一章 国立士官学校(2)

 国立士官学校は、大陸でも珍しい身分不問の教育機関である。

 現実には諸々の事情によりその身分比率は貴族と平民で八対二くらいの割合ではあるのだが、しかしこの学校が設立されて二十年ほど経った現在、身分不問を公的に掲げている教育機関は他国には存在していない。

 この学校内において、身分というのは重要視されない決まりである。入学した生徒は親の権力とは切り離され、皆同様に扱われる。故にこの学校では貴族と平民が当たり前のように交友を持ち、切磋琢磨している。それはシャルロッテも例外ではなく、彼女もまた、平民ながらこの学校に入学することを認められた存在であった。


 シャルロッテは王都ゲーサイトの隣街の生まれである。一般的な労働者の家に生まれた彼女は、仲睦まじい両親と二人の元気な弟と共に、街中を走り回って育った。

 彼女が幸運だったのは、隣に暮らしていたのが貴族の家庭教師を生業にしている者だったことだろう。自身も元は貴族であるというその女性は、副業として街に住む子どもたちに学問を教えてくれた。シャルロッテはお転婆なところのある少女だったが、元来真面目な気質だったことと、長女としての責任感から、みるみるうちに学問を身につけた。

 そんな彼女に、その女性が国立士官学校の話を持ってきたのは、入学の一年前であった。女性の太鼓判を得てものは試しと受けた試験に合格し、シャルロッテは授業料を免除されて国立士官学校に入学した。


 当初は貴族に囲まれることに不安もあったのだが、入学してみればそこはまだ子ども、周囲の環境には案外すぐに馴染んだ。同級生に同じように平民の子が多かったこともあるし、貴族の子たちはほとんどが身分を鼻にかけない利口な者だったことも大きい。シャルロッテは身分を問わず学友に恵まれ、のびのびと学んだ。


 そして、その身分を問わない学友の一人が、今まさにシャルロッテの襟首を掴み何処かへと連行しようとしている赤髪の青年である。


「ねえユダ、逃げないから放して、首締まる、」


 逃走を諦めたシャルロッテがそう言って腕を叩くと、青年——ユダは思ったよりあっさりと彼女を解放した。そのまま足を止めると、どこか憮然とした表情で口を開いた。


「どうして貴様はまず逃げようとするんだ」

「あんたが声掛けてくるときって三回に一回は剣の相手をすることになるから、つい」

「そんなには頼んでない」

「いいえ頼んでます。それに、毎回毎回あんなに人集めてたら精神的に保たないの、私が」


 シャルロッテの言葉に、ユダは怪訝そうな顔をするだけである。黒曜石の瞳は何が悪いのか皆目分からない、といった様子で、つられて立ち止まった彼女は苦笑するしかなかった。


 ユダ・マルクス・フォン・ローゼンタールは周囲から様付けされていることからもわかるように、貴族の子どもである。それもローゼンタールと言えば国の軍部を司り多くの軍人を排出している名家だ。その家の子どもである彼自身もまた、その家の名に恥じぬ剣と魔術の腕を持っていた。

 そんな彼がシャルロッテのような平民と積極的に交流を持とうとするところからしてまず可笑しいのだが、一番不思議なのは、彼がシャルロッテの剣の腕に異様に執着していることだった。最近では野次馬も増え、打ち合いをしようと言われる度にその場で賭けが発生する。それがまるで見世物にされているようで、シャルロッテとしては居心地が悪かった。


「第一、ローゼンタール家のお坊ちゃんが私みたいな庶民の後を追いかけてくるのは不味いと思うんだけど」

「どうせ俺は次男だ。弟もいるし、貴様の才能に比べたら大したことじゃない」

「その才能っていうやつよ。私なんかちょっと並の男子よりすばしっこいだけでしょ。何が珍しいのよ」

「ちょっとだと? 貴様は自分の才能をなんだと思っているんだ」


 憤慨するユダがそのまま彼女の才能について語り出しそうな気配を見せたので、シャルロッテは慌てた。


「とりあえず、今呼んだのは稽古じゃないんだよね?」

「……ああ。図書棟で、試験に向けて勉強をしようと思っていた。序でに聞きたいこともあったからな」

「ああそっか、座学……」


 試験という言葉に、シャルロッテはつい遠い目をしてしまう。彼女もまた世の学生の例に漏れず試験は憂鬱だった。

 ユダは流石貴族というべきか、武張ったことだけでなく頭も良かった。学内には幼い頃から家庭教師による英才教育を受けている者もいる中、常に平均以上を維持しているシャルロッテは決して頭が悪いわけではない。しかしユダは最初の試験の結果以来、何を思ったのかシャルロッテの学力に関しても何かと気にかけてくるようになった。


