絃が哭く。

久利須カイ

第1話

Session0


「おにいちゃん、お空が泣いてる」

 風に冷えた頬を押さえて呟いた。

 空を見あげる。眩しさに自然と涙がにじんだ。

 吐く息が白い。目に痛いほどの青を背景に、円を描く黒い点が見える。きっとあれは、はるか上空を飛ぶカラスだ。

「違うよ、まや。あれは空が泣いているんじゃないんだ。あの音は『もがりぶえ』っていうのさ。電線が風をきる音なんだよ」

「ふーん」

 兄は得意そうに教えてくれるが、幼い少女にその正確な意味がわかるわけもない。

 ただ面白いメロディだと思った。不規則に上下する音階。だから答えるかわりに唄った。歌は大好きだし、得意だった。兄の言うような難しいことはわからない。けれど、ただ褒めてほしかったのだ。

 電線の歌にあわせたハミング――。

 いきなり肩を掴まれた。

 いたいよう、と言おうと思ったが途中で言葉をのみ込んだ。兄の怖い眼がそれをさせなかった。

 畏怖をたたえた、まるで人ではない何かを見る眼差し。

 あの日が、すべてのはじまりだった。



 Session1


 耳の中がうるさい。

 起きていても、寝ていても、頭の中で鳴る音楽は止まない。

 ライブハウス・アークの楽屋で一人、ボリュームをゼロにしたテレビ画面をぼんやりと眺めているいまも、脳内オーディオはフレディが熱唱する『Show Must Go On』を再生している。たしか後期ベスト盤の最後から二曲目だったか。とりあえずQueen はロックの一般教養だからと、ベース兼バンドリーダーの雪江にCDを押しつけられたのが昨日の話だ。

 ショウは続かねばならない、か。

 鬱陶しい。こっちはついさっき、ステージを終えたばかりなのだ。

 無駄だとわかっていても耳を塞いでみる。誰かこの暑苦しい歌声を止めてくれ。

 意識して聴いた音楽に限らず、深夜映画のBGMも、街に流れる有線放送のポップスも、耳から流れ込む音楽は見境なく頭の中に録音されて、場所も時間も選ばず再生される。どんなに高性能な耳栓も頭の中で鳴る音楽には何の役にも立たない。だからリンゴ印のポータブルオーディオをこれ見よがしにちらつかせ、悦に入った表情で街を歩く人達を見ているとひどく暴力的な気分になる。

 そして時には、この世界で自分以外にまだ誰も知らないメロディが聞こえることがある。

 そうなるともうお手上げだ。いずれ短いフレーズは長さを増しながら延々とリピートをはじめる。無視していれば無限ループに気が狂いそうになる。一度それがはじまると、曲に仕上げて楽譜にする以外、止める方法はないらしい。

 そうやって頭から追い出したメロディが、場合によっては『リリカル・ビート・システム』のオリジナルナンバーになるわけだ。デモ音源に作曲者として小西真夜の名前が記されるのを見るたびに、複雑な自嘲の笑いと溜息が漏れる。

子供の頃は、誰もが自分と同じように頭の中にレコーダーを持っていて、耳の奥ではいつでも音楽が鳴っているのが普通なのだと思っていた。

 それが違うらしいと悟ったのは、物心ついた頃のある日のことだ。どうやら生まれつき才能という名のダイヤモンドの原石を握っているらしいこと、同時にそれは嫉妬や羨望の的となる両刃の剣であることを、幼いなりにおぼろげに理解した。

 そのときまず感じたのは、自分が普通ではないと自覚した恐怖だった。それが落ち着くと、今度は一生付きまとうであろう孤独の影に怯えた。そして最後にやってきたのは諦念だ。子供には似つかわしくない、投げ遣りな決意だったと思う。

 つまらない思い出を胸の奥へ沈めるのと、同時にギアの噛み合う音が楽屋に響いた。少し遅れてデッキがDVD を乗せたトレイを吐き出す。今夜のライブの映像のダビングが終わったらしい。腑抜けた音を垂れ流す自分が映ったディスクを取り、ケースに入れた。

 かつて、これでも至高の地平を目指し、生活の全てを天上の音を手に入れるためだけに費やした時期があった。あの頃の自分がこの映像を見たらどう思うだろう。

 ボーカルを彩る和音も、派手なだけの高速のソロも、すべて手癖の寄せ集めに過ぎない。しかし麻痺した良心はいまや、堕落を恥じることもない。才能と引き換えに人知れず諦観を覚えた少女は、あまたのコンクールで賞を攫い将来を嘱望された新人演奏家はどこに行ったのだ。ここにいるのはただ請われるままにギターを弾くだけの小器用な音楽売りに過ぎない。

 絶望したと嘯きながら、それでも結局はショウの世界にしか居場所を見出せない不実。そのくせ、最後の最後で開き直ることもできず、ライブのたび、その晩のうちにステージの映像を手に入れてはサウンドを分析せずにいられない矛盾。目に見えない何者かに縛られたこの生活は何なのか。

 凶暴な衝動がせり上がってくる。目をきつく閉じた。指先が震える。息が浅くなる。

 ディスクを持つ手を振り上げ、そして――。

 考えるのをやめた。

 深呼吸をして肩の力を抜いた。おろした手の先に貼り付いているディスクケースを、トートバッグへ滑りこませる。こんなときは溜め息をつくより、力なく笑った方が楽になることくらい、経験から知っている。今日だけで何度ついたか分からない自分への嘘をまたひとつ重ねて、楽屋の電気を消した。しつこく頭で鳴り響くブライアン・メイのギターソロを無視して、荷物を手に楽屋を出る。

 アークの事務室は、廊下を幾度か曲がった先の突き当たりにある。当然、まだ明かりが漏れていた。一応、ノックをしてからドアノブを引いた。中ではリリカルを担当してくれているいつもの女性スタッフが一人、渋い顔でパソコン画面を睨んでいた。

「お疲れ様。楽屋の鍵とカメラ、返しに来たんだけど」

 声を掛けると、唸りながらこちらを向いた。耳横で揃えたマッシュルームヘアが一瞬、ふわりと広がった。こうして見るとなかなか可愛らしいと思った。

「真夜さん、売り上げ、合わないんです。どうしましょう」

彼女はだるそうに立ち上がり、大きく背伸びをした。たったそれだけの動きで肩の辺りからばきばきとすごい音が聞こえた。

「そんなこと言っても知らないわ」

「計算、手伝ってくださいよー」

棒読みの言葉で、最初から当てにしていないのがよくわかった。こちらも冗談半分で答える。

「無理。簿記も会計も経理も知らない。表計算ソフトだって満足に触ったことないのよ。世間知らずなの、私は」

 なおも感情のこもらない声で、冷たいなぁ、などと呟く彼女にビデオ機材一式と楽屋の鍵を渡す。するとコーヒーを勧められた。行き詰っているのはどうやら本当のようだ。カップ一杯だけ気分転換に付き合うことにした。

「砂糖とミルク、要りますか」

「ブラックでいいよ。お構いなく」

「さすが真夜さん。ハードボイルドですね」

 コーヒーメーカーに向かう背中を盗み見る。肩の高さが左右で違っていた。左の方が少しだけ高い。普段から姿勢が悪いのだろう。あるいはこの娘もバンドでギターかベースを弾いているのかもしれない。いずれにせよ肩凝りは当然だ。

「はい、お待たせしました」

 差し出された紙コップに、いただきますと手を伸ばす。指にじわりと熱が染みこんだ。彼女は自分のマグカップを手に、事務イスの背凭れを抱くように逆向きに座った。こちらもくたびれた応接ソファの肘掛に腰を引っ掛ける。

「悪いね。毎回、ライブのたびに遅くまで楽屋に居座っちゃって。どうしてもその日のうちにライブの音源、押さえておきたくて」

「いえいえ、構いません。リリカルさんには稼がせてもらってますから。ただ想子さんたちは真夜さんのこと、付き合いが悪いってブーブー言ってらっしゃいましたけど」

「打ち上げって苦手なのよ。それに私、お酒飲めないって何十回も言ってるんだけど、みんな覚えてくれないのよね」

「いや、それ、覚えてくれてない訳じゃないと思いますよ」

 コーヒーに息を吹きかけ、少しずつ口に含む。飲み下すと熱の塊が喉を滑り落ちていき、胃のあたりで熾火になった。自覚以上に体は渇いていたらしい。苦いだけの煮詰まったコーヒーに溜息が漏れた。顔を上げると、彼女は楽しそうにこちらを見ていた。

「どうかしたの」

「いえいえ、べつに」

「人の顔見てにやにやして『べつに』ってことはないでしょう」

 少しだけ何かを考えたように見えた。しかしすぐ器用にイスを滑らせてこちらへにじり寄って来た。下から覗き込まれた。

「じゃ、言いますけどね。何かいいこと、あったでしょ」

「どうして」

「なんとなく、ですけどね。私、勘は鋭いんです」

 わざとらしく肩をすくめて答える。

「べつに」

「うわっ、自分だけずるい。すぐそうやってはぐらかすんだから。ランチに連れて行ってくれるっていう約束も放置プレイじゃないですか」

 笑いながら話す言葉の奥に、冗談にして身を躱すのを拒む硬さがあった。上目遣いで人間の表情をうかがう野良犬のようだった。しかしそれは浅ましいと切り捨てるには切実過ぎた。

 飲みかけの紙コップを置く。そのまま立ち上がって歩み寄る。見開いた目で見上げる彼女ににっこりと笑いかけ、背凭れを掴んで有無を言わさずイスを半転させた。勢いは加減したが、驚きの声は無視する。そして背中をむけた彼女の両肩を掌で包んだ。

「ちょ、真夜さんっ、なにをっ」

 聞こえない振りをして親指に力を込める。しかしその感触はキックミットのようだ。強張った筋肉に、まるで指が入っていく感じがしない。それでもポイントを少しずつ上下にずらしては、背骨沿いに走る筋を押していく。

「痛たたた。でも気持ちいいっす」

 返事もせず、意地になってしばらく指先に集中した。しかしすぐに指の方が疲れてきた。凝りが酷すぎる。押しても押してもゴリゴリミシミシ言うばかりでほぐれていく感触がしない。成果の出ない作業にすぐに飽きた。集中力が途切れたあたりで手を抜きはじめ、それでも惰性でしばらく続け、適当なところで切り上げることにした。

「はい、おしまい」

 最後にぽんと掌で肩を叩くと、二人だけの事務室にその音は意外なほど大きく響いた。

「少しは運動しなさい。肩甲骨の周りがガチガチになってる。続きは彼氏にでもやってもらうことね」 

彼女は、今度は自分で床を蹴り、イスを反転させた。

「真夜さんは、ずるいよ」

笑顔のバリアで答える。

「そうだね。私は大人だから」

 ふたたび紙コップを取り、立ったまま中身を飲み干す。彼女は黙って下を向いたままだ。見下ろす位置にある頭はほとんど金色だった。脱色と染色を繰り返し、化繊のようになった髪に唐突な愛しさを覚えた。考えなく、ついつい手を伸ばしてしまった。くしゃくしゃと撫でていると、その感触のせいで急に切なくなった。しかしこの感情は野良犬にいだく行きずりの愛情と、どこか違うのだろうか。答えは出ない。

「約束はきっと守るよ。ランチ、また今度ね」

 髪から手を離すと、彼女はやっと顔を上げた。

「絶対ですよ。きっと、じゃ嫌です」

 濡れかけた目に、思わず名前を呼ぼうとした。しかしそれさえ覚えていないことに気付き、中途半端に開いた口を閉じた。やはり自分にとってこの娘は、髪にわずかな愛着を感じるだけの存在でしかないのだろう。わざわざ名前を確かめて、果たされることのない約束に期待を持たせるのも不憫だ。

 掌をジーンズにこすりつけ、残っていた髪の感触を消す。そして紙コップを握り潰すと、ゴミ箱に投げ込んだ。

「わかったわかった。コーヒー、ごちそうさま」

 一方的に話を切り上げ、手をひらひらと振って、お先に、と事務室を出た。結局、軽薄に躱すことしかできないのだ。

 わずかの間のあと、後ろ手に閉めたドアの向こうから、イスのキャスターがきしむ音が聞こえた。再びパソコンに向かうのだろう。仕事に没頭して、すべてを忘れてくれればいい。

 遣る瀬なくて、しゃがみこんでしまいそうになる。それもこらえた。両足に力を込める。

 冷え切った廊下はリハーサルスタジオから漏れるドラムとベースで揺れている。音というより振動に近い荒削りなグルーブが、体によく響く。

 ときどき乱れるリズムは昼間の疲れのせいだろう。彼らはきっと髪を伸ばしているから、過酷な肉体労働くらいしかアルバイトを選べない。職場の上司の嫌味に、心の中で呪いの言葉を浴びせて昼を遣り過ごし、きしむ体を引きずってここまでやって来ては仲間と一緒に深夜パックで朝まで音楽と踊るのだ。

 しかし顔も知らない彼らの生活を妄想しながら、振り返ってみれば、なけなしのバイト代でスタジオに入るような経験もしたことがない我が身の過去。周りとは毛色も出自も違うと言ってしまえばそれまでだ。誰が悪いわけでもない。まして自分のせいなんかではあるはずもない。けれどなんとなく胃の辺りが重くなった。

 きつく歯を食いしばった。そんなことをしても、体の中でも外でも音楽は消えない。ただここから逃げ出そうと正面入り口への階段を駆け上がる。もう夜も遅い。いつものように、外に立つ出待ちのファンに気をつける必要もない。足も止めずにそのままノブを回す。謂れのない罪悪感の八つ当たりに、重い鉄のドアを内側から蹴り開けた。

 寒気が目に刺さった。頬に風の気配を感じた。

 引き戻して盾にするには、この店のドアは重すぎる。

 避けられない。

 冷たい突風だった。とっさに腕をかざした。それでも髪は舞い上がる。寒さの不意打ちに心臓が縮んだ。体を硬くする。凶暴な冷たい空気の塊が通り過ぎてから、細く目を開けた。そこでようやく、いつもより外がうっすらと明るいことに気付いた。

 雪だ。

 辺りには靴跡の一つもない、ささやかな雪原になっている。

 もったいないような気持ちで恐る恐る踏み出すと、靴底からはさくさくと新雪の潰れる贅沢な感触が伝わってきた。

 見回しても周りには誰もいない。そのまま数歩踏み出して、独り占めの銀色の道路の真ん中で大きく背伸びをした。胸いっぱいに息を吸い込むと、空気が歯にしみた。そして吐いた息は、街灯が投げる光の中で白く凍り、すぐに消えた。上空にも強い風が吹いているのだろう。見あげた空には雲の一かけらもなく、ただ銀色の月が掛かっているだけだ。柔らかな月光に、ふさいだ心が溶けていく。

 ギターケースを担ぎなおす。そして「Live house Ark」の看板の陰で、煙草に火をつけた。

 目の前に広がるささやかな景色を一緒に眺めたいと思う人も、いまはもういない。あれから何年もたつのに、何かの拍子に蘇る喪失感は生々しく心に爪を立てる。しかしこんなときにだけ都合よく寂しいと口走るには、毎日の生活が不実すぎるだろう。だからこそ感傷に傾く心を止めて、濃い群青の空へ呟いてみせる。

 ――悪くない夜だ。

 携帯の液晶は二月二十六日、深夜零時過ぎを示していた。

 悪くない。再び呟いてみる。

 吐く息は紫煙と混ざってもなお白い。今日はまだ、はじまったばかりだ。



 Session2


 夜空の中、風が啼いている。

 普段は心の底にある原始的な不安を煽るような音だ。この啼き声を虎落笛と呼ぶのだと教えてくれたのは物知りの兄だった。そして、おなじ読み方をする「殯」という字は、生と死を隔てる仕切りを意味するということも。昔の人にはこの音が死者の声に聞こえたのだろうか。

 そんな物思いにふけりながら駐車場につづく細い路地を進む。ちょうどビルの谷間になっているために切れ目なく風が吹きぬける。思わず身震いをしてコートの襟をかき合わせた。それでも冷気は袖口や襟から侵入し、容赦なく体温を奪っていく。耳たぶが痛んだ。昼間の日差しにだまされて、マフラーを置いてきたのは失敗だった。ささやかな深夜の奇蹟を独占できるのはいいが、現実の寒さは体力と気力を削っていく。真っ白の世界を喜んでばかりもいられない。

 足を止め、シープスキンのグローブを嵌めた。ライディング用に掌がメッシュ加工されているが、素手でいるよりはましだ。寒さに固まっていたレザーの感触も、幾度か指を屈伸させるうちにやがて馴染んだ。凍えた指をこすり、合わせた手と手の隙間に息を吹き込むと、掌に頼りない温もりが一瞬だけ灯り、消えた。 

 わかっている。こんな寒い夜にわざわざ愛車のシートを撫でるためだけに駐車場による必要はない。まっすぐに帰ればいいのだ。

たしかに古いカワサキの三五〇CCはガラクタと紙一重のいまや貴重な旧車だが、好きこのんで持っていこうとする者がいるとも思えない。それでも声もかけずに帰るのは忍びないのだ。

 やたらと振動が大きい代わりに、ジェットコースターのような加速であっという間にスピードの頂点へと送り込んでくれる緋色の相棒。この単車に対する思いは、人や物へのあらゆる欲を失った末に残った最後の執着かもしれない。

 しかしバンドのメンバーにはさっさと車に乗り換えろと、いつも説教をされている。そもそも楽器を扱う人間が、二輪車を移動手段にすること自体が非常識なのだ。それに車ならアンプを持って移動できる。つまり行く先々のライブハウスで癖の分からない壊れかけの機材をレンタルしなくても済むということだ。普通免許も持っているし、中古のワゴン車を買う程度の蓄えもある。しかし単車のスピード感を手ばなす気にもなれない。車かバイクか、結論はいつだって先延ばしだ。

 とはいえ、やはり今日のような雪の路面をバイクで走るつもりはない。つまり真っ直ぐ巣に帰らないのは、ただの習慣だ。

 肩越しに振り返った。いつもならアークのスタッフに一言、バイクを一晩置かせてもらうことを伝えている。しかしマッシュルームヘアの彼女と再び今夜のうちに顔を合わせるのは気が引けた。夜が明けて、バイクを取りにきたときに、ついでに差し入れでもしてごまかしてしまうことにした。

 そんなことを考えていると、表通りの方からシャッターを下ろす音が立て続けに聞こえてきた。近所の飲食店もそろそろ看板のようだ。天候を理由に朝まで居座られる前に、さっさと客を追い出したのだろう。その判断は懸命だ。ただし自分自身も移動の足を失った側にいるのだから笑えないが。

 この時間なら終電も逃したはずだ。そもそも雪のせいで電車がまともに動いているかも怪しい。いまから駅前まで出て、酔っ払いにまぎれてタクシー待ちの列の最後尾に並ぶ気にもならない。転がり込むにも、この近所に住む知人もいない。かといって、これからメンバーと連絡を取って打ち上げに合流するのは絶望的に面倒だ。

 となると歩いて帰る以外にない、か。雪と月光の散歩を楽しめる、ことにしよう。話のネタくらいにはなるだろう。

 愛車のカバーとロックを確認したら、すぐに帰ろう。狭いながら2DKの巣にはサボテンの鉢と物言わぬ家族が待っている。彼らに水と栄養を与えてから、冷えた体をゆっくりとバスタブで温めよう。ささくれだった神経を、わずかにブランデーを落としたホットミルクでほぐしてベッドに潜りこめば、浅い眠りに落ちていく。短い奇妙な夢と覚醒を繰り返して、ようやく明け方に泥のような眠りがやってくる。次に目覚めるのはいつもなら昼過ぎだ。

 幸せな想像に気を紛らわせて道を抜ける。駐車場にはいつもと同じく、一台だけ取り残されたように相棒がたたずんでいる。ガソリンを満たしたタンクも、火を入れれば熱く燃えるエンジンも、きっといまは冷え切っている。

 ただいま、と声を掛けようと近寄った。いつもなら、遅かったな、と答えてくれる。しかし今日は、お客さんだ、と言ったように思えた。見慣れているはずの風景に感じた違和感のせいだ。

 足を止め、視線だけ動かしてその正体を探る。風を孕んで舞い上がったカバーの陰に何かが見えた。

 大きく回り込んだ。

 はじめに靴が見えた。その次に海老茶色のダッフルコートの裾、傍らには缶コーヒーと小さな鞄。

 人形が捨ててある?

 非現実的な風景に、最初はそう思った。しかしそんなことがあるはずもない。それは生身の人間で、脱力した体はバイクに完全に凭れかかっていた。

 マネキンのような青白い手。力なく伸ばした指先にある爪は、マニキュアをまだ知らないだろう。風が長い髪をかき上げる。垣間見えた美しい少女の横顔。ゆるく結ばれた唇、頬には涙の跡。

 知っている、この少女を。

 しかしいまはそれどころではない。その瞳は、完全に閉じられているのだから。

 駆け寄った。たった数歩の距離が、ひどく遠く感じた。いつもはエンジンキーをさぐる指先もおぼつかないほど薄暗い場所なのに、今日はやけに明るい。走りづらい足元を見てから、雪に外灯の光が増幅されているからだと思った。

「大丈夫?起きて。起きなさいって」

 ギターケースを放りだして隣にしゃがみこんだ。地面についたジーンズの膝に融けた雪が染みこんでくるが、構ってはいられない。掴んだ肩を揺すった。その拍子に足元の缶が倒れ、コーヒーの残りが零れた。茶色の染みは湯気をたてて、雪の白を犯しながら広がった。立ちのぼった甘い香りは一吹きの風で消えた。

 缶の中身が冷え切っていない。それに体に雪は積もっていなかった。時間はそんなにたっていない。眠り込んでせいぜい二、三分のはずだ。

 自分に言い聞かせるようにそう考えて、グローブをはずそうとした。焦りと寒さでファスナーをうまく掴めない。やっとの思いで毟りとると、そのまま首に巻かれたマフラーをかき分け、手をコートの襟から彼女の胸もとに差しこんだ。かじかんだ指先はしっとりとした肌を捉える。暖かな体温につつまれた掌からは確かな鼓動が伝わってきた。口元に頬を近づけると、規則正しい呼吸を感じた。

「起きなさい。起きて目を開きなさい」

 幾度か頬を軽く叩くと、眉の辺りがぴくりと動いた。それから目がゆっくりと開く。

 印象的な大きな瞳。

 そうか、ついにこんなことまで。

 やはり知っている。この少女は、『猫』だ。


 三ヶ月ほど前の話だ。確か高円寺のライブハウスだった。

 曲の合間にチューニングを直していると、マイクスタンドを引き摺った想子がとなりにやって来て、耳もとに口を寄せた。

「ほら、『猫』ちゃん、また来てるよ」

 何のことだか分からないまま、とりあえずその視線を追った。

 観客の押し合うフロアの中でもすぐに分かった。美しい少女だった。一瞬だけ見惚れた。一秒にも満たない時間、視線が絡んだ。どこかで見たことがあるような気がした。いや、そんなことはあるはずがない。年下の知り合いなんて、心当たりもない。

 すぐに興味を失い、足元で点滅するチューニングメーターに再び集中した。雑音に舌打ちしたい気分だ。ライブハウスという場所はうるさすぎる。自分ではじく弦の生音が聞こえないなら、絶対音感もなんの役にも立たない。 

「で、またってことはあの娘、前にも来てたの?」

「なにそれ。ずっと前から来てくれてるじゃない!」

 意外な大声に顔を上げてしまった。それから再び『猫』の方をちらりと見た。しかし美しいとは言え、せいぜい高校生くらいだ。日向の匂いの抜けない佇まいや、身に付けている物からは、隠し切れない育ちの良さが滲んでいる。幼く、躊躇いのないまっすぐな目には隠微さのかけらもない。汚れや陰りを知らない魂は鏡に似ていて、真正面に立つと自己嫌悪で死にたくなる。健全なのも、度が過ぎれば興醒めということだ。床から天井のすみずみまでタバコの臭いが染み付いたライブハウスの中で、少女は完全な異物だ。

「あれだけ真夜ばっかり見てるのに。あんた、ライブの間、いったいどこを見てるの。どれだけお客さんに無関心なのよ。こっちはもうとっくに試食済みだと思ってたのに」

 ひどい言われようだが反論するのも面倒だ。リリカル・ビート・システムに加入したとき、自分がバイセクシャルであるとカミングアウトした。しかしメンバーは、驚きの声のひとつも上げなかった。この業界では珍しくもないのか、この人たちが鈍感なのか、あるいは寛容なのかとも思った。しかし最近、どうやら面白がられているだけであることに気付いた。

 振り向くと、ステージの奥でいまどき冗談のようなツーバスセットに埋もれた薫が白い歯を見せた。さすがゴシップ好き。こちらの様子を見ていたらしい。あの邪悪な笑顔は「ぜんぶ分かってるよ」といった所なのだろう。睨みつけても悪びれることなく得意気にスティックを回している。ベースの雪絵はというと、相変わらず無表情のままMCを続けていた。が、あのリーダーがリリカルに関わるどんな些細なことも知らないはずがない。それでも口をはさまないのは、『猫』の存在を認識している上で、バンドの運営にいまのところ害をなさないと判断しているというだけのことなのだろう。

