第〇話 皮肉
「ひめちゃんって、ぶすだよね」
小学生の頃、たいして仲良くもないクラスメイトたちにそう言われ続けて、子供ながらに深く傷ついたのを覚えている。
中学生になると、一部の乱暴な女子から〝ひめブタ〟とあだ名をつけられて、休み時間のたびに追い回された。『ブヒブヒ』と二回鳴かないと許してもらえない、という馬鹿げたルールがあった気がする。
わたしはどちらかというと目立たないタイプだったし、いま思えばなにが原因だったのかはっきりとわからないけど、きっとみんな暇だったんだろう。
中学校も卒業間近のとき。クラスメイトの影響で、わたしはファッション雑誌に興味を持つようになる。発売日にコンビニでしょっちゅう立ち読みして、大人っぽいきらきらした世界に夢中になった。
それと同時に、よく悩んでいたと思う。雑誌のモデルやクラスメイトの女子たちと比べて、どうしてわたしは可愛くないんだろう、どうしてみんなとこんなに違うんだろうって。
そして、ちょうどこの頃から、もともと酷かった父親の暴力がさらに激しくなった。
母親と妹の見ている前で、灰皿で顔を思いきり殴られたこともある。わたしの鼻から零れる血が、ぽたぽたと床に垂れていくのを見た母親が「ちゃんと拭いておきなさいよ」と言い放ったことは、たぶん一生忘れない。
わたしにとって父親は、正しい虐待者であり、絶対的な存在だった。
初めて暴力を振るわれたときのことは、いまでもよく覚えている。友達の持っていた人形を黙って家に持って帰ってしまったとき、それが発覚して、玄関のドアポストに叩きつけられたのだ。たった五歳のときだった。
いま思えば立派な窃盗だけど、どうしてもその人形が欲しかったんだと思う。
こうしてわたしは、それがきっかけで、ほんの些細なことでも暴力を振るわれるようになった。なにが良くてなにが悪いのか、ずっと学ぶことができずに。
もちろん嫌だったし、殴られる意味がわからなかったから、必死で抵抗することもあった。汚い言葉で反撃に出たこともあった。
でも、長く続いているとそのうち、暴力を受けることがあたり前だと感じるようになる。それに無抵抗のほうが、父親の気が済むのが若干早かった。怒りや悲しみといった感情が、諦めに近いものに変わり、そして自分の中で結論づける。
きっと悪いことをしているのはわたしで、殴られるのはわたしが悪いことをしているから。
父親にびりびりに破かれたファッション雑誌の山の中で、楽しそうに笑うモデルの断片を見ながら、わたしは毎日毎日、今夜を乗りきれ、明日も乗りきれ、と。呼吸のやり方まで忘れてしまいそうになっていた。
そんなわたしを救ってくれたのは、
ある日学校から帰って、いつもどおり殴られて家を追い出されたわたしは、近所に住んでいた
「ちょっ、き、キミ制服が血だらけだよ! どうしたの!?」
「あ……その、これは……」
「とにかくウチすぐそこだから、おいで!」
「
「そうかな……キラキラネームみたいで嫌だよ」
「えーお姫サマみたいで羨ましいよぉ。あ、
自身を〝卵かけご飯
その夜、
それになにより、
ある日の放課後、わたしはいつも通り部室に寄ってから帰ろうとしたとき、そこにいたのはギターの
そんな
高校生とは思えないくらい艶めいた色気のある声で、うまく言葉にできないけど、男というものを感じさせる歌声。気づけばわたしはドアに耳をくっつけていて、
「なぁ。そこにいるのわかってるから、入ってこいよ」
ひとりで妙なムードに浸っていると、
わたしは観念して、少しだけドアを開けて姿を見せる。
「ご、ごめんなさい。あの、立ち聞きするつもりじゃ……」
「あぁ、あんた
「す、鈴木です。鈴木……」
このとき、恥ずかしいからという理由で名前を教えなくて、本当に正解だったと思う。
「あ、あの。
「そうだ。ギターが歌うのはおかしいか?」
「い、いえそういうわけじゃ。
「やりたくても、もうバンドは出来上がっちまってるんだ。そう簡単にはいかねぇよ。って、これじゃあ
「だ、誰にも言わないです、わたし」
「そっか。だけどよ、俺よりすげえやつがボーカルだったら、たぶん喜んでギター弾くぜ、俺」
「わ、わたしは、
わたしは
なぜかというと、これからの自分が進むべき道のヒントになるんじゃないかと、そんな予感がしたのだ。たいした特技のなかったわたしだけど、あのとき本能で感じた〝確信〟は、きっと誰もが持っているものじゃない。
