破戒の薬草師

狸穴醒

プロローグ

Exodus

 ぱちん、と。


 なにかが弾ける音で目を覚ました。

 瞬きを二度。

 勢いよく瞼を引き上げる。

 横倒しになった視界の中心に、焚火が燃えていた。炎の中でたきぎがまた、ぱちんと弾けた。


 息を殺し、そっと手を開閉してみる。

 拘束されていないことに少し驚いた。けれど慌てて起き上がるような愚は冒さない。目だけを動かし、周囲を探る。


 夜であった。

 濃い闇が、焚火の周囲だけをよけて満ちていた。並んだ木の幹を透かして見える空は濃い群青色で、針のように細い月が梢にとまっていた。

 虫の声がひっきりなしに鳴り響き、初夏の草の匂いが迫ってくる。


 わたしは、低木に囲まれて窪地のようになった場所に横たわっていた。

 風の匂いから考えて窪地の周囲は草原のようである。木立の向こうに、箱型の荷馬車が停まっていた。


(ここは……?)


 今に至るまでのことを思い出そうとするが、頭に靄でもかかっているようにぼんやりしていた。


(森の中を走っていたはずだが……途中で追いつかれて、囲まれて……)


 その前後で記憶が混濁している。

 やはり捕えられたのだろうか。近くに見張りのひとりも見当たらないのが不可解だが。


(だけど、は敵地だ。わたしの味方がいるはずもない)


 そこでわたしの目は、焚火の脇に置かれたものへ惹きつけられた。

 見憶えのある、濃い色の布の塊。その下から覗く金属の輝きは、物心ついて以来慣れ親しんだものだ。

 植物の蔓を模した装飾は――剣の、柄。


 わたしはその場にじっとしたまま唇をなめた。心に燃え立ったのは、安堵ではなく怒りだ。


(手の届く場所に置いておくとは見くびられたものだ。しょせん、平原の民エーベネンはその程度ということか)


 今すべきことへ意識を戻す。

 とにかくわたしは生きている。しかも周囲にの姿はない。今は夜、の多くはわたしほど夜目が効かない。

 ここを離れる好機だろう。

 逃亡も耐え難いけれど、生き延びねばならない。生きて、帰らなければ。

 もう一度視線を回してから、わたしは一気に身を起こし――


「ぐ……っ!?」


 右脇腹に激痛が走った。

 全身から脂汗が噴き出したのがわかる。肘で支えきれずに上半身が崩れ、伸ばした指がむなしく空を掴んで草に落ちた。長い銀の髪が広がって視界を遮る。

 今しも意識を失いそうな痛みに耐え、脇腹に手をのばした。

 上衣チュニックの下に、包帯のようなものが巻かれている感触があった。生温かく湿っている。


(負傷!?)


 直接的な痛み以上に、その発見がわたしを打ちのめした。

 怪我はしばしば一撃の死よりもずっと恐ろしい苦しみをもたらす。逃避行にはとてつもない重荷となるだろう。


(……いや。だからなんだというんだ)


 苦しかろうが痛かろうが、ほかにできることはないのだ。

 逃げなければわたしは、の司祭たちの前へ引きずり出されて晒し者にされる。すぐ処刑されるならまだましで、森の民ヴァルデンの誇りを奪われて無駄に生き永らえては目も当てられない。

 逃げれば、帰りつけなかったとしても死ぬだけだ。


 そのためには武器が、わたしの剣が要る。

 わたしは前方の焚火をにらみ、両肘を使って履い始めた。一歩ごとに――ひと這いごとに、というべきか――脇腹が激しく痛み、精神を削っていく。

 少しずつ。少しずつ。わたしは自分の武器に近づいた。


 その声は、背後から降ってきた。


「どこへ行くつもりだい?」


 飛び上がるほど驚いたが、戦士の挟持がそぶりに出すことを許さない。わたしは這いつくばったまま、静かに振り向いた。


 数歩うしろ。

 細い月を背にして、長い外套マントをまとった背の高い影が立っていた。


(この距離まで気づかなかった⁉ 迂闊!)