「あーぁ、千円損しちゃった」

 その独り言、聞き逃すはずもない。 ステージ中央の定位置に戻ろうとする背中へ声をかける。

「私とあの娘のこと、賭け事にしてたのね?」

 あわてて振り向いた。泳いだ目で必死に首を横に振る想子へ笑顔で近づく。そして頬を両手でつねって力いっぱい左右に引っ張ってやった。

「残念でした。こう見えても私にだって好みっていうものがあるわ。覚えておきなさい!」

 マイクのハウリングが交じった咳ばらいが響いた。

「そこ、ステージ上でケンカしない!」

 雪絵の声に客席から失笑が上がる。頭を冷やしてしぶしぶ手を離した。赤くなった頬をさすりながら、想子は涙目で呟く。

「だって私が唄ってるときも、『猫』ちゃんはずっと真夜ばっかり見てるんだもん。ちょっと妬けちゃうよう」

「二十歳を超えて『だもん』とか言うな。それにあの娘のことだっていまはじめて知ったのよ。私には、関係ない」

 頬に手を当てたまま、フフンと鼻先で笑われた。

「予定変更よ。次は『Day By Day』やりましょ」

 想子は突然、セットリストに入っていない曲を指定した。バラードだ。ライブの流れからすると不自然な選曲ではない。

 このわがままなヴォーカリストはその場の思いつきで、その日の予定にない曲をよくやりたがる。メンバーはいい迷惑だが、お客にとってはスリリングに見えるらしく、先の読めないライブの展開がリリカルの人気の秘密なのだと、まえに想子本人が言っていた。また雪絵もリリカルの演奏力の宣伝になると考えているらしく、想子を強く諌めたりはしていないようだ。

 いつものわがままを薫は笑い、雪絵は露骨に嫌そうな顔をした。音のセッティングの都合があるのだろう。ギターは足元のオーヴァードライヴを落とすだけ。ナイロン弦を張り、ピエゾピックアップを載せた異形のセミアコは、歪みのオンとオフだけでどんな音楽にも対応できる。

「またお姫様のわがままがはじまりました。今日の予定には入っていなかった曲をやりたいそうです。困ってしまいます。ちょっとそのままお待ちください」

 マイクから離れた彼女がベースアンプの前まで下がった。しかし独り言のような雪絵のMCが、あれでなかなか好評なのだそうだから世の中よく分からない。

 小柄な体にくらべて異様に長い指がアンプのイコライザーに伸びた。トレブルをすこし削ったようだ。次にその指は五秒ほど彼女の顎の先にとどまり、やがて六弦ベースの俎板のようなネックに戻って高速のハノンを紡いだ。それだけで客席が盛り上がる。音色に納得した雪絵は、メンバーにだけ分かるように小さく頷いた。

 薫のスティックがカウントをかぶせる。テンポは九〇くらい。こんなことはトラブルのうちに入らない。急な成り行きに好奇心の目を輝かせる客たちを冷静に見下ろし、体のメトロノームを合わせた。そしてカウント三で息を止め、半音下降で進行するベースラインに不協和音すれすれのアルペジオを刻む。

 はじめの二小節で歓声があがった。

「私の大好きな曲。だからきっとあなたたちも大好きだと思うの。『Day by Day』。聞いてください」

マイクにくちづけるように想子は唄いだす。

 凄絶な声からは普段のふざけた様子は想像できない。ブレスノイズさえも表現にしてしまう存在感はたいしたものだと思う。歓声を上げるのも忘れた観客の目が想子へ集まるのを見届けてから、ギターのボリュームを少し落とし、後ろへ一歩退いた。

 そのままアンサンブルを支えることに徹する。魂のない演奏は、小難しい表情でそれらしく取り繕えばいい。意思のない音を奏でる腑抜けたギタリストを雪絵はときどき哀しそうに睨むが、それにはいつもただ気付かない振りで答える。

 二コーラス目のサビが終わった。

 出番だ。ユニゾンのキメ、一泊半のブレイクにギターソロが続く。毎回、いつも変わらないタイミングでオーヴァードライブペダルを踏み込み、前もって決めてあるメロディを機械的に繰り返す。アドリブとは名ばかりの怠惰な音の垂れ流しだ。しかしいまのところ文句は出ていない。どこまで腐っても、まだ指先に表現力の残骸がこびりついているらしい。

 ステージ正面でモニターアンプに足をかけた。

 感情の昂ぶりなんて一切ない。それでもロックギタリストのマナーとして、ソロの最後のロングトーンで大きくのけぞって見せた。失笑を隠して背中を支えるメンバーの方へ振り向き、出番終了のサインを送った。すると想子と目が合った。いつもなら、嫉妬の表情を浮かべていることが多い。少なくてもこの瞬間の歓声は、ソリストだけに向けられた賛辞だからだ。

 しかし今日は違った。意味あり気に笑っていた。充分に引きつけておいてから、思わせぶりに客席の一点を示した。つられて目を動かした先にいたのは、頬を染めた『猫』だった。バラードのリズムに揺れる他の客にもみくちゃにされながら、それでもこちらを見ていた。想子の言うとおり、祈るように見つめていた。その眼差しはまさしく、恋する少女のものだった。

 さすがに音が止まったりはしない。しかしビブラートの揺れ幅がわずかに乱れた。

 想子がセットリストを変更した思惑、そして今日に限ってソロのクライマックスでも嬉しそうに笑っていた意味のすべてを、やっと理解した。

 嵌められたのだ。

Day by Day――。日に日に強くなる恋を歌ったラブソング。作詞は田口想子。そして作曲、小西真夜。

 ドラムセットの中で薫は口をあけて笑っていた。逆サイドの雪絵の肩は小刻みに震えている。ステージの袖に顔を背けて吹き出すのを必死に堪えているのだろう。こいつらは人でなしの群れだ。

 あらためて前を見据える。

 『猫』はまだ、じっと見ていた。

 鬱陶しい。十代の貴重な時間を不毛な想いに費やすことはないではないか。保身半分にそう思った。だから曲の途中で拒絶をこめて、冷たく睨みつけた。視線に込めた悪意が刺さったらしく、『猫』は悲しそうに俯いた。

 そのライブの夜は、珍しく自分から打ち上げに参加した。席をはずす隙を狙って想子のブラッディマリーのグラスにタバスコを一本丸ごと注ぎ込むためだけに。薫と雪絵は目の前の小さな復讐劇を止めようともしない。それぞれ自分のグラスを避難させては、ただ楽しそうに眺めるだけだった。

 それからも『猫』はライブに来ていた。出待ちのファンたちに混じって立っていたこともある。しかしあの日、世界から彼女の存在を消したのだ。空気同様の扱いを続けているうちに、いつのまにか見かけなくなっていた。ほっとしていた矢先だった。


 ゆっくりと開いた両目に、左右が反転した女の顔が映った。心配そうな顔で覗き込む偽善者の顔だと思った。

 数回の瞬きのあと、目覚めた少女は自らの肩を抱いて、大きく身震いをした。形のよい唇は声を立てず、さむい、と動いた。

 心の中では自業自得だと毒づく。しかしまず最初に口からこぼれたのは、やはり安堵の溜息だった。

 眠りから覚めきらない顔つきのまま見あげられた。

「私、眠ってたの……」

 美しい潤いのあるアルトだ。

「そう、あなたは眠っていたの。私のバイクに凭れたまま」

「はい、夢をみていました。幸せな夢」

 微妙に噛みあっていない会話の合間に、少女は不思議そうに俯いた。視線の先にあるのは胸元に差し込んだままの右手だ。慌てて引き抜き、乱れたマフラーと襟を雑に直してやる。しかし少女はその間もされるがままで、再び眠りに落ちそうなとろんとした目のままこちらを見つめるだけだった。

 さっきから一人だけで大騒ぎして――。

「あんたねぇ」

 安堵感が苛立ちに変わる。しかしここで大きく息を吸い、怒鳴りつけたい衝動を押さえ込んだ。理性がそうさせたのではない。いつからか感情をそのまま表に出すことが、できなくなっているだけだ。

「こんな夜に、外で寝たら、死ぬよ」

 声を落として言った。

「はい、ごめんなさい」

 素直な返事に言葉が詰まった。そして急に冷めた。

 すべてが馬鹿らしくなった。しかしこのまますべてを投げ出して帰るわけにはいかない。絡まった不毛な縁の糸を断ち切るのは、いましかない。こんなことを繰り返されてはたまらない。熱病のような想いから覚めるのは少しでも早いほうがいい。それがお互いのためだ。

「自殺したいの、お嬢さん?それなら止めない。でも他でやってくれないかな。迷惑なんだよ、こういうの」

 意識して棘のある言葉を選ぶ。

 青白く冷えた頬が震えた。投げつけられた悪意のために、いまようやく目を覚ましたのだと思った。

「やっぱり、覚えていないんですね。先輩」

 先輩?

 思い当たるひとつの可能性。いや、そんなこと、あるはず無い。

「なに、先輩って。いいかげんに目を覚ましなさい。付き合いきれないな」

 小さな顔に哀しみと諦めを浮んだ。ただ睨みつけることしかできなかった。表情を見ているうちに、数秒前に打ち消した予感が再び膨らみ、確信に変わった。

「もうしっかり起きています。さっき目をあけたとき、すぐ前に先輩がいたときは確かに夢の続きかと思いましたけど」

 胸の中で叫ぶ。

 やめてくれ、その先は聞きたくない、と。

 しかしうらはらに、白い息を吐いては震える血の気の失せた唇から目を離すことができない。いっそのこと言葉の続きを吐く前に唇で塞いでしまおうか。渇ききった二つの唇がぶつかり、裂け、滲む血の味までリアルに想像した。しかし実際はそんなことができるはずもなく、再び話し出す彼女を黙って見るだけだった。

「そういえばあのときも、真夜先輩はお嬢さんって呼んでくれました。私は池永忍といいます。聖ミカエラ学園高等部の二年生です」

 鞄の中を探っていた手が目の前に掲げられた。分厚い手帳を持っていた。表紙には、目の前にいる少女の顔写真と『池永忍』の署名、そして白百合をかたどった校章。

 知っている。

 中に書かれているのは煩雑な校則の数々だ。

 校訓からはじまって靴下の色、休日の過ごし方まで事細かく。校歌、歴史、延々と続く細則、そしてそこだけどんどん空白が埋まっていく欠席届と遅刻早退届のページ。忘れるはずもない。これは母校、聖ミカエラ学園の生徒手帳だ。

 思いがけない過去との再会に、揺れた。

 やめておけと囁く理性に逆らい、指先は勝手に手帳へと伸びていく。なめらかなビニールの表紙の感触が、記憶の扉をこじ開ける。わずかに開いたその隙間から溢れるのは、たとえば校舎の匂いや窓から射し込む夕日の色といった、覚えていたつもりも無いあのころの生活風景の断片だ。日常だったときには取るに足らなかった毎日も、十代を終えて数年のいまからすると、やはり懐かしいという他に言葉がなかった。

 「未来の健やかな女性を育む」をモットーに掲げる歴史ある名門女子高、聖ミカエラ学園。

 高い学力と、その名から分かるとおりキリスト教倫理観をバックボーンにした厳格な校風は、いわゆるハイソサイエティにとっては一つのブランドなのだ。そんな幼稚舎からエスカレーター式が当たり前の学校に高等部から入学したものだから、つかのま周囲の好奇の対象となった。それほど育ちが良いわけでもなく、また勉強が得意なわけでもないのに場違いなお嬢様の園へと紛れ込んでしまったのは、音楽科への推薦があったからだ。

 しかし実態は在学中からすでに海外でのコンクールにもエントリーしていたために、卒業に必要な最低日数も出席していなかったと思う。音楽以外には、せいぜい卒業後の留学を見越して英会話の習得に追われた記憶くらいしかない。指を傷つける恐れのある家庭科、体育はもちろん、ただ面倒だからという理由で文化祭や修学旅行にも参加しなかった。ほとんど籍を置いていただけだ。たまに朝から登校すると、数少ない友人には「おはよう」より先に「久しぶり」と声をかけられ、授業のほとんども睡魔に負けて居眠りの中で過ぎていく、そんな生活だった。

 遅刻と早退と欠席を繰り返し、起きている時間のほとんどをギターに費やした三年間だ。爪が割れればその隙間に瞬間接着剤を流し込み、腱鞘炎を起こせば鍼を打つ。他人から見れば異様な暮らしも、当事者にすれば単なる日常にすぎない。演奏者のすべてを要求する音楽という魔物と戦うために、いつしか自分自身も魔物になっていたのだ。

 そしてそんな日々で得た表現力や技術の代償は、きっと数年分の寿命だと思う。それを分かっていながら、あえて命が削れていく音を聞きながら、それでも立ち止まらなかったのは、純粋な向上心のなせる業ではなく喪失感が背を押しただけだ。すぐ後ろに迫ってくる虚無感から逃げるために、ただ走るほかなかった。それにくらべれば才能と待遇を妬むクラスメイトの視線など痛くもなんともなかった。軽蔑を込めた笑顔をむければ、世間知らずのお嬢様は向こうから目をそらす。しかしいま思えば、安穏と十代の生活を送る彼女たちをどこかで羨んでいたのかもしれない。まわりに寛容になれなかったのは、きっと肥大した自意識の裏返しだったのだ。

 しかしいずれにせよ、クラシックギターの世界で新星と評された小西真夜は死んだ。ここにいるのはステージをおりることもできず、陽の当たらないライブハウスの暗がりを居場所に選んだ亡霊に過ぎない。

「卒業式、先輩に手紙を渡しました」

 我に返った。

「ジュリアード音楽大に留学されると聞いて、いてもたってもいられなくなって。中等部の生徒会役員だったので雑用係に立候補して式に潜りこんだんです。必死の思いで手紙を渡しました。そしたら先輩は『お嬢さん、大人になったらまたおいで』って頭を撫でてくれました」

 そういえば卒業式だけはきまぐれで出席したのだった。

 それにしても卒業前後か。学校の保健医と醒めた情事を繰り返していた頃だ。たしか岩淵先生と言っただろうか。白衣と銀縁の眼鏡がよく似合う怜悧な美人だった。下の名前は思い出すこともできない。いや、最初から教えてもらっていなかったのかもしれない。互いに好奇心でつながり、体の相性だけで続けていた関係だ。卒業と同時に疎遠になった。いまも神聖な学舎で気に入った少女にちょっかいを出していることだろう。肉感的な唇の味を思い出すのと同時に、後先も考えずに誰彼なく軽口を叩いていた当時の自分の無責任さと倣岸さを呪った。

「悪いけど、まったく覚えてない」

 少しずつ赤みを取り戻している頬が震えた。さらに続ける。

「あの頃は手紙を貰うことなんて珍しくもなかった。机の中とか、靴箱とかね。卒業式の一日だけで何通も貰ったのは覚えてる。でも全部に目を通してたわけじゃない。あなたから貰った手紙も読んだかどうかも覚えていない」

「そうです、よね。分かってます」

 笑おうとしたらしい。しかしできあがった顔は泣き顔に近かった。

「あの頃は悪い気はしなかったよ。でもいまは迷惑なだけ。暇なお嬢様の擬似恋愛の対象にされるのは」

「それは違います。私は先輩のことが、本気で」

 人差指一本で、柔らかな唇に蓋をした。

「何を言おうとしているのか、本当に分かっているの?それ以上続けたら、引き返せなくなる。それにあなたの知ってる小西真夜はもう死んだわ」

 三十センチの距離で睨みあう。互いに目を逸らさないまま、唇から指を離して立ち上がった。少女は座り込んだままだ。自然と見下ろす形になる。泥の染みこんだ膝を払ってから言った。

「悪いことは言わない。忘れなさい、私のことなんて。それにミカエラの生徒がライブハウスなんかに出入りしちゃだめよ。校則違反でしょ。適当に遊べる男の子でも探すことね。じゃ、さよなら」

 ギターケースを拾い上げ、背を向けた。

「試して、みました」

 絞り出すような声だった。それでいて、まるで感情を感じさせない渇いた声だ。

 振り返ることはない。足を止めることも無い。そうするだけで縺れた縁は切れる。

 他人の想いを傲慢に躱すのは得意だろう。いままでだってそうやって人の心を傷つけてきたのだ。

 どこまでも虚無の広がる胸の中、どれほど想いの込められた言葉を叫ばれても木霊さえ返らない。たかが一人の少女の恋を切り捨てたところで罪悪感を覚えるほど人らしい心なんてどこにも残っていないのは、自分自身が一番よく知っているだろう。どうせ日が昇るまでにはこの少女のことなど忘れているに違いない。それでもなお胸のうちの片隅に一かけらでも良心があるというなら、むしろひとときの哀れみなどかけることなく、少しでも早くこの場を立ち去ればいい。

 しかし感傷が足を釘付けにした。

 報われない想いに身を焦がす少女に、過去の自分を重ねたのかもしれない。あるいはこんなにも切ない声を出す人間の表情を見ることで、いまの自分の価値を確かめたかったのかもしれない。

 ばかばかしいのはよくわかっている。いまさら何をしたところで、過去の自分へ救いの手を伸べることなどできるわけも無い。しかしゆっくりと振り向いていたのだった。数え切れないほどある自己嫌悪の理由がまた一つ増えるだけだと、自らに言い訳をしながら。

 池永忍は立ち上がろうとしていた。ひざまずくような中腰の姿勢でじっと見ていた。さっきまでの気弱な迷いを捨て、射るような眼差しだった。その目に宿る濁りのない光を懐かしく思った。彼女の年のころには、すでに失くしていた輝きだ。

 恋をしているというだけで、こんなにも強く相手を見つめることができる。

 それを若さというなら、向き合ってここに立つのは老婆だ。居心地が悪い。足を止めたことをもはや後悔していた。

 バイク一台の他に何もない駐車場を、冷たい風が好き勝手に吹きぬける。髪が舞い上がる。耳たぶが揺れる。目の表面が一瞬で乾く。恥も忘れて温度を上げた心も、凍るまで冷やしてくれ。空っぽの胸に温もりなんて、やはり必要ない。

「まだ小学生のときでした。友達に付き合ってギターのコンクールを見に行ったのは。その子のお兄さんか誰かが出たんだと思います。それまでクラシックなんて退屈だと思っていました」

「やめろ」

「でも違いました。そこで大学生に混じって中学生が銀賞をとったんです。そのとき私は、金賞の人よりすごいって思った」

「やめて、お願いだから」 

 強く遮ると、言葉を止めた。唇を噛み、深く息を吸い込む仕草に、迷いが滲んでいた。しかしそれでも彼女はわずかに首を振り、声を落として続けた。

「寝ても覚めてもその人のことばかり考えていました。子供のことだから名前を調べる知恵もありません。それからしばらくして、外から高等部に入学してきた人の噂が聞こえてきたんです。あの演奏会のギターの人だって気付いたとき、神様はいるんだって思いました。それが真夜先輩です」

「神様なんて、いないんだよ」

 ゆっくりと首を振り、吐き捨てる。

 そして月を仰いだ。それにしても夜の啼き声がやまない。きっと今夜に限ってまとめてやってくる亡霊たちの声だ。

「いえ、やっぱり神様はいらっしゃいます。それからずっと私の気持ちは変わらない。これでも悩みました。私も真夜先輩も女。おかしいんじゃないか、病気なんじゃないかって。男の子とも、女の子とも付き合ってみました。でもだめでした。私は、男性が嫌いなわけでも、女性が好きなわけでもない。ただ、」

 確かめるように間をおき、そして続けた。

「ただ、私は真夜先輩が好きなんです」 

 その言葉を口にすれば後には引き返せなくなると、さっき言ったはずだ。しかしそれも届かなかったのだろう。想いを深く沈めてこれからの日々を遣り過ごしていくより、ひとときの覚悟で恋を口にすることを選ぶ。勇気といえば聞こえはいいが、相手の立場を慮れない一人よがりの選択だ。だからこそ逆にその幼さが、彼女をひどく眩しく見せた。

 溜息がこぼれた。憐れみや、その他のいくつもの感情が絡まりあい、重い息に変わって溢れたのだった。

 それにしても病気、か。

「私がノンケだとしたら、どうするの」

 性癖とは目覚めるものだ。悩むだけ無駄だ。

「保健室、見ちゃいました」

 つまらない問いに、律儀に頬を染めて答えた。

 これには多少驚いたが、過去の情事を覗かれたところで、いまさらどうということもない。

「そう。覗いたの」

 冷静な反応を軽蔑とでも勘違いしたのか、少女はあたふたと答えた。

「ご、ごめんなさい。でも真夜先輩と高等部の保健の先生が怪しいって噂になってて、確かめたくて、つい」

 噂になっていたのか。はじめて知った。たしかに火種はあったのだから、煙が立っていても不思議はないか。

「わざわざ物好きだね」

 雰囲気から怒っているわけではないと伝わったらしい。一瞬、ぎこちない笑みを浮かべ、またすぐに張りつめた。

「今日、じゃなくてもう昨日ですけど、十八になりました。私はもう大人です。あの日、先輩がおっしゃったように、もう大人です」

 手渡された恋の重さに、憂鬱になった。

 ミカエラを卒業して五年近くになる。そのあいだ一日も欠かさず、遠くへ留学した卒業生のことを考え続けていたのだろうか。愛されていることへの感動などなく、感じたのは戸惑いと恐れだけだった。

身震いが起きた。意識の外にあった冷気が、体の芯へと染みこんできたのだ。

 肩から力が抜けた。蓋を開けてみれば何のことはない。間抜けな状況で高校の先輩と後輩が再会を果たしただけのことだ。興奮の冷めた体に、再び重い疲労感が戻ってくる。

 まだ誰も入れたことのない、いや、これからも入れることのない巣、安らぎの聖域。いまから歩いて帰るには、遠すぎる。

 あらためて少女の顔を見つめてみた。

 美しく整っている。声もきれいだ。美意識には反しない。

 怠惰な感情が頭をもたげる。どうせ一晩くらい外泊したところで文句を言ってくれる人もいない。もう、どうでもいい。暖かい部屋で休ませてくれるなら。

「ホテルに行こうか」

 いきなり肩を抱き、耳へ流し込むように囁いた。駆け引きを楽しむ気にもならない。すべてが面倒だ。

「はい」

 消えそうな声で、しかしはっきりと答える。震えているのは寒さのせいだけではないはずだ。

 肩から腕をほどいて指先を掴んだ。怯えたような目が見あげている。答えるようにきつく手を握り締めた。これならグローブはいらない。この寒さの中でも彼女の手は熱く火照っているのだ。

 空の群青を背景に電線が揺れる。

 夜が啼く声は、しばらくまだ止みそうにない。



 Session3


 生垣の隙間に隠して配置されたアーチ、続くエントランスと短い廊下。その先には思ったとおり、抑制された色調のロビーが広がっている。足を踏み入れると、まず独特の臭いが鼻についた。ケミカルな塩素の臭いは清潔だが、肌に馴染むことはない。

 どこもだいたい似たような構造で、漂う臭いまで同じだ。いつもはうらぶれた気持ちになるだけだが、いまは取りあえず冷たい風から逃れられる安心感のほうが大きかった。

 さらに進むと、壁際には部屋を写したパネルが並んでいた。裏のライトが点灯しているのがチェックイン可能な部屋なのだろう。自動販売機と同じように、それぞれの部屋番号のボタンを押せば、受け取り口に鍵が落ちてくる仕組らしい。確かに小さな窓越しに従業員と遣り取りするよりは入りやすいかもしれない。カップルの数だけ事情があるのだと、女二人連れの自分達の事情を棚に上げて思った。 

 壁の時計に目をやると、不自然に伸びる配線が目に付く。それは床を這い観葉植物の陰で裏へと続いていた。時計の中に小型の防犯カメラでも仕込んであるのだろう。

 カラン――。

 大きな音ではないが、無人のロビーにその硬質な音はよく響いた。

振り向くと、かがんだ池永忍が受け取り口から鍵を取り出しているところだ。プレート状のキーホルダーには六一九号室と印字されている。

「この部屋でいいですよね」

 示す先には、ライトの消えたパネルがある。

「慣れてるじゃない」

 率直な感想に、不満そうに口を尖らせた。

「意地悪なこと、言わないでください」

「皮肉ではないわ。処女じゃないみたいだから安心したの」

 そう言いながら急に距離を詰めた。たじろぐ彼女を目で制し、コートの上から肩に触れる。

「姿勢がいいわね。なにか運動してたでしょう」

「中等部までバスケット部でした。けど」

 筋肉をなぞる振りをして指先を滑らせた。

 肩から鎖骨、喉から顎の先を通って唇へ。

 中指の先に集中する。触れるか触れないかの距離で、震える渇いた肌の感触を丹念に楽しむ。わけも分からずじわじわ後ずさる彼女を追い詰めていく。背中に触れる壁に後がないことを悟ると、少女は体を強張らせた。うらはらに瞳は潤みはじめていた。それでも指は離さない。だんだん強く、揉みほぐすように唇を弄ぶ。

 耐え切れなくなったのか、やがて苦しそうに顔を背けた。やはりまだ子供なのだ。薄く汗を浮かべる額を冷静に見下ろした。揺れる胸のうちが手に取るように分かる。耳元で、防犯カメラに見られているよと囁いてみたい。どんな顔をするだろう。

「処女は、嫌いなんですか」

 乱れた息の合間に、彼女は言った。開いた唇の隙間へそのまま中指を滑り込ませた。指は上下の前歯の間を犯し、柔らかな舌を探る。隠微に躍らせるうちに、いつしか途方にくれた表情のまま、舌先は不器用な動きで指に応えはじめた。