「サンキュー、鈴木さん」
夕焼けの光がカーテン越しに降り注いでいて、
「ちなみに、さっきの。そんなとこにいないで、こっち入って聴いたらよかったのに、っていう意味だから」
そう言って
瞬間、まるで背中に電気が走ったような感覚があった。そのときはなにが起きたのかわからなくて、いたずらっぽく笑いながら去っていく
わたしが
「ひっく……
「ね、ねぇ
「おんなじドヒョウに立たないと、言い返せない気がして……ひっく」
「そんなに
「ん……悔しい、ひっく、悔しいの。だから
それで――どうするの。
わたしは口の中でつぶやいた。
二人が別れて以来、部室に足を運んだことはなかったけれど、わたしは
卒業を聞近に控えたある日、ふとわたしは、このままなにも言えずに離れ離れになりたくない気持ちが強くなる。せめて連絡先だけでも聞こうと思った矢先に、
それから
高校を卒業してから、
わたしは特にやりたいこともなく、このまま地元の飲食店でバイトをする日々だろう。
そんな風に思っていたときだった。いつものように父親からの暴力に耐えていると、この日だけはなぜか、無抵抗に寝そべっていてもずっと止まらなかった。そのときのことはあまりよく覚えていないけど、「家に金を入れろ」とか「嫌ならいますぐ出て行け」とか、そんなことを怒鳴っていたと思う。
あげくの果てに、わたしは四階のベランダから落とされそうになった。それだけははっきりと覚えている。
直後、逃げるように家を出て、わたしはその足で東京に行った。
とにかく、誰もわたしを知らないところへ行きたい。自分の中に、これほどの恐怖を感じる機能があったのかと思うくらい、ぞっとした。わたしはいままで運よく生き延びていただけだ、と。
行く先のあてなどなかったけど、なんとなく東京に決めた理由はあった。東京ではたくさんのキャバクラが求人を出していて、短時間で高収入に加え、寮を完備しているお店もたくさんあるらしい。身寄りのないわたしがこれから生きていくためには、すぐにお金と住む場所を確保する必要があった。
雑誌で見たことのある知識だけを頼りに、こうしてわたしは水商売の世界に飛び込んだのだ。
二十歳になって、仕事柄というのもあり、わたしはメイクやスキンケアをたくさん覚えて、長年の見た目の悩みもある程度は解決できるようになっていた。
「
「あぁ。あんた高校のときの、なにちゃんだっけ」
「す、鈴木です。鈴木……鈴木
どうしてこんなことを口走ったのか。いま思えば、
「
「あの、
「そこのライブハウス前でフライヤー配ってた。俺いま、バンドやってるんだ。ほら、これ」
「あ、ありがとう。またバンド……始めたんだ」
「おう。今度はボーカルでな。覚えてるぜ、あのとき俺の声は売れるって言ってくれたこと。だから俺さ、すげえ頑張ってんだ」
このとき渡された、
「えっと、
「わたしは、その、出勤前で……」
もう、二度と会えないと思っていた。
どうしようもなく心が揺さぶられるこの感情は、どういった種類のものなのかと考えてみる。
「それより、
もちろん口走ったわけじゃない。どうすれば
懐かしいとか嬉しいとか、そんな一言では表せない。これは高校生のときに芽生えた、一生消えそうにない感情だ。
その日の帰り道、そういえばみんなどうしているんだろうと、ふと思う。ネットで検索をかけてみると、
あれほど好きだった
だけど、それでもよかった。いまこの幸せな瞬間だけはそんなこと忘れていたかったし、そもそもわたしは、自分という女にそれほど価値がないと思っていたから。
それから、わたしはたびたびライブハウスを訪れるようになる。
ヴィジュアル系というすこし特殊なジャンルで、独特の衣装やメイクはもちろん、ファンからの経済的支援が裏であたり前のように行われている。メンバーの生活費や家賃を払っているファンまでいたことは、さすがに衝撃的だった。
それはそのうち、わたしの中で強い不安に変わる。もしかしたら
そこでわたしは
案の定、
それとはべつに、
お金の他に、
本当に楽しい日々だった。
わたしは売れないキャバ嬢だったけど、この生活をなんとしても守ろうと必死で働いた。店で客が注文したフードの食べ残しをあさって、何度も空腹をしのいだ。コンビニで数十円の駄菓子を泣く泣く万引きしたこともあった。そうしているうちにどんどん痩せていって、これは一石二鳥だと思い込んだ。
