診療録1 恵みはあまねく民の上に

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 明けの鐘が鳴る。

 空の端が紫色から薄紅へと変わり、やがて曙光が牧草地の彼方からこぼれて、街並みが徐々に輪郭を取り戻してゆく。


 人口千人ほどのブレーエの街は、北部の大都市とは比べるべくもないが、近隣の中心都市のひとつである。

 そのブレーエの教会広場から一本入った『華やぎ通り』は、夕方から夜半まで賑わう地域だ。酔漢が酔いつぶれて客が女たちの部屋におさまったあとは人通りも途絶え、今は、名前に反したけだるい空気に包まれていた。


 そんな朝ぼらけの華やぎ通りを走る人影が、ひとつ。


 小柄で、華奢な体格だ。街の男たちと同じ織りの荒い上衣チュニックにズボンを身につけているから、少年だろうか。


 おそろしく整った顔立ちをしていた。

 年齢は十四、五歳だろうが、しかるべく着飾れば華やぎ通りでまたたく間に引く手あまたとなるだろう。

 たまご型のほっそりした顔、白い肌。すっと通った鼻筋。ともすれば冷たさすら感じさせる美貌に釣り気味の目が翠玉エメラルドのごとくきらめいて、凛とした生気を添えていた。

 頭全体を布で覆っており、髪の色はわからない。


 美童は石畳の通りを軽やかに駆け抜け、ある店の前で立ち止まった。

 乙女をかたどった看板を確認し、少しためらって、遠慮がちに扉を叩く。


 反応がない。


 ふたたび扉を叩く。今度は、もう少し強く。


 やはり反応がない。


 意を決して右手を大きくふりかぶったところで、内側から扉が開いた。


 なかから顔を出したのは、赤い髪を結い上げて胸元をきわどく露出した、三十がらみの女である。派手な美人だが、目は半開きで化粧が落ちかけている。


「誰よ、朝っぱらから……なんだ、あんたかい」

「おはようございます、パウラさん。こんな時間にすみません」

 美童は丁寧に頭を下げた。声もまた、少年とも女ともつかない柔らかな中音アルトであった。


「いいよ、坊主のきれいな顔を朝から拝めるなら役得ってもんさ。――師匠だろ、来てるよ」

 言葉とうらはらに不機嫌な表情のまま女は顎をしゃくり、なかへ引っ込んだ。

 美童がうつむきがちに後に続く。


 一階の広間には夜の狂騒の気配が残っていた。並んだテーブルには空の酒瓶が取り残され、板張りの床に食べかすが散らばっている。淀んだ空気だ。人の姿はない。

 二階へ続く階段をのぼりながら、女が肩越しに言う。


「ちょうどよかった、今日あたりツケを払ってほしかったんだ。また次の街に逃げられたらたまったもんじゃないからね」

「はぁ……おいくらでしょうか」

 大きな緑色の目に不安の色を浮かべて、美童は尋ねた。


「銀貨七枚」

「え」


 女の提示した金額は、独り身の若者が都市でひと月つつましく暮らせるほどである。

 翠玉の目が一瞬だけ燃え立った。


「……わかりました。後ほど、お支払いします」

「頼むよ」


 美童の瞳の激しい色に先をゆく女は気づかず、二階の手前から三番目の部屋をノックする。


「ちょっといいかい、薬草師さん。お迎えが来てるよ」


 なかで人が動く気配がした。かすかな息遣いも聞こえるが、扉が開かれる様子はない。

 女がもう一度ノックする前に、美童が踏み出した。

 美しい顔に、静かな決意と怒りをみなぎらせて。

 こういう店で鍵が機能していることはまずない。無言のまま扉を勢いよく開ける。扉が壁にぶつかって破壊的な音を響かせた。


「あたしの店を壊すのはよしとくれ!」

 女の訴えを無視し、美童は室内に踏み込む。

 狭い部屋を埋め尽くす寝台のうえには、予想通りふたりの人間がいた。


「うー……ったく、なんの騒ぎだよ、寝かしてくれよ……」


 うめきながら身を起こしたのは、若い男だ。

 年のころは二十歳から二十五歳のあいだ。顔から裸の胸までが小麦色に日灼けしている。