「好きも嫌いもないわ。ただ重いじゃない。他人の歴史に、何か跡を残すのって耐えられないんだ。ただそれだけ」

 あっさり指をはずした。唾液に濡れた指はジーンズで雑に拭った。

「キス、して、ください」

 にっこり笑って答える

「部屋までおあずけ」

 力の抜けた手から鍵を掏り取って、彼女を壁際に残したまま一人でエレベーターへと向かう。ちょうどボタンを押したときに、背中から溜息が聞こえた。下りてきたエレベーターの扉が開くのと、重い足取りで彼女が隣に並ぶのとは同時だった。

 かすかに揺れる箱の中で、池永忍はコートの襟をきつく握り締めてきた。そして薄い胸に顔を沈めるように抱きついてきた。シャツを隔てて頬の温度が伝わってくる。その仕草に性的な匂いはない。迷子になることに怯えた子供が母親の手を握るような抱擁だった。振り払わなかったのは、ただ面倒だっただけだ。

「いま、何を考えてるんですか」

「あなたのこと」

 そっけなく答えると、コートを握る手にさらに力が入った。

「本当ですか」

 甘いにもほどがある。

 失笑しかけた。ついでに肩を抱いてやった。戸惑いを浮かべて見あげる顔に、ただ微笑みで答える。一六五センチほどだろうか。一緒に歩くなら身長差はちょうどいい。少し屈んで鼻先で生え際に触れた。シャンプーかリンスの香りが鼻に満ちる。

 そういえばここしばらく、禁欲的な生活をしていた。

 しかし久しぶりに触れる柔らかな肉の感触や髪の香りも、ほんの少し欲情を駆り立てるだけだ。誰かと抱き合っても、花火のような一瞬の快感があるだけで、いつからか安らぎも喜びも忘れた。

 美しければ男女を問わず花を手折るように口説き、飽きれば一方的に別れを切り出して修羅場を繰り返す。一時期のそんな生活の繰り返しで、他人と肌を重ねることの本当の意味を失った。

 それでもこうして人の心を弄ぶことをやめず、これからも重ねていく不実の先、どんな死に方が待っているのだろう。目に浮かぶのは後から背中を刺される自分の姿だ。それでも構わない。因果のもたらす運命なら、受け入れる覚悟はできている。ただ一つ、終幕の刃を握るのは美しい人であってほしい。

 肩を抱く人の歪な心の有り様も知らず、少女は満ち足りた顔をしていた。耳の奥で響くのは、ドヴォルザークの『新世界』だ。安いホテルのエレベーターにはひどく不似合いな交響曲。気付かれないように上を向き、わずかに顔をしかめた。

 六階の突き当たり、ドアを開けると乾いた温風が部屋から溢れた。全身でそれを受け止めると、強張っていた体が緩んでいくのを感じた。さっさと先に入り、部屋の隅にギターケースを下ろしてから、ブーツとコートを脱ぎ散らかす。あとから入ってきた彼女は甲斐甲斐しく抜け殻を整えていく。重い軍用コートを丁寧にハンガーに掛ける背中を当然のように眺め、広いベッドに腰を下ろす。

 煙草に火をつけた。胸の中を煙で満たすとやっと部屋を眺めまわす余裕が出てきた。内装は思ったより落ち着いている。ただ強調された清潔さが鼻につく。

「珍しいですか」

 傍らに立つ彼女も、いつの間にかコートを脱いでいた。紺のぴったりとしたフロントジッパーのニットは体のラインを際立たせ、なかなかいい眺めだ。が、好みからすると痩せ過ぎだ。

「まわるベッドがあるような部屋だったらどうしようかと思ってた」

 冗談に顔を緩め、ぎこちなく並んで腰を下ろした。

「最近、そういうホテルは少なくなってると思います」

「そうなんだ。日本に戻って間もないからね。まだ疎いんだよ。まるで浦島太郎だ」

 少女の膝に手を乗せた。びくりと震えた。視線が泳ぐ。

「アメリカの学生生活ってどんな感じだったんですか」

 沈黙を恐れているのだろう。当たり障りのない問いに、残酷な答えを返す。

「最初は寮に入ってたんだ。でも二年目からはフラットを借りた。それからは男も女も連れ込み放題。ひどいもんだった」

 質問の答えに勝手に傷つき、悲しそうに顔を伏せようとした。が、そうさせなかった。口元に手を伸ばす。ロビーでそうしたように逃げようとはしない。ゆるく結んだ唇に触れると、今度は彼女の方から口に含んだ。

「錆びた鉄の味がする」

 くぐもった声だった。

 何気ない一言が、意外にも深いところへと刺さった。

 錆びた鉄、指先に染み付いた弦の味。

 血液に似たその味と匂いは、いまの小西真夜を肯定してはくれるが、未来に自分以外の何者かになり得る可能性のすべてを否定する。

 幼い頃から音楽漬けだった毎日。いまさら変えることなんかできるわけもない。なんだかんだと言ったところで、結局死ぬまで音楽からは離れられない。そんなことは自分自身が一番よく分かっている。彼女の言葉は、普段、見えないふりをしているその事実を、目の前に突きつけたのだった。

「誰もが、同じことを言うのね」

 指先を転がす舌の動きが止まった。過去の恋人たちへの嫉妬か。それとも十代の数年を賭けて想ってきた相手が多情だったことへの後悔か。

 唇から指を抜いた。

「なぜわざわざいまここで、そんなことを言うのですか」

 おおげさに溜息をついてから答えた。

「勘違いしないで」

 醒めた顔で追い詰める。

「恋人にでもなる気なの?見えないものなんて欲しくない。心なんていらないの。行きずりでも構わない。男でも女でも、欲しいときに抱き合える体があれば、私はそれでいい。いままで誰かを愛したことなんて、一度もない」

 少女は心をかばうように背中を向けた。

「シャワーを浴びてきます」

 逃がさない。

 この瞬間、肉食の獣になる。

 くわえていた煙草を吐き捨て、スリッパの爪先で踏み消した。リノリウムの床に灰が散った。

 立ち上がりかけた背中を、捕食するように後から抱きしめる。

 もがく彼女の顔を無理矢理こちらに向け、きつい姿勢で唇を重ねた。口移しの煙に咳き込んでいるところをベッドに押し倒す。縺れる二人の動きにスプリングが軋む。胸と胸の間で暴れる腕を押さえながらも貪るようなキスはやめない。そのまま舌で前歯をこじ開ける。部屋に響く濡れた淫らな音。乱れた吐息の芯には缶コーヒーの甘さがあった。

 押さえつけた腕から力が抜けていく。唇を離す。すると互いのそれをどちらのものともわからない細い銀の糸がつなぎ、そして切れた。

「ねぇ、キスして欲しかったんじゃなかったの」

 怯えた目が見あげている。

「貪欲なだけだよ、私は。綺麗なものが好きなだけ。人間は嫌い、男も女も」

 毒の言葉を囁いて耳朶を噛む。

 そのまま唇を尖らせて輪郭をなぞっていく。体の下で少女は途切れ途切れに押し殺した声を上げる。周りから中心に向かって舌を進め、耳の中まで挿し入れると、組み敷いた体は一瞬こわばり、やがてすべての力が抜けた。手足はシーツの上に投げだされ、ただ浅い呼吸を繰り返すばかりだ。

 押さえつけていた手首を離し、ニットのジッパーに手を掛けた。もはや虚ろな瞳に抵抗の意思はない。そのまま下までおろしてキャミソールをまくりあげると、あらわれたのは淡いピンクの下着に包まれた白い体だ。余剰のない肉体はオブジェとしては美しい。しかし薄く浮かぶ肋骨に痛々しさを覚えた。

 首筋から鎖骨、そして胸元へ指を走らせる。そのあとを追うように肌が粟立っていく。爪を立てたい、壊してしまいたいと強く思った。暴力的な昂ぶりをかろうじて押さえた。

「気持ちいいんでしょう。知ってる?快って言う字は心を抉るっていう意味なんだって」

 耐えるように目蓋をきつく瞑っている。

「やめてもいいのよ。無理矢理は趣味じゃない」

 ゆっくりと瞳が開く。

「おねがい、シャワーを浴びさせて。せめて灯りを落としてください」

 消え入りそうな声を無視する。清らかな少女の堕落に、屈折した喜びを覚えた。

「暗くしてほしいの?泣き顔、見られたくないんだ」

「泣いてなんかいません」

 目じりに舌を這わせ、零れそうに盛り上がる雫を舐めとった。

「しょっぱいわ。嘘つき。これは涙じゃないの」

 背けた横顔がさらにサディズムを刺激した。指をブラジャーと肌の隙間に潜らせる。

「ほら、心臓が焼き切れそう。こんなに脈打たせて」

「いや、違……」

 ホックを外して毟りとる。意外なほど豊かな胸に顔をうずめ、その先端を咥えた。

「乱暴なのは、いや」

 ひとり言のようなその声に、動きを止めた。

「あなたには、私はどう見えるの」

 深く息を吐く。そして力を抜いて少女の上に倒れこんだ。完全に力を抜いた。ちょうど耳の下にあたった心臓が規則正しく拍を刻んでいた。

「かっこよく見えるのかな。何にも縛られない自由な人間に見えるのかな。でもね、本当は息苦しくてしょうがないんだ」

 急な態度の変化に、頬に触れる肌が収縮していく。

「子供の頃からずっと、やまない音楽が私の中にいすわっているの。これは才能なんかじゃない。ただの呪い。でもね、裸で誰かと抱き合っているときだけ、忘れられる。一瞬だけど、私は音楽から解放される」

 投げ出されていた腕がシーツから浮いた。そして背中に回った。小さな掌は迷いながら背骨を撫で上げ、肩甲骨のあたりに着地した。そのまま黙っているとさらに首筋から耳の後ろを通り過ぎ、頭を優しく包んだ。ゆっくりと髪を撫でる指先の動きにはすでに躊躇いが消え、慈しみさえ込められているように思った。

 上半身を起こし、赤い目を覗き込む。鼻が触れ合いそうな距離ですがるように笑って見せると、おずおずと首にしがみついてきた。

「少なくともいまは、私がそばにいます。本当に一瞬でも真夜さんが楽になれるなら、私は」

 さりげなく胸の肌に触れると緊張が消えていた。緩みそうな頬を隠すために、きつく抱きしめた。

「お願いです。私の名前、呼んでください」

 心の中で、声をあげて笑った。獲物の首筋に牙を立てたライオンの気分だ。せめて日が昇るまで、夢を見るといい。甘くて暗い喜びを胸に、耳元へ少女をたぶらかす魔法の媚薬を流し込む。

「忍、忍、忍」と。


 浅い眠りから醒めた。

 耳の奥で鳴るガーシュイン、喉の渇き、舌の付け根の鈍痛。

 空調が低く唸っている。寝る前に消し忘れたのだろうか。これでは喉も渇くはずだと半分夢の中で考えた。いや、体を包むベッドの感触がいつもと違う。やっと開いた目に映るのは見慣れない天井だ。

 快適とはいえない目覚めだった。意識がはっきりするにつれて、断片的に状況を思い出していく。頭のすぐ右のあたりから聞こえる安らかな寝息からすると、昨夜のことはどうやら夢ではないらしい。舌の痛みの原因は、苦笑するしかない。

 体の軋みをこらえて、ゆっくりと上半身を起こした。慣れないベッドのせい体が軋む。伸びをするとベッドが揺れた。それでも少女が目覚める気配はない。無理もないか。昨夜は指先と舌に何度も昇りつめ、気を失うように眠りに落ちたのだった。お子様相手にやり過ぎた気もするが、反省するつもりもない。

 そのままの姿勢で見下ろした。そしてこの娘の行く末を思った。

 一夜の記憶は彼女を変えてしまうだろうか。これから先、もしかすると女しか愛せなくなるかもしれない。それともあと十年もすればすべてを忘れ、家庭に納まって自分の子供を抱いているだろうか。

 いや、どちらにしても関係ない、か。

「ま、やさん」

 寝言に名を呼びながら、腕にしがみついてきた。シーツに髪を広げて横たわる姿は、画集でしか見たことのないラファエロを思い起こさせる。しかし目の前に横たわる生身の少女は、首筋の、制服のブラウスを着れば隠れてしまうあたりを一枚の薄紫の花びらで飾っている。唇の形の痣を肌にはり付けているような淫らな天使なんて中世の聖画の中にはいない。

 どんな夢を見ているのだろう。寝顔には時々、笑顔を浮かべているから、どうやら悪夢ではなさそうだ。戯れに頬に触れると、擽ったそうに身をよじった。いまになってすべてを取り払った彼女の素顔が、驚くほど幼いことに気付いた。

 互いの居場所の隔たりを感じた。本来、交わるはずのない二人の人間の軌跡が、何かの間違いで重なってしまうことがある。それは悲劇の前兆だ。だからこそ心の弱さに流されることなく、その偶然に甘えてはいけない。

 こうしている間にも体温が腕を伝い、胸の奥へと侵食してくる。鬱陶しい。なのに振りほどくことができない。

 この温もりを受け入れれば未来は変わる。かつて心の底から求め、そして指の間をすり抜けていった優しい生活。二人で過ごす未来があるとすれば、そして本当にそれを望むなら、安らぎに満ちた毎日を手に入れることもきっとできる。

 そこまで考えて、笑いがこみ上げてきた。

 どうかしている。

 成り行きで抱いただけの相手に情が移ったのか。

 こんな子供に深入りしてどうしようと言うのだ。すり寄る野良猫を憐れんで、一生の面倒を見る覚悟もなく、無責任に餌をやるのと同じだ。結局、はるか前に失くした無垢をいまこの時だけ懐かしがっているだけに過ぎない。

 身の程を知れ。犯した罪から逃れようと他人の肌に溺れることしかできない人間に、安らぎなど求める資格はない。

 壁の時計は五時半を指している。電車も動きはじめているはずだ。道路の雪が融けているなら、アークまでバイクを取りに戻ってもいい。忍が目を覚ます前にホテル代だけ置いて消えてしまおう。そして巣に戻って眠ろう。形ばかりの休息が余計に疲れを酷くしたのだ。つまらない妄想にとらわれるのも、きっとそのせいだ。

 できるだけ静かにベッドから降りようとした。すると閉じられていた忍の目蓋がぴくりと震えた。

「う、ん。真夜さん」

 頬に触れても起きなかったのに、なぜか体を離そうとした気配に目を覚ましたようだ。開いたばかりの目は寝惚けていて、状況も分からなかったらしい。が、その焦点が合うと、幸せそうにエヘヘと笑った。苦い思いが広がる。

「おはようございます。もう朝ですか」

 後半は欠伸と混ざってほとんど聞き取れなかった。眠そうに右手で目をこするのだが、左手は掴んだ腕を離そうとしない。これから言う言葉にどんな反応が返ってくるか、予想がついた。

「朝の五時半よ。まだ眠いでしょう。私は先に帰るから。ホテル代は置いていく」

 立ち上がろうとすると、しがみつく腕に力が込められた。

「もっと、一緒に居たい」

 やはり思った通り。うんざりだ。乱暴に腕をほどく。

「勘違いしないで」

 ベッドを降り、散乱している服を拾い集めた。振り向くこともせず続ける。

「言ったよね、誰も愛したことはないって。サービスタイムはおしまいよ。全部忘れなさい。私もそうするから」

 肩に力を入れた。殴られても仕方のないことを言ったのだ。考えつく限りの罵声を想定して身構えた。

「……分かりました。でもせめて、駅までご一緒させてください」

 すべてを背中で受けとめようと思っていた。最低限の責任として。

しかし穏やかさに拍子抜けした。甘えも馴れ合いも、怒りも感じさせない声だ。昨夜はじめて言葉を交わしたときのように硬質な口調に戻っていた。彼女の中で何かが決定的に変わったのだと思った。もうこれから先、無垢な素顔を見せることはないだろう。

「好きにしなさい。でも遅れるようなら置いていく」

 譲歩したわけではない。ただ同じ場所から同じ方向へ向かうのなら、わざわざ時間をずらすのも不自然だと思っただけだ。

 裸の背中に刺さる視線に気付かぬ振りをして、バスルームに向かう。ドアを閉めると、熱いシャワーを頭から浴びた。そこでやっと肩から力を抜いた。泡立てた掌を強く肌に擦りつける。爛れた夜の残り香をこそぎ落とすように。

 卑怯者だ。自覚はある。


 空はまだ夜の色だった。

 街は薄暗く、洗い髪に風が冷たい。それでも昨夜よりは気温も上がっているらしく、ほとんどの雪は溶けて、地面を濡らす水溜りになっていた。亡霊たちに啼き声もいつの間にか止んでいる。

 体がだるい。睡眠不足のせいだ。集中力がなくなっているのが自分でもわかる。やはりバイクは午後になってから取りにいこう。それにここまで来たら、駅まで歩いた方が早い。

 うしろからは少し間をあけて忍がついてくる。見なくてもわかる。俯いて歩いているに違いない。もちろんこちらから話し掛けたりすることもなく、ただ前だけを見て歩く。いつものことだ。気詰まりな空気には慣れている。夜が明ければ、ただの他人だ。

 わざと聞こえるように鼻歌交じりで歩いていると、二つ目の曲がり角の向こうから、こちらへ近づいてくる足音を耳が捉えた。しかし奇妙なことにそれは角の辺りで止まった。引き返したのだろうか。いや、もしそうなら来た道を戻る足音が聞こえるはずだ。しかしそれもなく、またこちらに姿を現す者もいない。

 不穏な空気に足を止めた。背中に忍がぶつかり、少し前へつんのめった。

「痛た。急に止まって、どうかしたんですか」

やはり前を見て歩いていなかったようだ。ぶつけたらしい鼻をさすって忍が言うのと、角から人影が歩み出てくるのはほぼ同時だった。

「朝帰りかよ、忍」

 汚い声だった。ひび割れて耳障りな、神経を逆撫でする声だった。

「妻木、くん?」

 忍は背中に身を隠した。そしてコートの袖を強く握り締めた。震えが肘に伝わってきた。

 訳もわからないまま二人を眺める。青白い顔の少年と、隠れながらも目だけは逸らせない少女を。が、その気配から、だいたいの事情は見えた。

 ばかばかしい。トラブルはごめんだ。

 他人の修羅場にまで付きあうつもりはない。汚い声を耳が覚えてしまう前に、早くこの場を去りたい。しかしそう簡単に一人だけ解放してくれるとも思えない。これから踏まねばならない不愉快な手順を考えると急速に心がささくれ立っていく。

「知り合いなの?」

 短く尋ねたのは、不機嫌を悟らせないためだ。苛立ちが伝わり、その原因を嫉妬とでも勘違いされたら最悪だ。しかしいまの忍には、周囲を見る余裕もないようだ。

「いまはただの予備校のクラスメイトです。前に付き合ってましたけど、もう終わりました」

 早口に吐き出された答えはやはり想像通りだった。舌打ちしたい気分だ。

「でも向こうは、そうは思ってないみたいね」

 皮肉を口にしながら肘を掴む手をほどき、妻木という名の少年を見た。

 整った顔立ちだ。しかし繊細というより神経質そうに見える。特に尖った頬骨と目の下の隈のせいで彼が本来持っている快活さはすべて消されていた。身長は一七〇センチ前後。バランスは悪くないが一つのスポーツに集中して取り組んでいる体ではない。夏はテニス、冬はスノボを嗜む程度、そんなところだろう。

 かわりに服装と髪型には時間と労力をしっかりつぎ込んでいる。何の根拠もないが、電車の中でファッション誌を真剣に読んでいる姿を想像した。また予備校での話とはいえ、忍と同じクラスなら偏差値も高いにちがいない。高校生くらいの女の子には人気のあるタイプかもしれない。しかし新人アイドルのようなこぎれいな外見も結局は流行の受け売りに過ぎず、逆説的に彼自身の無個性を端的に示していた。つまりは繁華街によくいる平均中の平均、いまどきの男の子と言ったところだ。

「じろじろ見るな。値踏みしてんじゃねぇよ」

 威嚇には冷めた笑顔で応えた。

「見惚れてただけよ。気にしないで」

 妻木くんの顔が微妙に歪んだ。できあがったのは片頬だけが引き攣れた中途半端な笑いだ。アイドル顔が台無しになった。どうやら怒りの感情を率直に表せないらしい。自分を見ているようで居たたまれなくなる。

 気分が最悪だ。それも昨夜からずっと。後ろに隠れている少女は疫病神だろうか。

 ここにいたるまでの二人の経緯にはまったく興味がない。また忍の嗜好も、恋愛の中で相手に求める基準も、知ったことではない。しかしただひとつ、我慢できないことがあった。それは一時期であっても、この程度の少年なんかと心の中で同居させられていたことだ。

「悪いけど二人だけでやってくれないかな。外が寒ければ二十四時間営業のコーヒーショップにでも行くといいわ。とにかく私は関係ないでしょう。二人のケンカに巻き込むのはやめて」

 それだけ言って帰ろうとした。

 まっすぐ一歩ずつ進んでいく。この道が駅までの最短コースだ。彼を避けて大回りする気はない。

 ところが、というか思った通りに妻木くんは道を塞いだ。素直に帰してくれないらしい。距離は五メートル。ジャケットのポケットに手を入れ、充血した目で睨んでいる。そして片頬を引き攣らせたまま口を開いた。汚い声。耳を塞いでしまいたい。

「おまえが、真夜ちゃんか。ギター弾いてる癖にバイクに乗ってるんだってな。事故とか起こしちゃったら、指、やばいんじゃないの」

 ひくひくと痙攣する目元を見て、失笑してしまった。脅迫まがいの言葉を口にする彼自身が一番緊張しているのだ。

「そんなことになったら私の恋人たちが悲しむからやめておいて。それに君くらいじゃ私をどうすることもできない。悪いことは言わないから、邪魔しないで通して」

 無防備に踏み出すと、あわせて彼は一歩下がった。そして退いてしまった自分に気付くと、今度は声を荒げた。

「うるせぇよ。忍の処女は俺がいただいたんだ。自分の女に手ぇ出されてただですませられるわけねぇだろ。おまえ、女が好きなんだろう。女同士ってどうやってやるんだよ、気持ち悪い。俺の前でやって見せろよ」

 無言で忍の手首を掴み、正面に引っ張り出した。短い悲鳴を無視して抱きしめる。そして顎に指をかけて上を向けさせると、唇を濃厚に重ねた。そのさなか、肩越しに妻木くんに目を遣り、ウィンクして見せる。呆然と凝視する視線を充分に意識したまま唇を離す。長いキスの後、忍は完全に現実を忘れたように、とろんとした目で立ち尽くしている。のんきな物だ。

「ご覧の通りよ」

 濡れた唇を袖で拭って言った。

「てめぇ」

 一方、数歩先に立つ少年は顔を真っ白にしていた。

 もう彼を笑うことができなくなっていた。憐れみさえ感じはじめている。

 罵る言葉も思いつかず、殴りかかってくることも無い。透けて見える気弱さがこの少年の本質だろう。忍と同様に、身にまとった空気から滲む明るさは隠せない。普段は下卑た言葉を口にすることもない育ちのよい少年なのだろう。

 おそらく妻木くんは、忍に会うまで恋をしたことがなかったのだ。そこそこの外見と学力、それに広く浅く流行を押さえておく努力さえすれば、同年代の遊び相手には事欠かない。そんな生ぬるい関係と薄っぺらな経験から、いつしか相手の方が自分に夢中になるのが当然と思い込んでいたに違いない。恋愛の主導権はどんなときでも自分の側にある、と。

 しかし忍との出会いによって、そのルールは蹂躙された。

 彼女の心の中には常に別の存在があったからだ。妻木くんと付き合っていたときでも、嬉々として遠くへ留学している高校の先輩のことを語ったのかもしれない。どんなに近くにいても、ベッドの中で抱き合っているときでさえ、向き合う少女の目は自分を映してはいないことに気付くまで、そんなには時間は要らないだろう。

 自分に夢中にならない少女に、逆にのめり込む。これが妻木くんの遅れてきた不幸な初恋のはじまりだ。しかし間もなく、一方的に別れが切り出される。ほかに好きな人がいて、しかもその相手は女性だという、まるで理解できない理由と共に。それだけで、相手からもたらされる別れに免疫のない心は簡単に壊れたわけだ。

 感情は暴走し、恋は妄執に変わる。いまや彼自身も胸の中の想いの正体を見失っていることだろう。それでも執着の糸は切れない。こじれた想いは絡まるばかりだ。一つ一つの行動が忍の気持ちを遠ざけることに気付いていても、その姿がどんなに醜いか分かっていても止められない、無間地獄。

 そしてそれは、忍だって同じだ。

 彼女は、落ちぶれたギタリストなんかとは接点を持つことなく人生を過ごし、終えるはずだった。本来、住むべき世界が違う。しかし幾つかの偶然と愚かな選択の末、いまこうして朝の街並みの中に一緒にいる。想いが通い合った場面で美しく物語が終わるのは、映画や小説の中だけの話だ。実際はその先に、現実の生活が待っている。例えばクラスメイトの誰かに昨夜の出来事を知られるだけで噂が駆け巡り、学校の中の彼女の居場所は抹消されてしまうだろう。忍が生活している現実、聖ミカエラとはそういう場所だ。それでも忍はリスクを犯してアークの駐車場にきた。

