第〇話 皮肉

「ひめちゃんって、ぶすだよね」


 小学生の頃、たいして仲良くもないクラスメイトたちにそう言われ続けて、子供ながらに深く傷ついたのを覚えている。

 中学生になると、一部の乱暴な女子から〝ひめブタ〟とあだ名をつけられて、休み時間のたびに追い回された。『ブヒブヒ』と二回鳴かないと許してもらえない、という馬鹿げたルールがあった気がする。

 わたしはどちらかというと目立たないタイプだったし、いま思えばなにが原因だったのかはっきりとわからないけど、きっとみんな暇だったんだろう。




 中学校も卒業間近のとき。クラスメイトの影響で、わたしはファッション雑誌に興味を持つようになる。発売日にコンビニでしょっちゅう立ち読みして、大人っぽいきらきらした世界に夢中になった。

 それと同時に、よく悩んでいたと思う。雑誌のモデルやクラスメイトの女子たちと比べて、どうしてわたしは可愛くないんだろう、どうしてみんなとこんなに違うんだろうって。

 そして、ちょうどこの頃から、もともと酷かった父親の暴力がさらに激しくなった。

 母親と妹の見ている前で、灰皿で顔を思いきり殴られたこともある。わたしの鼻から零れる血が、ぽたぽたと床に垂れていくのを見た母親が「ちゃんと拭いておきなさいよ」と言い放ったことは、たぶん一生忘れない。

 わたしにとって父親は、正しい虐待者であり、絶対的な存在だった。

 初めて暴力を振るわれたときのことは、いまでもよく覚えている。友達の持っていた人形を黙って家に持って帰ってしまったとき、それが発覚して、玄関のドアポストに叩きつけられたのだ。たった五歳のときだった。

 いま思えば立派な窃盗だけど、どうしてもその人形が欲しかったんだと思う。

 こうしてわたしは、それがきっかけで、ほんの些細なことでも暴力を振るわれるようになった。なにが良くてなにが悪いのか、ずっと学ぶことができずに。

 もちろん嫌だったし、殴られる意味がわからなかったから、必死で抵抗することもあった。汚い言葉で反撃に出たこともあった。

 でも、長く続いているとそのうち、暴力を受けることがあたり前だと感じるようになる。それに無抵抗のほうが、父親の気が済むのが若干早かった。怒りや悲しみといった感情が、諦めに近いものに変わり、そして自分の中で結論づける。

 きっと悪いことをしているのはわたしで、殴られるのはわたしが悪いことをしているから。

 父親にびりびりに破かれたファッション雑誌の山の中で、楽しそうに笑うモデルの断片を見ながら、わたしは毎日毎日、今夜を乗りきれ、明日も乗りきれ、と。呼吸のやり方まで忘れてしまいそうになっていた。




 そんなわたしを救ってくれたのは、茅島かやしまくんと洋香ひろかちゃんの存在だった。二人と出会ったのは高校生のときだ。

 ある日学校から帰って、いつもどおり殴られて家を追い出されたわたしは、近所に住んでいた洋香ひろかちゃんとばったり遭遇してしまう。


「ちょっ、き、キミ制服が血だらけだよ! どうしたの!?」

「あ……その、これは……」

「とにかくウチすぐそこだから、おいで!」


 洋香ひろかちゃんの家族は優しくて、お母さんが外国の人で少しびっくりしたけど、本当の家族のように接してくれた。


鈴木すずき章姫あきひめちゃんっていうんだ。すごい、カワイイ名前!」

「そうかな……キラキラネームみたいで嫌だよ」

「えーお姫サマみたいで羨ましいよぉ。あ、洋香ひろか洋香ひろかね。って、なぁんか日本語おかしくなっちゃった」


 洋香ひろかちゃんはぷりぷりの黄身が乗ったご飯を用意してくれた。

 自身を〝卵かけご飯奉行ぶぎょう〟と呼んでいた洋香ひろかちゃんのこだわりはすごい。あらゆる調味料を組み合わせて試した結果、最も相性が良かったのはめんつゆと鮭ふりかけだそうだ。卵の混ぜ方からめんつゆの量まで、色んな解説や指示を受けた。このとき食べた卵かけご飯が、一番おいしかったと思う。

