うんこのかおりが目に染みる

摂津守

うんこのかおりが目に染みる

 うんこのかおりがみる



 わたし小学生しょうがくせいころはなし。つまり大昔おおむかしはなしだ。


 そのころわたしは、お世辞せじにもおおきいとはえない、いや、はっきりってしまえばかなりせま市営しえい住宅じゅうたくんでいた。

 せま部屋へやだから、もちろんトイレはひとつ。両親りょうしんわたしおとうと四人よにんらしだと、平日へいじつあさ洗面所せんめんじょまわりがうことはめずらしくない。


 わたしあさにうんこすることは滅多めったになく、あさ貴重きちょう時間じかんをトイレでついやすことはほとんどなかった。わたしのトイレ専有せんゆう時間じかん非常ひじょうみじかい。うんこをしなければ、ながくても一分いっぷんくらいだったろう。そのころはうんこのキレも非常ひじょうによかったので、たとえうんこをしたとしても、ウルトラマンがたたかうことのできる時間じかん、またはカップヌードルの出来できがる時間じかんよりも短くませることができた。健康的けんこうてき小学生しょうがくせいならみんな、うんこにそれほど時間じかんをかけないのではなかろうか?


 平日へいじつあさのトイレ占有せんゆうりつダントツナンバーワンがちちだった。みじかくても十分じっぷんながいときは二十分にじっぷんはしていたんじゃなかったろうか。小学生しょうがくせいころわたしにとって、『十分じっぷん』は非常ひじょうながかんじられた。とくに、平日へいじつあさというかぎらられた貴重きちょう時間じかん十分じっぷんは、なおさらながかんじられる。


 トイレにながはいるのがダメというわけではないのだ。問題もんだいはトイレにはい順番じゅんばんだ。わが四人よにん家族かぞくだが、ちち以外いがい三人さんにんはトイレにそれほど時間じかんをかけない。ちち以外いがい三人さんにんおなじタイミングでもよおし、トイレにならんだとしても、それがちいさいほうなら五分ごふん以内いない。うんこであっても、十分じっぷんとちょっとくらいで全員ぜんいんことをませられるだろう。しかし、これがちちふくめた四人よにん同時どうじもよおしたとなると、はなしおおきくわってくる。


 ちちは、最大さいだい二十分にじっぷんもトイレを専有せんゆうするのだ。二十分にじっぷんという時間じかんは、ちちのぞいた三人さんにん全員ぜんいんうんこをする時間じかんやく二倍にばい相当そうとうする。一人ひとり子供こども四人よにん大人おとな女性じょせい二人ふたりぶんちから発揮はっきしているのだ。


 効率こうりついトイレの使用しようかんがえた場合ばあい、これだけヘビーなうんこをするちちは、家族かぞくなか一番いちばん最後さいごにトイレにはいるべきなのだ。ちち一人ひとりのせいで、家族かぞく三人さんにん最大さいだい二十分にじっぷんちょうたせるのはいかがなものか。三人さんにん二十分にじっぷんつのと、ちち一人ひとりが、十分じっぷんちょっとつのとでは、どちらが効率的こうりつてきかはもはやわかりきったことだ。


 しかし、『効率化こうりつか』が家族間かぞくかん議論ぎろんされることもなければ、提議ていぎされることもなかった。当時とうじ不思議ふしぎなことに、そんなことを家族かぞくだれにしていなかった。それもそのはず、わたしがさきほどべたのは、あくまで最悪さいあくのパターンで、そのようなことは滅多めったこらないのだ。そして、ちちみずからのうんこをわきまえてもいたのか、おおくの場合ばあいちちは、上手うますきつけてトイレにはいった。だれもトイレにはいらないだろう雰囲気ふんいきさっしてトイレにはいった。と、わたし勝手かっておもっている。実際じっさいちちにそのことをいたことはなかったので、ひょっとしたらわたしかんがちがいかもれないが。


 だが、空気くうきやら雰囲気ふんいきやらは、やたらもとめめられるわりにはがたさっがたい。ちちあとにトイレにはいらなければならないことはたまにあった。


 トイレをただつのはそれほどでもない。いえなかで、急激きゅうげき便意べんいなやまされたことはほとんどなかったからだ。ちちあとにトイレにはい最大さいだい問題点もんだいてんは、時間じかんではなかった。そのにおいだった。


 みなさんにもおぼえがないだろうか? ちちのうんこのかおりをおぼえていないだろうか? トイレに充満じゅうまんした、あの強烈きょうれつで、うんことしかたとえられないような、まさにうんこ・オブ・ザ・うんこのかおり。換気扇かんきせんやら、小窓こまどけたくらいではなん効果こうかもないうんこのかおり。消臭剤しょうしゅうざい使つかおうものなら、かえって大変たいへんなことになる。うんこのかおりは消臭剤しょうしゅうざいのにおいにされることなく、むしろわさり、劇物げきぶつじみた、はなおくどころかあたましんまでツンとくる。わけのわからないかおり。もはやテロ。


 ゆえに、わたしちちあとにトイレにはいるのがいやだった。うんこ以外いがいやさしいちちだったから、ちちのうんこ以外いがいきだった。だが、その強烈きょうれつなうんこのおかげで、うんこしたいときでも、ちちさきはいっていた場合ばあいあきらめて学校がっこうった。そこで、あさうんこするはめになった。


 いまはどうなっているのかわからないが、当時とうじ小学生しょうがくせいというのは、学校がっこうでうんこするやつ馬鹿ばかにし、ヒエラルキーの最下層さいかそう墜落ついらくさせる風習ふうしゅうがあったので、どうしても学校がっこうでうんこしなければならない場合ばあい小学生しょうがくせいなりに慎重しんちょうきわめ、いのちがけの覚悟かくごたなければならなかった。むろんバレないはずもなく、バレては馬鹿ばかにされたものだ。いまとなってはそれほどかなしいおもでもないけれど。当時とうじはなかなかつらかった。


 それだけうんこのくさかったちちも、もううんこをしなくなった。ちちはもういないのだ。数年前すうねんまえがんんでしまった。むかしはもりもりうんこをしていたたくましい身体からだも、最期さいごきわにはやせほそってあわれなものだった。にはえなかった。あれだけトイレでひとたせたちちは、深夜しんや病院びょういんで、家族かぞく誰一人だれひとり到着とうちゃくたず一人ひとりってしまった。


 先日せんじつ、たまたまおとうとあとにトイレにはいることがあった。

 小学生しょうがくせいころは、おたがいすんなりうんこをませられたわたしおとうと大人おとなになり、ちちおなじくうんこにかなりの時間じかんようするようになった。


 十分じっぷんほどたっぷり時間じかんをかけてうんこしたおとうとあとに、わたしはトイレにはいった。トイレのなかには、あの強烈きょうれつなかおりがあふれていた。それはあのころわらないうんこのかおりだった。ちちのうんこのかおりがトイレに充満じゅうまんしていた。いまんでいるのマンションのトイレが、まるであのころ市営住宅しえいじゅうたくのトイレと錯覚さっかくしてしまうほどだった。換気扇かんきせんけても、消臭剤しょうしゅうざいがあっても無駄むだだった。やはりちちのうんこのかおりだった。へんはなしだが、うんこのかおりがやけになつかしかった。


 もういないとおもっていたちちおとうとなかにいたのだ。うんこのかおりは見事みごとがれていたのだ。わたし下半身かはんしん丸出まるだしで便座べんざ腰掛こしかけていると、不意ふい目頭めがしらあつくなった。


 うんこのかおりがみたのだ。



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