 恋は、こんなにも人を狂わせる。

 哀しいね。本当に欲しいものは、いつだって手に入らないのに。

 妻木くんも、忍も、そしてかつての――。

「聞いてんのか、てめぇ」

 目の前には、肩を震わせて声を荒げる少年が立っていた。

 数秒間、意識が飛んでいたらしい。あくびが出そうだ。続きはまた今度、と言ったら彼は余計に怒るだろうか。

「君、目の下、隈ができてるよ」

 早く解放して欲しい。ひどく眠い。

「うんざりなのよね、妻木くん。こんなところで会ったのも偶然じゃないでしょう。この寒い中、昨夜から張り込んでいた。違う?」

 放った言葉は矢となって、確かに彼を貫いた手応えがあった。妻木くんは動きをとめ、唇を噛み、そして俯いた。その様子は、まるで胸に刺さった刃を見つめているようだった。横顔は強張っている。歯を食いしばっているのだ。言葉を継ぐ。さらに傷を抉るために。 

「女に恋人を寝取られたのがそんなに悔しいの。忍は、君とはもう別れたって言ってる。それに昨夜はただのつまみ食い。とにかく私にはもう関係ない。後は二人で勝手にして」

 視界の隅で忍は固まっていた。元の恋人へのおぞましさが半分、さっきまで体を重ねていた相手の薄情な態度へのショックが半分か。何度か口を開きかけ、ようやく吐き出すように言った。

「いまの、酷すぎます」

 つまらない抗議に、冷静に答える。

「事実でしょ」

「だからって、そんな」

 舌打ちが響いた。

 妻木くんが顔を上げる。苦悶の表情はすでに無く、再び暗い笑いを浮かべている。ただひたすらに卑屈だった。細めた目が爬虫類を思わせた。一線を越えた禍々しさを感じた。

「関係なく、ないんだよ」

 開いた口から零れる声が耳を犯す。したたるような悪意が伝わってくる。

「知ってるぞ。おまえの家族の秘密。おまえの兄貴は、」

 喜びに満ちた表情だった。得意そうに続けた。

「おまえの兄貴は、人殺しなんだろう」

 彼はいま、人を人たらしめる何かを放棄したのだと思った。人間から畜生へ堕ちたその姿を見ていると、ますます自分が映る鏡の前に立っている気分になった。ひと目見たときから彼に好意のかけらも持てないのは、きっと同族嫌悪だ。

「冗談にしても趣味が悪すぎます」

 震える声で言ったのは忍だ。が、それも向き合う二人を交互に見ているうちに尻すぼみになった。

「嘘、ですよね」

「いや。残念ながら本当だよ」

 それは心のずっと奥に沈めた記憶の一つだ。しかし過去に実際に発生した事実であることに変わりはなく、いまさら無かったことにできるものではない。

「忍、目を覚ませよ。その女は人殺しの妹なんだ。何するかわかんねぇって。早くこっちに来いよ、あぶねぇぞ」

 下を向く忍の表情は見えない。妻木くんは焦れてさらに続けた。

「被害者は未成年なんだってよ。そいつの兄貴は無抵抗のガキを殴り殺したんだよ。そうなんだろう」

 言葉の最後で妻木くんはこちらを向いた。目が合った。逸らさずに見返した。

 確かに兄は人を殺した。当時、メディアは兄の実名をもって事件を報じた。いまでも図書館で新聞記事のデータベースでも検索すれば、すぐに情報は手に入るだろう。個人の中で封印した出来事ではあるが、それ自体は秘密でもなんでもない、よくある事件の一つだ。それにあの件は何年も前に事実上、被疑者不在のまま結審という曖昧な形で幕を閉じた。いまさら掘り下げる価値も無い。

「もう、終わったことだよ」

 妻木くんははじめて声をあげて笑った。他の感情から転化したものではなく、心から笑っていた。自分の優位を誤解した愉快そうな声だった。

「それは都合がよすぎるでしょ」

 確かにそうだ。事件自体はもちろん、その前後の経緯すべてを忘れてしまいたいだけなのかもしれない。

 きつく手を握り締めた。掌に爪が食い込んだ。

 凍らせていた記憶に亀裂が入る。

 あれは不幸な偶然の連鎖の結果だった。はじまりは些細な三つのボタンの掛け違いだ。やがて歪みに耐え切れず、ボタンはひとつ弾け、またひとつ千切れ、最後のひとつだけこうして残されて、いまも宙に浮いている。しかしその歪みも、不健全なりに愛だったと信じたい。 

 感情が溶け出していく。

 瞬いた目蓋の裏で、去っていくあの人と、それを追う兄の背中が見えた。

 そう、あのときも傍観者でしかいられなかった。かつて全身で運命を呪った。なぜ事件の現場に居合わせることができなかったのか。愛のために殺人を犯すのが、なぜ兄だったのかと。

 思い出させてくれるな。

 世界を捨てて折り合いをつけ、抜け殻になってでもなんとか生き長らえることを選び、すっかり弱くなったいまの心と体にあの情動を追体験させるのは酷だ。

「最低です」

 その通りだよ、と言いかけた。それをしなかったのは、口を開く前に、忍の目が向けられているのが妻木くんであることに気付いたからだ。

「たしかに事実みたいですね。でもそれは真夜さん本人が起こした事件じゃないんでしょう。いまさら家族の苦しみまで蒸し返して。恥を知りなさい」

 怒鳴るわけでもなく、忍は淡々と言葉を続けた。さっきまで怯え、隠れることしかできなかった少女が、何か大切なものを健気に守ろうとしている。まっすぐに伸ばした背筋を美しいと思った。

「おまえ、誰に向かって口きいてるか、わかってんの」

 低い声に呼応して、細い肩が大きく上下した。深呼吸をしたのだろう。それから自分に言い聞かせるように彼女は言った。

「もう私は、あなたのことなんか怖くない。はっきりさせましょう。これから先、二度と私に話しかけないで下さい」

 妻木くんは空を仰いだ。左手で顔を包んでいるから表情は見えない。やがて深い溜息を吐いて正面に向き直った。

「そうか、わかったよ。二度と話しかけねぇ」

 ポケットから出てきた右手が何かを持っている。手首のスナップとともに銀色が弧を描き、控えめな金属の音をたてて刃が飛び出した。バタフライナイフだ。

「顔は勘弁してやる。でも消えない傷をつけてやる。どこがいい。選ばせてやるよ」

 うらはらにナイフを持つ手は震えていた。今にも泣き出しそうな顔だった。

 本当に人を刺す覚悟もなく刃物を手にする妻木くんも、成り行きとはいえもとの恋人に刃物を抜かせた忍も、みんな滑稽だ。

 事件のときに兄が見たのも、こんな光景だったのだろうか。ただひとつ確実に違うのは、あの時の兄が抱いていた愛なんて、いまここの場ではどこにも見つかりはしないということだ。あの人が愛した兄のようには、どうやったってなれはしないということだ。

 ギターケースを下ろし、忍の肩を押し退けて前に出た。

「かっこつけんじゃねぇ。人殺しの妹でも、刃物向けられりゃ怖いだろう。謝ればおまえは許してやるよ。私だけ助けてくださいって土下座して言ってみろよ」

「いいかげんに黙ってくれないかな。君の声、汚いんだ」

 再び彼の目元が震えた。

「おまえから刺すぞ」

 意志の力で耳を閉じる。

「やれるなら、やってごらん。人に刃物を向ける意味、教えてあげるよ」

 朝の空気を深く吸い込む。半眼で仰いだ空には、強い風に流される雲があった。今日はきっと晴れるだろう。場違いなことを考えて、肺の中の空気をゆっくり細く吐き出した。事件のこと、兄のこと、自分のこと、いまさら誰に何を言われようと構わない。ただこれ以上、彼の声を聞くのは耐えられなかった。

 耳の奥で聞こえるのはモーツァルトの交響曲二十五番ト短調だ。世界を美しい音楽で満たしてくれ。雑音をかき消すほど強く高く鳴り響いてくれ。 

「妻木くん、もうやめて」

 甘くて凶暴な弦楽を邪魔するのは忍の声だ。妻木くんがそれに答えて怒鳴っているようだが、その声は聞こえない。そっと盗み見た頬は濡れていた。よく泣く娘だ。それにしても、もうやめて、か。甘ったるさに苦笑が浮かぶ。しかしそれほど否定的にも思っていない自分がいる。

 向き直る。体の軸を定める。

 そして、一気に詰めた。

 テリトリーに侵入する異物に対し、反射的にナイフを持つ右腕が動いた。軌道を読み、手首と肘の中間へ最小のモーションで手刀を打ち込む。独特のぐにゃりとした感触。覗き込んだ目の中で瞳孔が急激に縮む。振り下ろした一撃が橈骨神経を捉えたのを確信した。

 開いた手から凶器が落ちた。そのまま掌を握りこみ、伸びきった彼の右腕の上を走らせる。腰の転回が描く円周。遠心力が乗った裏拳は喉へと吸い込まれる。残心をとるのと同時に、地面に落ちたナイフが跳ねた。

 妻木くんは尻餅をつくようにその場に座り込んだ。はじめは何が起こったのかわからないようだった。しかしすぐに首元を掻き毟りはじめた。喉から酸素が入ってこないことに気付いたのだ。

「ちょ、ちょっと、真夜さん」

 目の前で起きた出来事をやっと把握した忍が声を上げる。

「大丈夫だよ。喉仏、潰したりはしてないから」

 無防備な横顔、つまり蟀谷や目を撃ち抜くこともできたが、それはしなかった。容赦したわけでも保身でもない。ただ声を聞きたくなかっただけだ。それにこうすれば悲鳴を上げることも、助けを呼ぶこともできない。彼は耳を汚したのだ。こうされるだけの理由は、ある。

 遠くからクラクションが聞こえた。軽いエンジンの音は新聞配達のスーパーカブだ。飛び回るカラスの声、街路樹のざわめき、風の音、そして掠れた呼吸。世界に音が戻ってきた。

 忍が足を踏み出しかけた。表情を消して睨むと立ち竦んだ。付いてこないように目できつく制する。逸らした目には明らかに怯えが浮かんでいた。知らず知らず噛み締めた奥歯が、きしりと音を立てる。しかしこれでいいのだと思った。

 呻き声のする方へ向きなおる。すると咳き込みながら、それは身を捩った。歩み寄ると、這って逃げようとした。

 見苦しい。鼻の下を爪先で蹴り上げれば全て終わる。その誘惑をどうにか遣り過ごした。

 早朝とはいえここでは人目につく。髪を鷲掴みにして力任せに引きずり起こすと、彼は体を振って暴れた。髪が指に絡みつき、ぶちぶちとまとめて何本も抜ける感触があった。それでも抵抗をやめようとしない。握力を失った右手が、手首に掛かった。形の揃った美しい指に強烈な苛立ちを覚えた。だからがらあきの脇腹へ鉤打ちを叩き込んだ。拳が肋骨を噛む。妻木くんは奇妙な息を漏らし、ようやく暴れるのをやめた。

そのままビルの谷間に引き込んだ。手首の関節を極めて、両側の壁に二、三度叩きつける。彼は座りこむよう腰から崩れた。離すと、手を地面につき、やがてうつ伏せに倒れこんだ。考える時間を与えず、首の後ろを押さえつける。体重をかけると手の中で頚骨が軋んだ。ピンに止められた昆虫の標本のようだ。這うことしかできない芋虫にはお似合いだと思った。

 手早くポケットを探っていく。財布、鍵束、携帯電話などを目の前の水溜まりへ次々と放り込んでいく。そのたびに撥ねた泥水が、地面を舐める彼の横顔を濡らした。最後に出てきた定期入れの中には原付の免許があった。それだけは貰っておくことにした。続けて

袖口、襟やベルトの裏まで調べ、靴も剥ぎとる。結局、ナイフのほかに凶器は持っていない。見くびられたものだ。

 実際には人を刺す覚悟もなく、ただ脅すためだけに刃物をちらつかせ、逆に反撃される可能性なんて考えることもない。毎日、ニュースが流す犯罪や暴力事件を他人事としか認識できない幼稚さには吐き気がする。

「君の言うとおり兄は人を殴り殺した。普通じゃないでしょう」

 再び髪を掴んで顔を覗き込んだ。

「あの人は空手をやっていたの。全国大会で上位入賞することも珍しくなかった」

 目の焦点が合っていない。話が通じているのだろうか。それも今さらどうでもいいと思い直し、一方的に続けた。

「少しは考えなかったの。想像力が決定的に欠けてる。君の言うとおり人殺しの妹よ。それにステイツではセルフディフェンスは常識。私自身、実戦派フルコン空手の黒帯」

 びくりと震えた。言っていることを理解してはいるらしい。

「それに叔父は国会議員なんだ。優しい人だし、身内の悪口は言いたくないけど、絵に描いたような族議員。暴力団ともパイプがあるみたい。ここまで言えば事件の報道がすぐに終息した理由もわかるでしょう。もうこの件に関わるのは止めなさい。これくらいじゃ済まなくなるわ」

 言葉もなく、彼は何度も大きく頷いた。頭から手を離すと、背を向けて体を丸めてうずくまった。たぶん泣いている。立ち上がって見下ろしていた。そのとき背後の、それもすぐ近くで砂を踏む音が聞こえた。

 甘かった。仲間の存在は想定していなかった。

 人数最低一名。場所は真後ろ、距離二メートル程度。武器の所持は不明。

 後ろに跳んで一端、距離をとるか。いや、振り向き様に正確な位置と背格好を把握。すぐに手近な相手の膝を一息に下段前蹴りで破壊する。相手が複数でも、ありえない角度に曲がる仲間の膝を見れば怯むだろう。そして忍は、忍は無事なのか。

 引き手を作り、半身で振り返る間にそれだけのことを考えた。しかしそこに立っていたのは凶器を構える若い男たちではなく、ギターケースを抱えた一人の少女だ。蹴り足を用意して旋回する姿に驚き、忍は声を上げて仰け反った。

「待って!待って!違います!私です!」

 跳び出す勢いをかろうじて止めた。制動しきれず、体は半歩ほど前に出た。文字通り手を伸ばせば届く距離で止まった。忍の喉がごくりと鳴るのを聞きながら、前に傾いた軸を立て直す。緊張を緩めると、硬直していた忍も肩から力を抜いたのが伝わってきた。聞こえよがしの舌打ちと共に、構えを解く。ここしばらく道場に行っていない。皮膚感覚、特に対人距離感が鈍くなっているのを痛感する。

「何しに来たの」

 苛立ちできつい口調になる。

「何しにって、心配だったんです」

「私のことが、それともこれのことが」

 地面で丸まっている妻木くんを顎で示すと、彼女が悲しそうに唇を噛むのが薄暗い中でもはっきりわかった。抱き合える距離で、互いに黙り込む。凶器のような棘にまみれた言葉は、ぶつけられた者の心だけでなく、時として放った人間の唇さえも切り裂く。

 いや、亡霊を名乗るなら、自らの痛みについて語ってはいけない。

 欠落。虚無感。

 身に掛かる火の粉を払うためと嘯いては、暴力を振るうことに何の躊躇いもおぼえない精神構造。それはやはり人として何かが欠けている証拠だ。 

 あの人を失ったのと同時に胸の奥に住みついた虚無という魔物が、人間らしい感情の多くを時間をかけて食い尽くした。それに抗うように広がっていく空白を音楽で埋めようとした。音の海に溺れていると、自分の中の空洞が満たされる瞬間がやってくる気がした。

 けれどそれも錯覚だった。一度、損なわれた心が元に戻ることなどありはしないのだ。音楽はただのモルヒネだ。虚無が歯を立てる心の痛みを和らげることしかできない。本当は最初からわかっていた。が、色褪せた世界を生きていくために、広がる空白を直視してはいられなかったのだ。

 やがて時間と共にモルヒネも効かなくなった。しかし音楽の過剰摂取で死ぬのも体ではなく、やはり心だ。そうして音楽にも満たされずに眠れない夜は、自分勝手に誰かと肌を重ねる人でなしが生まれた。心を守って生きていくために、心を麻痺させるしかなったというのだから皮肉な話だ。

 掌を眺めた。きつく握り締めると革のグローブが音を立てた。小さいが、頑丈な拳ができあがった。

「あなたのためなんかじゃないわ。ただ、妻木くんが気に入らなかっただけ」

「分かってます、それくらいは」

 そんな目で見るな。

 軽蔑してくれ、幻滅してくれ、音楽の亡者を嘲笑ってくれ。

 幾年もかけてあなたが想ってきた相手は、他人を愛さず、愛されることを望まず、周りを傷つけ、自らは決して傷つかず、過去だけを抱いて一人で生き、そして死ぬことを決意した人間だ。もし他人との関わりが人を人らしくするというのなら、ここにいるのはただの怪物だ。

 運命を呪っている。けれど過去の生き方に後悔なんてしない。自分を憐れむつもりもない。むしろこうして時々、思い出したように顔を出す中途半端に残った人の心を、すべて殺してしまいたいと思う。音楽を翼に人間を超えられるなら、いつだって喜んでこの地平を蹴って飛び立ってやる。行き着く先が荒涼としたこの世の果てであっても。

 遣り切れない思いを隠して穏やかに言う。

「安心して。私は兄とは違う。私は、」

 まっすぐに顔を上げた。こんなときこそ、俯いてはいけない。

「妻木くんを殺したりはしないから」

 成り行きでこぼれた殺すという言葉に、うずくまったままの妻木くんの肩がびくりと跳ねた。しかしすべては終わったつもりでいたらしく、張りつめたのは一瞬だけだった。緊張の切れ目に漏らした言葉が、耳に届いた。

「なんで俺が、こんな目に」

わずかな記憶の空白の後、気が付いたときには体が勝手に向きを変えていた。ほとんど意思とは無関係に左手は妻木くんの胸倉を掴んだ。喉の奥から漏れた「ひっ」という声が、暴力衝動を加速した。自分の中のリミッターがまた一つ外れたのだと思った。それなのに意識は乱れることなく澄んでいた。

 拳を振り上げる。

 見あげる二つの目はきつく閉じられ、体は強張った。

 無防備な蟀谷を撃ち抜けと、顔の骨を砕いてみせろと、心の声が唆す。兄を超えたいのだろう、あの人が選んだ兄のようになりたいのだろう、と。

 腕を弓のように引き絞る。コンクリートブロックも破壊する拳。放たれれば矢となって彼を射抜き、その命を簡単に終わらせてしまうことができる。昂ぶりもない。冷静に狙いを定める。

 視界の隅で何かが倒れた。ギターケースだった。同時に肩を押さえつけられた。

「離しなさい」

「だめ。殺しちゃう」

「うるさい」

 空いている右手で襟を取り、手前に引いた。簡単に重心が崩れた。襟を離して軽く押すだけで細い体はうしろに泳いだ。ビルの谷間に鈍い音が響く。背中を打ちつけた忍は咳き込みながら、そのまま壁に沿ってずるずると座り込んだ。

「私に構わないで」

 向きなおる。すると今度は腰に抱きつかれた。一端、妻木くんを解放し、忍の腕を力任せに振りほどいた。するとよろけて乾きかけの地面に尻餅をつく。

「いますぐ私の前から消えて。そして自分の生活に戻りなさい。すべて忘れるの。夢だったと思いなさい」

 それでも忍は立ち上がる。痛むはずの自分の体ではなく、目の前の怪物を憐れむ眼差しで。

「なんで、分かってくれないの」

ポケットを探り、出てきた手は銀色の棒を握っていた。

「忘れるなんて、できるわけないじゃない。ずっと前から真夜さんのこと、大好きなんだから」

 妻木くんのバタフライナイフだった。ぎこちない手つきで刃を開く。

「やめておきなさい。さっき見てたでしょう。あなたがそんな物を振り回しても私を止められない。逆に怪我をするわ」

「そんなことわかってます。だから、こうするの」

 言い切らないうちに左に跳んだ。

 見くびっていた。瞬発力は思っていた以上だった。しかし素人の扱う刃物だ。軌道を読み、手首へのカウンターを狙う。が、次の動きはさらに想定を超えていた。忍は体を低く沈めると横をすり抜けたのだ。巻き起こった風に前髪が揺れた。狭い路地、すれ違いに交わった視線の先で笑っていた。そして彼女はまっすぐ向きなおる。その先にいるのは――。

 意図を悟った。させるわけには、行かない。

 忍はすでに妻木くんの前に立ち、ナイフを振り上げようとしている。いつの間にか刃を逆手に持ち変えている。妻木くんは座り込んだまま壁際に追いつめられ、両手で頭を庇うことしかできない。

 踏み込んだ。

 届け。

 忍の腕がまっすぐに空を指す。数歩の距離が遠い。張りつめた背中へ倒れこむように手を伸ばした。手首に指先が掛かった。そのまま握りこむ。掌の中に納まってしまう細さだ。動きは完全に封じた。

「離してっ」

 肩越しに、強い目が睨んでいた。

「この人を殺したいんでしょう。だったら、だったら私がやります。真夜さんにそんなことはさせません」

 掴まれた腕を振り切ろうと体をよじって暴れた。戒めを解かれれば躊躇いなく妻木くんに刃を振り下ろすだろう。忍は本気で人を殺そうとしていた。他人のために罪を犯そうとする意思。それは愛なのか、それともエゴか。

 胸の中が熱くなる。その温もりを否定する。やめてくれ、空っぽの心を揺さぶるのは。あぁだめだ、飽和する。

 背中からきつく抱きしめていた。

「もう、いいんだ」

 そう囁くと、忍はうなだれた。強張っていた体から力が抜け、ゆっくりと腕が下りた。掌から滑り落ちそうなナイフを抜き取り、たたんでミリタリーコートのポケットへ落とした。そしてさらに忍の肩に回した腕に力を込めた。

「痛いよ、真夜さん」

「うん」

 金縛りから解けた妻木くんは這って壁際を進み、肩と背中を波うたせて激しく嘔吐した。

 そのとき空を覆っていた雲が割れた。ビルの谷間まで射し込んできた光が、薄暗がりを切り裂いた。街の底まで照らそうとする日の光に、陰が溶けていく。目を細めた。長い夜が明けたのだ。

 腕の中の少女を見た。泣いているはずだった。しかし違った。肩に回した腕に鼻先を埋め、恍惚としていた。閉じていた目がゆっくりと開き、下から見上げる。潤んでいた。頬を染め、口元には微笑みさえ浮かべていた。目の当たりにした暴力に、そして彼女自身の中にも存在していた凶暴な衝動の目覚めと陶酔に、忍は確かに発情していた。匂い立つような色気だった。

「やっぱり、晴れてきた」

 戸惑いを隠し、どうでもいいことを口走る。意味の分からない呪文のようにしか聞こえなかったのか、彼女は首をかしげるだけだ。

 忍は腕の中で、いつからか少女であることをやめていた。これから先、幾人もの男が、そして女が彼女に吸い寄せられるだろう。たった一晩の出来事が、蛹を蝶へと変えたのか。魅きこまれそうだった。だからただ唇を噛み、曖昧に目を逸らした。



 Session4


 妻木くんはそのまま置いてきた。

 一緒に歩く義理はないし、病院へ連れて行くような怪我をしているわけでもない。傷を負ったとすれば、心の中身だ。だからといってこの後、もしビルの屋上から飛び降りたとしても知ったことではない。それは彼の選択だ。

 放心して地面に座り込む元の恋人を、忍は振り返ることさえしなかった。目に映るのは今と未来だけらしい。少しだけ羨ましいと思った。

「私はもう帰るから」

 適当な場所で足を止め、手を差し出した。当然、握手を求めたわけではない。成りゆきでギターケースを預けたまま、ここまで来てしまったのだ。しかし彼女はぎゅっとギターケースを抱きしめた。おとなしく返す気はないようだ。

「もう。子供みたいな真似はやめなさい」

 言いながら、自分の言葉に失笑してしまった。

 そう、もう忍は子供じゃない。

 一歩引いて全身を眺める。少女の線の細さを失ったかわりに、しっとりとした落ち着きをまとっているように見えた。彼女自身、蕾の時代を終え、花として咲きかけている自分を本能的に悟っているのだろう。子ども扱いに反発もせず、ただ笑顔で応じるだけだ。余計に始末が悪い。

「いろいろ伺いたいことがあります。朝食、ご一緒していただけませんか」

 明るく朗らかなだけだった笑顔がどこか隠微に見えるのは、さすがに気のせいだろうか。秘密という背徳を糧に女は、特に少女という生き物は、たった数時間でめきめきと背を伸ばす。これから先、彼女に狂わされる人生の数を想像すると目眩を覚えた。

 肩をすくめ、先に歩き出した。

「待ってください。ギター、貰っちゃいますよ」

 足も止めずに肩越しに答える。

「返せって言ったって、素直に返してくれないじゃない。お店くらい、私に選ばせて」

 少し間があった。

「はいっ」

 変わりかけている佇まいには不似合いな幼い返事のあと、駆け寄ってきた。二人で並んで日向を歩く。なんだか笑ってしまう。振り回されているこの状況がおかしかった。それほど違和感を覚えていないのが不思議だ。変わりかけているのは忍だけではないのかもしれない。

 自らに問う。秘密を分かち合える相手が欲しいのだろうか。それともこれも睡眠不足がもたらすただの気まぐれか。結論も出ない。考えても無駄だ。取り合えず忍を子ども扱いするのをやめることだけは決めた。

「どうかしましたか」

 一人でにやにやしているのを不審に思ったらしい。

「いや、お腹がすいただけよ」

 そういえば昨日の夕方から何も食べていない。ライブのリハーサルの合間にカロリーメイト二本を、牛乳で流し込んだだけだ。いつもステージの前には最低限のカロリーしか摂らない。ストイックなわけではない。ただの習慣だ。しかしそれを思い出した途端に本当に空腹を感じはじめた。

