抗えぬもの

「へぇ……言うじゃないか、フロウ」

 ディアがからかうように口笛を吹く。笑みに引き攣る唇。

「けど、弱い奴は棲み処を奪われるかもな。ここはなかなか、居心地がよさそうだ」

 言いながらディアは視線を巡らせる。余裕の態度がかんに障った。

 もう、彼の庇護下にいた子どもではない。

 子どもではないのだ。

「身体がでっかくなったくらいで俺に勝てると思うなよ?」

 フロウの思考を読むように煽る。動揺してはいけない。彼の思うつぼだ。

 自分を律し、緊張を全身に張り巡らせる。

 対するディアは呆れたように肩をすくめた。

「かったいなぁ。そんなガチガチの構えじゃ」

 ディアの拳が眼前に迫る。避けたと思ったら次の瞬間、背後を取られていた。

「躱せねぇよ」

 囁かれた声と同時に身体が宙に浮いていた。

 雪のおかげで落下時の衝撃は少ない。体勢を立て直そうと上体を起こしたが、胸を蹴られ再び雪に身体を埋める羽目になる。

「ま、お前から棲み処を奪う気はない」

 ディアはフロウを見下ろし、冷めた口調で告げる。

「フロウ、女が欲しいなら同族を探せ。春になれば……繁殖期がくれば、女も伴侶を求めて棲み処を離れる」

 短い恋の季節だ。つがいになり、子を成す。

「あんな肉の薄い女より、ずっと抱き心地のいいのがいるぜ」

「黙れ!」

 カッと頭に血が上った。勢いに任せて飛びかかる。

 今はもう、ディアよりも腕力はあるはずだ。身体も大きい。

 彼の素早い動きを封じることができれば。

 ディアの腕を掴み引き寄せる。そのまま羽交い締めにしようとした。

 だが。

「いってぇな!」

 ディアが不機嫌そうに叫ぶ。肘が顎に入り、ぐらりと視界が揺れた。

 枯れ枝ごしに空が見える。晴れた空だった。

 脛に蹴りを入れられ膝をつく。痛みに息が止まりそうだった。

「フロウ……!」

「大丈夫だ、サナ……」

「大丈夫だ、じゃねぇよ」

 体勢を立て直そうとしたところで、胸にディアの掌打が入った。

「かはっ……」

 呼吸が苦しい。頭がぐらぐらとした。起き上がろうとしたが、視界が回転してフロウは再び雪の上に倒れ込む。

「そこで寝てろ」

「ディア、待っ……」

 サナは青ざめた顔をしていたが、ディアが近づくとすぐに姿勢を低くし、構える。

 ディアはサナの足元を狙っていた。組み敷いて首を絞めるつもりだろう。

 それを読んでいるのだろう、サナは間合いを保ったまま、攻撃の機会を狙っていた。

 ディアが仕掛けても、サナは軽やかに身を翻し躱す。二人は白い息を吐きながら、足場の悪い雪の上で踊る。

 ディアは野生動物のように身軽で素早かったが、スピードではサナの方が上回った。

 彼女の動きはまるで風に舞う木の葉か花びらのようだった。追いかけても、手を伸ばしても触れることができない。

「くっそ、ちょこまかと動きやがって……!」

 苛立った声。呼吸が荒い。このくらいでディアが疲れるはずはない。

 何か、おかしい。

 最初に見たときにも顔色が悪いと思った。頬は痩け、目の下には隈ができている。

「……お前」

 サナは僅かな戸惑いを含んで問う。その薄く鋭利な手刀でディアの首を狙いながら。

「いつから食っていない?」

「余計なお世話だ!」

 サナの手刀を躱したものの、雪で滑りバランスを崩す。倒れ様にディアはサナの腹を蹴り上げた。

 鈍い音がした。予想外の角度からの攻撃に、対応しきれない。しかも、先ほどと同じ場所に食らっては。

「う……」

 小さく呻く。腹を押さえながら、サナは逃れようとするが、ディアに踏みつけられ身動きが取れない。

 それでも、彼女はナイフに手を伸ばさない。嚙んだ唇に血が滲む。

「ディア、やめてくれ……!」

 フロウの懇願にディアは一瞬動きを止めた。振り返り、フロウを一瞥する。目は血走って濁っていた。

 一瞬、その目が悲しげに翳ったように見えた。だがすぐにディアはフロウから目を逸らす。

 倒れたサナの腕を掴み、まるで物のように持ち上げる。

「捕まえたぜ、お嬢さん」

 下卑た笑みを浮かべた口元には、鋭い牙。肉を切り裂くための、人間とは異なる鋭利な武器。

「ほっそい腕だなぁ。このまま捻ったら簡単に折れそうだ」

 指が食い込むほど強く腕を掴まれ、サナは苦悶に顔を歪める。

「細い、けど……」

 声音が変わる。粘液質な、絡みつくような……暗い熱を帯びた声。

「……白くて、瑞々しい」

 恍惚と呟き、サナの首筋に舌を這わせる。サナはビクリと肩を跳ね上げ、息を呑む。

「……っ!」

「やめろ……!」

 フロウの声は届いていない。ディアは硬直するサナの身体を引き寄せ、指先で髪を掻き上げた。

 ディアが舌舐めずりをする。指先がサナの襟元から忍び入る。白くて薄い胸元が覗く。空いたほうの手はスカートをたくし上げ、腿をまさぐっている。

 ディアが喉を鳴らす。もう、フロウのことなど目に映っていない。

 本能が掻き立てる衝動を前に、彼は目的を忘れていた。

 フロウを救う。そのためにサナを殺そうとしていた。

 そのはずなのに。

「やめろ……!」

 ディアが求めているのはどっちだ。

 肉か。身体か。

 どちらでも——許しがたい。

 怒りで腹の奥が熱い。

 初めて、ディアに殺意が湧いた。

 立ち上がり駆け寄ろうとするが、足がもつれる。吐き気がして、視界が定まらない。

 それでもフロウは這うようにして、サナの元へと近づく。

「フロウ……彼は、彼は……」

 自分を蹂躙しようとする男を見つめながら、サナは動揺を隠しきれずに言う。

 以前の彼女ならこんな状況でも狼狽えはしなかっただろう。

 サナの肉体は、そのものが武器だ。

 食人鬼が食らえば死ぬ肉を持つ。その体内に流れる血も涙も体液も、すべては毒に侵されている。

 食らっても、犯しても、死ぬ。

 殺さない、殺したくないとサナは言った。それは彼女が優位に立ったときのみ、選択できる。

 男に組み敷かれているサナにはその選択はできない。

 ディアは、飢えている。

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