第15話

六月


 大学構内にある食堂は混んでいなかった。まだ二限目の講義は終わってないしお昼には少し早い時間だったから、当然と言えば当然だけど、ただでさえ久しぶりの大学でさらに人のいない学食というのは、かなり新鮮な感じがする。

 窓の近くにある席を選んで腰を下ろし、ぼんやりと空を眺めてみる。けれども、四月に見た空とあんまり変わっていないように見える。少なくとも、私には違いがわからなかった。

 視線を落として、ほかほかと食欲をそそる香りの親子丼に箸を付ける。学食で親子丼を食べるのは初めてだったけれど、普通に美味しくて嬉しい。


 五月にあった事故のことは、いまいち把握できていない。保険がどうのといった手続きがあったみたいだけど、知らせを受けてやって来た親が全てやってくれた。当たり所が良かったのか、怪我の具合も驚くほど大したことが無く、事故にあったというのが夢か、たちの悪い冗談だったみたいだ。

 久しぶりに会った親は私に、ちゃんとやってるかと尋ね、尋ねておいて私の答えも聞かず、しっかりしなさいねとだけ言って、帰ってしまった。

 親の期待を裏切り、昨日までは今までのようにぐだぐだと過ごしていたけれど、今日は朝からなんだか調子が良い。

 なにをどうすればしっかりしたことになるのかはわからないけれど、とりあえずは大学生なのだから、大学に行って講義を受ければいいのではないかと考えつき、一限は時間的に間に合わないけれど二限目からの講義に出席しよう、と学校に来た。なのに、たまたま私の受ける予定であった今日の二限は休講になっていた。

 そんなものなのかもしれないな、と納得する。何に納得しているのかよくわかってはいないけれど、でも、そんなものなんだろうな、と思う。

 食器を戻して購買に向かう。

 購買では紙パック入りのカフェオレと目に付いた一冊の本を買って、今度はラウンジへ。

 窓際の二人がけの席が空いていたので、そこに座りカフェオレを飲みつつ読書する。

 あまり読まないジャンルの小説だったけれど、引き込まれた。夢中になって読んでいると、声をかけられたような気がして顔を上げてみる。

 いつのまにか二限も終わったらしく、ラウンジは人で溢れていた。声をかけてきた人は、相席しても良いかと私に言い、私はどうぞとだけ答えて、また読書に戻る。小説をここまで面白いと思ったのは、初めてかもしれない。

 集中が途切れることなく最後の一行まで読み終えて、その後もしばらく余韻に浸っていた。

 ふと見れば、窓から見える空は真っ黒になっていて、一瞬、ここがどこで、自分が誰なのかわからなくなる。


 そんなものなのかもしれない、と再び思った。

 ただの馬鹿っぽい言い訳かもしれないけれど。

 例えば、ようやく重い腰を浮かせて受けに来た講義が休講になっていたり。

 例えば、たまたま手に取った小説が面白すぎて、三限と四限の講義もサボり一日中読み耽ってしまったり。

 こんなの、しっかりしているとは言えない。

 だけど少なくとも今、私は、夜の気配が気にならなくなっていた。

 まだ小説の余韻が残っているせい、かもしれないけれど。

 ちぐはぐで、正しいとも言えないのだろうけれど、でも、きっとこれはこれで良いのかもしれない、と。



 それから、ぼんやりとした私は本を鞄に入れるのを忘れて帰る。

 誰もいなくなったラウンジの、窓際の席にぽつんと残された本。

 すっかり開き癖がついてしまったその本は、反り返って、ひとりでに開く。

 開いたページに何が書かれているか、わたしだったら何を書くか。

 ちょっと悩んでみてから、わたしはその本文が全て白紙の本にペンを走らせる。


 ――そうして私は、無自覚に、何の反省もなく繰り返す。同じ所をクルクルと、延々と。

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夜の気配 洞貝 渉 @horagai

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