 歩き出しはしたものの、じつは行き先をはっきり決めていたわけでもなかった。しかし、思いついた。わがままのきく店がある。

 頭の中では特徴のある三拍子のメロディが流れている。この曲は悪くない。思い入れのない昔のロックよりよほどましだ。軽くハミングした。古いミュージカル映画の歌、いまではジャズのスタンダード、『My Favorite Things』。

 忍は変わらず怪訝な顔でこちらを見ていた。ギターケースのストラップに肩を通さず、大事そうに前に抱くようにしていた。

「前を見て歩きなさい。それにギターは肩に掛けたほうがいい」

 慌てて前を向き直る。

「思ってたより軽いから、このままで大丈夫です」

 そいえばはじめてこのギターを手にしたとき、確かに軽いと感じたのだった。鼻の奥で、乾いたニスの香りが甦る。続いて、窓から射す西陽に埃が浮かぶ風景。ゆっくり回る換気扇と床に落ちるその影。幾つものギターが掛けられた壁の奥、狭いレジに座る老人。卒業して帰国するとき、スケジュールトラブルで飛行機の出発が一日遅れた。そのときに寄ったニューヨークの裏通りの中古楽器店だ。

「セミアコースティックっていってね、中身が半分空洞なの。だから普通のエレクトゥリックギターよりは軽い。国産だけどヴィンテージ。三十年も前に日本のメーカーが作ったんだ。ほとんどハンドメイドね」

「知ってます。機材のこと、少しは勉強したんですよ」

 微笑で答える。大切にしているものを共有できる感覚は悪くない。

「偶然立ち寄った店でね、そこのおじいさんは入ってきた私と目が合うと、何も言わないでこのギターを指差したの。時間つぶしのつもりで入っただけだったんだけど、一目惚れってやつね」

「大切なもの、なんですね」

「ガット弦を張ってピエゾピックアップを積んだり、好き放題に改造してるから、もうヴィンテージギターの価値はないけどね」

 少し間をあけて続けた。

「もし転んだりしても肩に掛けてた方が安全なのよ。楽器も、そしてあなたも」

 今度は素直にケースのストラップに腕を通した。すり寄る肩を抱いてやる。いまという幸せな時間は永遠に続くものだと、信じ切っている顔をしていた。


 線路沿いの雑居ビルの階段を下りる。目指すのは地下二階だ。

 途中でほろ酔いのおじさんたちとすれ違った。平日のこの時間まで呑んでいるのだから勤め人ではないだろう。しかし酔っているせいで声は大きいが紳士的に道をあけてくれる。中に混ざる見知った顔と、目礼を交わして行き違った。切れかけた蛍光灯の下、廊下をまっすぐ進む。店は奥の突き当りを右に曲がったところだ。そのドアには看板もなく、ただ「朝八時まで」と流麗な書体で書かれたプレートだけが掛かっている。これがなければボイラー室か何かの入り口にしか見えない。そういえば店の名前も知らない。もしかしたら名前自体、無いのかも知れない。

「ここ、お店なんですか」

 だまってノブを回し、扉を押した。

 落とされた照明の下、棚に並ぶ洋酒の瓶が目に入る。細長い店の形に添ってカウンターが奥へと続く。その中で黒縁メガネと蝶ネクタイの美女が一人、無骨な木の丸イスに腰掛けて文庫本を読んでいた。客席は無人だ。

「お帰りなさいませ、ご主人様」

 読みかけの文庫本をかたわらに置くと優美に立ち上がり、美女は慇懃に頭を下げた。

「なに、それ」

「知らないの、真夜。いま東京で大流行なのよ」

「何年前の話よ。それにアメリカから帰ってまだ間もない人間に嘘を教えるな」

 わざとらしく店内を見回して言ってやった。

「商売繁盛のようで何よりね。今度、招き猫でも持ってきてあげようか」

「大きなお世話。これでもさっきまで満席だったのよ。あなたが来そうな予感がしたわ。なぜか真夜が来るときは、いつもその前にお客がみんな帰っちゃうんだもの」

「ちょっと琴子、人を貧乏神みたいに言わないで」

 この女とは二度、寝たことがある。一度目は高校生のとき、二度目は半年前だ。

 彼女とは聖ミカエラのクラスメイトだった。どうしてそうなったのかは、いまはもう覚えてもいない。本の虫と音楽の虫が、束の間、傷を舐めあうように体を重ねたのだろう。もちろん留学中に連絡を取りあう仲だったわけではない。が、帰国して間もなく、行きつけのカフェで席を隣り合わせるという偶然で再会した。声はこちらから掛けた。きっと魔が差したのだ。

 どちらから言いだしたわけでもなく、そのままホテルへ向かった。抱き合いながら互いの数年間を話した。二年前の夏に父を亡くし、琴子はそのまま大学を辞めてこの店を継いだという。そして、いま少しだけ寂しいと言った。彼女の顎の先から一滴の雫が落ちた。裸の胸の上、しばらく呼吸に合わせてそれは揺れ、いつの間に肌に沁みこんで消えた。琴子は無理に笑って見せた。冗談ばかりを口にしていた高校時代の印象にはまるで不似合いな表情だった。

 その笑顔を見て、彼女から弱い言葉を聞くのも、体を重ねるのもこれが最後なのだと思った。以来、たまにここを訪れてはどうでもいいことを話す。いつまで続くか分からないが、いまのところ友人と呼べる唯一の知り合いだ。

 琴子の視線が後へ動いた。忍はこちらの狎れた遣り取りに圧倒されているようだった。

「お嬢さんも、いらっしゃいませ。…あら」

「何よ」

「このまえ連れてきた娘と違うじゃない」

 いつもの癖で反射的に言い返してしまった。

「ここに誰かを連れてきたことなんて一度もないでしょうが!」

 そして言い返してから失敗に気付いた。躱してしまえばよかったのだ。背後をうかがうと、やはり手遅れだった。忍の頬は緩みはじめている。

「ということは、誰かをここに連れて来るの、私がはじめてなんですか」

「……多分ね。覚えてないわ」

「ここ、お気に入りなんですよね」

 二人を均等に睨みつける。

「それは、絶対に、違う」

 精一杯の皮肉にも店の主人は拳を噛むようにして笑うだけだ。

 わかっている。これは琴子らしい気遣いだ。すべては忍への優しさなのだ。しかしこんな単純な誘導に引っかかったのは不本意だ。口を開きかけた。しかしもはや打ち解けて笑いあう二人の姿に、言いたいことをすべて飲み込んで、奥のスツールに乱暴に座った。

「お客様、イスが壊れますわよ」

「うるさい」

 中指を立てる。それを笑って、忍は隣に優雅に腰をかける。

「ご注文はいかが致しますか」

「アルコール以外の飲み物と、つまみ以外の食べ物。なおかつ重くなくて体に良いもの。以上」

「恐れ入りますが当店はバーでございます」

「いちいちうるさい。朝食を食べにきたの。私たちは」

 カウンターの中で肩をすくめて忍にだけ笑いかけると、琴子はフライパンと水を入れた小鍋を火に掛けた。ベーコンを炒めながら野菜を刻み、食パンをトースターに放り込む。

 料理の手際はいい。それは認める。幼いころから楽器をやっていたために包丁を持たせてもらえなかったので、いまだに料理は苦手だ。だから自分にできないことを淡々とこなし、職業にしている彼女を密かに尊敬している。しかし口が裂けてもそれを口に出すことは絶対にない。

「ここにはよくいらっしゃるんですよね」

 答えようとすると、琴子が先回りした。

「そちらのお客様は週に二、三回、それも真夜中にいらっしゃってはコーヒーやお食事を注文なさいますの。当店はバーですのに。でも痩せっぽちでいらっしゃいますでしょう。だから私もついついメニューにない食べ物まで作って与えてしまうんですのよ」

 忍が吹き出した。

「人を野良猫扱いするな。それとその変な敬語もやめて。そして忍、あなた笑い過ぎよ」

「す、すいません。でも……」

 深い溜息をついたのと同時にトースターが鳴った。オニオンスープ、サラダとコーヒー、半熟のベーコンエッグが乗ったパン、ジャムの添えられたヨーグルト。できたての朝食が並んでいく。悔しいがおいしそうだ。

「はい、召し上がれ」

 笑いの発作から立ち直った忍と二人、いただきますと手を合わせた。文句なら山のようにあるが、まずは食べることに集中しよう。

「琴子さん、このスープ、すっごくおいしい」

「ありがとう。今度は夜にいらっしゃい。カクテル一杯サービスするわ」

「未成年に酒を勧めるな」

「自分が呑めないからって人の楽しみを奪うのは、いけないことだと思うわ」

「別に呑める人が羨ましいと思わないし、そもそも論点がずれてる。それになんで上から目線で諭すような口調なの。聞いて驚きなさい。この娘は私たちの後輩、ミカエルの生徒なのよ。学校にばれたら大変よ」

 忍はパンを咥えたまま目を見開いた。琴子がミカエラの卒業生であることが意外なのだろう。しかし琴子本人は意にも介さない。

「あら、そうなの。でも関係ないわ。真夜は十六になってすぐ、校則では禁止されてたバイクの免許を取ったでしょう。私だって高校生のころから父さんとこの辺りを呑み歩いていたもの。ねぇ?」

「そうですよ。関係ありませんよ。ねぇ?」

 すっかり意気投合したようだ。もう勝手にしてくれ。

 食事はほぼ同時に食べ終わり、今度はごちそう様と手を合わせた。それを見届けると琴子はコーヒーをポットごと目の前に置いた。そしてカウンターの向こうの端まで重そうなイスを引きずっていき、読みかけの文庫本へ目を落とした。

「ドアのプレートは外しておいたわ。もう他のお客様は入ってこない。それにこの本、ちょうど面白いところなの。あなたたちの話なんてまったく耳に入らないと思う」

 昔から口をひらけば戯れ言しか出てこないのに、この女は必要以上に空気に敏感なのだ。目だけでありがとうと言い、コーヒーのおかわりを二つのカップに注ぐ。

「兄の話、聞きたいんでしょう」

 だしぬけに尋ねると、カップに伸ばしかけていた手が止まった。

「いえ、もういいんです。朝食に誘う口実でしたから」

「そう。私はこれからを踏まえて、あなたには知っておいて欲しいんだけど」

 これから、という言葉に視線が揺れた。それを見てゆっくりとコーヒーを味わう。

「さっき、私は誰も愛したことがないって言ったわよね。でもそれは嘘。一人だけ例外がいる」

 あのころの記憶を反芻すると、いまだに空っぽの胸が揺れる。過去の話をまったく拒絶するなら無理に話すつもりもなかった。しかし忍は好奇心を示した。子ども扱いはもうやめると決めたのだ。

 どこからはじめようか。

 軽く目を瞑ると、舞い散る桜の風景が見えた。

「その人は、兄の婚約者だった」

 短い幻視から覚め、物語をはじめる。



 Session5


 いまから三十年以上も前の話だ。

 一人の青年が音大のギター科に入学した。明治の時代から続く代議士の家系、それも本家の長男でありながらそんな浮世離れした道に進むことが黙認されたのは、先代が思いのほかリベラルな性格だったのと、野心家の弟がいたおかげだろう。また一族の中でも、幼いころから生まれつきの変わり者と見なされていたのも幸いした。つまり誰が見ても権謀の世界には向かない天真爛漫な性格だったということだ。

 大学二年のある日、彼は同じ年頃の少女と知り合い、いつしか言葉を交わすようになった。彼女も都内の私大に通う学生だった。やはり音楽、特に歌が好きで、高じてジャズクラブのホールでアルバイトをしていると言う。

 その出会いの場所がどこだったのか。どちらから最初に声を掛けたのか。細かな状況は尋ねるたびに両方から違う答えが返ってくるので、いまとなっては正確なところはよく分からない。しかしいずれにせよ、二人は惹かれあい、恋に落ちたのだ。その恋は青年の転機となった。世界を飛び回って現場で仕事をする演奏家の生活に憧れがないわけではない。しかし彼は未来の構図を、着実に後進を育てる教育者の立場へとシフトした。

 進路を早々に設定し、在学中から目標に向かって足場を固めていった彼は、社会に出て音楽教師の職を得た。そして彼女が大学を卒業するのを待ってから指輪を持って迎えにいった。

 彼女の父はそれまで娘の交際相手の話題に耳を貸さなかったのだそうだ。しかし妻と娘に説得され、しぶしぶ両家の顔合わせに臨んだ。ところが料亭の一室で向かい合わせて座った青年の家族に見覚えがある。記憶をたどると国会中継で見た顔だった。そこではじめて青年の出自や家柄を知り、驚きのあまり卒倒しかけたという。ほかにも笑い話程度の月並みなトラブルをいくつか乗り越え、やがて二人は新たな家庭を築いた。その翌年、夏のさなかの明け方に産まれた長男は暁と名づけられた。それから十年後、冬の深夜に産声を上げた長女は真夜と名づけられる。

 どこにでも転がっている男女の出会いから結婚までの話。二人の他人が家族になり、新しい命を育んでいく物語。しかし自分に置きかえると、いまの年齢ですでに二人は家庭を築き、長男を育てていたことになる。不実な自らの生活を恥じるしかない。

 いつだったか母は照れながら、それでも嬉しそうに話してくれた。学生のころ、お小遣い稼ぎに二人でクラブのステージに立っていたのよ、と。ただの学生二人が立つ舞台だ。そのステージは小さくて、決して立派ではなかったはずだ。しかしスポットの中でタック&パティのように寄り添って音楽を綴る二人が目に浮かんだ。両親にも若い時代があったのだという不思議。そして受け継がれる血の濃さを思った。

 そして父はいまも都内の私立高校で教鞭をとっている。そんな環境に生まれた子供がウクレレやミニギターを玩具にして育つのは自然なことだった。物心がつく頃には、音楽の初期教育を受けるようになっていた。まだ指板を押さえることはできないから、父の膝の上で右手で弦を弾くのだ。不思議とそのレッスンをつまらなく思わなかった。音楽教師という職業は父にとって天職なのだろう。ポイントを押さえた教え方は、子供に音楽の楽しさを教えるのに充分だった。昨日できなかった事が今日にはできるようになる感覚は、子供心に快感だったのだ。いい弾き方をしたときは、いい音が返ってくる。そのわかりやすいレスポンスにのめり込んでいった。

 その点、兄はどうだったのだろうと、このごろよく考える。音楽を愛していたのだろうか、と。

 向上心の強さから、きっと夢中になっていたに違いない。しかしいつの間にか兄は音楽をやめていた。兄がギターを構えている姿はほとんど記憶に残っていない。ただ父を正面に二人並び、楽器を構えている写真が一枚だけ残っている。おそらく兄が小学校の高学年のころだろう。それは彼が空手をはじめた時期と一致する。

 父は紛争のニュースに涙ぐみ、プロレスやボクシングがはじまればチャンネルを変えるような人だ。息子が音楽をやめて武道をはじめたいと言いだしたとき、何を思ったのだろう。決して賛成はしなかったはずだ。しかし息子の幼いながらも強い意思を止めることのできない理由があった。残された妹がそれを知るのはずっと先、すべてが終息したあとのことになる。

結局、父と二人だけのレッスンは小学校を卒業するまで続いた。ある日、ぽつりと「もうおまえに教えること、ないな」と父は呟いた。そのときは深く考えもしなかったが、あとから思えば、嬉しいような、寂しいような顔をしていた気もする。このころすでに教師仲間や音大時代の関係を頼りに、あらためて先生を探してくれていたのだろう。そうして生涯の恩師となる霧島康彦先生と巡り合い、入門することになる。

 初回のレッスンは中学校への入学を控えた春休みの午後だった。自宅からいくつか離れた駅で降り、夕暮れの中、父の手書きの地図をたよりに見慣れない道を進んで行く。ところがその辺りは似たような形の家が並ぶ住宅地で、すぐに道に迷ってしまった。両脇にそびえる塀が迷路の壁に思えた。心細さにギターのハードケースがいつもより重く感じた。

 途方にくれて電話ボックスの前に座り込んでいたときだった。耳が音の切れ端を拾った。

 どこからか風に乗って届いたそれは音楽ですらなく、遠くから幽かに聞こえるただの音の破片だった。なのに首筋に鳥肌が立った。心へ直に触れたのだ。

耳を澄ます。

 目を閉じて集中すると、少しだけ輪郭がはっきりした。頭の中に蓄積された演奏家の音と照合した。どれも違う。聴いたことのないタッチだ。間違いない。これはオーディオで再生された音じゃない。いつも耳の奥で勝手に鳴っている音楽とも違う。いまこの近所のどこかで、現実に誰かがナイロンの弦を爪弾いている音だ。

 立ち上がった。

 焦るな、まだ大丈夫、と自分に言い聞かせてゆっくり進んでいく。曲がり角まで行き、方向を定めてまた歩く。そうするうちに切れ切れだった音は、一つの滑らかな美しいメロディになっていた。

 駆け出していた。我慢ができなくなった。ただその音楽に近づきたいというだけの理由で走った。入り組んだ路地をいくつか抜ける。すると目の前が急に開けた。たどり着いたのは広い敷地の一戸建てだった。ここだ、音の源流は。

 垣根をぐるりと正面へ回る。門の格子から中を伺うと、庭の桜の下にイスと譜面台を持ち出し、ギターを弾く女性の背中が見えた。

すべてを茜色に染める夕暮れの陽射しに、霞のような桜が異様だった。風が吹くたびに、はらはらと舞い散る花びら。そして木から降る淡雪と同じく、腰まである髪も風に揺れる。

 忘れない。

 現実離れしたその光景を。物語のような一瞬を。力強く響くテデスコのソナタを。

 楽々と奏でられているわけではないのは未熟な耳でもわかった。そもそもいま見ているのはステージではない。本来、誰の目にも触れるべきではない水面下の世界だ。これは演奏者がもっとも見られるのを嫌う試行錯誤の現場だ。子供でも、それくらいの常識はある。他人の心の中を覗き見している後ろめたさも、確かに感じた。しかしそれでも目も耳も離せない。動くこともできない。

 演奏者の意思が、十二歳の少女を釘付けにした。

 桜の下で女性は、作曲者と楽曲への敬意を持ちつつ、この難曲を組み伏せようと格闘していた。正当な対価を支払い、欲しいものを手に入れようとする姿は美しいことを知った。そう、彼女は自分も血を流すことを厭わず、戦っているように見えたのだ。

 何年かかってもいい。同じようにこの曲を弾けるようになりたい。

 心の底からそう思った。

 息をすることも忘れ、眩暈を覚えた。ふらついた足の下には枯れ枝があった。靴の下で渇いた小さな音をたてて、それは折れた。女性の指が止まった。世界から音楽が消えた。泣きたくなった。目の前にあった奇跡の世界を、自分の手で壊してしまったのだ。

 女性が振り向いた。その横顔に驚いた。遠目にもまだ「お姉さん」としか言いようがない。演奏から想像していたよりずっと若かった。続けて身を硬くした。怒られると思った。しかしその女性の目は意外にも穏やかだった。彼女はそのまま立ち上がり、気持ちよさそうに背伸びをした。そして譜面台に引っ掛けてあった腕時計を取り、春の夕陽に目を細めた。終わろうとする一日を慈しむ表情が、幼い胸を撃ち抜いた。

「新しい生徒さんね。父から聞いてるわ」

 門扉を挟んで向かいに立つと、女性は言った。

「え?」

 表札を見た。石材には確かに「霧島」と刻んである。

 そうだ。道に迷っていたのだった。そういえば前もって父が、先生には音大に通う優秀な娘さんがいらっしゃると言っていたっけ。このときになってようやく、それとこれとが結びついた。

「はじめまして。私は霧島京香。あなたのお名前は」

 目の高さを合わせようと少し屈んでくれた。

「京香さん……。あ、小西です。小西真夜といいます」

 間近に迫る顔立ちに見惚れて返事が遅れた。頬が熱くなった。夕陽の中にいたのは幸いだった。

「そう、まやちゃんって言うの。どんな字を書くの」

「真実の『真』に、昼と夜の『夜』です」

「すてき。ロマンチックな名前」

 照れくさかった。生まれたときからずっと付き合ってきた名前だ。良し悪しなんて考えたこともない。ただの記号くらいにしか意識していなかった漢字の連なりに、息を吹き込まれたように感じた。

「さぁ入って」

「あ、待ってください」

 ほとんど無意識で、門扉越しに手を伸ばしかけた。

「どうしたの」

 まだ会ったばかりの人間の急な動作を避けようともせず、彼女は門に手をかけたまま姿勢を止めた。見つめ合った。純粋な好奇心だけを浮かべる目にためらいを捨て、中途半端に中空で止めていた指先を再び京香さんへと伸ばす。

「いや、これが髪に」

 一枚の花びらをつまんで差し出した。それを見ると無邪気に微笑んだ。手首を軽く掴まれた。そのまま唇が花びらへと近づく。指先に唇が触れた。柔らかかった。喉の奥から訳のわからない呻き声が漏れそうになった。けれどなぜかそれは誰にも知られてはならないことのような気がして、歯を食いしばって必死に飲み込んだ。

「春の味ね」

 人の気も知らず、屈託なく笑っている。

 こっちはのぼせて気絶しそうだったというのに。まともに顔を見ることもできず、心臓は爆発しそうだった。

「おなかを、壊しますよ」

 顔を伏せてそれだけ言うのが精一杯だった。

 これが出会いだ。桜の下でギターを構える姿を見たその瞬間に、たぶん恋に落ちていた。そう恋とは落ちるものだ。比喩ではなく階段を踏み外すように、何の前触れもなく、突然。

 それまで学校の男子やテレビに映るアイドルにも、こんな気持ちを覚えたことはなかった。修学旅行の夜に小さな恋の話で盛り上がる同室のクラスメイトたちも遠くに感じていた。そんな奥手な少女でも、京香さんを思うたびに暴力的に揺れる甘い感情を恋と呼ぶことに躊躇いはなかった。

 正直なところ、はじめのうちは振幅を繰り返す心をもてあました。初恋の相手が女性であることへの戸惑いもあった。しかしその揺らぎが理性では飼い慣らせないことがわかると、やがて諦めた。仕方がないじゃないか。相手はあの京香さんなのだから。

 マイノリティに属する愛の形を背負ったことで、未来に少しだけ不安を覚えはした。しかしそれ以上に、冷静だった。想いを閉じ込めて自分に嘘をつくことも、甘い揺らぎを否定することも、できなかった。本能は切なく叫んでいるのだ。柔らかな唇にもう一度触れたいと、硬くなった左手の指先で肌に触れて欲しいと。初恋がプラトニックなのは物語の中だけだと知った。際限なく広がる想いは肉欲を伴った信仰だ。

 誰にも知られてはならないという抑制、同時に心のダムが決壊する日がいずれ訪れるという確信。矛盾する感情を音楽に変換していく作業は孤独であるというただ一点で、祈りに似ていた。それまで短く揃えてきた髪を伸ばしはじめたのも、この頃からだ。

 当初、月に二回だったレッスンは、先生の勧めでやがて週一回となり、最終的に週二回に落ち着いた。それまで父に基礎は叩き込まれていたにしろ、そこから先の上達の勢いは他の生徒たちにくらべて異常だったという自負がある。限界まで集中力を働かせて、貪欲にすべてを吸収しようとした。

 先生が導いてくれる先には、あの人がいる。高みから見える世界は何色なのだろう。肩を並べられるとは思わない。せめてその世界を垣間見ることさえできればと願った。

 それにしても先生は、不純な動機で音楽に取り組む不肖の弟子をよく可愛がってくださった。レッスンの回数が増えれば、京香さんと会える確立も上がる。それは厳しいレッスンについてくるささやかな楽しみだった。先生の前でギターを弾いている最中でさえ、思い描いていたのはコンクールの審査員や、ホールを埋める観客ではなかった。ただ一人、二階にいるはずのあの人に届けと音楽を紡いだ。

 自分の喜びのためだけに、文字通り寝食を忘れてギターを抱きしめることのできた日々。無知であるがゆえに幸せに過ごせた、ごく短い音楽との蜜月。幸いにも我が家は中学生の一人娘のそんな生活が許される環境だった。成績に口を出す両親でもなく、そもそも義務教育の範囲の勉強なら、授業さえしっかり聞いていれば何とかなった。それに多少、度を越えていたとしても、一つの物事に打ち込む子供の目の輝きを眩しく思わない親はいない。

 しかし家族の柔らかな眼差しの中で、兄の笑顔の裏にあった陰りに気付かなかったのは幼さゆえだろうか。京香さんと同じ地平に立ちたいと、ただ上ばかりを見ていたことで、自分の肩の高さが見えなくなっていたのだ。優しい人々にただ甘えるだけの生き方は、いまも昔も変わっていない。

 入門して間もないある日、レッスンを終えて廊下に出たところに、京香さんが立っていた。

「やっぱり真夜ちゃんだったんだ。上で聴いててもわかっちゃった」

 ショックだった。

「そんなに下手ですか、私」

 一瞬、顔に疑問符を浮かべ、次に京香さんは笑い出した。

「あなた面白いね。違う、逆よ。それだったらわざわざ言いに来ないって。お父さんだって誉めてるんだから」

「またまた、そんな。恥ずかしいです」

 収縮が一気に緩んだ。そして次に心臓が脈打ち、頬が熱くなった。もじもじと身をよじる姿を嬉しそうに見つめる二つの目から、少なくともいま、この人に嫌われてはいないのだと思った。 

