Scene.5/Sunset Country road.
5
俺は相手が振り抜いた横拳をスウェーで避け、反らした上半身を戻す勢いで
――硬い。一体どういう鍛え方をしてやがんだ? ハリヴァの腹筋を殴った感触はまるで、10tトラックのゴムタイヤを殴った時のそれだった。
俺は両腕で、頭に置かれたハリヴァの手を払い、金的を蹴りつける。
奴は膝を折り曲げて俺の蹴りを受けた。そして間髪入れずに右直突きを俺のみぞおちへ、左裏拳で
重い。身体がくの字に曲がる。ヘビー級でもこれほどのパンチにはお目にかかれないだろう。
俺はたまらずハリヴァをストレートで突き放した。距離が空いた。蹴りの入る距離だ。俺は今まで隠していた、取って置きのハイキックを喰らわせた。奴は避けることかなわず、それが首筋にきれいに決まる。相手も意外だったのだろう、思わぬダメージに片膝をついたようだ。
俺は路上でケンカするようになってから、キックと柔術も多少かじっている。それはあくまでも敵を知り、「ボクサー」として蹴りや寝技に対抗するためのものだった。俺はこの戦いで、今まで縋ってきたそのちっぽけなプライドを、捨てた。今はそんなものよりも「守るべきもの」が傍にある。
跪いているハリヴァの奥襟を掴み、乱暴な蹴りで足を払った。俺は相手が倒れたところに素早く組みつき、腕ひしぎ十字固めを掛ける。
完璧に極まったこの技から逃れるすべはない。あとは思い切り身体を反らせて、ハリヴァの腕が折れるのを待てばいいだけである。
「ゴキッ」
――鈍い音。折ったか?
俺がそう思った瞬間、奴はスルリと俺の腕から抜けて行った。
「(野郎、技が完全に極まる前に肩の関節を外して逃げ出しやがった……!)」
どうやら俺の聞いた「ゴキッ」という音は、ハリヴァが故意に関節を外した時の音だったらしい。
ハリヴァは抜けた肩を再び同じような音を立てて繋げた。俺は奴の後に続いて起き上がろうとする。そこへ雨霰のような蹴りが浴びせられた。ハリヴァが足技だけで俺の顔面やその他の部位を滅多打ちにする。その動きはまるで、「足でのボクシング」と呼ばれるテコンドーのようだ。
このまま蹴りをもらい続けるのは、どう考えてもよくない。俺は何とか奴の足を掴み取り、強引に「足一本背負い」で投げ飛ばした。雑な投げ方だったせいか、簡単に受け身を取られた。俺は追い打ちをかけるがごとく、地面に転がったハリヴァの腹を蹴りつける。
奴はその蹴りを両腕でガードし、そのまま後ろに転がって獣のように跳び起きた。俺がすかさずそこへ詰め寄り、怒涛のラッシュで畳み掛ける。体力はもう限界に近付いている――そろそろ決めにかからないと、マズイ。
普通これほどの勢いで攻め立てたのなら、大概の選手はコーナーポストに追い詰められ、甲羅に籠った亀のようになる。だが、ハリヴァは違った。俺のブローの一発一発を的確に見切り、防御し、喰らっても大丈夫そうなものは素直に喰らう。そして、隙を衝いては反撃の拳打や蹴りを挟んできた。
そこから1分にも満たないその打ち合いは、今まで経験してきた試合や喧嘩を振り返ってみても、類を見ないほどに激しいものだった。
打撃の応酬。それは時に、会話やその他の情報交換よりも優れたコミュニケーションとなる。俺は不謹慎にも、少しばかり「楽しい」とさえ思ってしまった。こいつは間違いなく今までの俺の人生の中でも最強の敵だ。勝利への道は見えず、地力で劣る俺はどんどん追い詰められていく。ジリ貧だ。そんな絶体絶命のピンチにも拘わらず、ハリヴァとの闘いは全盛期の頃、リングで強敵と相まみえた瞬間、その喜びを老いた躰の隅々にまで思い出させてくれた。
だが、そういった充実した時間は得てして長続きしないものらしい。
俺が苦し紛れに出したストレートの袖を掴み、引き逸らしたハリヴァは、そのまま遠心力を利用して背後に回ってきた。俺の胴体に、奴の腕ががっしりと巻き付いた。
しまった……! 俺がそう思った時には既に遅かった。この体勢からくる技など、あれくらいしか思いつかない。
――――ジャーマン・スープレックス(ホールド)。
またはバックドロップ、裏投げ、呼び方はなんでもいい。とにかく俺の身体は根元から引っこ抜かれ、宙に浮いた。次に空を仰ぎ見る。そして逆さまに地平線が見えた。天地がひっくり返っている。視界の端に、おれの三輪トラックが映る。中に乗ってる、坊も……――。
これらはほんの0.5秒にも満たない時間に見たものだった。あごを引いていたため、脳天から落ちるのだけは回避できたが、それでも凄い衝撃であることには変わりなかった。そのダメージは、四十過ぎのオッサンの意識を根こそぎ奪い去り、戦意を挫くには充分すぎる代物だったのだ。
意識が遠のく。ブラックアウト……――。
「(もういい、楽になりたい。俺は充分頑張ったさ……)」
そう思った瞬間、先ほど見た車の中の坊が脳裏にフラッシュバックした。相変わらず、心配そうな目で俺を見つめている。
――駄目だ! 寝てる場合ではない!!
