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 果物籠を頭にのせた娘たちが嬌声をあげ、小走りで過ぎていく。

 ときおり、人の流れに浮かぶ船のような荷馬車がやってくる。荷馬車をひく馬たちは、村にいる馬より大きくて粗暴そうに見えた。

 人の声と動物の声、車輪の音。野菜や果物の香りと肉の焼ける匂い、ごみの臭いが渾然一体となって漂ってくる。


 いつのまにか、マルクト広場へ流れ着いてしまったらしい。

 マリアはすでに泣き止んでいたが、埃を吸い込んだらしく軽く咳き込んでいる。フェリックスはマリアの背をさすった。


「ごめんな、マリア」


 思わず口をついて出た。

 マリアは赤い目でフェリックスを見上げ、不思議そうに首をかしげる。


「けほっ……どうして、お兄ちゃんが、謝るの?」

「おれのせいで、診てもらえなかった」


 マリアは首を横に振った。


「あのね……マリア、ちゃんと知ってるよ。お兄ちゃんは、マリアのために、がんばってくれたんだもん。だから、だいじょうぶ」


 無邪気な笑顔が、かえってフェリックスの胸を刺す。


(結局おれは、マリアを無駄に歩かせただけなのか……)


 午後もそろそろ陰りかけている。村へ戻るには街道を半日歩かなければならない。今からでは真夜中を過ぎるだろう。荒れ放題の道、そして村で自分たちを待ち受けている変わらぬ日々を思うと、自然と視線が下がっていってしまう。


 そのときフェリックスの鼻先を、不意に甘い香りがくすぐった。顔を上げれば、荷車いっぱいのさくらんぼを並べた露天がある。

 隣からきゅう、と小さな音が聞こえた。

 マリアが小さな手で腹を押さえ、恥ずかしそうに顔を伏せている。


(ゆうべから、何も食べてないんだもんな)


 だけど施療院への喜捨で全財産を使ってしまい、フェリックスの手元には銅貨一枚も残っていない。


「……お兄ちゃん?」


 気づけばマリアに背を向けて、フェリックスの足は露天に向いていた。

 店番のおばさんは知人らしき若い娘と話し込み、商品に目を向けていない。さくらんぼは陽の光を反射して、つややかな暗赤色に輝いている。


 フェリックスは人の波に紛れ、さくらんぼの山に接近した。

 人のものに手をつけたことはない。目立つ容貌のせいで疑われたことは何度もあるが、疑うような連中の思い通りになどなってやるものかと思っていた。けれど。


(あと、少し……)


 彼の足を止めたのは、うしろから聞こえた小さな声。


「きゃっ!」


 マリアだ。フェリックスは即座に踵を返した。

 声をめがけて人混みをかきわける。目に飛び込んできたのは、石畳に尻もちをついたマリア。

 そのマリアに困った顔をして話しかけている誰かが、いる。

 すらりと華奢な体型に、チュニックとズボン。少年のようだ。フェリックスより少し歳上に見える。

 フェリックスの頭は、一瞬で沸騰した。


「――てめぇっ!」

「うわっ!?」


 足元へ体当たりされて少年が携えていた革袋ごと吹っ飛んだ。人混みが割れる。

 迷惑そうな叫び声が上がるが、構ってなどいられない。


「マリアになにしやがる!!」


 妹を背にかばい、フェリックスは少年に向かって叫んだ――はずだった。

 いない。

 フェリックスに突き飛ばされた少年は、跡形もなく消えていた。


 次の瞬間、天地が逆さまになった。


「お兄ちゃん!?」


 腕をとられて投げ飛ばされたのだと気づいたのは、石畳に背中が叩きつけられてから。

 息が止まり、青い空が視界いっぱいに広がった。


(――ああ)


 村で見る空と同じ色なのに、どうしてこんなに遠く感じるのだろう。世のなかの仕組みに手を届かせるには、フェリックスの腕はまだ、短い。


 その空の青に、白い顔がひょいと現れた。

 透き通った翠の目。木漏れ日が踊る新緑の森みたいな、吸い込まれそうな色だ。きらきら輝く長い睫毛が瞳を縁取っている。なめらかな曲線を描く頬と、細い顎――フェリックスが見たこともない、美しい顔立ちだった。


「きみ……大丈夫?」


 紅をさしたような唇が開いて、言葉を紡ぐ。


「ごめん。きみがいきなり体当りしてきたから、つい反撃してしまって……」


 男とも女ともつかない、不思議な声色。

 しかしフェリックスはろくに言葉を聞いていなかった。一番大切な存在を思い出し、跳ね起きる。


「マリア!」

「お兄ちゃん!」


 探す間もなく、マリアはフェリックスの腕に飛び込んできた。


(――おれ、さっき、馬鹿なこと考えた)