 それをきっかけに言葉を交わすようになった。最初は音楽のことだけだった話題が次第に広がっていった。国語の教科書について話しているうちに好きな作家まで話がおよび、文庫本を借りたこともある。家庭科が不得意だと言えば、京香さんもいまだに料理が苦手だと一緒に笑ってくれた。お気に入りのカフェの店員さんが素敵だと聞いて、胸を痛めたりもした。

 ときに京香さんに似つかわしく、ときに意外な印象を受けたその一つ一つが宝物になった。言葉を交わすたび、少しずつ距離は近づいていく。しかしその限界を思うと胸はふさぐのだ。

 これ以上、もう近づけないという距離にまできたとき、諦めることができるだろうか。そこにはきっとガラスよりも透明で、鋼よりも強固な運命の壁が立っている。向こうへいってしまう京香さんを、血を流す心を隠して、壁を隔てて笑顔で送ることができるだろうか。それは哀しい確信だった。近づく心の距離は、その先にある別れも同時に予感させることを知った。

 はじめて部屋に招待されたのはそれから二ヶ月ほどたった雨の日だった。足を踏み入れて最初に見えたのは、窓の向こうのあの桜の木だ。梅雨に濡れた葉桜はいまは鮮やかに緑に萌えていた。

 お茶の用意に一階へ行った京香さんを待つ間、失礼にならない程度に部屋を眺めた。白い壁にぽつんと一枚、ポストカードがピンで留めてあった。ゴッホの糸杉だ。机の上は楽譜やCDが山になっていたが、それ以外はきれいに片付いていた。いや、散らかるほど物がないと言った方が正しいかもしれない。十畳ほどの空間に机とイスのほかには、シンプルなベッドとクローゼット、それと小さなオーディオと書棚があるだけだ。書棚には見覚えのある芥川や川端、三島の文庫が並んでいる。

 部屋を一周して、ベッドに腰を下ろした。生活感のない部屋に安らぎを覚えていた。ぬいぐるみも、鉢植も、漫画の一冊もない。本人がいなければ住む者の性別さえ分からないようなその場所は、自分の部屋によく似ていた。

 あのときはそれが嬉しかった。しかしいくつもの女たちの部屋を見てきたいま、娘らしさのかけらもないあの空間は、やはり空虚だったと思う。音楽以外に何もない、寂しい女の部屋だったと。

 そのまま目を閉じた。遠くを行く電車の音が聞こえた。穏やかに降る雨粒が、桜の葉を叩く音が聞こえた。そして近づいてくる足音が聞こえた。それは階段を踏み、部屋の前で止まった。タイミングを読んでこちらからドアを開けると、廊下には驚いた顔の京香さんがお盆を持って立っていた。

「息、ぴったりじゃない、わたしたち」

 京香さんはにやりと笑う。

「もちろんです」

 負けずに微笑みを返した。

 紅茶をいただきながらの雑談のあと、自然な流れでギターを構えることになった。憧れの人の個人講義だ。拒む理由はない。楽器を抱いてベッドの端に腰掛ける。なぜか京香さんも合わせて立ち上がった。向かい合わせでギターを持つのかと思った。が、違った。それが当然であるように、すぐ後に京香さんが座ったのだ。心の準備をする暇もなかった。背中に胸が押し付けられ、抱きしめるように手が添えられる。ネックを握る左手に重ねられた掌の温度を一生忘れない。

「はい、手首曲げちゃダメ。こんなに力んでたら腱鞘炎になっちゃうよ。そうそう、力を抜いてね」

耳元で吐息まじりに囁かれる言葉が首筋を愛撫する。誰のせいでこんなに体をがちがちにしていると思っているのだろう。予想外の展開があまりに甘美で、どうにかなってしまいそうだった。高鳴る鼓動を悟られるのが怖かった。同時に、いまという時間がいつまでも続けばいいと思った。だがそれは叶えられない願いだ。幼いなりの激しい情動に心が食い破られそうだった。

「ところで京香さん、ゴッホ、好きなんですか」

 壁のポストカードを見つめて言った。

 声が上ずっていたかもしれない。集中しなさい、と軽く叱られておしまいのはずだった。情けなく笑って謝る自分の姿までイメージしていた。そうすることで乱れた感情をリセットするつもりだったのだ。

「好きか嫌いかって聞かれると、好きじゃないんだ」

 右肩に優しい重みを感じた。京香さんが顎の先を乗せたのだった。

「でもゴッホの目に世界がどんなふうに見えたのか、すごく興味がある」

 思わず首を巡らせた。張りつめた横顔が間近にあった。

「世の中があんなふうに鮮やかな黄色に見えたなら、確かに絵筆を取らずにはいられないよね。でもそれは、幸せなことなのかな」

 気負いのない口調だった。しかしその淡々とした言葉から、この人は孤独なのだと思った。自分の耳を切り落とし、失意のまま死んだ画家に自分を重ね合わせずにはいられないほどに。

 個性がもたらす優越感が、多数決の社会から突きつけられる疎外感の前でどれほど無力かという事くらい知っている。才能なんて大勢の人々の前では魔女の証明でしかない。

視線に気付いた京香さんは頬の辺りから緊張を消した。

「ごめんね。変なこと言って」

 無理な笑顔が刺さった。心の奥底を思わず見せてしまったのを恥じているようだった。何ができるわけでもないのに、年下であることも忘れて、この人の力になりたいと思った。心臓の辺りが軋んだ。普段は閉ざしている胸の蓋に内側から亀裂が入る。

「京香さん」

 口が勝手に名を呼んでいた。

「なに?」

 恋に目を潤ませた少女にも、京香さんはあくまで優しい。

 すべて分かっているのに知らない振りをしているの?  

 そう考える間にも感情はうねり、亀裂を押し広げる。体と心の中で渦巻く言葉を、理性は必死で止めようとしていた。が、出口を求めて沸騰する想いを抑えることは、もうできなかった。

「ずっと、お姉ちゃんが欲しかったんです」

 情けないが、それは精一杯の告白だった。後も先も、その瞬間は考えなかった。

 マイノリティの恋、押し付けることはできない。でも伝えたい。最後には冗談にして笑い飛ばす以外、何もできなくなるのだとしても。

 しかし真意を真綿にくるんだ言葉に、京香さんは動きを止めた。すべてが伝わってしまったことを悟った。

 時間が止まった。

 雨の音しか聞こえない。

 どうしよう、嫌われたくない。気持ち悪いと思われたくない。避けられたくない。

 まだ間に合う、早くおどけてしまえ。冗談にして、何もなかったことにしてしまうんだ。早く、早く。

 けれど結局、大切な初恋を笑い飛ばすことなんて、できなかった。どうしていいか分からず、どうすることもできず、ただ途方に暮れた。胸の奥で飼い殺したままでも、その想いを伝えたとしても、次に待つのが後悔の苦しみだけなら恋とは罪であり、同時に罰なのだ。少なくとも異形の愛を背負う者には、きっと。

 消えてなくなってしまいたい――。

 唇を噛んだ。肩が震えた。でもいまは絶対に泣いてはだめ。

 永遠のような一瞬のあと、不意に抱きしめられた。背中と胸が、ぎゅっときつく重なった。震える肩が包まれた。そして耳元で囁かれたのは魔法の呪文だった。

「わたしも妹が欲しかったんだ」

 何が起こったのかわからなかった。言葉の意味を理解するまで、しばらく時間が掛かった。

 互いの心臓の音が、胸と背中の肌を隔てて重なっていく。ばらばらだった二つの鼓動はやがて溶けあい、ユニゾンになった。たった二つのリズムだけからなる天上の旋律だ。

 ああ、これさえあれば他にどんな音楽もいらない。

 ひとときの激情と後悔と自己嫌悪が溶けて混ざり合う。その末に出来上がったのは、名づけようもない熱いだけの感情だ。そしてそれは背筋をせり上がり、目の奥で爆ぜた。歯を食いしばった。それでも堪えきれず、抱きしめていたギターには雫が落ちた。

 嬉しいときにも人は泣くのだ。知らなかった。なんだか恥ずかしくて、下を向くことしかできなかった。

「変な娘ねぇ」

 強化さんの左手が目の下を拭う。硬く温かな指先。知っている。悩みながらでも毎日、音楽と向き合い、弦を押さえ続けることでしかこの指先はできあがらないことを。

「楽器に湿気は禁物だよ」

 うまくいかなかったが、精一杯に笑って頷いた。

「はい」

 幸せだった。幸せの頂点にいるいまならば、閉じた目蓋の向こう側で世界が滅びても構わないと思った。

 成長期のこの頃の猛練習のせいで、いま左右の指は長さが違う。左の指のほうが長いのだ。そしていつからか無意識に、両手を同時に視界へ入れないようにしている自分がいる。しかし例えば顔を洗っているとき、否応なく一組の掌が目の前に揃う。不揃いな両手を見比べるたびに十二歳の記憶が溢れ、心を掻き乱す。

 顎から水を滴らせ、自分と同じ顔をした何者かが洗面所の鏡の中で笑う。

 そのつもりはなくても、あの頃のおまえは満たされていたのだと。それに飽き足らず多くを望みすぎたがゆえに、すべてを失ってしまったのだと。

 違う、違う。

 乱れる呼吸、不規則に脈打つ心臓。いっそのこと両方、いますぐ止まってしまえばいい。

 濡れたいびつな両手を拭うこともできずに洗面所でうずくまり、剥き出しの心とひりひりする孤独感を抱きしめているときだけは、人でなしが人間の心を取り戻す。

 不意に訪れる感傷が何よりも怖い。それは痛むはずのない失くした心に幻肢痛をもたらし、幸せだった時間をフラッシュバックさせる残酷なタイムマシンなのだから。


 身長が伸び始めたのは中学一年の夏休みの頃からだ。縦に伸び、また丸みを帯びていく自分の体は新鮮だった。京香さんが成長のスイッチを押したのかもしれない。どんどん兄の背に近づいていく娘を、両親は目を丸くして優しく見守ってくれていた。

 兄はその年の春に国家公務員一種の試験に合格し、旧建設省に入省していた。いわゆるキャリア官僚の卵だ。父の血筋が隔世で発現したのだろう。あるいは暇さえあれば遊びにくる例の叔父の影響もあったに違いない。

 美しい外見と高い知性、穏やかでありながら大会に出るごとにトロフィーを勝ち取ってきた空手の実力。緋色のカワサキを軽やかに操る姿は近所でも評判だった。文武両道を地でいく、強くて優しい自慢の兄だった。

 十歳の隔たりのせいか、けんかをした記憶もない。父や母に叱られて泣いていたときも頭を撫でてくれ、決まってタイミングを見て一緒に謝ってくれた。社会に出てからときおり漂わせるようになった煙草の匂いさえも、兄から香るそれだけは何となく許容することができたほどだ。いつも味方になってくれるという確信があったから、どんなことでも相談できた。

思春期の少女と実の兄のこの関係性は、いま考えると異常だ。しかし親ほど頭ごなしに物を言うこともなく、同年代の友人ほど無責任でもなく、事あるごとに冷静で的確な答えを鮮やかなスピードで導き出す兄は、できの悪い妹にとってはヒーローそのものだった。

 しかし京香さんのことだけは話せなかった。

 個人的な感情はもちろん、雑談の中でも彼女の話題を持ち出したことは一度もない。そんなことをすれば二つの聡明な眼差しに射竦められ、たちまち心の奥底まで読み取られてしまうように思われた。そしてどこかで、哀しい未来を予感していたのかもしれない。

 あの二人は、本来は交わるはずのない二本の平行線だった。しかし現実には交差し、無理をして重なろうとさえした。その接点になったのは、他の誰でもない。それから先は縺れていく一方の縁の糸を、なす術もなく眺める他なかった。自分の無力を、運命を呪った。あのころはまだ神の不在さえ気付いていなかった。

 東京都が主催するジュニアコンクールに出場したのは、中学二年の秋だった。家を出るときに見あげた空がいまにも泣き出しそうだったのを覚えている。表彰式を終えると楽屋で急いで着替え、結果に泣いたり笑ったりしている出場者を横目に廊下を急いだ。

 金賞の賞状と楯、そして記念品の分だけ来たときより荷物が重くなっていた。その他にギターケースと衣装の入った鞄を抱え、ロビーを覗いた。いつもなら両親が座っているベンチには兄がいた。それまでコンクールには両親が欠かさず来てくれた。しかしこの日に限って親戚の慶事が重なったため、それなら俺が、と兄が気まぐれを起こしたのだ。

 廊下を走って来た気配を消そうと、階段の陰で息を整えてからベンチへ向かう。

「おまたせ」

 兄は新聞を下ろした。白地に薄いピンクのストライプのワイシャツと、チャコールグレーのジャケットがよく似合っていた。ジュニアとはいえクラシックのコンクールなのだ。演奏者への敬意をジャケットから感じ、嬉しく思った。

「まずはおめでとう、だな」

立ち上がる姿を見上げた。

「ありがと。でもこれくらいは軽いよ」

「兄としては調子に乗るなって言っておくところだけど、今日の出場者の中じゃ確かにおまえがずば抜けてたよ」 

周りを見つつ後半は声を落として言うと、久しぶりに頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。

「それにしてもおまえ、どんどん背が伸びてるな。そのうち肩を組めるようになりそうだ」

「肩を『抱く』の間違いでしょ。女の子に向かって」

「妹の肩を抱いてどうするんだよ。さあバカなこと言ってないで駐車場に行くぞ。優しいお兄様がお祝いに晩飯を奢ってやる」

「やった。私、イタリアンがいい」

「生意気言うな。牛丼で充分だろ」

「何だとぅ」

 兄は重い荷物を自然な仕草で受け取って先に歩き出した。少し遅れてついて行く。

「ねぇ」

「どうした」

「もうバイクには乗らないの」

 答えるまでに少し間があった。

「学生の頃はバイクで身軽に動けたけどね。社会人になってみると車のほうが便利な場合が多い。でも、どうしてだ」

「いや、前は楽しそうに乗り回してたのに、最近は車ばっかりだなって思って」

急に足を止めた。

「そうだ。あれ、おまえにやるよ」

「何で急にそうなるの。私、まだ十四歳だし、一応、演奏家なんだから」

「バイクの免許は十六歳から取れる。あと二年じゃないか。それに転ばなければ怪我もしない。おまえ、運動神経いいから大丈夫だろ」

 兄らしい物言いだと思った。

「お似合いだ。あのマシン、あだ名は……」

「真夜ちゃん」

 兄の言葉の途中、背中から掛けられた声に振り返った。小走りに駆け寄ってくる美しい人。ダークブルーのワンピースで、いつもよりずいぶん大人に見えた。

「来てくださったんですか」

「素敵だった。おめでとう。わたしも鼻が高いわ」

京香さんの視線が頭の上あたりへ動いた。そういえば兄と京香さんは初対面だ。

「紹介します、兄です。こちらは先生の娘さん。京香さんよ」

 反応がない。慌てて手探りで兄のジャケットの裾を引っ張る。それでも黙っているので、睨みつけてやろうと首を回した。しかしそれはできなかった。見上げた先にあったのは揺れる瞳だ。動揺する兄の姿を、生まれてはじめて見た。

「あぁ、失礼。小西暁といいます。妹がいつもお世話になっております」

「こちらこそ。お話はよく伺っています」

「僕の悪口ばかりを、言っているのではありませんか」

 伏目がちに言葉を選ぶ京香さんの頬も染まっていた。

「いえ。素敵なお兄様だと」

 頬がぎこちない笑顔の形に凍り付いていく。そして胸の中も、会わせてはいけない二人を会わせてしまったのだと冷たく震えた。そのあと、どうやって京香さんと別れたのか、まったく思い出せない。

 その日の記憶は、いきなりディナーの席に飛ぶ。気が付けば兄と差し向かいでパスタを口に運んでいたというわけだ。少なくとも表面上、普段と変わらないように見えた。しかし兄はいつも感情をコントロールしている。心を読ませたりはしない。乱れる自分の感情と、うかがい知れない兄の胸のうち、そんなうわのそらの食事に味があるわけもない。もてあます豪華な料理を紙をかじる思いで食べ、家に帰りついたとたんにベッドにもぐりこんだ。

目を閉じれば、ホールのロビーで見つめあう二人が浮かんだ。

 はじめて向き合う人間が同時に恋に落ちる瞬間に立ちあってしまった。そしてその両方とも大事な人なのだ。互いだけを映す二組の瞳は、その真ん中に立つ少女のことなどは見えてはいなかった。人生最悪の瞬間だった。

 熱くなったり、冷たくなったりを繰り返す胸に、とにかく落ち着けと言い聞かせた。冷静に考えれば最良の組み合わせじゃないか。兄ならばきっと、京香さんを幸せにできる。しかしそれでもなお心は理屈を拒み、血を流す。

 この夜だけは自分の体を呪った。

 ここが限界なのか。これ以上、京香さんの心と体を欲することは悪あがきに過ぎないのか。せめて男なら、年の差があったとしても、未来に夢を賭けることができるのに。女の体では愛しい人を抱きしめることさえ叶わない。そして誰より大切な二人の幸せな未来を願うことのできない自分は何者なのだ。

 浅い眠りに落ちては悪夢に目覚め、うつらうつらとしたまま朝を迎えた。次の晩も、また次の晩もそれは続いた。連続する悪夢から、やがて眠ること自体に不安を覚えるようになった。いまに続く慢性的な不眠のはじまりだった。


 幼い頃に音楽を捨てた兄と、大学生ながら日本のクラシックギターの世界ですでに脚光を浴びはじめていた京香さん。

 共通の話題などありそうもない二人の間にどのような遣りとりがあったのか、いまとなってはわからない。しかし知らないところで一緒に過ごし、柔らかな時間を少しずつ重ねていったのだろう。そして予感どおり互いに惹かれあったのだ。

 二人は交際を周りに隠していたわけでも、あからさまにしていたわけでもない。が、見たことのないネクタイが兄の胸元を飾るたびに、そしてどんどん綺麗になっていく京香さんを見るたびに、近づいていく二人の距離を思わずにはいられなかった。

 硬く引き締まった兄の胸や背に、京香さんの指先はもう直接、触れたのだろうか――。

 何も知らないくせに、そんな淫らなことばかりを思う自分がひたすら汚らしく感じた。

 そのころ一度だけ、幸せそうに寄り添い歩く二人を街で見かけた。目が合う前に自分から路地裏に飛び込んでいた。並んだ二人の姿が辛かったのではない。京香さんの顔に浮かぶ、いままで見せてくれたことのない輝きがショックだったのだ。ゴミの散乱するビルの谷間で一人、屈みこんだ。胃の痙攣が止まらない。こらえ切れず、孤独に吐いた。胃液を、自尊心を、暴れる魂を、あらゆる感情を。しかしどんなにもがいても焼きつく想いだけは頑なに胸の奥に居すわり、外に出て行こうとはしない。

 吐き気がおさまると、力尽きて湿ったアスファルトに座り込んだ。壁に背を預けると、自然と視線は上に向いた。ビルに切り取られた青い空が広がっていた。

 なんで兄貴なの。なんで京香さんなの。

 問いかけには誰も答えてくれない。薄暗い街の隙間で、ぽろぽろと泣いた。

 それからも二人の前では何も気付いていない振りをして、剥き出しの心は楽器に叩きつけた。気が狂いそうだった。皮肉なことに演奏の評価はどんどん上がっていった。

 先生の言葉を借りると、音に艶と陰が出てきたのだそうだ。つまりは音楽という貪欲な植物が、嫉妬や哀しみさえも吸い上げて黒い花を咲かせたということだ。暗い感情さえ表現の糧にしてしまう自分を軽蔑し、さらにまたギターを抱いた。演奏者と同じように、音もまた血を流していたのだろう。当時の音を、いまでは絶対に出すことはできない。血を流しつくし、心も死んだ人間にもはや音楽家を名乗る資格はない。

 先生に勧められるままにコンクールのランクも上げていった。東京学生コンクールに出場したのは中学三年の秋だ。他の出場者は音大の特待生レベルばかりだそうだ。

 しかしそんなことはどうでもいい。当時、音楽は表現の手段ではなく、ただ一つ残された京香さんとの絆そのものだった。だからこそ会場へ向かう道のりは、いつにもまして憂鬱だった。セダンのリアシートで、小さな胸は乱れる心をもてあましていた。窓の外を流れていく色づいた街路樹を眺めても溜息が出るばかりだ。

「どうした。気分でも悪いのか」

 ハンドルを握る父に、笑顔を作って見せた。

「大丈夫、ちょっと緊張しているだけ」

「珍しいな。まぁ先生の娘さんも出場するんだから無理もないか。はじめての同門対決だもんな。まぁ、胸を借りて来い」

 のしかかる言葉を受け流した。

「やめてよ、時代劇の果し合いじゃないんだから。それより今日、兄貴は来るのかな」

「休日出勤だって。あとから顔を出すそうだ」

 ステージには京香さん、客席には兄か。世界から自分の居場所がすべて失われた気分だ。

「ほら、着いたぞ」

 無理に気持ちを切り替えて車を降りる。ここからはいつだって一人だ。

「よし、行っておいで」

「うん」

 ギターケースと鞄を手に、ホールの通用口へ向かう。

「真夜、」

 呼びかけに振り向くと、父は笑っていた。生まれたときからずっと見守ってくれる目。息子に、そして娘に受け継がれている眼差し。並んで立てば、誰が見ても親子と分かるはずだ。

「悩むのは、いつでもできるさ」

 限りなく善良な解釈から生まれた的外れなアドバイスで、意外にも肩から力が抜けた。感謝を込めた右手を振って答え、再び背を向ける。そして会場の通用門へ歩き出す。

幕が上がった。名を呼ばれ壇上に立ち、ギターを構える。そして控え室に戻る。いつだってステージの一日は、このサイクルであっという間に過ぎていく。いつもの通りどうということのないコンクールだった。

 順位のアナウンスは聞き流していた。金賞は京香さんが射止めた。それだけは聞こえた。それ以外の出演者の順位にはなんの興味もない。そして全体の出場者のレベルから、自分には関係のないものと意識を閉ざしていた。

 それにしてもいつにもまして講評が長い。会場のどよめきが気に障る。さっさと終わればいいのにと顔を上げると、順位表が視界に入った。銀賞の欄に、自分の名があった。何度か目をこすったが、間違いない。審査員の一人が、金賞との差は非常に僅差だったと言ったのが聞こえた。訳がわからなかった。だから表彰式から、逃げ出した。

 繰り返し呼びかける館内放送を無視して、衣装のまま廊下を駆ける。めちゃくちゃに走ったせいで、建物の中の自分のいる位置がわからなくなった。それでも足は止まらない。考えなしに行き止まりのドアを押し開けると、突然、目の前に螺旋階段と暮れていく街が広がった。秋の風に頬を撫でられた途端に、涙が溢れた。冷たい非常階段に座り込んだ。膝を抱えて、泣いた。

 切望していた地平に知らぬ間に指が掛かっていたことを知ったのだ。しかし純情な信仰はその現実を拒んだ。幼い恋は潔癖であるがゆえに事実をすり替えようとした。

 そう簡単に手が届くはずがない。京香さんはもっと上の世界にいなくてはならない人だ。これは裏切りだ。自分に実力がついたのではなく、彼女が堕落したのだと。

 偶像は地に落ちた。しかしこの期に及んで踏み絵に足を乗せることもできない哀れな異端者がここにいる。

「風邪、ひいちゃうよ」

 やっと涙が止まった頃、背中からカーディガンが掛けられた。声だけで誰か分かる。ところが泣き腫らした顔を向けることもできず、下を向いたまま答えた。

「大丈夫です。寒くなんかありません」

「そう。それならいいけど」

 掠れているはずの声には何も触れず、黙って隣に座った。正直な心臓はそれだけで鼓動を早めた。盗み見ると京香さんも衣装のままだ。あちこち走り回ったらしく頬は上気していた。放っておいて欲しいと思う反面、申し訳なくも思った。再び自分の爪先を見た。二人きりの時間は久しぶりなのに、言いたい事はいくつもあるのに、胸の中で想いは空回りするばかりだ。やはり信仰を捨てることなどできそうもない。

「うまくなったね」

 不自然なほど間をおいて京香さんはぽつりと呟いた。

「来年、一緒に出たら、金賞をとるのは真夜ちゃんだと思う」

 耳を塞いでしまいたかった。お願いだからもうこれ以上、おりてこないで。

「まぁ、わたしは三月で大学を卒業しちゃうから、来年は学生コンクールには出られないんだけどね」

 冗談のような口調が許せなかった。

「やめてください」

 思いがけない大きな声に自分でも驚いた。しかしそんなことに構っていられない。睨むように京香さんを見つめた。そのときはじめて美しい顔に複雑な陰影が浮かんでいることに気付いた。

「あなたがどんなことを考えているか、わかるわ」

 眩しいものでも見るように、きゅっと目が細められた。

「悔しくないわけ、ないでしょう。いままであなたが気付いてなかっただけなのよ。全力で走るわたしのすぐ後ろまで、真夜ちゃんは来てるの」

 はじめて見る顔、悲哀に満ちた表情は笑顔に似ていた。

「あなたのこと嫌いになれたらいいのにって思ったこともあるわ。でもね、そんなこと、できなかった。わたしは真夜ちゃんが可愛くて仕方がないの」

 違う、少しでも側に近づきたくて一生懸命練習したの。

 自己満足かもしれないけど、京香さんとの絆が欲しかっただけ。同じ世界で、あなたの隣で、一緒に笑いあえたらって。そんな悲しい顔で褒めて欲しかったわけじゃない。

 しかし唇は震えるばかりで、思っていることはまったく言葉にならない。いや、言葉にできたとしても、もはや心は何ひとつ通じないかもしれないと思った。確かに技術は近づいたのかもしれない。けれどほんのわずかの間、目を閉じてがむしゃらに走っただけで、言葉が通じなくなるほど離れてしまったのだ。