 その夜、洋香ひろかちゃんのお父さんがわたしの家に行ってくれたけど、わたしが悪いの一点張りで話にならなかったそうだ。

 洋香ひろかちゃんは何度も警察に行こうと言っていた。だけどそれをしなかったのは、一言でいえば面倒だったからだ。警察に行って保護されたとして、そのあとどうなるかわからない。少し我慢していれば寝る場所も変わらなくて済むし、高校にだって通わせてもらえる。大事おおごとにしたくなかった。とにかく、環境が変わることが面倒だったのだ。

 それになにより、洋香ひろかちゃんとの出会いに、わたしは希望の光を見出そうとしていたのかもしれない。




 洋香ひろかちゃんは美人で、それを鼻にかけない明るい性格だった。日本語が上手で、それでもたまに出る変なカタコトの言い回しも、みんなに可愛がられていたと思う。

 洋香ひろかちゃんは、学年で一番かっこいいと評判だった軽音楽部の佐渡さどくんとつき合っていて、わたしは洋香ひろかちゃんのおまけでしょっちゅう部室に出入りしていた。佐渡さどくんとその取り巻きはみんな派手で目立っていて、正直わたしは苦手だったけど、それでもレベルの高い男子のグループに混ざることは気分が良かった。

 ある日の放課後、わたしはいつも通り部室に寄ってから帰ろうとしたとき、そこにいたのはギターの茅島かやしまくんだった。

 茅島かやしまくんは佐渡さどくんの取り巻きの一人だけど、どこか人を寄せつけない雰囲気を持っていた。教室移動のときに茅島かやしまくんのクラスを覗いても、隅でいつも音楽を聴いているイメージしかない。

 そんな茅島かやしまくんが、部室で一人歌っていたのだ。音を立てないようにドアをそっと閉めて、耳を澄ます。このとき、わたしはなぜか茅島かやしまくんが大きな舞台で歌う姿をはっきりと想像できた。

 高校生とは思えないくらい艶めいた色気のある声で、うまく言葉にできないけど、男というものを感じさせる歌声。気づけばわたしはドアに耳をくっつけていて、茅島かやしまくんの歌声を必死で拾っていた。


「なぁ。そこにいるのわかってるから、入ってこいよ」


 ひとりで妙なムードに浸っていると、茅島かやしまくんが突然ドア越しに声をかけてきた。

 わたしは観念して、少しだけドアを開けて姿を見せる。


「ご、ごめんなさい。あの、立ち聞きするつもりじゃ……」

「あぁ、あんた洋香ひろかの連れの、なにちゃんだっけ」

「す、鈴木です。鈴木……」


 このとき、恥ずかしいからという理由で名前を教えなくて、本当に正解だったと思う。


「あ、あの。茅島かやしまくんは、ギター担当ですよね」

「そうだ。ギターが歌うのはおかしいか?」

「い、いえそういうわけじゃ。茅島かやしまくんは、ボーカルやらないのかなと思って」

「やりたくても、もうバンドは出来上がっちまってるんだ。そう簡単にはいかねぇよ。って、これじゃあ佐渡さどのボーカルに満足してないって言ってるようなもんか」

「だ、誰にも言わないです、わたし」

「そっか。だけどよ、俺よりすげえやつがボーカルだったら、たぶん喜んでギター弾くぜ、俺」

「わ、わたしは、茅島かやしまくんが歌ったほうがいいと思います。いまは無理でも、いつか茅島かやしまくんがボーカルのバンドをやって……茅島かやしまくんの声は、絶対に売れます!」