 痛みが注意力を鈍らせたか。しかし言い訳の余地はない。敵地における過ちは、自身の命によって支払われる。

 せめてわたしは、ありったけの殺意を込めて外套の人物を睨んだ。


 声と背格好からして男だろう。頭巾フードをかぶっているので顔は見えない。武器は抜いていないようだ。戦士には見えないが、目に見えるものだけがすべてとも限らない。

 男の外套が揺れた。肩をすくめたらしい。


「そーんな怖い顔しなさんな、お嬢さん。動くと傷が開くぜ?」


 男が一歩近づく。わたしは男を睨んだまま、焚火のほうへ両腕を使って後退した。

 その瞬間、強烈な痛みが襲った。


「あぐっ……!」


 うめき声が漏れてしまう。脇腹から熱いものが流れ出すのがわかった。

 もはや身を起こすこともできず、わたしは草の上でみっともなく身体を折って震えるのみであった。

 意思に反し、視界が曇った。月の輪郭がぼやける。

 情けなかった。

 守るべきものを守れずに捕えられ、敵地のただなかで剣すら手にできず、わたしはなすすべもなく死を迎えようとしている。


「あーあ、言わんこっちゃねー」


 男がわたしの上に屈み込んでくる。振り払おうにも、身じろぎするのが精一杯だった。


「さわ……るな……」

「だーから、動くんじゃねーって」


 不意に視界が大きく揺れ、背中の草の感触が消えた。どこか懐かしいような、乾いた匂いが鼻先をかすめる。

 抱き上げられたのだと気づくまでに数秒の間があった。


「き……貴様……! はな、せ……」

「ちょっと黙ってな。舌噛むぞ」


 男の顔が、さっきよりずっと近くにある。頭巾から覗く顎には無精髭が散っているが、まだ若いように見えた。


 数歩の移動ののち、男はわたしを右側面を上にして焚火のそばに横たえた。炎の熱気がふわりと漂ってくる。

 そうしておいて男は倒木に座り、脇に置いた荷物を探り始めた。


(殺さないのか……?)


 犯されるか、殺されるか、放置されるかのいずれか、あるいは全部だろうと思っていた。予想がすべてはずれ、わたしは実のところ戸惑った。この男がなにを考えているのかわからない。


「貴様……わた、しを……どう、する……気、だ……」

「あー? 決まってんだろーが」


 すぐ近くで水音がして湯気がたった。男が焚火にかかっていた鍋の湯を、木のたらいへ移している。

 頭巾をはずしており、顔があらわになっていた。

 顔立ちは整っているが、目立つほどでもない。二十歳は過ぎていて、二十五には届いていないくらいか。しかし茫洋として掴みどころのない目が、年齢を推し量りにくくさせている。

 彼はわたしの視線に気づくと、人懐っこい笑みを浮かべた。


「お前さんを、治療するのさ」


 男の言葉が理解できなかった。

 わたしはともすれば遠くなる意識を必死でつなぎとめながら、疑問を口にする。


「……貴様……平原の、民だろう……」

「見ての通りね」

「わた……しは、森の……民で……」

「ああ、見りゃわかるぜ。見事な銀の髪だ」

「……なら……っ、どう、して」


 男は唇の両端を歪める。なぜそんなことを訊かれるのかわからない、という表情に見えた。


「俺が、薬草師だからだよ」


 それだけ言って男は手元に目を落とし、陶の壺を開けてなにかの作業をはじめた。

 明らかに説明が足りていない。わたしは尋ねた。


「薬草師……とは、なんだ……」

「薬草を使って怪我や病を治す職業」


 男はこちらを見ない。焚火の上に、洗濯物のように布や包帯が何枚もあぶられていた。彼はそれらを回収し、革袋の上に丁寧に畳んで置く。


「治す……? それ、は……司祭の役目、では……?」

「教会に癒し手ハイラーがいるからって、薬草師がいちゃいけない理由はないだろうよ」


 だしぬけに男がわたしの上衣をまくりあげた。

 覚悟していなかったわけではない。が女の捕虜をどう扱うか、森でさんざん聞かされた。外気に触れた肌がぞわりと粟立つ。


「ひ……っ、やめ、やめろ……」

「こーら、いい加減おとなしくしろって。早く手当てしねーと血が流れすぎちまう。死ぬぜ?」

「平原、の、男に……手篭めにされるくらい、なら……っ、死んだ、ほうが……」

「ハァ?」


 焚火の灯りのなか、男が頬をひきつらせたのがわかった。


「妙齢の美女ならともかく、うすべったいガキに催すほど飢えちゃいねーよ」

「なんだ……とっ……馬鹿、に……する、な……」

「どっちなんだよ面倒くせーな」


 弱々しいわたしの抵抗など、男にとってはなんの障害でもなかっただろう。なのに男はふと手を緩めると、わたしの顔を覗き込んできた。


「お前さん、こいつを返して欲しいんだろ」


 いつのまにか男の手にあったのは、細身の剣。

 柄と鞘に植物の蔓をかたどった装飾が施され、森のなかでも扱いやすいように短めにつくられている。


「あ……わ、わたしの……!」


 反射的に手を伸ばそうとしたが、男に阻まれる。彼はにやりと笑い、もったいぶるように言った。


「返してもいいぜ。ただし、おとなしく治療されてくれたら、だ」


 手から力が抜けた。

 命よりも重い価値を持つ剣だ。それを持ち出されてはどうしようもない。


(なんて、卑怯な男だ)