 そんなに追い詰めていたのか。その心の揺れが皮肉にも兄を求めたのか。自分のことしか考えず、大切な人の苦しみも見えないほど子供だったのか。音楽以外を捨て、生活と感情のすべてをつぎ込んできた結果がこれというのは、あんまりじゃないか。

「そんなに怖い目で見ないで。去年の秋のコンクール、偵察のつもりで行ったの。でも、あなたの音に撃たれちゃった。敵わないって思った」

 まっすぐに見つめた。それ以外に何もできなかった。

「真夜ちゃんに会うまで、わたし、自分のことを天才だと思ってた。ちょっと嫌な女だよね。でもあなたを見てると世界って広いんだなって思う。真夜ちゃん、あなたはわたしなんかより、音楽の神様に愛されてるのよ」

 彼女のスカートを強く掴んでいた。

「そんなことない。お願いです、一生、私の目標でいてください。幸せも不幸せも全部捨てて、私のずっと上で、音楽のためだけに生きていてください」

 心の暴走を止められなかった。自分がどんなに惨めかわかっていても。これでは兄と別れてくれと言っているようなものだ。いままで感情を殺してきたのが台無しだ。

 居たたまれなくなって目を逸らした。こうしている間にも眼下の街は夕闇に飲まれていく。遠くに見える家々の窓にも明かりが灯っていく。個人の悲しみなど無視して、地球は回り続ける。いまは鮮やかな胸の痛みも、いつかは鈍くなり、やがて時間が懐かしさに変えてしまうのだろうか。

 この恋が実ることなんて、ないんだ。

 はじめからわかっていた事だ。

 きっといつか、そのときが来たら、この恋を思い出に変えなきゃいけない。でも――。

 スカートを握る手が、柔らかく包まれた。

「来年の春に、あなたのお姉さんになるわ」

 重ねられたのは左手で、薬指にはリングが光っていた。

「さっきプロポーズされたの。暁さん、今日のコンクールで私が金賞をとったら指輪を渡すつもりだったって。大学を卒業したら、結婚します。そのまえにニューヨーク国際コンクールに出るけど、それが最後になると思う」

 喉が震えた。

「私が、」

 必死に声を絞り出した。

「私が、こんなに練習したのは、京香さんに認めて欲しいからで、はじめて会ったときから、私は、京香さんのことが」

 人差指一本で唇をふさがれた。

「わかってる。わたしも、あなたと同じだから。でもそれ以上、言ってはだめよ。後に引き返せなくなるわ」

唇から離れた指は頬を通り過ぎ、額をなぞった。顔に掛かる一筋の髪をそっとかき上げ、耳に掛けてくれる。短く切り揃えられた爪が、耳たぶに触れるのを感じた。

「はじめて会ったときのこと、覚えてるわ」

 あの夕陽の世界。桜の下の奇跡。

「振り返ると、門の前にあなたがいた。短い髪で男の子みたいだった。それがこんなに綺麗になって。背もどんどん伸びて。もうすぐあなたを見上げる日が来るわ」

 ゆっくり近づく京香さんの顔。閉じられた目蓋を縁取る睫毛は影をつくるほどに長い。きめ細かい肌も、鼻も耳も、すべてが特別だ。

 きれいだ。

 その造作の一つ一つを焼き付けようと、目は閉じなかった。しかしそれも無駄だった。世界はどんどん滲んでいく。

 心から望んだ、しかし叶えられるはずもないと諦めていた瞬間が訪れようとしている。なのに、こんなにも苦しい。

 頬に吐息を感じた。近づく体温を感じた。そして京香さんの唇がそっと重なり、やがて離れた。掠めただけのキスだった。でも、その熱さをきっと忘れない。同時に、自分の中で一つの時間が否応なく終わったのだと思った。

「初恋だったのなら、嬉しいな」

 涙は流れるまま、それでもしっかり前を見て、頷いた。

「じゃあいまのキスは初恋とのサヨナラだね。これからは男でも女でも、好きになった人を愛せばいい。真夜ちゃんが未来に出会う誰かのために、わたしの事は乗り越えていかなくてはだめ。あなたは私の誇りよ」

 京香さんは立ち上がり、先に行くねと頭を撫でてくれた。

「それから、いまじゃなくても構わない。でもいつか暁さんとわたしのこと、真夜ちゃんの口からおめでとうって言って欲しいな」

 階段から建物の中へと消える背中、それが最後の姿だった。夜によく似た深い青のカーディガンだけを残して、あの人は行ってしまった。

 はじめてのキスは最愛の人と交わした。記憶の中で一番苦いくちづけだ。いまでも誰かと唇を重ねると、暮れていく街を思い出すことがある。そしてそんなときは決まって、京香さんの願いを叶えることができなかった負い目と共に、思い出が不実を責め苛むのだ。


 そのあと京香さんと兄は渋谷で待ち合わせていた。いつかのように幸せそうに連れ立って歩いていたのだろう。

 信号を待っていると、若い男が京香さんの背後からぶつかった。人通りの多い繁華街ではよくあることだ。しかし京香さんはわずかに間をおいて膝から崩れた。しがみつこうとする彼女を抱きとめる兄は、バランスを崩して転びかけただけと思ったはずだ。しかし背中へ回した手は、ぬるりと滑った。夕闇の中でも分かるほど、掌はべったりと赤く濡れていた。

 周囲から悲鳴が上がった。異変を察知して人の輪が退けていく。週末の混雑する渋谷に突然発生した円の中には、三人の人物が取り残された。

 細い腕はありったけの力で、鍛えられた体を抱きしめた。一方、兄は耳元で繰り返される痙攣に似た呼吸を訳もわからず聞くことしかできなかった。それはどんどん浅く、早くなり、最後に長い息を一つ吐くと、体に絡みついていた腕はほどけた。瞳は一滴だけ雫をこぼし、そして閉じた。力を失い、だらりと下がった左手の先から何かが落ちる。それは血溜りの中を涼やかな音で転がり、小さな飛沫を立てて倒れ、止まった。持ち主の指にまだ馴染んでいない銀のリングだった。

 なすすべもなく、体を冷たい歩道に横たえる。掌を当てた左胸からは何の律動も返ってこない。振り向くと、月を見あげ、にやにやと笑う男がまだ立っていた。手には赤く濡れた包丁があった。

 血だまりからリングを拾い上げ、兄は構えた。

 そして吼えたと言う。あの温厚で優しい兄が、獣のように。

 男と向き合ったのを境に五分間、兄の記憶は途切れる。居あわせた人たちは巻き込まれることを恐れ、遠巻きに眺めるだけだった。やがて人垣を割って駆けつけた警官は、倒れた男に馬乗りになり、骨折した指でなお顔面を殴り続ける兄を数人掛かりで引き剥がし、手錠を掛けた。若い男は死んでいた。鼻骨陥没骨折による脳挫傷だった。顔は原形を留めていなかったそうだ。

 この話はすべて伝聞だ。事件が起こったとき、まだホールの非常階段から夜を眺めていた。冷えた体で控え室に戻り、ちょうど着替え終わったとき、館内放送が再び名を呼んだ。表彰式の呼び出しとは違い、霧島先生本人の声だった。

 なにか悪いことが起こったのだと思った。不安に駆られ、廊下を走った。飛び込んだ事務室で待っていた先生の顔は蒼白だった。袖を引かれるまま、待たせてあったタクシーに乗り込む。車の中で先生は、ようやく言葉少なに状況を語った。動揺は隠しようもないが、冷静な口調で。

 事情はわかった。しかし具体的なことは何一つ理解できなかった。すべては幕を一枚へだてた向こう側の出来事としか思えなかった。ただ体の震えが止まらないのだ。寒くもないのに歯がかちかちと音を立てる。何かの間違いでありますようにと祈るだけだった。

 身を硬くしていると、やがてタクシーは大きな病院の緊急出入口で止まった。先生がナースステーションに声を掛けると、その場にいた若い看護士たちは顔を曇らせた。現実感を持てないまま、事態は最悪の結果を迎えたことを悟った。震える手が、思わず先生の手を握りしめた。ずっと外にいたのに、先生の手のほうが冷たかった。冷え切った指先が強く握り返してきた。

「こちらです」

 案内されたのは廊下の奥の奥だ。部屋の前のソファには先に到着していた両親が座っている。二人は揃って立ち上がり、深々と頭を下げた。見あげた。プレートには「霊安室」と書かれていた。膝が崩れそうになった。先生は数度、頭を振って答えた。すべて無言だった。

 先生がドアを押し開ける。手を引かれるままに部屋へと入る。線香の臭いがした。ベッドは一つしかない。その上に横たわる女性の体。顔を覆う白い布をめくった。間違いなく京香さんだった。眠っているだけに見えた。たった数時間前に重ねた唇に触れる。固く冷たかった。体の震えが止まった。他人事のような虚無感。タクシーの中で思っていたような哀しみや喪失感はやってこない。

 二人の未来を祝う機会が、これで永久に失われたのだと思った。自分に嘘をついてでも、あの夕闇の階段で、おめでとうございますと言うべきだったのだろうか。祝福の言葉が宙に浮いたまま、空っぽの心の中で揺れている。

 これは罰なのか。愛する人の幸せを祈ることもできず、嫉妬し、ときに憎みかけたことへの。

 隣で先生は、娘の亡骸を見下ろしていた。震える肩を見て、ここに居場所はないことを知った。だから一人で部屋を出た。

「お兄ちゃんは?」

 イスに沈む父に聞いた。

「まだ、拘留されてる」

 突然の悲劇に巻き込まれた二つの家族の、それからの数日間を語る言葉はない。

 その後の調べで、男は未成年で重度の薬物中毒だったことがわかった。二週間前に医療少年院を出たばかりだったらしい。兄とも、京香さんとも面識はなかった。彼本人にしか分からない理不尽な理由で、少年Aは京香さんを選んだのだ。

また京香さんは背中からの一刺しが腎臓に達しており、ほぼ即死だった。そして失われた命は一つではなかった。京香さんの胎内にはもう一つ、小さな命があった。

 事件は週末の繁華街で起こったため、目撃者は多かった。しかし馬鹿げたことに、否のないはずの兄が過剰防衛に問われた。格闘技の有段者が未成年に対し、凶器を手放したあとも執拗に攻撃を続けた点が問題となった。ところが被害者でもある両家族には、法に守られた少年Aの情報は何一つ開示されない。通院歴云々の話もワイドショーや週刊誌で知ったくらいだ。

 メディアは連日、ショッキングな見出しと共に事件を取り上げた。だいたいは同情的な扱いだったが、家の前に陣取ってカメラを構え、朝から晩までチャイムを鳴らす非常識な人たちに、家族はさらに疲弊した。しかしそれも一週間の拘留の末、突然、兄が解放されたのと同時に収束した。

 叔父が動いたのだった。巻き込まれたといえ、甥が結果的には人を一人殺した事件だ。下手な動きは立場を危うくするとも考えなかったはずはない。しかしそれでも動いてくれた。この件に関してだけ、何を聞いても叔父はとぼけるばかりで、いまだに口を開こうとはしない。ただその沈黙から、子供のない叔父夫婦がいかに不孝者の甥と姪を愛してくれているかを思う。しかし親族の思いも、転がりはじめた運命を止めることはできなかった。長い法廷闘争のはじまりとなるはずの兄の解放は、単なる崩壊への引き金でしかなかった。

 帰ってきた兄は老人のようだった。

 すべてを失ってしまったのだ。未来の花嫁を、小さな命を、キャリアの階段を。しかしそれを踏まえた上でなお、すべてが許せなかった。同時に痛いほど哀れだった。

 その夜、両親が寝静まってから、兄の部屋の前に立った。ドアを叩く手に躊躇いはない。

「どうぞ」

 投げ遣りな返事にドアを開けると、兄は電気も点けずにベッドに座っていた。廊下から差し込む灯が頬のまばらな無精ひげを照らした。着替えの途中だったのか、上半身は裸だ。指にはフィルターを焦がす煙草を挟んでいた。足元に散る灰が廊下から流れ込む空気に揺れた。

 このぼろぼろの男は誰だ。

 これがあの兄か。

 強く、優しく、輝いていた、あの兄なのか。

 奥歯を強く噛み、体の右側だけを兄に向けて、ドアの枠に背を預けた。この期に及んで迷いが生まれた。心の刃の切っ先が鈍りそうになる。

「どうした。最近、寄りつかなかったのに、珍しいな」

 こちらを一瞥もせずに言った。

「煙草、なんとかしたら」

 兄は自分が煙草を吸っているのを忘れていたように指先を見た。

それからフィルターを焦がす煙草に慌てる様子もなく、緩慢な動作で壁際の灰皿に押し付けた。その拍子に背中がこちらを向いた。

 息を呑んだ。引き締まった背に、くっきりと掌の形の痣が浮かんでいた。見慣れた形だった。ひと目で京香さんの手だと分かった。

「禁煙するつもりだったんだけどな」

 間延びした声でそう呟く兄は、どうやら自身の背中の様子に気付いていないようだ。実際にはその場に居あわせることができなかったのに、事件の一部始終がはっきり見えた。命が消えようとしたそのとき、自分に何が起こったのか分からないまま、あらゆる想いをギタリストの命である手に込めて京香さんは兄を抱きしめたのだ。やはり最後に選んだのは、兄だった。運命の悪戯で縺れた三本の糸の帰結が、端的に現れているように思えた。

 決して忘れないと誓った唇の感触。しかし掠めただけの柔らかな温もりは不確かで、日に日に薄れていくばかりだ。それに比べて兄の背に残されたのは聖痕だ。自分のものにしたいと、切実に思った。

 息を深く吸い、そして吐いた。迷いは消えた。心の刃を握りなおす。

「そう、禁煙ね。赤ちゃんのこと、兄貴も知ってたんだ」

 顔がやっとこちらを向いた。落ち窪んだ目は奥の見えない洞穴のようだ。世界への興味を失った瞳は、すでに現実を映すことを拒んでいた。けれどその暗さを恐れたりはしない。毎日、鏡に映る自分の目も同じくらい虚ろなのだから。

「知ってたさ。俺にも譲れないものがあるって思った」

 力なく笑う顔から、兄はもはやこの世界で生きる意思を棄てていることを悟った。俺を殺してくれと、言っているように聞こえた。

 肩が震える。喉がわななく。それを必死にこらえた。

 誰があなたのためになんか泣くもんか。

 しかし裏腹に左目にだけ雫が集まり、一筋だけ流れ落ちる。これは涙じゃない、そう自分に言い聞かせた。

「大切な人も守れずに、何が強さなの」

 乾いたままの右目だけで兄を睨み、声が震えないように、それだけを言い残してドアを閉めた。

 愛しているよ、兄貴。だからこそ――。

 その夜、家を抜け出した兄は車で暴走し、ガードレールへ激突した。遺書はなかった。言い訳をするつもりはない。現実と彼岸の境目に立っていた兄の背を押したのは、歪なこの二つの手だ。

 


 Session6


 それから二週間ほど過ぎた日、霧島先生に呼ばれた。

 リビングのテーブルを挟んで座る。こんなときでもレッスンの定位置だ。先生はひと目でわかるほど痩せていた。顔色が悪くなり、目の下には隈が浮かんでいた。こんなとき何を言っていいのかもわからず、急に増えた白髪から目を逸らした。

 挨拶もそこそこに、先生はおっしゃった。

「これを貰ってくれないか」

 テーブルの上にギターケースを置き、留め金をはずす。

「何を……」

「そう。京香のロベール・ブーシェだ」

ロベール・ブーシェ。フランス人の彼は画家から転身したという異色のギタービルダーだ。一九八六年に死去するまでに製作したのが一五〇本程度。現存し、なお且つプロユースで実用可能なコンディションとなると世界に数十本もないだろう。抜群の操作性と中音域の伸びは他の追随を許さない名品だ。

「そんな。いただけるわけないじゃないですか。これは京香さんの」

 形見、という言葉を飲み込んだ。

「君は音楽を、棄てようとしていないかな」

 黙り込む他になかった。その通りだったのだ。先生はゆっくりと続けられた。

「これは憶測だけど、京香のことを好いてくれていたでしょう」

 顔を上げた。目だけで、なぜと問うた。それは肯定と同じ反応だったかもしれない。

「何十年もいろんな子達にギターを教えてきてるんだ。誰に向かって弾いてるかぐらいは分かるさ。私にだけ聴かせる人がいる。世界に向かって弾く人がいる。そんな中で君は、上の階に向かって弾いていたね」

「ごめんなさい。先生を蔑ろにしてたわけじゃないんです」

「わかってるとも。君の音色からは隠しきれない輝きが聴こえたのさ。それよりむしろ、いまは君にありがとうと言いたい」

頬が熱くなった。秘密を抑えきることのできなかった拙い自分への羞恥だった。

「君は気付いていたのかな。京香も同じように、男も女も愛することができたようだ。そりゃ親としては心配だったけどね、一人の演奏家としては羨ましく思っていたんだ。親の欲目を引いても娘には天才の資質があった。セクシャリティに勝手に結び付けて、実の娘の才能に嫉妬してたのさ、私は」

 終始、目は合っていた。しかしこのとき先生は、そこにはいない誰かと話をしていたように、いまは思う。

「私は完全な異性愛者だ。片方しか愛せないなら、異性愛者も同性愛者も同じだろう。でも両性愛者ということは、男でも女でも在ることができるということだ。つまり普通なら片側しか見えない物事に、二つの視点を持てるということなんじゃないかな」

「難しいですけど、何となくわかります」

 先生は軽く頷き、煙草に火をつけた。

「そんなふうに期待と嫉妬の目で見守っていたら、京香は暁くんという安息を見つけてしまった。いや、暁くんに文句があるわけじゃないよ。うちの娘なんかで本当にいいのかと思ったくらいだ。でもね、安息の中から人は、そこから先の高みをさらに目指すのだろうかと、不安に思ったことも確かなんだよ」

 少しの間をあけて、先生は改めてこちらを見た。

「すまないね。娘の思い出話のために呼んだのではないんだ。もちろん無理は言わない。でもこれからも音楽を続けるなら使ってやってくれないか。私はまだこれが唄いたがっているように思うんだ。君はまだ若い。幼いと言ってもいい。いつか未来に、音楽より大事な安息を見つけたなら、そのときは返してくれても構わない。譲り受けるのが重荷なら、それまでのレンタルでどうだい」

 張られたままの弦には錆が浮いていた。フレットは曇ったままだ。弾き手を失くした楽器もまた悲しんでいた。

「正直を言うと、これを手元に置いておくのがいまは辛いということもあるんだよ」

 先生の声が遠くに聞こえた。迷いながら手を伸ばす。

 画家の目から世界がどう見えるのかという問いに対して、京香さんはこのギターを通して答えを見出そうとしたのだろうか。だとしたらロベール・ブーシェを構えた京香さんの目に、世界はどう映ったのだろう。

 一度でもいい。ゴッホが描いたように色彩に溢れた世界が、京香さんにも見えたのだと信じたい。それさえ叶わず不慮の事件がすべてを奪ったというなら、灰色の世界しか知らぬまま強制的に人生が終わらされたと言うのなら、その生の意味はどこにあるのだ。

 触れたネックから指先へ、温かな想いが流れ込む。体温によく似た温もりはロベール・ブーシェに残っていた京香さんの記憶だと思った。彼女がどんなタッチで扱い、音に意思を託してきたのか。そしてロベール・ブーシェはそれにどう答えたのか。

 亡骸に触れても涙は出なかった。最愛の人の死を目の当たりにしても泣けないのは罰であり、薄情なせいだと思っていた。しかし違った。壊れないように、心が悲劇を拒んでいただけだった。

 京香さんはもういない。

 話すことも、笑いあうことも、もうできない。

 涙がいまになって溢れた。ようやく心は事実を受け入れたのだ。

「おめでとうって言えなかった」

「大丈夫。京香はそんなことで君を恨んじゃいない」

「でも」

 隣のイスが軋んだ。大きな手が背中を撫でてくれた。たったそれだけのことで凝り固まっていた心がほどけたのは、先生の気配から京香さんに一番近い遺伝子を確かに感じ取ったからだ。

「泣いていいんだよ」

 その一言が最後の留め金をはずした。声を上げて泣いた。しかしどんなに泣いても涙は、心の傷からにじむ血を洗い流しはしない。頬を伝う雫がロベール・ブーシェの上に落ちる。京香さんに見られたら、また楽器に湿気は禁物と叱られるだろうか。

 誇りと言ってくれた。その言葉はいつか呪縛になるとわかっていた。しかしいまは生きていくための拠り所にしよう。

 涙を拭いてくれた人はもういない。だから自分の袖でごしごしと目を拭った。立ち上がり、先生に一礼した。先生は満足そうに頷いてくれた。これから先、もう泣くまいと、このときに決めた。

 

 聖ミカエラへの入学は中学三年の冬休みを前に、すでに決まっていた。学力試験はフリーパス、さらに笑ってしまうことに特待生として迎えるというのだ。

 面接試験の場には理事長自らが現れ、わざとらしい作り笑いで兄の事件に触れた。痛ましい事件だったが、君はそれを乗り越えていかねばならない。そして我が校は、どんな境遇の若者にも学習の機会を与えるべく門戸を広く開いている、と。

 余計なお世話だった。ならばその理念に対し、生徒の大半はひと目でそれとわかる富裕層の子女ばかりなのはなぜか。しかしその矛盾を追及するほどお子様でもない。

 学校としては音楽科に客寄せが欲しい。一方、こちらとしては授業料の大幅免除は悪くない。いまさら聖ミカエラの音楽科などで学ぶべきことがあるとも思えなかったが、利害は一致した。聖ミカエラを選んだ理由はただそれだけのことだ。

 入学式は午前中で終わった。

 さっそく廊下で友人作りに興じる少女たちを押しのけてさっさと帰宅すると、家には誰もいなかった。そういえば母は、午後から病院に行くと言っていた。あれ以来、足繁く病院に通うようになった。覚悟は決めたつもりだった。しかし時間を置いて家族にこのような形で影響を及ぼすとは考えていなかった。幽かな胸の疼きを深呼吸で押さえ込む。冷蔵庫の残り物を電子レンジで温めて昼食を済ませると、二階へ上がった。

 一週間後に控えたコンクールに向けて、自室に籠もるつもりだった。しかし兄の部屋の前を通ったとき、ドアが半分ほど開いているのに目が留まってしまった。朝のうちに掃除でもしたのだろうと、ドアノブを握った。閉めるだけのつもりだった。しかし引き込まれるように足を踏み入れていた。

 部屋の中は時間が止まっていた。さすがに煙草の灰が散った床は綺麗になっていたが、家具の配置はもちろん、机やサイドボードには手を触れていないようだ。子供の頃から幾度となく出入りした部屋。しかしいま主のいない空間は拒むようによそよそしく、圧迫感さえあった。

 息苦しさに負けて、乱暴に窓を開けた。生ぬるい春の空気がゆるやかな風に乗って流れこむ。やっと少しだけ緊張がほどけた。今度はなんだか遣る瀬ない気分になってベッドに腰を下ろした。体も心も沈んでいく。あの晩、兄が座っていたのとまったく同じ位置だった。そのままサイドボードに手を置くと、指先に触れる物があった。

 煙草だった。すでに封は切ってあった。パッケージには百円ライターも一緒に入っている。ガスも充分に残っており、不幸なことに火も生きていた。取り出した一本を咥えてみた。その先に火を灯す。立ちのぼる兄の香りに胸が一杯になった。はじめての熱い煙にも噎せたりしなかった。ただ湿気ていて、ひどく不味いと思った。

 おいしくもない煙を不快な思いをしてまで吸い込んでいる自分に、いったい何がしたいのだと問うた。十五の自分への決別のつもりか。それとも体をニコチンで汚すことで贖罪しようとしているのか。しばらく考えたものの答えはそのどちらでもなく、単なる感傷としかいえない。はじめはパッケージの残りを吸い終えるまでのつもりだった。が、習慣になるまで時間はかからなかった。ギターケースの片隅に、いつのまにか煙草のパッケージを切らすことなく忍ばせるようになっていた。

桜が散る頃にはアルバイトをはじめた。年を偽り、場末のクラブのステージに上がったのだ。もはやこれは校則違反云々の問題を超えて、学校に知られれば確実に即停学か退学は間違いない行動だった。

 そして最初に入ったのは場末の中でも最低の店だった。従業員用のトイレにひと目で手作りとわかる薬包のパケの切れ端が落ちているのを見つけたときは、さすがに自分の顔が苦笑の形に凍りつくのがわかった。そんな世界でクラシックも場違いだろうと、ジョー・パスやアール・クルー、バーデン・パウエルのアルバム数枚を雑にコピーし、そのローテーションで凌いだ。

 ドレスでステージに立つのは三日でやめた。毎回、更衣室の隅を借りて着替えるのも面倒だし、何よりフロアのお姐さんに間違われるのが煩わしかったのだ。そこで兄のスーツとネクタイを勝手に拝借した。これなら家から着て行けばいい。横幅はベルトで締め上げねばならなかったが、縦のサイズはいつのまにかぴったりになっていた。鏡の中の自分の姿にも違和感はない。腰まである髪は襟足で束ね、前髪を一筋だけ粋に残した。ガットギターでジャズを奏でる異色の男装ギタリストの出来あがりだ。