 わたしは茅島かやしまくんの歌声を、できるだけたくさんの人に聴いて欲しいと思った。

 なぜかというと、これからの自分が進むべき道のヒントになるんじゃないかと、そんな予感がしたのだ。たいした特技のなかったわたしだけど、あのとき本能で感じた〝確信〟は、きっと誰もが持っているものじゃない。


「サンキュー、鈴木さん」


 夕焼けの光がカーテン越しに降り注いでいて、茅島かやしまくんはオレンジ色の中に溶け込んでいた。


「ちなみに、さっきの。そんなとこにいないで、こっち入って聴いたらよかったのに、っていう意味だから」


 そう言って茅島かやしまくんは、すれ違いざまに突然、わたしの耳たぶを噛んだ。

 瞬間、まるで背中に電気が走ったような感覚があった。そのときはなにが起きたのかわからなくて、いたずらっぽく笑いながら去っていく茅島かやしまくんを、わたしはただぼーっと見ながら立ち尽くしてしまう。

 わたしが茅島かやしまくんを好きになるには、じゅうぶんすぎる出来事だった。

 洋香ひろかちゃんと佐渡さどくんが別れたのは、ちょうどそんなときだ。佐渡さどくんが他校の女子と浮気をしていたらしい。それを問い詰めたら、その浮気相手も軽音楽部に入っているらしく、洋香ひろかちゃんとはできない音楽の話がたくさんできるのだそう。

 洋香ひろかちゃんはとにかく佐渡さどくんをどう見返すかばかり考えていて、散々悩んだ結果、自分もボーカルになると言い出したのだ。


「ひっく……洋香ひろかも、ぜったい……ぜったい歌で成功するんだ……ひっく」

「ね、ねぇ洋香ひろかちゃん。なにも歌じゃなくても。洋香ひろかちゃんならほら、モデルとかさ」

「おんなじドヒョウに立たないと、言い返せない気がして……ひっく」

「そんなに佐渡さどくんのこと、好きだったの?」

「ん……悔しい、ひっく、悔しいの。だから洋香ひろか、バンドで歌ってビッグになって、おんなじ思いをさせるの。ひっく……それで、ワビを入れさせて、それで……」


 それで――どうするの。

 わたしは口の中でつぶやいた。

 洋香ひろかちゃんとは何度か一緒にカラオケに行ったことがあるけど、正直、洋香ひろかちゃんが歌手になれる可能性は限りなくゼロに近いと思う。けっして下手ではないけど、ただ器用に歌っているだけで、気持ちがはずまない。洋香ひろかちゃんの歌声には、茅島かやしまくんのようにピンとくるものがないのだ。

 二人が別れて以来、部室に足を運んだことはなかったけれど、わたしは茅島かやしまくんのことを忘れられなかった。入学してから早三年、結局同じクラスになれなくて、教室移動のときに遠目から見ることしかできない。

 卒業を聞近に控えたある日、ふとわたしは、このままなにも言えずに離れ離れになりたくない気持ちが強くなる。せめて連絡先だけでも聞こうと思った矢先に、茅島かやしまくんが洋香ひろかちゃんに告白したことを知った。




 それから茅島かやしまくんと洋香ひろかちゃんがどうなったのかはわからないけど、茅島かやしまくんがふられたらしい、という噂話は聞いた。

 洋香ひろかちゃんと接していると、どうして茅島かやしまくんは洋香ひろかちゃんを選んだんだろう。と、意地悪な感情がどんどん湧き上がってくるようになった。

 高校を卒業してから、洋香ひろかちゃんとはなんとなく気まずくなって、結局疎遠になってしまう。佐渡さどくんのバンドは卒業を機に解散したけど、そのあと茅島かやしまくんがどうしているかは誰も知らなかった。

