サナは酷く狼狽えていた。まるで、戦う術など何も持たないただの少女のように。青ざめた顔をして、いやいやと首を振っている。

 普段の彼女なら、窮地を逃れる術を模索するだろう。或いは、己の血肉を与えてでも目的を果たすだろう。

 しかし、すっかり冷静さを失っていた。

 殺される恐怖ではない。

 自分の決意を、殺したくないという願いを踏み躙られて。

 それを眺めるディアは嗜虐者の顔だ。

 こんな彼の顔を見たくはなかった。

 サナにディアを殺させない。

 殺すなら——この手で。

「……くそっ!」

 言うことを聞かない身体を強引に地面から引き剥がす。雪に足を取られながら、駈ける。

「サナを放せ!」

 フロウの叫び声に、少女を蹂躙しようとしていた手が止まる。

 正気に戻ったのか?

 しかし、微かな希望は血の色に塗り替えられる。

 ディアの牙がサナの肩口に食い込む。

「……やっ、いやあぁぁぁぁ——っ!」

 サナの白い喉から迸る絶叫、肩からは鮮血が零れ雪の上に赤い花を散らす。

 ディアは僅かに肉片を食いちぎり、嚥下する。よろりと立ち上がり口元を手で拭う。

 先ほどまで怒りに焼かれていた心が急激に冷える。

 どうして。

 どうして放っておいてくれなかったのだ。

 いつかサナに殺されるかもしれない。それは、フロウを育てたディアには許しがたいことだろう。

 それでも、サナと生きたい。その選択が過ちだとしても。

 彼女はもう、心の中に住み着いてしまった。

 フロウはナイフを抜く。ディアがくれた物だ。

「は! 手負いの獣舐めんなよ」

 ディアは鼻で笑い、腰に帯びた湾刀を抜き両手に構える。

 同族同士での刃物を用いた戦闘を避けるのは暗黙の了解だった。縄張りを争うときも、女を奪い合うときも。

 荒い息を吐き、ディアはふらつく足で近づいてくる。凶暴な一対の刃がフロウを狙う。

 両手から繰り出される刃を避けながら、フロウは間合いを詰める。リーチでは不利だが、懐に飛び込めれば、或いは。

 ディアもそれを察しているのだろう。覚束ない足取りながらも自分が有利な間合いを保つ。手負いであろうとフロウを優位に立たせはしない。

「やめて!」

 周囲の雪を赤く染めながらサナは立ち上がる。

 サナに気を取られた瞬間、湾刀が眼前に迫りフロウの黒髪を一房落とした。

 飢えていようと、サナの肉を食らおうとこれほど動けるのか。

 敵わない。彼には、勝てない。

 ディアに救われた命は、ディアによって絶たれるのか。

 そうか——妙に得心がいく。この命は初めから己のものではなかった。そう思えば、惜しくはない。

 だが、今は諦めるわけにはいかない。

 サナがいる。

 その決意を嘲笑うかのように、刃が喉元に迫る。

 死が頭を過ぎった。だが。

「……ディア?」

 磨き上げられた一対の湾刀は雪の上に落ちる。

 ゴボッと不快な音を立てて、ディアは血を吐き出した。

「くあ、あぁ……っ」

 痙攣しながら喉を掻きむしる。口からは唾液と血を垂らし、よろけて木にもたれかかった。

「フ、ロ……ウ……!」

 名を呼んで手を伸ばす。

 その手がさらに攻撃をしようとしているのか、助けを求めているのか、わからない。

「ディア……」

 思わず、フロウは手を差し伸べた。

 だが、その手は届かない。

 足を払われ、蹴飛ばされた。雪の上に転げ、ナイフを取り落とす。

 顔を上げたときには、終わっていた。

 サナはダガーナイフを握り締め、ディアの胸を側面から刺し貫いていた。

「……とても、苦しむの。だから」

「知っている……」

 呆然としながら、フロウは頷く。

 同族の肉を口にした者の最期は、知っている。

 母は、フロウに食らいつき死に絶えたのだ。その恐ろしい形相を忘れることはできない。

 ディアはサナの身体にしがみつくようにして、彼女を見ていた。

 苦痛に喘ぐ唇は何か言おうとしているようだが、もう声にはならない。

 やがて力尽き、倒れた。

 夥しい血が雪を赤く染めていく。

 サナはそれを凍りついたように見つめていた。

 フロウも身動きでいずに、その場に佇む。

 かつての育ての親の最期だ。せめて、目を逸らさずに。

 悲しみはまだ感じなかった。それはいずれ襲いくるだろう。それがどれほど辛く苦しいのかはわからない。

 風が雪を舞い上げ、サナの髪を乱す。血染めのスカートは大輪の花のように膨らんだ。

 やがてサナが、誰へともなくぽつりと呟く。

「食人鬼は鬼ではない。ただ、人間しか食えないだけ」

 吐き出されたのは、ぞっとするほど静かな声だった。

「食うために……生きるために殺す。それだけ」

 飢えれば食うのは生き物として当然のことだ。罪はない。悪でもない。

「ただ生きていただけの者を、わたしは殺した。たくさん、殺した」

「それはサナが選んだことじゃ……」

 選べなかった。何一つ。食人鬼の養い子は、食人鬼を殺すためだけに生きることを許された。

 フロウの言葉に、サナは大きく頭を振る。

「殺した! 子どももいた。子どもを庇う母親もいた。孤独に生きていた年寄りも」

 目を見開き虚空を凝視する。その者たちの面影が見えるのだろうか。

「——お父さんも! この手で……ッ!」

 サナの慟哭が冬枯れの山に谺する。

 赤く染まった自分の手を見つめている。初めて、それに気づいたように。

 感情が一気に噴出したのか、サナは叫び続けた。

 殺した、殺した、殺したと。

 彼女は、気づいてはいけなかった。奪ってきた命に重さがあったことに。

 突然、その重圧に襲われ押し潰されそうになっている。

「本当の鬼は、わたし」

 戦慄く唇が吐き出す。

「鬼は、わたし……!」

 違う。サナは鬼などではない。

 本当に鬼ならば、何故にそれほど嘆くのか。

 鬼ならば、奪った命を踏み躙り、高笑いしていればいい。

「サナ」

「触らないで!」

 悲痛な声に、伸ばしかけた手を下ろす。

 サナはディアの亡骸の前で佇み、しばらく泣き続けた。

 透明な雫が返り血を洗う。

 その涙を拭いたかった。

 震える肩を温めたかった。

 サナは何も悪くないと言って、抱き締めたかった。

 何一つ叶わない。

 何も伝わらない。

 彼女を救う術などない。

 不甲斐ない自分が、憎かった。

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