 男は脱色した麦藁のような髪をかきまわして、大あくびをした。それから灰色の目をすがめ、戸口に立つ美童を視界に収める。


 美童が腕組みをして男を睨み据えている。

 無表情だが、内面の激情が気配で感じられた。小柄な身体から、怒りが陽炎のように立ち上って見えるほど。


「……」

「……」


 男はしばし美童と見つめ合う。

 見惚れているわけではない証拠に、水揚げされた魚のように口を開閉させている。

 やがて彼はひきつった笑みを浮かべて、言った。


「……おはよう、リュイ。いい朝だな」


 美童はすぐには答えない。

 すう、と息を吸い込む動作を目にして、割り込む隙をうかがっていた赤髪の女は諦めとともに両手で耳を塞いだ。


「――いい加減にしてくれ師匠!!」


 美童の声が、早朝の安宿じゅうに響き渡った。


「毎日朝まで遊び歩いて、いったいなにを考えている!? あなたの下半身事情なんかに興味はないが、僕らの財政状況を少しは考慮したことがあるのか!? 稼いだ端から使っていては今後の旅にも支障が出るんだぞ!!」


 それぞれの部屋で、女たちと客たちが時ならぬ騒音に目を覚ます。薄い壁を通して左右と上から「なんなの?」「うるせーぞ!」と非難の声があがった。


「ちょっ、リュイ、声がでかい」

 頭痛をこらえるように額を手で押さえた男の横で「ううん……」と色っぽい声を漏らし、若い女が身じろぎした。

 美女である。

 彼女はまばたきをして隣の男を見やり、入り口に立ちふさがる美童と、うしろで頭を抱える赤髪の女店主とを見比べる。

 そしてだしぬけに身を起こすと男を指差し、激しい剣幕でわめき立てた。


「姐さん、聞いてよこいつひどいのよ!! 部屋に入ってからもずーっとよくわかんない植物の話ばっか聞かされてさ! 酒出したら一杯でつぶれて結局ナニもしてこないし! 久しぶりに男前の客だと思ったらなんなのよ!!」

「おいおいおい、ずいぶんな言われようだな」

 男が肩をすくめる。

「俺は、あんたの目は瑠璃唐綿ブルースターみたいだと言っただけじゃねーか。それなに? って訊いてきたのはあんたのほう……」


 どん、と大きな音がした。

 一同の視線が集まった中心で赤髪の店主が扉に拳を当てている。額に血管が浮いていた。

 誰よりも大きな声で、彼女は吠えた。


「――あんたたち全員、静かにしな! つまみ出すよ!」


 もはや平穏な朝は望むべくもない。



     ◆



 くうう。


 フェリックスの腹が情けない音を立てた。

 さっき昼の鐘が鳴ったが、昨夜からなにも食べていないのだ。冷たい石の壁に背をあずけ、どうにか空腹を紛らわせようと姿勢を変えていると、マリアが彼の肩に頭をのせてきた。

 八歳になったばかりのマリアの小さな鼻は、赤く皮が剥けている。


「大丈夫か、マリア」

 フェリックスが四つ下の妹に声をかけると、マリアは瞼を大儀そうに持ち上げる。白目が真っ赤に充血していた。

「だいじょうぶ……」

 マリアは細い声で言いかけ、立て続けにくしゃみをした。それが収まると今度は苦しそうに咳き込む。

 鼻がつまって、呼吸がうまくできないのだ。フェリックスは妹の背をさすった。なにもしてやれない自分が歯がゆくてしかたない。


 四方を石の壁に囲まれた待合室は人でいっぱいだが、誰も兄妹に注意を向けない。

 床に座り込んだ人々は一様に表情が暗い。咳を繰り返す人や、横たわったまま動かない人もいた。

 粗末な服の少年がたらいで雑巾を洗っている。高い天井から、天使の絵が目を細めて病者たちを見下ろしていた。


 ブレーエの街の施療院――神の奇跡を起こす癒し手ハイラーが、患者を癒すための施設である。


 癒し手とは、生まれながらにして神の恩寵を得た人々だ。

 祈りを捧げて病や怪我に悩まされる人に触れることで、たちどころに癒やす。彼ら彼女らは幼いころから教会に見出されて修道士、修道女として日夜修行に励み、教会信徒に奉仕するのである。

