エピローグ

「そろそろ電話してくる頃だと思ってたんだー」

『あの、あのときはああ言ってしまったけど、でも……』


 彼の戸惑いや遠慮といった気持ちが、電話越しに伝わってくる。


「うんうん、わかるよー。誰だってプロになりたいもんね」

『すみません。それで、その、具体的にどうすれば……』

「それなんだけど。実は洋香ひろか、とあるレーベルとチョット仲良しでね」


 かかってきた電話は、出勤前に名刺を渡したストリートミュージシャンからだった。

 茅島かやしまくんからの電話で「やっぱりお前が必要だ」と、ドラマチックな展開が待っていると思ったのに。なんだか拍子抜けしてしまったけど、楽しみが伸びたと思えばいい。


「あはは、洋香ひろかさーん!」


 彼に詳細を伝えようとしたそのとき、酔っ払って歩いていた<八百太やおた>が、突然わたしにぶつかってきた。


「ちょっ、こら、<八百太やおた>!」

『……あの?』

「あっ、ごめんね。チョットいま立て込んでて。また洋香ひろかから電話するね」


 これで彼の紹介料が手に入るし、わたしの立場もまた強くなるだろう。たしかな手応えを感じつつ、わたしは電話を切った。

 <八百太やおた>はというと、まるで子供に返ったみたいに笑いながら走っている。店を出てからずっとこの調子だ。追いかけても追いかけてもきりがない。


「こら、<八百太やおた>。そんなに走ると危ないよ」

「あはは、はーい」

「んもぅ。滑って転んでも知らないからね」

「あはは、ちゃんと歩いてますよぉ」


 降り積もった雪が凍り始めている遊歩道に、わたしはどこか懐かしさを感じながら歩いた。


「それより! 聞いてくださいよ洋香ひろかさん。僕、気づいちゃったんです」


 <八百太やおた>はぴょんぴょんと飛び跳ねるように移動して、あっという間にわたしの目の前に来た。


「あのね、洋香ひろかさんあのね。お酒をたくさん飲んだあとにと、ぜーんぜん痛くないんですよ!」

「そっか、おりこうさんだね。だけどホドホドにしないとダメだよ? あんまりやると、喉痛めちゃうから」

「でもね、でもね。僕、早く八百太やおたさんの声になりたいんです!」

「うんうん、だいじょぶだよ。もう、だいぶ近づいたから」


 わたしは、あの騒がしい女子高生たちの会話を思い出していた。

 柳沢もなにも言わないけど、気づいているはずだ。<八百太やおた>の声は、まだ完璧じゃない。だけどあまり頻繁に刺しすぎても、声の伸びが悪くなってしまう。酒もフォークも、これから少しずつ調整が必要だ。

 思えば、ここまで来るのは長い道のりだった。こんなにけなげな<八百太やおた>を利用して、茅島かやしまくんに辿り着こうとするわたしも、大概だ。

 <八百太やおた>が茅島かやしまくんを引きずり下ろしたことは予想外だった。それも、元はと言えばわたしが仕向けてしまったようなものだ。当初の予定では、地位のある<八百太やおた>を連れて茅島かやしまくんの前に現れて〝見返す〟だけのつもりだった。

 ねえ、洋香ひろかちゃん。これが洋香ひろかちゃんの言っていた〝見返す〟ということだとしたら、わたしは心苦しくてたまらなかった。どんどん落ちぶれていく茅島かやしまくんを見ていられなくて、すぐにでも手を差し伸べてあげたい気持ちでいっぱいだった。

 だから、茅島かやしまくんを飼い殺しにしようとしているあの会社も、許せない。


「いっそ乗っ取っちゃうってのも、アリかも」

「えー? なにか言いましたかぁ、洋香ひろかさん」

「んーん。なんでもないよ」

「僕ね、僕、洋香ひろかさんなら、なんだって力になりますからね! あはは」


 ふらふらとよろけながら、<八百太やおた>は無邪気に笑って言う。そこにいるのはもはや、わたしの言うとおりに行動するだけの、なにも知らない哀れな子供の姿だった。

 そしてふと、子供は立ち止まる。


「ゆき……」


 <八百太やおた>は降り注ぐ雪を浴びながら、一粒一粒手のひらに乗せて、たしかめるようにじっと見ている。


「ゆーきー!! 洋香さん『snowスノウ』ですよ『snowスノウ』! 覚えてますか!?」

「雪ならさっきから降ってるってば」

「違いますよぉ! 僕がゴミ袋を変えているときに、洋香ひろかさんが僕の髪の毛についたゴミを、こう、手で取ってくれて! それで『雪みたいだね』って! あはは!」


 <八百太やおた>はコマのように、くるくる、くるくると回っている。

 よく覚えていないけど、以前そんなこともあったかもしれない。

 これまでいろんなミュージシャンを見てきたけど、茅島かやしまくんほど音楽を愛していた人は一人もいない。八百太やおたも<八百太やおた>も、音楽なんてたいして好きじゃなかったと思う。二人にとってそれは、単に有名になるためだったり、友達や親に認めてもらうためだったりと、自分の欲望を満たすための手段なのだ。




 ねえ、洋香ひろかちゃん。そういえば、あのときの答えが見つかったよ。

 茅島かやしまくんと同じ土俵に立って、見返して、それで――もう一度私のもとへ帰ってきてもらうの。

 洋香ひろかちゃんだってきっと、佐渡さどくんとそうなりたかったはずだ。いまのわたしならわかる。

 茅島かやしまくんの望む顔も、望むお金も、望む力も、いまのわたしは全て持っている。

 茅島かやしまくん、待っていてね。今度こそわたしの手で、茅島かやしまくんを幸せにしてみせるから。



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皮肉 規村規子 @kimuranoriko

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