を落とした。サナの体勢が崩れた隙に肩を掴んで前方に投げ飛ばす。体勢を立て直す前に足をかける。倒れた痩躯に覆い被さり、四肢の自由を奪った。
荒い息を吐くサナの目は爛々と光っている。
殺気立った表情にふと、頬が緩んだ。
こんなときにさえ、彼女を慕わしく思った。サナらしい、と。
ふと見ると、すぐそばでは雪の上に顔を覗かせた花があった。俯き加減に一つだけ、雫のような形の真白な花弁を綻ばせている。
「サナ。咲いているよ、待雪草」
優しく囁き、視線でその場所を示す。すると、サナも素直にそちらを見た。
「……本当。可愛い」
慈しむような表情で雫のような花を愛でたあと、サナは微笑む。
「フロウ……ごめんなさい」
「前にもこんなことがあったな」
「うん、あった」
くすりと笑うと、サナは少し恥ずかしそうに視線を泳がせた。
「……あの人は」
遠慮がちに口を開く。
「あの人はわたしの血を浴びて、とても弱っていた。身体も、心も。だから」
自分に残された力を、フロウを救うために使おうとした。
飢えと死の恐怖に苛まれ正気を失いかけながら、それでも。
サナは消え入りそうな声で滔々と語る。
「あの人は、最期に言った」
サナの肉を僅かに食らい、苦しみ喘ぎながら。
「フロウを殺さないでくれって」
胸を抉られたような気がした。そんなことを言っていたのか。
「わたしには、自信がない」
サナは自分の手を見る。フロウに押さえつけられているほっそりとした手を。
ついさっきまでフロウの首を絞めていたその手を。
「……フロウ、痛い」
「ああ、ごめん」
戒めを解いて立ち上がろうとしたが、それをサナが留める。
「待って、フロウ」
フロウの手を取り、自分の首元へと誘う。
指を一本一本、ゆっくりと、確実に急所へ添わせた。
「誰も教えてはくれなかったけど、知っている。奪う者はいつか、奪われる者になる」
そう言って目を閉じた。静かな表情だった。
「サナ……」
そろそろとサナの手が離れる。フロウはサナの首に手を添えたまま、彼女を見下ろす。
幼さを残す柔らかい頬。薄紅に染まる唇。影を落とす睫。灰色がかった金色の髪。
掌から伝わる息遣いとぬくもり。
失いたくない。
できるわけがない。サナを縊り殺すだなんて。
フロウは首に添えた手を滑らせ、サナの頬を包む。
「……フロウ?」
不思議そうに見つめてくるサナの表情は幼げで、愛らしい。冷えたせいか唇は赤みが失せていた。
それでも柔らかそうで、その薄い皮膚の下に鮮やかな血潮が流れていると思うと、堪らない。
生唾を飲み、フロウは頭を何度も振る。
何を考えているんだ。
サナを食いたいだなんて、望んでいないのに。
もう少し、大丈夫だと思っていた。せめて雪が解けるくらいまでは。
「……帰ろう」
「フロウが……そうしたいなら」
困ったように眉を下げて、サナが言う。
手を差し出すと、そろりと細い指が絡みついてくる。
その骨をしゃぶることを一瞬、想像し、ぞっとした。
恐ろしいと思った。悍ましいと。
だけどその映像が頭から離れない。滴る熱い血と柔らかい肉の感触が脳内を支配する。毒だとわかっていても惹かれてしまう。
自分は——どうなってしまうのだろう。
明け方、フロウは物音で目を覚ました。ベッドの上を手で探るが、隣にいたはずのサナがいない。
サナは荷物で膨らんだ鞄を脇に置き、スカートをめくり上げて腿にベルトをし、革のカバーに収まったダガーナイフを装着した。
ブーツの紐をしっかりと締め、外套を手にする。
「どこへ行くんだ」
「町」
「何をしに行く」
「一日では帰らないかもしれない」
「どこに行くかを聞いてるんだ」
サナは思い詰めた顔をしている。嫌な予感がした。
「フロウはお腹が空いている」
「そんなことはない」
「嘘!」
強い口調で言い返し、サナは鋭い目をしてフロウを睨みつけた。
「あのときの、あの男と同じ顔をしている。飢えて、弱って、判断力が低下している」
硬い声で言い、サナは外套に手を通そうとする。フロウは外套を掴み、床へ放り投げた。
「何が言いたい」
「食べれば元気になる」
サナは再び外套を手に取ろうとしたが、フロウがそれを遮った。
「サナ、俺は……」
「フロウが嫌ならわたしが殺す。生きたまま攫ってきて、この山で殺す」