 平原において癒し手の存在を知らぬものはいないが、彼らの人数はとても少ない。小さな村にいることはまずあり得ず、こうして施療院を設けて広く患者を受け入れているのは一定規模以上の街の教会に限られた。


 ようやく咳が落ち着いたマリアがつぶやく。


「……お母さん、おこってるかな」

「どうだろうな」


 兄妹の住む村はこの街から歩いて半日かかる。

 誰にも見咎められないよう、夜のうちに村を出た。近隣に狼は出ないと聞いているが、起伏のある街道を星明かりでたどるのは難儀ではあった。


 と、そのとき、奥の扉が開いた。

 待合室を埋め尽くす人々の視線が一点に集まる。

 現れたのは白い修道衣に頭布ウィンプルとヴェールをかぶった、三十歳に届かないくらいの女――修道女である。


「三十番までのかた、奥へどうぞ」


 待合室に満ちた患者たちに頭を下げ、修道女が言う。

 フェリックスは手のなかの木の札を確認した。文字は読めないが、線を組み合わせて数を表す数字はかろうじてわかる。そこには十字がふたつと半分の十字がひとつ記され、二十五という数字を示していた。


「行こう、マリア」


 ほか十人ほどの患者と一緒に修道女の前に並び、廊下へ導かれる。

 ひとりの老婆は歩くこともままならないようで、付き添いの中年男性におぶわれている。別の女性は外套の頭巾フードを目深にかぶっていたが、その陰から覗く顔は、ほとんど隙間なくできもので覆われていた。


「ほら、ちゃんと歩きな。もうすぐ治してもらえるからな」

「……うん」


 廊下の果ての部屋は待合室の半分くらいの広さだった。装飾のある窓から光が差し込んで、室内は明るい。

 奥の壁には、直線を交差させて光を表現した聖印シンボルが輝いている。

 部屋の中央に、ひとりの老修道女がいた。

 ヴェールの下の顔には深い皺が刻まれ、思慮深そうな目がこちらへ向けられている。胸に下げた聖印に二重の環がはまっているのは、癒し手の証である。

 老修道女は一同を目にすると、両手を広げて微笑んだ。


「ようこそ、神の癒しの家へ。ご安心ください。あなたがたの苦しみは、間もなく取り除かれるでしょう」


 老修道女の声は、落ち着いて柔らかかった。

 案内役の修道女が一同を横二列に並ばせる。奥のカーテンが開いて、修道服を着た十歳くらいの少女が現れ、患者の前を順に回っていく。


「喜捨を」


 どこかふてくされたような口調で少女が言う。

 フェリックスは胸元から小さな革袋を取り出し、聖印が彫られた箱にそっと収めた。彼が一年近いあいだ村の雑用を引き受け、水くみや荷物運びや家畜の世話の代行で少しずつためた全財産である。

 修道服の少女はぺこりと頭を下げて通りすぎ、次の患者の前に立つ。

 そして少女が喜捨を集め終わった頃合いに、老修道女が後列にいた老婆を手招きした。


「そちらのかた、どうぞおいでください」


 呼ばれた老婆は、息子らしき中年男性にすがらないと立っていられない様子である。案内の修道女の手も借りて、おぼつかない足取りで跪く。

 老修道女は老婆と二言三言交わしたあと、顔の前で聖印をかたどった手振りを行った。

 両手を胸元で組み合わせ、それから右手を老婆に向かってかざす。


「――恵み深き天の父よ、しもべたるわたくしの声をお聞きくださいませ。御心みこころにかなうならば、この者から、苦しみを取り除いてくださいませ」


(……あ!)


