春を待つお伽話
チャプ、チャプと水音がする。温かく湿った空気と、柔らかく甘いにおいに鼻をくすぐられた。
微睡みの中、フロウは薄く目を開ける。白い背中が見えた。
サナが湯を沸かして、身体を拭いている。長い髪はゆるく一つにまとめられて、露わになったうなじは白磁のようだ。
肩には生々しい傷跡がある。ディアが噛みついたところだ。
塞がったばかりの皮膚は盛り上がり、薄紅色をしている。
腕を上げたときに、薄いけれど柔らかそうな膨らみがわずかに覗く。
見てはいけない。
そう思いながらも瞼を閉じることはできなかった。
暖炉の火に照らし出される肌は滑らかで、微かに上気している。
触れたい。
抑えようもなく湧き上がる欲望に戸惑う。
胸の中で虫が蠢くようだった。じわじわと這い上がってくる。
自分とは異質な存在。異質な肉体。それを欲する原始的な衝動。
堪えようと息を詰め、フロウは寝返りを打った。
フロウが身じろぎをしたことに気づくと、サナは衣服を掻き合わせ、こちらを向いた。
「まだ早い。寝ていれば?」
フロウは首を横に振り、身体を起こした。眠気はすっかり覚めていた。
「起きるよ。お茶は飲む?」
「飲む」
微笑むサナの頬に手を伸ばす。湿り気で髪が貼りついていた。それを直してやると、サナは少し恥ずかしそうにして目を泳がせる。
彼女のために薬草茶はたくさん用意したつもりだったが、それでも残りは僅かとなっていた。春まで持つかあやしいところだ。
それを言うと、サナは大事そうにカップを手で包み、神妙な顔をする。
「雪が解けたら、たくさん摘んでおく。場所を教えて」
「ああ」
こんな不味い物をどうして気に入ったのか、まったく不可解だ。だが彼女が欲するならそれは必要な物だ。
「あとで薪になる枝を拾いに行ってくる」
多めに拾って乾燥させなくては。こんなことならちゃんと薪を用意すればよかった。
何もかも、一人で過ごした冬とは違う。多少面倒ではあるけれど、悪くない気分だ。
「わたしも行く」
「さっき、出かけたんだろう?」
「うん。でも行く」
頷くと、ほっとしたようにサナはすっかり湿気たクッキーを取り出し、一つ囓った。
サナは毎朝、フロウが起き出す前に出かけて、冷え切った身体で帰ってくる。
ディアが埋まっている場所に通っているのだ。
あの日、サナと一緒にディアの墓を作った。
フロウが穴を掘り、サナが血で汚れた身体を綺麗にして、埋めた。河原で拾った石を積んで、花がなかったから赤い木の実を摘んで飾った。
以来、彼が死んだ日のことは、口にしなかった。
彼女が何を思うのかはわからない。フロウも訊ねはしなかった。
サナはいつも携帯していたダガーナイフをフロウに預けた。刃物を手にするのは獣を屠るときだけだ。
彼女の意志、彼女の覚悟の証。
それに応えることができるのだろうか。
サナを変えてしまったことが、少し怖かった。
「まだ雪は溶けないけど、待雪草の蕾みが顔を出していた」
髪を梳りながら、サナはどこか弾んだ声で教えてくれた。
春が近い。もうすぐ、冬が終わる。
雪が嫌いな彼女は、それを待ちわびているようだ。
「朝靄が出ていた。綺麗だった」
とても寒かったけれど。
そう付け足して、サナは思い出したのか身震いをした。
「お父さんといろいろなところへ行った。海も、町も、森も。花がたくさん咲く丘もあった」
サナは懐かしげに目を細める。
その旅が血塗られていたことなど、忘れてしまったかのように。
ただ、父親と二人で行った楽しい思い出のように、語る。
「あのときは、よくわからなかった。だけど今思い出すと、わかる。綺麗だった、とても」
膝を抱えて、その光景を脳裏に描いている。
幼げな表情だ。無垢で、危うい。
「行こう」
フロウの囁きに、サナが目を丸くする。小首を傾げて、次の言葉を待っている。
「もう一度、そこへ行こう」
「一緒に?」
「そうだ」
「春に、なったら」
「ああ」
サナは瞬きを繰り返したあと、小さく頷く。
「うん。フロウにも、見せたい」
屈託のない笑顔で、サナは言う。
春になったら、一緒に旅をする。いろんなところに行って、綺麗な景色を見る。
まるでお伽話みたいだ。
甘くて、優しくて、儚い。
サナはフロウの腕をぎゅっと掴む。
「わたしたち、一緒に生きていける?」
「ああ」
ほっと唇を緩ませる。愛らしい表情だった。
腹の奥が疼いて仕方がなかった。狂おしい熱が纏いつく。
フロウはサナの頬を包み、吸い寄せられるように唇を近づけた。
「ダメ」
「嫌か」
「違う。でも、ダメ」
肘で胸を押される。抵抗の力は弱い。視線は戸惑いに泳いでいる。
フロウはベッドからシーツを剥がし、サナの上に被せた。
「え、なに……?」
突然視界を遮られ、サナは狼狽えてシーツを手繰り顔を出そうとする。
その手を捕まえた。引き寄せ、腕の中に収める。
「フロウ……?」
不安げに訊ねてくる口元を探り、唇を、重ねた。
布越しに吐息を感じる。柔らかくて、湿っていた。
サナは驚いたのか、ビクリと肩を震わせた。
構わず、抱き締める。腕の中に収まるぬくもりが愛おしい。
愛おしさに苦しくなる。だけどその辛苦はフロウを捕らえて放さない。
何かに突き動かされるように、フロウはサナに触れた。先ほど覗き見た肌を思い出すと熱い息が漏れた。
「フロウ、放して……」
か細い声に欲望を掻き立てられた。胸の膨らみを探り当て、掌で包む。
これほど柔らかいものに触れたことは今までない。
「……っ」
サナは息を呑む。僅かに声を震わせる。
肌が粟立つ。
足りない。これでは、足りない。
指先に力が籠もる。乱暴に掻き抱き床に横たえようとした。
だが、思い切り突き飛ばされた。
「やっぱり、ダメ」
サナがシーツから顔を出す。怒ったような、困ったような顔だ。
「ごめん」
サナが小さく首を振る。唇を嚙み、目を潤ませる。
「一緒に」
視線が絡む。真剣な目で見つめられ、フロウを支配していた欲望は鳴りを潜める。
「わたし、フロウと一緒に生きていく」
サナが呟く。決意を滲ませて。
――共に生きる。
言葉にすればするほど、それは遠ざかっていく気がした。
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