「やめてくれ、サナ……!」
「行く。止めても無駄。フロウを気絶させてでも行く」
「そんなことをしても、俺はもう食わない」
サナが訝しげに眉を寄せる。信じられないというように見つめてくる。
「俺はもう、人間を食えない」
「……どうして」
「サナは人間の女の子だ。サナと同じ人間を、食うことはもうできない」
「嫌、そんなの」
サナがフロウの腕を掴む。爪を立て、怒りを表す。
「一緒に、生きるって。二人でいろんなところへ行くって。綺麗な景色を見るって。秋になったら、毛皮を売って冬に備えて、それから、それから……」
見る間にサナの眦に涙の粒が膨れあがる。唇が戦慄いて、興奮のためか頬が赤くなっていた。
激しい怒り。それは、フロウを思うが故の。
——ダメだ、自制が効かない。
「サナ」
彼女の震える手を取る。引き寄せて、サナの細い腰を抱いた。
「……っ!」
額を寄せ、サナを見つめた。動揺した顔が可愛い。
フロウはサナの顎を指先で捉え、上を向かせる。
「や、やめて、フロウ」
「嫌か?」
「違う。……違う。でも」
サナは苦しそうに顔を歪める。
「わたしは、フロウを殺したくない……!」
「俺はサナが欲しい」
「……嫌だ。だってわたしは。わたしの身体は」
「すべてわかっている。それでも、欲しい」
サナは嫌々と首を振るばかりだ。そのたびに涙の粒が散る。小さな子どものように泣きじゃくる。
「ダメ、触らないで、触らないで……」
「前に……ずっと前に、いつか繁殖期がきたときのためにって、ディアが教えてくれた。こういうときになんて言うか」
面映ゆい気持ちで、目を細める。鼓動が速くなり、胸が締めつけられる。唇を開くと、自然に言葉は零れだした。
「愛している、サナ」
サナは驚きに目を見開く。
濡れた灰褐色の瞳は狼狽え、言葉の意味を探すように揺れている。
サナはしばらく、凍りついたようにフロウを見つめていた。
しかしやがて、目を閉じた。
睫が濡れて、水滴がいくつもその先端についている。光っていて、綺麗だった。
ようやく、この涙を拭ってやることができる。
フロウはサナの頬を包み、眦を濡らす涙を指で拭う。サナはもう抵抗しなかった。フロウに身を委ね、ただ泣いている。
そっと上を向かせて、息を詰めて、唇を重ねた。柔らかくて、涙の味がした。サナはぎゅっと目を瞑って、身体を縮こまらせている。
二度目は、もっと深く口づけた。
口腔の思いがけぬ熱さに、胸が震える。サナが頽れそうになり、それを支えながら床に横たえる。衣服の隙間に手を差し入れ、夢中でまさぐった。
「わたし、わたしは……誰も愛さないと思っていた。誰とも結ばれることなどないと思っていた」
薄い胸を荒い呼吸で上下させながら言う。フロウは手を止めてサナの顔を見る。
「怖い」
「ごめん、サナ」
「怖い……」
サナが手を伸ばす。指先が肩に触れた。
「だけど、わたしもフロウを」
言葉は半ばで途切れた。サナの腕が絡みつく。掌が背中を彷徨う。
拙い仕草で、キスをくれた。
理性が決壊する。
夢中で、貪った。牙を立てず、滑らかな肌に唇を這わせる。
情交は一瞬のようにも、永遠のようにも思えた。酩酊は甘く絡みつく。
指先も舌も痺れる。それは睦み合う陶酔のせいなのか、サナの毒のせいなのか判然としない。
だんだん、視界がぼやけてきた。苦しい。内臓が悲鳴を上げている。捩れて千切れそうだった。
「ごめん、サナ。一人にしてしまう」
「わたしは、大丈夫。大丈夫だから」
サナの手が伸び、頬を包んでくれた。温かく湿った掌が心地いい。
「わたしはやっと、人間になれた気がする」
擦れる声。
それでも、サナは微笑みを浮かべていた。顔をしかめて、涙を流しながら、それでも。
笑ってくれた。
フロウは覚束ない手つきで、サナの涙を拭う。
止め処なく流れる雫は温かく、心地好い。
「フロウ、あなたに出会えてよかった」
フロウ——。
サナが呼ぶ。もう答える力もない。サナは微笑んで抱き締めてくれる。
最期に見るのがサナの笑顔で、よかった。
水の棲み処 絢谷りつこ @figfig
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