 フェリックスとマリアは揃って息を呑んだ。


 老修道女の手のひらが、ほのかな金色に発光する。光は水紋のようにゆらめいて、老婆を包み込んでゆく。

 変化は、見るまに起きた。


 ふらつきながらも、老婆が立ち上がったのである。


「母さん!」

 付き添いの男が感極まったようにつぶやく。老婆はそのまま足を踏み出し、修道女に深々と頭を下げた。

 見守っていた患者たちのあいだに、静かな感嘆が漣のように広がる。

「奇跡だ」「ほんとうに奇跡が起きた……!」「なんと、ありがたい」「神さま、お恵みに感謝します」


 マリアも「すごいね」と興奮気味に口にしている。

 話に聞いていた以上のあざやかな奇跡に、フェリックスは声も出なかった。同時にたしかな希望が胸に生まれる。これなら、マリアもきっと治してもらえるに違いない。

 そのとき、老修道女の視線がマリアに向けられた。


「そちらの小さなかた、どうぞこちらへ」


(来た!)

 緊張を感じ、フェリックスは自分の外套の袖を引っ張る。

 不安そうに見上げてくるマリアの背を押して前に進み出、老修道女の前に跪かせた。老修道女が笑みを浮かべて尋ねる。


「どうされましたか?」

「……妹が、ずっと具合が悪いんです。だるくて動くのもつらいみたいで、くしゃみと咳が続いて、目も腫れてて」

「それはそれは、大変だったでしょう。よくここまで来てくれました」


 こんなふうに優しく話しかけられたのは初めてかもしれない。フェリックスは老修道女の声に、緊張がほぐれていくのを感じた。


「小さいのに、よく頑張りましたね」

 老修道女がマリアの顔を覗き込むように腰をかがめる。しかしもともと知らない大人が苦手なマリアは、びくっと身を反らしてよろめいた。

 フェリックスが咄嗟に手を伸ばして妹を抱きとめる。


「こら、しゃんとしないと危ないぞ」


 そう言ったフェリックスは、自分に集まる注目に気づいた。

 奇妙な沈黙が場を支配していた。修道女や修道女見習いたちが、彼を見ている。

 正確には、彼の手首を。


「あ……」


 フェリックスは過ちを悟った。

 マリアを支えた拍子に外套がめくれ、左手首の内側が露出していた。

 そこにくっきりと現れているのは――山羊の角をかたどった記号。


「――異教徒?」

 そう漏らしたのは修道女見習いの少女だ。

「異教徒?」「異教徒ですって?」「なぜここに異教徒がいるんだ!」

 様子をうかがっていた患者たちにもその言葉が伝わり、治療室の空気は一気に不穏なものとなった。


「山羊の焼印……」


 信じられないものを見たというようにつぶやいて、老修道女の穏やかな顔がしかめられる。

 そこにありありと浮かんだ色を、フェリックスはよく知っていた。それは嫌悪と排斥の――フェリックスが十二年の人生のあいださんざん向けられてきた感情だった。


「ち、違うんです! おれ、おれは、たしかに異教徒の子だけど、妹は違うんだ! マリアはおれとは関係ない!」


 声をうわずらせて老修道女に向かって訴えるフェリックスの両腕を、どこかから現れたふたりの男が掴んだ。粗末な長衣ローブを着ている。教会従僕だろう。

 患者をこの部屋まで案内してきた、若いほうの修道女が言う。


「連れていきなさい!」


 マリアが教会従僕のひとりに引きずりあげられ、周囲を見回して泣き出した。

「この……やめろ!」

 フェリックスは暴れたが、大人の力に敵うはずもない。従僕に殴られ、頭巾がはずれて彼の黒い髪と浅黒い肌が顕になった。

 会ったこともない父親から受け継いでしまった、珍しい肌の色。それを見て、患者たちがまた口々に嫌悪と侮蔑を口にする。


 治療室から引きずり出されるとき、老修道女と目が合った。

 先ほど慈愛に満ちた表情で話しかけてくれた老修道女はすぐに目を逸らし、吐き捨てるように言った。


「汚らわしい」


 目眩に似た感覚がフェリックスを襲った。

 裏口へ連れて行かれて路地へ放り出されたときも、フェリックスの頭のなかでは、老修道女の言葉が何度も反響していた。


(おれが、異教徒の子だから。おれのせいで、マリアは治療も受けられない)


「……なんでだよ! マリアはちゃんと両親とも教会信徒なんだ。喜捨だって出したじゃないか。なんでなんだよ。マリアを、治してくれよ!」


 少年の声が虚しく響く。彼が伸ばした指先をかすめて、裏口の扉は閉じた。

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