 さくらんぼの露天を前に、よからぬことが頭をよぎった。少し体温の高いマリアの身体に触れて、やらなくてよかったと心から思う。

 そのときフェリックスの肩に、誰かが手を置いた。


「……きみ」


 振り向くと、美しい少年がそこにいた。

 見た目はきれいだが、マリアを転ばせフェリックスを投げ飛ばしたやつである。彼はマリアを抱えたまま、軽く眉をひそめる。


「おまえ、まだいた――」


 言い終える前に少年が右腕を掴む。

 白い顔が目の前に迫り、フェリックスは思わず背を反らした。


「な、なんだよっ!」

「怪我してるじゃないか! 手当てしないと!」

「あ? 怪我?」


 やけに真剣な少年の視線を追うと、フェリックスの肘がすりむけて血が滲んでいた。投げ飛ばされたとき、石畳で擦ったのだろう。


「ふん。このくらい、すぐ治る」

「だめだ、甘く見るとひどいことになる。小さな傷でも、ちゃんと手当てしないと傷口からよくない精霊が入って、腕を切り落とさなければならなくなることもあるんだ」

「はぁ? 精霊って、かまどの小人とかだろ。そんなもん、ほんとにいるのか?」


 胡乱げな目を向けると、美しい少年は目を伏せた。


「僕もまだ詳しくは理解していないが……師匠が言っていた」

「なんだよ、受け売りかよ。おれはこの程度の怪我なんかどうってこと――」

「お兄ちゃんの腕、なくなっちゃうの!?」

「わわっ」


 腰にマリアがしがみついてきた。

 不安を湛えた目が見上げてくる妹に、フェリックスは笑いかける。


「だいじょうぶだって。おれは村の誰より頑丈なんだからさ、マリアだってよく知って」

「――そうだよ。このままでは、きみの兄さんの腕は腐り落ちてしまう」

「ちょっ、おい!?」


 フェリックスを押しのけたのはくだんの少年である。

 彼は腰を落としてマリアと目を合わせると、この上なく厳かに言った。


「きみの兄さんは頑固者でね。僕は手当てすると言っているのに、聞いてくれない。きみからも言ってくれないか」


 柔らかな中音アルトの声。マリアは魅入られたようにぽうっと翠の瞳を見つめ返し、こくりと頷く。


「おい! マリアに変なこと吹き込むんじゃ」

「お兄ちゃん、どうして手当てしてもらわないの? だめだよ!」

「うっ」


 マリアが両腰に手を当て、赤みのさした頬をふくらませている。フェリックスは妹のこの顔に弱い。


「ほら、きみの妹もこう言っている。おとなしく手当てを受けてほしい」

「反則だろ……」


 睨みつけると、美しい少年は得意になった様子もなく言った。


「きみに怪我をさせたのは僕だ。責任がある」

「おまえ、すっごい面倒くさいやつだな」

「そうだろうか?」


 少年はひとつ首をかしげてから、フェリックスとマリアに背を向ける。そして自分の荷物を抱え上げると、人混みを縫って歩き出した。


(ついてこいってことか?)


 フェリックスはため息をつき、マリアの手を取って少年のあとを追った。



     ◆



 名も知らない美しい少年は、露天が迷路のように立ち並ぶ市場の通路を、慣れた足取りで進む。


「いらっしゃい、いらっしゃい! 安くしとくよ!」

無花果いちじくはどうだい? そこの奥さん、見ていくだけでいいからさ。きれいな色だろ?」

「昨日殺したばかりの豚のソーセージ、今日最後の売出しだ。見逃す手はないよ!」


 呼び込みの大声が頭上を行き交うが、マリアの手を引いたフェリックスは少年を見失わないようについていくのが精一杯で、周囲に気を配る余裕はない。


 少年が不意に立ち止まった。

 いつの間にか、市場のはずれまで来ていた。

 そこは半円形の小さな広場で、数台の荷馬車が肩を寄せ合うように停まっている。午前の市場でひと稼ぎしたと思しき行商人たちが、馬車に背を預けてたむろしていた。


「どうよ、調子は」

「まあまあだな。やっぱり北の陶器の出はいい」

「景気がいいねぇ。だけど最近、エルデンベルクの情勢がきな臭くて……」


 情報交換にいそしむ行商人たちの脇を抜けて、少年は一台の荷馬車に近づいていく。

 その荷馬車は四方を板で囲み、上に屋根を載せた形状をしていた。

 行商人の荷馬車は床板と横板を組み合わせただけの単純なものが多く、箱型は珍しい。馬車の背面の板に、短い階段と扉がついていた。背をかがめれば、大人でも一応は出入りできそうだ。

 扉の上には看板が張り出している。看板が出ているということは、この荷馬車は店舗を兼ねているということである、が。


(なんの店だ?)


 文字が読めなくてもわかるよう、商店の看板は取り扱う商品の絵や彫刻が使われる。肉屋の看板は縛られた豚、パン屋はひねったパンの形である。

 この荷馬車に取りつけられた看板は、中ほどがくびれた盃に、蛇が巻きついた形をしていた。こんな看板は初めて見る。


「なあ。ここ、なに?」

「僕の師匠の店だ」


 肩越しに答えて、美しい少年はそれで説明は終わりと言わんばかりに荷馬車の扉に手を伸ばす。


「師匠って? おい、待てよ……」


 けれど、次の瞬間。


「――やぁだもぉ、薬草師さんったら。旦那に見つかったらどうするのぉ?」


 唐突に、甘ったるい女の声が聞こえた。

 フェリックスは口をつぐむ。彼の数歩前で、少年も立ち止まっている。というより、固まっている。

 少年たちの耳に続いて聞こえたのは、男の声。


「見つからねーって。あんたがここに来てること、旦那には言ってないんだろ?」


 女の声がくすくす笑う。


「言ってないけどぉ。ここんとこ毎日だもん。そろそろバレるわよぉ」

「はん、あの旦那がそんな繊細なタマかよ。ほら、もっとこっち来いって。診れねーだろ?」

「あぁん、もぉ、ダメだったらぁ」


 男女の声は、明らかに目の前の荷馬車から聞こえていた。

 十二歳のフェリックスは一人前の働き手だ。それなりに人々の暮らしぶりだって見ている。中で行われていることくらい、想像がつく。


「あの、さ。今はまずいんじゃねえかな、これ」

「……」


 少年はこちらへ背を向けたまましばらく黙っていたが、おもむろにがばっと顔を上げる。

 そして決然とした勢いで、馬車の扉を開けた。

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破戒の薬草師 狸穴醒 @sei_raccoonhall

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