その日の夜のことは、いまでも鮮明に覚えている。
店でなかなか指名が取れなかったわたしは、ついに店長から早上がりを言い渡されて、予定より三時間も早く帰宅したときだった。
「ただいまー。んもう、今日お店ガラガラで――」
鍵を開けてドアを引いた瞬間、びんと身体に伝わってきた衝撃に驚いた。チェーンがかかっている。
そしてまもなく聞こえてきた「え?」という女の声に、ドアの隙間から玄関を覗くと、見たことのないヒールが置いてあった。
「ちょっ……おまっ、やばいから」
すると
「えっと、どういうコト?」
「とにかくいまは帰ってくれ。なぁ、頼むから」
そう言われてわたしは、わたしの家から閉め出されたのだ。
ショックで頭の中が真っ白だった。わたしは、
思い出したとたんに込み上げてくる吐き気と戦いながらも、相手がどんな女なのか気になってしかたがなかった。しばらくのあいだ近所をうろうろしながら、マンションの様子を遠目からうかがうのがやっとだった。
一時間後にようやく
そのときは
そんなときに限って、ある日、
わたしはとうとう覚悟を決めて、おそるおそる
そしてふと、なにかがおかしいことに気づいた。いくつか他の男の名前もあったけど、大きな割合を占めているのは〝たかひろ〟だ。男同士でこんなにやり取りをするものだろうか。それは直感的なものだったけど、ふと頭によぎった違和感をたしかめようと、メールの内容をクリックした。
そこからはもう、見るに
もう、頭がおかしくなりそうだった。
「勝手に見てんじゃねえよ!」
「痛っ! ごめんなさい、
「もういいよ。俺、出て行くから」
「い、いやだ、それだけはいや。お願い……」
「悪いことしたのは俺だからさ。こんな俺と一緒にいたくないだろ?」
「違う!
わたしは、この場をいかに切り抜けるかしか考えていなかった。
「
「それで?」
「いますぐに頑張れるのは、お金……もっと渡せるようにするから」
わたしは無我夢中で働いた。朝と昼の空いた時間には、日払いのバイトも入れた。働くことなんて楽しくない。そう感じる余裕も忘れるほど働き続けた。
「あ、あのね、渡すお金なんだけど、あさってまで待って欲しいんだ。こ、今月の食費の計算、チョット間違えちゃって」
「……お前さ、前に自分で言ったこと覚えてるか?」
「えっと、どれだろ。と、とにかくごめんなさい。あさってには必ず渡すから」
それが、
日をまたいだ深夜、キャバの仕事から家に帰ると、
どこで間違えたんだろう――。
違う、違う。きっと、なにかの事件に巻き込まれたのだ。
繋がらない電話をかけ続けながら、わたしは気がふれたように泣いた。そのうちわたしの目は、
二十六歳になっていた。
「――さん。鈴木さん」
気がつくと、そこには見慣れた先生の顔があった。
「……あはっ。ごめんなさい、寝ちゃってましたぁ」
一瞬のような気もするし、とても長かったような、そんな夢を見ていた気がする。
「明日の朝はちょっとびっくりすると思うけど、三、四日したら腫れも引いてくるから。メイクはそれからね」
「はぁい。ありがとうございましたー」
「もしなにかあったら、またいつでも来てね」
広くて綺麗な待合室には、帽子を深く被った女や、マスクにサングラスをした女たちで溢れていた。みんなわたしと同じように、コンプレックスを持っているのだ。
そんな同志たちに背を向けて会計を済ませ、わたしは病院を出た。
わかってはいたつもりだけど、こうしてどんどん積み重ねていくと、やっぱり余計に他の部分が気になってしまう。
なりたい顔のイメージを伝えるために、わたしはいつも
お金が必要だ。このまま顔を変え続けていくとして、いまの店にずっといるわけにはいかないし、もっと待遇のいい店を探さなければ。
あれから
ネットで探し回って、辿り着くことは簡単だった。いまは新しいボーカルのうしろでギターを
どうしてだろう。
高校生のとき、
だけど、ふっとした瞬間に、
それから数年後、新しく働き出した店にやって来た〝彼〟は、神様がくれたプレゼントだとしか思えなかった。
一度聴いたら忘れられない独特の声。〝彼〟は間違いなく、
わたしは、どうにかして
〝彼〟は、今後の自分の歩むべき道のヒントであり、チャンスだ。
でも、安心して。わたしの好きな人は変わらない。今でもずっと、
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