神様のパスワード

かぎろ

神様のパスワード

 くしゃくしゃに丸めた紙をゴミ箱に投げ入れようとして、私は思いとどまった。


 薄暗い自室。レースのカーテン越しの弱々しい日光が差す中、私は回転椅子に座っていた。机には仕事で必要な書類が置いてある。在宅でする仕事も疲れるものは疲れるし、さっきは上司に嫌味を言われた。

 私はストレスに任せて不要な紙をくしゃくしゃに丸め、そして今。ゴミ箱に投げ入れようと振りかぶった腕を、一旦、下ろしていた。


 なんとなく、願掛けをする。


 この紙がうまくゴミ箱に入れば、その瞬間、世界平和が実現する。

 うまく入らなければ、世界はこのまま。


 ゴミ箱は机から遠く、投げ入れるのはなかなか難しいと思われた。しかしうまく入れば世界が救われるのだ。

 もちろん、こんなことに大した意味があるとは思っていない。だが無意味に思えたことが意味を成していくということもある。例えば、意味もなく散歩ルートを変えたある日、道中で子猫を拾うかもしれない。その子猫が私に懐き、やがて私自身も子猫を心の支えにするかもしれない。支えを得た私は猫を題材とした傑作小説を書き上げ、新人賞を受賞し、読者の誰かの心を救うのだ。そしてその救われた誰かは未来の大統領で、正しい政治で世界を平和にする。ありえないことではないはずだ。

 それは宇宙の広がりにも似ている。最初は小さな点でしかなかった宇宙は、ビッグバンによって膨張し、今の広大な姿になった。しかし、ビッグバンが起こる以前、そこにあったのは「無」だ。星もなければ、人もいない。そこに意味などなかっただろう。

 けれどそこから宇宙は生まれ、想像を絶する広さになり、今もなお広がり続けている。


 なぜ「無」の中で宇宙が生まれたのだろう、と考えてみる。時間も、空間もないその場所で、何が起きたのだろう。ひょっとしたら、今の私がやろうとしているような、何の意味もないように思えることが起こったのかもしれない。「無」の中を、人間の想像の及ばない超越的な存在が過ごしているとする。その存在が「無」の中を散歩する時、意味もなくいつもとルートを変えてみるのだ。すると、何らかの想像の及ばぬ何かによって、魔法のように宇宙が生まれ、ビッグバンが起こる。すなわち、無意味なものが意味のあるものに変わる。


 それは無作為に考え出されたパスワードのようなものだ。文字列自体に言語的な意味はないというのに、パスワードを入力すると金庫は開く。それと同じようなことが「動き」にもいえるかもしれない。例えば手話は、それを知らない人にとっては手を忙しなく動かしているだけで意味はないように感じるだろう。手の動きの意味を知っている人に見せることで初めて、手話は意味を成す。

 私がやろうとしていることにも、私自身、意味はないと思っている。だが、先程述べた超越的存在ならどうだろうか。もしかしたら、私のことをどこからか見ていて、「私が紙をゴミ箱に投げ入れる」という一連の動作に意味を付与しているかもしれない。私が紙ゴミを投げる時の動作、紙ゴミの描く放物線、入る角度、スピード、回転数、といったようなことが偶然にもパスワードのような役割を果たし、結果、何かが起こるのだ。

 それは神様が決めたパスワード。

 起こる何かというのは、神様のことだから、素敵なことに違いない。例えば、全人類がほんの少しだけ誰かを思い遣ろうという気持ちになることであったり、海に捨てられたビニール袋全てがクラゲに変わることであったり、世界に存在する全ての銃にヒマワリが咲くことであったりする。どんなに無意味なことに思えても、神様のパスワードと合致していれば、きっと世界は変わるのだ。


 責任重大かよ。


 私は笑って、紙ゴミを投げた。

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