「……う、うおおおおおおぉぉっ!!」
俺は立ち上がった。生まれたての仔鹿のように震えながら。
既に俺から離れ、車の方に向かっていたハリヴァが振り返る。
「ま、マジですか……」
こればっかりは、流石のハリヴァも心底驚いたようだった。確かに、今までの俺なら先ほどの一撃でノックアウトされていただろう。だが、今は違う。負けられない理由がある。
ほとんど折れかけた心を奮い立たせ、ガタつく脚に発破をかける。朦朧と混濁する意識の中、俺の脳はただ一つの命令を身体に下した。
――――目の前の敵を、ぶん殴れ。
俺は走った。そして、今まで何万回と繰り返し、身体に染みついた動作が、自然とついて出る。足は肩幅に開く。あごを引き、しっかり脇を締め、体重移動と共に――打つ。
いつも感じる、あの纏わり付くような空気抵抗さえも、感じなかった。音も消え、視覚からは色も消える。世界はスローモーションになった。
おれの全神経はただ一つ、その動きだけに集約されたのだ。
――そう、これは俺の生涯最高の右ストレートだ。
奴は逃げなかった。それは単に避ける暇がなかったのか、それとも俺の生涯最高の一打に敬意を払ってくれたのか、今となっては分からない。ハリヴァはその拳に真っ向から応えた。
二人の腕が交差し、お互いの拳は完全に相手の顔面を捉えた。
――――――クロスカウンター。
ハリヴァの一撃も、それは見事なものだった。俺は顎を揺すられ、脳震盪気味にその場に崩れ落ちた。対する相手は、ふらつきながらも何とか二本の足で立っている。
今一歩、及ばなかったか……。
俺は膝を付きながら、拳銃を撃つような仕草でハリヴァを指差した。
「……今のが、俺の人生のベスト・ショットだ。これで倒れないのなら、所詮俺はここまでだったみたいだな」
すまない、坊……。俺はガキの一人も守ってやれることができないのだ。
ハリヴァが俺を、神妙な表情で見下ろしている。奴もダメージがでかいのか、何も口を利かない。ただ、ゼエハアと息を荒げているだけだった。
俺達はしばらく、無言だった。そしてハリヴァが、決心したかのようにゆらりと動く。
いよいよ幕か……。俺がそう思ったその時、視界が何かに遮られた。……坊だ。坊が突然、二人の間に割って入ったのだ!
「坊……ッ!」
俺は坊の肩に手をかけ、グイと引っ張ろうとした。だが、この子は頑として動かなかった。両手を精一杯広げて俺をかばい、涙目でハリヴァを見上げている。
ハリヴァは驚いたような顔で坊を見返した。おそらく今、ハリヴァは見ている。坊のあの、きれいに澄んだ強い瞳を。
奴が諦めたように溜息を吐いた。そしてニヤリ。一笑した。
「いや、……どうやらあんたの勝ちみたいだぜ」
そう言うと奴は、ふらふらした足取りで道の脇まで退場する。そして田舎道に力強く腕を突き出すと、ぐっと
「通りな。……あんたの、いや、あんたらの道だ。」
それだけ言って、奴は大の字に地面に倒れ込んだ。
仰向きに寝ころぶハリヴァは、ぴくりとも動かない。どうやら、気絶しているようだった。奴もまた、精神力だけで立っていたのだ……。
か、勝ったのか……? 俺はにわかには信じ難かった。
「礼を言うぞ、若造。……腕はお前の方が数段上だった」
聞こえてはいないだろうが、俺は言わずにはいられなかった。
「早く行った方がいいですよ。……じきに追手が来ます」
助手の……確かイオだったか。彼がそう言った。まだ十歳くらいだろうが、随分としっかりしている。ハリヴァとは大違いだ。
「ああ、分かってる……」
「ハリヴァさんの漢気、無駄にしないで下さい」
俺はこくりと頷き、坊を車に乗せた。そのまま振り返らずに走り出す。オンボロ三輪の向う先には、真っ赤な夕日が沈もうとしている。
「――坊、どこに行きたい?」
坊はしばらく考える仕草をした。
「……んっとね、たのしいところ!」
はじけるような笑顔だ。悪くはないな、俺はそう思った。
こんな俺にもまだできることがあるかと思うと、無性に嬉しかった。今までただなあなあに生きてきた俺がたった今から始める、面倒で楽しい人生だ……。
「うん、悪くはない。」
悪くはない、俺はもう一度だけそう思った。
紅く染まった田舎道が、どこまでも、どこまでも続いている。
完
田舎道での1R(ラウンド) 草履 偏平 @Paramecium
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