 このときのわたしは、なぜか治療されることを屈辱のように思っていたのだ。借りができるのが恐ろしかったのかもしれない。


 男はわたしの脇腹をまさぐっている。ほとんど死んだような心持ちで様子を窺うと、包帯をはずして湯を浸した布で傷を拭いているようだ。

 傷はわたしの右の脇腹を斜めに抉って、じくじくと血が滲み出している。

 そこで、わたしはあることを思い出した。


「わ、たしは、貴様らの金、など……持って、いないぞ……治療代は、払えない……残念、だった、な……」


 言い放ったときは、一矢報いた気分だった。

 平原の民は氏族ごとの役割を果たすのではなく、金のために働く。金などつまらぬ金属の板にすぎぬのに、そのためなら親兄弟でも裏切るのだという。

 しかし男は動揺した様子もない。


「知ってるよ。だいたいお前さんを最初に治療したのが誰だと思ってんだ。一度全部剥いたからな、文無しなのも確認済み」


 全部剥いたという言葉にくらりとしたが、それは本題ではない。

 いよいよ理解不能だ。身体目当てでもなく、金目当てでもなく、森の民であるわたしを助けるのは、なにが目的なのか。


「なぜ……」

「ちったぁ黙ってらんないわけ? お嬢さんよ」


 男は呆れた様子でわたしの顔を見てから、傷に目を向けた。


「やっぱり開いちまったな。暴れるからだ。縫い直すほどじゃねーが、これで完治まで一週間は延びたぜ」

「……治る、のか……?」


 わたしの知る限り、こんな怪我を負ってはたいてい助からない。塞がるより前に傷が腐って苦痛にのたうちながら死んでいく人々を、今まで何度も見た。

 けれど男は、軽く笑った。


「たりめーよ。俺が縫ったんだぞ? 絶対治してやる」


 男は薄い布に壺からすくったものを塗りつけている。秋の森を思わせる、奇妙だが不快ではない複雑な匂いが、あたりに漂う。


「縫っ、た……?」

「だいぶざっくりいってるが、内臓まで届いてねーからな。お前さん、運がいいぜ」


 縫ったとはどういうことだろう。人間の身体を布のように縫い合わせたということだろうか。

 疑問が解消する前に薄い布を傷に押しつけられると、冷たい感触とともに鈍い痛みが走った。わたしは軽く眉をひそめただけでやりすごす。

 男が感心したように低く口笛を吹いたので少し恥ずかしくなって、目を逸らした。


「……よし、終わり。しみただろう? よく我慢したな」


 やがて男はわたしの肩をぽんと叩き、仰向けにさせた。子どもを相手にするような口調に苛立ったが、反論する気力はもうなかった。

 いつしか月は沈み、宝石のような星々がきらめいている。


(森で見る星と同じ……)


 なぜか目頭が熱くなった。

 気を紛らわせるために脇腹へ手をのばすと、乾いた包帯に指先が触れる。じっとしていれば痛みは感じない。

 男は倒木の上へ戻らず、わたしの隣に腰を下ろす。彼が薪を足し、木切れで焚火をつつくと炎が少しだけ大きくなった。


 ぼんやり炎を眺めていたら、男が言った。


「たしかに薬草師は、俺の職業。メシのタネ。腕を安売りする趣味はねーからな、基本的に代金はきっちりいただく。だけど、単なる職業ってだけじゃねーのよ」


 突然なんの話を初めたのかと思ったが、さっきの「なぜわたしを助けるのか」という問いへの答えだと気づく。


「ならば……なん、なのだ……」


 重たい頭ごと男のほうへ向けると、揺れる炎を移す瞳が、わたしを見下ろしていた。

 その目をわたしは、知っている気がした。わたしを透かして、遥か地の果てを――いや、時の果てを見ているかのような目。

 男は、言った。


「――天命さね」


 ぱちん、と、また焚火が音を立てる。

 黒ずんだ煤が煙に混ざって上ってゆき、風が梢をざわざわと揺らした。

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