 不精からはじめたスーツ姿だったが、いつしかそれが評判になり、何度か引き抜きで店を移ったりもした。ギャラと環境がよくなるなら断る理由もない。しかし先々のステージで、世の中をよく知らない不義理な小娘を、いろいろな人たちがなぜかひどく可愛がってくれた。お姐さんたちはよくお菓子をくれた。気が向くと控えめにジャズを講釈してくれたのはダークスーツの似合う小指のないおじさんだった。所詮、すれ違うだけの先の見えた気安さが、そうさせたのかのかもしれない。あるいはすでにその頃から発散していたに違いない崩れかけた人間特有の匂いが、場末の世界の人々に馴染んだのだ。

 稼いだお金は中型二輪車の免許に化けた。夏休みに集中して教習所に通ったのだ。もちろんこれも校則違反だ。しかしそんなことは無視し、家を抜け出して夜の街を走り回っていると、空気が冷たくなる頃にはそこそこ乗りこなせるようになっていた。

 クラブのアルバイトも夜のライディングも、両親は黙殺していた。気付いていなかったはずはないが、兄から譲り受けたバイクのエンジンに再び火を灯そうとする姿を止められなかったのだろう。そして古い緋色のカワサキとは最初から気が合った。やたらと振動の大きなじゃじゃ馬は高い声で嘶くと、あっという間に危険な速度域まで連れて行ってくれる。持ち上がろうとする前輪を薄い胸の下に押さえつける瞬間、麻痺した心が少しだけ死の予感に震えるのだ。ニコチン中毒でスピード狂の女子高生、最低だ。

 自分では意識していなかったけれど、この頃にはオイルと煙草の匂いが体に染みついていたはずだ。廊下ですれ違う教師に眉をしかめられたのも一度や二度ではない。琴子のようなごく一部の物好きを除いて話しかけてくる者もいない。すでに学校では透明人間だった。それでも平気だった。目指す世界はここじゃない。

 処女を失ったのは冬休みだ。相手は教習所で知り合った大学生だった。気があるのはわかっていた。教習終了後もときおり連絡をよこしてきたのを利用した。もう名前も覚えていない。ただ空っぽの頭と、整った顔立ちが気を引いた。決してクラシックなんて聞くことのない健全な人だった。

 ホテルにはこちらから誘った。好きでもない相手に肌をさらしたところで、高揚も羞恥も感じないことを知った。ただ処女を抱いているという状況だけに興奮する男に組み敷かれ、破瓜の痛みに顔をしかめて、こんなものかと思っただけだ。

 その大学生ともすぐに疎遠になった。もともと付き合っているつもりもなかったのだ。勘違いした相手から毎晩かかってくる電話はただひたすら鬱陶しいだけだった。兄の事件を電話口でほのめかすと、翌日から電話は止まった。

教師やクラスメイトに疎ましがられはしても、表面化するような問題は起こさず、学校では淡々と過ごした。高校生活の残りの時間に特に話すべきこともない。ギターを弾き、譜面を追い、またギターを弾く毎日。眠れない日や食事をとらない日はあっても、ロベール・ブーシェに触れない日はなかった。時間があればステージでお金を稼ぎ、退屈にまかせて夜の街を走った。数々のコンクールの合間に幾人かの男に抱かれ、ときに少女をたぶらかし、保健室のベッドでは校医の岩淵先生と醒めた情事を重ねる。それだけの日々だった。

 ろくに通ってもいないのに、高校の卒業は早々に決まった。学校としても推定無罪の不良少女を扱うのに疲れたのだろう。在学中に受賞歴もそこそこ残したことだし、学校の名前に泥を塗らないうちに追い出してしまうことに決めたにちがいない。そのあとの進路は、海外留学を選んだ。ニューヨークのジュリアード音楽大だ。日本から、東京から離れたかった。書類やビザの準備に追われるうちに時間は過ぎていく。

 父の声に呼ばれたのは、ようやく手続きも整い、荷造りに手をつけようかというときだった。二階からだ。どうやら兄の部屋にいるらしい。

「どうしたの、これ」

 中を覗くと、部屋は乱雑にひっくり返されていた。

「やっと見つけた。これをもって行きなさい。お守りだ」

 差し出されたのはぼろぼろの黒帯だった。

「どうしてこれがお守りなの」

「おまえ、子供の頃に暁と二人で出掛けたときのこと、覚えてないか」

「そんな。それだけじゃ、ぜんぜんわかんないよ」

 父は顎に手をやった。考えるときの癖だ。

「そうだな。おまえが三歳で、暁が十三歳のとき。季節は冬かな」

「範囲はだいぶ狭くなったけど、三歳じゃ覚えてないわ」

「まぁ無理もないかな。暁が音楽をやめて空手をはじめるって言い出したときのことさ。虎落笛がどうとか言っていたから、寒い季節だったのは間違いないと思うんだがね」

 虎落笛という言葉に反応して鼓動が勝手に早くなった。

 心に浮かぶ一つの風景。澄んだ空と葉を落とした街路樹、揺れる電線。風が啼く声にあわせて唄う幼い少女。つないだ手の先にある、凍りついたように見開かれた少年の目。

「帰ってくるなり興奮して、真夜はすごいって言うんだ。電線が風を切る音を音名で唄って見せたんだって。まさかと思っておまえの前でコップを指で弾いたんだ。そしたらそれも音名で唄ったんだよ。驚いたね」

 眩暈がした。足元がおぼつかない。気分が悪い。

「その晩だよ。自分はやめるから、真夜に付きっきりで音楽を教えてやってくれって言いだしたのは。その代わり僕は空手をはじめるからって。結果的に向いてたけど、格闘技なんて反対したんだ。でも自分を律するために必要だって聞かないんだよ。虎落笛だの自律だの、中学生の言葉じゃないよな。考えてみればあれが最初で最後の我儘だったな」

 ベッドに座り込んだ。

「それで、これがお守りなんだ」

「そう、おまえの才能を一番最初に見つけたのが暁だったってことだからね」

 父の声が遠くなる。

 迷っていた兄の背を、最後に押した感触が蘇る。しかしそれも、いまや数あるうちの幽かな哀しみの跡の一つに過ぎない。後悔も罪悪感も深い場所に沈めた。が、あれから数年を経て目の前に唐突に差し出された黒帯は、否が応でも封印していた記憶を乱暴に呼び覚ます。

 ――俺にも譲れないものがあるって思った。

いくら追いつめられていたとはいえ、あの晩、ぽつりと漏らした言葉はあまりにも兄には不似合いだった。その違和感の正体に、今になってたどりついてしまったらしい。

 あれは飽和した心から溢れた独り言ではなかったのだ。

 自分の婚約者に対する妹の想いに気付いていながら、それでも今度ばかりは譲ることができなかったという告白であり、謝罪であり、また呪詛だった。どんなにうまくやったつもりでいても、考えてみればあの兄に隠し事などできたはずもない。

 自らの手を眺めた。きっと呪われている。十五年も前に京香さんより先に、兄からも音楽を奪っていた指先。妹が聡明な兄に憧れていたのと同じように、兄もまた音楽に魅入られた妹を羨んでいた事を知った。しかしいまさら何もかも手遅れだった。

 歩んできた道を振り返る。いままでコンクールのたびに砕いてきた他人の希望の屍で埋め尽くされている。

 何も生みだすことなく、聴く者から将来の夢を奪うだけの音楽に何があるのか。幼い日に兄の前で唄わなければ、愛しい人との絆を音楽の中に求めさえしなければ、大切な人を失うこともなかったのだ、きっと。

 一瞬だけ蘇った兄への愛や憎しみ、その他の名付けようのない感情が心に爪を立てて駆けぬけ、そして消えた。しかし自分を責める健全な良心も、もはやない。涙も枯れた。渇いた笑いさえ浮かばない。あるのはただ奇妙に凪いだ孤独感だけだ。

 唐突に、強くなりたいと思った。

 誰にも縋らず生きていけるように。この世の果てでも、独りだけで立っていられるように。

「私も、空手やる」

 黒帯を握り締めた。

「何を言っているんだ。おまえは現役の演奏家だろう。そんなつもりでそれを渡したんじゃない」

「それでもやる。もう決めたんだ」

 睨みあった。しかしそれも一瞬だった。

「いくら俺が許さなくたって、アメリカでおまえは勝手に道場に入るんだろうな」

 伸びてくる手は避けない。笑われるかもしれないが、これは精一杯の親孝行だ。

「まったく子供ってのは、どうして一人で勝手に大きくなったような顔をするんだ。強情なのは母さんに似たな」

 頭を撫でられるまま、首を横に振る。

「違う。似たのは母さんにだけじゃない。何があっても前しか見ないところは、父さんから貰った」

 目が細められた。思い浮かべているのは仲良く寄りそう幼い兄妹だろう。けれどその二人は、もういない。一人は愛を追って遠くに行き、もう一人は愛を捨てることで現世の命にしがみついたのだ。長い年月がもたらした二人の遠い距離が縮まることは、多分、もうない。

「どっちにしろ頑固ってことじゃないか」

「そうだね。どっちに似ても」

父は顔を伏せた。

「わかったよ。好きにしなさい。ただし手は大切にすること」

 答える代わりに父の目尻を親指で拭ってあげた。

「涙もろくなったね」

「年のせいだ」

 その言葉に、今度はこちらが目を逸らした。

「まぁ向こうでも、健康にだけは気をつけるんだ」

「うん、わかってる。ありがとう」

 頭から手が離れた。父は黒帯を押しつけると、あっさりと背を向けた。後ろ向きに手を振りながら部屋を出る。小さくなった背中に、心の中で何度も謝った。抱えている秘密の多さと、変わってしまった自分について。ごめんなさい、お父さん。


 ステイツでの日々は瞬く間に過ぎた。

 ロベール・ブーシェから溢れる音楽と、道場で流す汗にまみれる昼の合間を、ベッドで交わす愛欲の夜で埋める毎日だった。四年間の生活で増えたものと言えば楽譜だけだ。人間が生活できる最低限の環境と、ときおり発作のように襲ってくる感情の震えを抑えるための誰かの体温さえあれば、そのほかには望むものは何もなかった。

 逆説的にストイックで、あまりに自堕落な生活。それはいまだけしか見ず、過去と未来を考えることを拒んだ結果だ。

 事件を契機に胸に住みついた虚無という魔物が内側を蝕んでいく。しかし空洞を広げる心を他人事のように眺め、肥え太る虚無からは目をそらし続けた。日々、少しずつ損なわれる自分の人間性に執着などなかった。

 やがて心には確実に死が訪れる。それを避けようとは思わない。魂を代償にすることでしかその場所へたどり着く方法がないなら、これくらい苦しくはない。しかし最後のステージを降りる瞬間まで、かけらだけでもいいから人間の心を持っていたいとも思った。いっそのこと全てを捨ててしまえば楽になれるという誘惑に魅入られかけたこともある。しかしぎりぎりでそれを踏み止まらせたのは、かつて京香さんが言った誇りという言葉の呪縛の力だけだった。

 留学生活が四年目に入ったとき、ようやく至高の舞台へのチャンスが転がり込んできた。ニューヨーク国際コンクール、京香さんが立つはずだったコンクールへの推薦が決まったのだ。誰に話すこともなく、密かに目指していたステージ。どこまでも付いてまわる因縁に縛られてここまで転がってきたのだから、たどり着けないはずがないと思っていた。心と体を犠牲に駆け上がってきたのは、この死に場所に至るための階段だった。予選を通過し、手続きのすべてを完了したとき、漠然とこれが最後になると思った。

 会場ホールを前に立ち、そびえる建物を見あげた。ギターケースを肩から下ろし、強く抱きしめる。通りかかる人々は奇異の目で見て過ぎていく。だけどそんなことは気にしない。あともう少しだけ、力を貸して。お願いだ、相棒。

 胸に手を当てた。大丈夫、まだ心臓は動いている。最後の音を空へと送るには充分だ。

 進行はいつもと変わらない。やがてアナウンスに促されるまま散歩するような足取りでステージに上がった。イスに腰掛けて客席を眺めると、こちらを向く一人一人の顔が見えた。無駄な緊張はない。姿勢を正し、構えた。弾きはじめの瞬間、息を止める。

 テデスコのギターソナタ、七十七番。

 はじめて会ったあの日、京香さんが桜の下で弾いていた曲。そして花嫁になる前に、母になる前に、このステージで奏でるはずだった曲だ。

 いつかこの曲を弾けるようになりたいと、ただそれだけを願ってきた。もう技術なら負けない。でも及ばないんだ、あなたには。

 京香さんが奏でたのは一人の少女の胸に恋を育む豊穣の雨だった。けれどこの手が紡ぐのは、聴く者の未来の夢を断つ死神のメロディだけ。それならせめて高々と掲げた鎌を力の限り振り下ろし、幼い希望の芽を一つでも多く刈りとろう。その才能で愛する人たちを無自覚に傷付けてしまうようになる前に。やがて自分すら愛せなくなり、人であることをやめてしまう前に。

 音楽を憎みながら捨て去ることもできず、心を殺して怪物になって生きるのは、一人で充分だ。

 目を閉じた。

 審査員が消えた。客席の気配も遠くなる。ロベール・ブーシェの唄声だけに満たされた完璧な世界。どこまでも広がれと祈った。

遠くから近づく羽音が聞こえた。そしてその気配はすぐ後に舞いおりると、背中を柔らかく包んでくれた。ネックを走る左手には、添えられた掌の温もりを感じた。首筋をくすぐる吐息に悦びの声を上げそうになった。いま、この宇宙にいるのはただ二人だけだ。時間を越えて、いまはもうずっと遠くなってしまったあの雨の日へと帰っていく。ゴッホのポストカードが壁に留められただけの、他に何もないあの部屋に。

やっぱりここで待っていてくれた。ごめんなさい、京香さん。すっかり遅くなってしまって。

 溶けていく心と体。どこまでが自分なのか、境目も消えていく。最愛の人と、やっと一つになることができたのだ。キスを交わすよりも、肌を重ねるよりも、もっともっと深い場所で――。


 絃よ、哭いてくれ。

 涙を失くした愚か者の代わりに。

 そして唄え、レクイエムを。


 最後の一音を弾ききった。それは空気の中に広がり、やがて余韻を残して消えた。わずかな沈黙の後、会場は拍手と歓声に包まれた。 ゆっくり目蓋を開く。世界は数分前と何ひとつ変わっていない。わかっている。すべては願いがみせた幻だ。音楽は無力だ。死者を蘇らせることも、時間を巻き戻すこともできない。個人の運命を惑わせるくらいで、世界を変える力なんてないのだ。

 イスから立ちあがって一礼すると、ロベール・ブーシェの六弦が切れた。やまない拍手の中で、すべてが終わったのを感じた。

 背中から温もりが消えていく。見あげてもホールの天井には照明が並ぶばかりで、姿が見えるわけもない。縋りつくこともできず、ただ寂しく送った。一緒に連れていって欲しかった。しかし願いは叶わない。

 さよなら。

 それは心が死んだ瞬間だった。


コンクール最優秀賞の凱旋で一旦、帰国した。副賞十万ドルと中堅クラシック専門レーベルのレコーディングの権利を手に入れた新人演奏家に世間は優しかった。しかし本当は脱力感に倦み疲れていたのだ。いきなり引退することもできず、取材には当たり障りのない回答を繰り返した。

 もう終わったのだ。

 残りの時間は余生にすぎない。近所の子供にでも音楽を教えて、ただ静かに生きていければそれでいい。 

 その日も午前と午後にインタビューを控えていた。合間に昼食を済ませようとカフェを探していると、小柄な女性が歩み寄ってきて正面で立ち止まった。好みではないが美しい顔立ちをしていた。

 またサインでも求められるのだろうと思った。たった数日の間にウェブ上ではコンクールの動画が飛び交い、いまこの間にも増殖を続けている。メディアのおかげで自覚のないまま有名人だ。しかし彼女がカバンから取り出したのは紙とペンではなく、ポータブルオーディオだった。

「あなたがクラシックギターしか弾かないのは、惜しいと思います」

 目の奥にぎらぎらしたものが見えたが、それは狂気とはほど遠い何かだった。意図は分からないまま取り合えず悪意はないと判断し、それでも半身の姿勢を崩さずに距離をとったままイヤホンを受け取った。彼女から目を離さずにオーディオを再生すると、流れ出したのはロックのデモ音源だった。いまならそれがラウド系ミクスチャーロックというジャンルであることがわかる。しかしそのときはただの爆音にしか聞こえなかった。慌ててイヤホンを引き抜いた。

「あなたはうちに入るとよいと思います」

 じんじんしている耳には確かにそう聞こえた。聞き間違いだと思った。彼女は無表情のまま、二度うなずいた。これが雪絵とのファーストコンタクトだ。



 Session7


 長い話を終えると、忍は笑った。

「すごいですね、その話。それでどうなったんですか」

「ロベール・ブーシェなら先生にお返しした」

 おそらくいまも六弦は切れたままだ。あのギターが先生の手元にある限り、弦が新しく張り替えられることはない。

「いや、そうじゃなくて。雪絵さんからのスカウトのあとの話です」

「大学の単位は取得完了してたし、面白そうだったからすぐにOKした。一旦、ステイツに帰って突貫作業で七曲くらいレコーディングして、CDのジャケット撮影したらすぐに日本に戻ってきたってわけ」

 嘘だった。面白そうだなんて思うはずがない。どこまでもついてくる運命から逃れられないと悟っただけだ。かつて三歳の少女がそうしたのと同じように恐怖し、怯え、そして諦めたのだ。あのとき声を掛けてきたのだが雪絵ではなかったなら、いまごろ他のバンドに入っていたか、あるいは演歌歌手のバックミュージシャンになってドサ回りでもしていたかもしれない。

「ずっとクラシックの専門誌に目を通していました。真夜さんを日本で追いかけていたんです」

 忍は複雑な表情を浮かべて続けた。

「コンクールの金賞も、インターネットでリアルタイムに知ったし、CDだって予約して買いました。拠点を日本に戻すって聞いて、眠れなくなるくらい嬉しかった。だからこそ正直に言うとクラシックの世界から飛び出たって聞いたときは驚いたし、少しだけ悲しかったんです」

 そうだろう。国際コンクール入賞経験を持つ演奏家がロックに転向するなんて話は聞いたことがない。周りから聞こえたのも反対の声ばかりだった。しかし両親、叔父夫婦、そして霧島先生は驚きながらも喜んでくれた。

 ロベール・ブーシェを返しに伺ったとき、先生はまず黙って頭を下げられた。結局は娘の遺志を継がせる形になってしまったと。亡霊に憑かれたようにギターを弾く教え子の姿を見て、一人の少女から娘らしい喜びをすべて取り上げてしまったのではないかと後悔したこともあったと。恐縮してばかりもいられず、自ら望んで京香さんとの繋がりを欲していたこと丁寧に話した。あの数年間はギターを通じた死者との会話だったのだ。

 それを言葉にして説明する中で、音楽と戦っていた自分の姿が周囲にどう見えていたのかをあらためて考えさせられ、恥ずかしく感じた。辛いのは自分ひとりではないことなどわかりきっていたつもりでいたのに。逆に言えば、だからこそ近しい人達は、いままでとジャンルは違っても自分から音楽と接しようとする姿を尊重してくれたのだろう。それは買い被りに過ぎず、実際はただ音楽から逃げ切れなかっただけの話だが、あえてその勘違いを正す気にもならなかった。

 帰国したあとに待っていたのは、もう思い出したくもない二週間の歓迎会付き強化合宿だ。それからはナイロン弦とピエゾピックアップを載せたセミアコを武器にいくつものライブハウスを荒らしまわっていまに至る。

 こちらのステージにあるのはクラシックの対極にある音楽だ。爆音のカオスの絶頂に生まれる静寂を求めていたのかもしれない。頭の中で響き続けるメロディをかき消すために。いずれにせよ余生と言いながらステージ以外に生きる場所を見出せない自分を嘲っては遣り過ごす毎日だ。

 カウンターの上、忍は手を重ねてきた。

「去年の八月、下北沢が最初でしたね。真夜さんが加入して以来、都内のリリカルのライブは全部見てます。最初のうちはライブハウスって怖くて。入り口近くの壁沿いに立つのが精一杯だった」

 煙草に火をつける振りをして手をほどいた。敏感にそれを感じ取ったのか、恨めしそうに睨んだ。煙草一本が灰になるまで互いに黙っていた。

「メジャーデビュー、決まったんだ」

「ほんとですか」

「会社との契約は先月末に済ませてたんだけど。昨日の晩、詳細が決まった。来月半ばにマキシシングル、四月にはアルバムが出る。今日中にホームページで発表になると思う」

「すごい」

 カウンターの中で琴子がちらりとこちらを見た。声を立てずに、おめでとう、と唇が動いた。なんだ、本を読んでたんじゃなかったのか。結局のところ話は全部聞いていたようだ。こちらも、ありがとう、と口の形だけで答えた。

「そろそろ出ようか」

 煙草を灰皿に落とし、伝票を持って立ち上がる。

「お祝いに奢らせてください」

「いいよ、ここに誘ったのは私だから。契約金も入ったし、ついでに言えばCDもそこそこ売れているの」

 コートに袖を通し、すばやくギターケースを取った。ここを出たあとにまたギターを人質にされてはたまらない。そのままレジに向かう。

「御一緒の会計で千五百円になります」

「はいはい」

 釣りの出ないようにぴったりの金額をトレイに置いた。

「レシートのお返しです。…ねえ真夜、」

 手元から視線を上げた。

「また二人きりで温泉に行きましょ」

「まだ言うか。あんたと温泉に行ったことなんて一度もないでしょうが!」

 怒鳴りつけても琴子は懲りずに、じゃあ、あれは誰と行ったのだったかしら、などと色っぽく笑うばかりだ。レジを挟んだ遣りとりに笑い声をあげる忍の背に手を置き、先に店から出した。その後でドアを閉める前に振り向き、さよならと琴子に言う。

 地上では新たな一日がはじまろうとしていた。駅へと急ぐ人の流れを避け、公園を横切ることにした。昨日よりだいぶ暖かい。午後にでもバイクを取りに行こう。

「真夜さん、あれ」

 指差す先には野良猫がいた。ベンチの上の陽だまりで寛いでいる。近寄ると地上に跳び降り、伺うようにこちらを見あげた。しゃがんで舌を鳴らしてやると、少し迷って、それから決心したように身をすり寄せてきた。顎の下を撫でてやる。機嫌よく目を細めて喉をゴロゴロと鳴らしはじめた。

「京香さんがそんな顔で笑うの、はじめて見ました」

 その言葉を無視して、猫を撫でたまま明るく尋ねる。

「一度、帰るんでしょう。家はどこ?」

「ここから電車で二駅です」

「そう。私はアークにバイクをとりに戻る。ここで別れましょうか」

 立ち上がって背を向けた。

「あの」

 ためらいのまざった声に足を止める。

「なに」

「携帯のメルアド、教えてもらえませんか」

必死の表情に、とっておきの笑顔を向けた。

「いいよ」

 そう、もうあなたを子ども扱いしない。

「でも携帯、忘れちゃったんだ。何か書くもの持ってないかな」

 忍は花が咲くように顔を綻ばせた。慌てて生徒手帳を取り出してメモページを裂く。その切れ端にメールアドレスと十一桁の番号を書いて交換した。

「信じられない。絶対、連絡入れます。でもお忙しいですよね。メールにします」

 メモを愛しそうに手帳へ挟み、抱きしめていた。そんな姿を見ても、いまさら胸は痛まない。

「待ってるよ。それより今日も学校でしょう。この道をまっすぐ行くと駅へ出るから。遅刻しないようにね」

「はい」

 有頂天で木々の下を駆ける背中を見送る。やがて姿が見えなくなったところでポケットから携帯電話を取り出し、電源を入れた。まだ七時前だった。不在着信も、メールも入っていない。

 貰ったアドレスは細かく引き裂いて、公園のゴミ箱に上から撒いた。幾つもの紙片はひらひらと舞い、ポリ袋の底に積もるわずかばかりの雪になる。渡したメモに書いたアドレスも全てでたらめだ。それに気付いた忍は、琴子に泣きつくだろう。だからもう琴子と会うこともない。唯一の友人もなくしたわけだ。もしかしたらこれが縁で二人が付き合いはじめるかもしれない。勝手な想像に一人で笑った。

 足に野良猫がまとわり付いてきた。

「ごめんね、おまえを連れて帰るわけには行かないの。あの人、アレルギーなんだ」

 人の言葉が分かるのか、おとなしくその場に座り込んだ。

 ギターを担ぎなおして歩き出す。

 巣へ帰ろう。事故以来、昏睡を続ける兄が待つ、二人だけの静かな世界へ。まずはもう色あせてしまった青いカーディガンに袖をとおす。そして一晩、留守にしたことを無言の兄に謝り、その体を嘗めるように丁寧に拭き清めるのだ。痩せ衰えた背中にいまもしっかりと浮かぶ痣に、自らの掌を重ね合わせながら。

 うしろで猫がにゃあと鳴いた。

 世界がわずかに滲んだのは、噛み殺したあくびのせいだ。


〈完〉

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絃が哭く。 久利須カイ @cross_sky_78

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