「貴様は数字が絡むものは大概不得意だろう。対策はしなくて良いのか」

「しないとまずいです」

「なら丁度良い。ついでに教えてやる」


 言うが否や再び歩き出したユダを追って、シャルロッテも歩き出す。

 追いかけながら見るユダの背は貴族らしく堂々としていた。少々ぶっきらぼうで軍人のような口調は普通なら忌避されるところだが、彼にはそれがしっくりとくる鋭い雰囲気があった。加えて十八にもなれば体格は成人男性に近づき、顔立ちも精悍になってくる。その成長はユダの見た目をこの数年で気難しそうな子どもから、燃え盛る炎のような威風の凛とした美丈夫へと変化させた。

 そんなユダにあれこれと追いかけ回されているシャルロッテには、最近はもう一つの悩みがあった。


「ローゼンタール様ったら、またノイマンさんを連れているわ」

「相変わらず仲が良さそうですこと」

「あんなに身体を触れ合わせるなんて」

「女性が剣なんて、はしたない」

「女に荒事ができたところで、どこにも行き場なんてないのに」


 廊下は人が横に十人は並べるほど広いとはいえ、通りすがる女子学生たちの囁き声を嫌でも拾ってしまう。それを見ないふり、聞こえないふりをしてやり過ごした。

 貴族の子どもの多くは学校の方針に従い平民にも優しいが、一部には今まで通り見下す者たちもいた。それが陰口を叩いていた彼女たちのような存在であり、多くは女子だった。

 国立士官学校の教育方針に異論のある家の多くは、従来の貴族向けの学校や女学院に通っている。しかし、中には国の方針に従う姿勢を見せるため、旧態依然の思考のまま形だけこの学校に子どもを通わせる家もあった。そうした家の子どもたちは多くが親と同じ思考をしているため、同様の者同士で集まり、平民の学校生活や校内の規則についてあれこれと不満を漏らしているのである。

 そうした子どもたちはただ仲間内で愚痴を吐き出すだけで、直接的に平民や学校に何かを申し入れるわけではない。しかし、言われる側としては多少嫌な気持ちになるものである。まして彼らのうちの何割かの入学理由が目の前を行く赤髪の青年なのだというから、シャルロッテとしてはどうしても普通以上に気になってしまうのであった。


 直接の被害がない分静観するしかないとわかっているため、気苦労だけが身のうちに溜まっていく。シャルロッテは十分の一でも良いから彼の興味が他へ——できれば別の女性へと移ってくれないかとつい恨めしげな視線を向けてしまうのだった。


「何をぶすくれているんだ」

「いいえ、なんでも」


 正直に答えるのも馬鹿らしくなったシャルロッテは適当に流す。そんな彼女に怪訝な顔をしつつ、ユダは図書室の扉を押した。

 図書棟とは、その名の通り図書が収められている棟のことである。この建物は真ん中が吹き抜けの構造になっており、図書室だけでなく勉強や討論を行うためのスペースや小部屋が用意されている。

 ユダとシャルロッテはそうした部屋のうち個室ではない方の勉強スペースに足を向けた。大部屋に机で幾つもの島が作られているその場所では、他にも何組かの生徒が勉強会を開いているようだった。試験まではまだ日があるので、今いるのは大方普段から熱心に勉強に取り組んでいるような類の生徒である。時折解法についてなどを話し合う声が聞こえる以外に音のない勉強スペースでは、適度な緊張感が保たれていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

フラウ・レーヴェと黒獅子 江城凪沙 @nagijyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