 わたしは特にやりたいこともなく、このまま地元の飲食店でバイトをする日々だろう。

 そんな風に思っていたときだった。いつものように父親からの暴力に耐えていると、この日だけはなぜか、無抵抗に寝そべっていてもずっと止まらなかった。そのときのことはあまりよく覚えていないけど、「家に金を入れろ」とか「嫌ならいますぐ出て行け」とか、そんなことを怒鳴っていたと思う。

 あげくの果てに、わたしは四階のベランダから落とされそうになった。それだけははっきりと覚えている。

 直後、逃げるように家を出て、わたしはその足で東京に行った。

 とにかく、誰もわたしを知らないところへ行きたい。自分の中に、これほどの恐怖を感じる機能があったのかと思うくらい、ぞっとした。わたしはいままで運よく生き延びていただけだ、と。

 行く先のあてなどなかったけど、なんとなく東京に決めた理由はあった。東京ではたくさんのキャバクラが求人を出していて、短時間で高収入に加え、寮を完備しているお店もたくさんあるらしい。身寄りのないわたしがこれから生きていくためには、すぐにお金と住む場所を確保する必要があった。

 雑誌で見たことのある知識だけを頼りに、こうしてわたしは水商売の世界に飛び込んだのだ。




 二十歳になって、仕事柄というのもあり、わたしはメイクやスキンケアをたくさん覚えて、長年の見た目の悩みもある程度は解決できるようになっていた。

 茅島かやしまくんと街で偶然再会したのは、そんな頃だ。


茅島かやしま……けいくん?」

「あぁ。あんた高校のときの、なにちゃんだっけ」

「す、鈴木です。鈴木……鈴木洋香ひろか


 どうしてこんなことを口走ったのか。いま思えば、茅島かやしまくんの気を引きたかっただけかもしれない。


洋香ひろか、か。あんたも洋香ひろかっていうんだ。ははっ、懐かしい名前だぜ」

「あの、茅島かやしまくんはここでなにを?」

「そこのライブハウス前でフライヤー配ってた。俺いま、バンドやってるんだ。ほら、これ」

「あ、ありがとう。またバンド……始めたんだ」

「おう。今度はボーカルでな。覚えてるぜ、あのとき俺の声は売れるって言ってくれたこと。だから俺さ、すげえ頑張ってんだ」


 このとき渡された、茅島かやしまくんのバンド名が印刷されたチラシは、いまでもファイルに入れて大事に保管してある。


「えっと、洋香ひろかこそ、こんなとこでなにしてるんだ?」

「わたしは、その、出勤前で……」


 もう、二度と会えないと思っていた。

 どうしようもなく心が揺さぶられるこの感情は、どういった種類のものなのかと考えてみる。


「それより、茅島かやしまくん。ココ東京だよ? 卒業してから違うトコでたまたま再会するなんて、洋香ひろか、なーんか運命感じちゃうなぁ」


 もちろん口走ったわけじゃない。どうすれば茅島かやしまくんがわたしに興味を持ってくれるのか。それだけで頭がいっぱいだった。

 懐かしいとか嬉しいとか、そんな一言では表せない。これは高校生のときに芽生えた、一生消えそうにない感情だ。茅島かやしまくんと部室で話してから今日まで、わたしはずっと茅島かやしまくんが好きだった。

 その日の帰り道、そういえばみんなどうしているんだろうと、ふと思う。ネットで検索をかけてみると、洋香ひろかちゃんは地元で結婚していて、佐渡さどくんはサラリーマンになっていた。そんなものだ。




 あれほど好きだった茅島かやしまくんとつき合えることになったときは、なんだかあっけなかった。

 茅島かやしまくんはきっと、わたしの中にいる洋香ひろかちゃんに惹かれていたのだと思う。高校時代に撮った写真や送られてきたメールをたどって、言動やメイクを真似て、あらゆる手を尽くしてわたしは〝洋香ひろか〟になったのだ。

 だけど、それでもよかった。いまこの幸せな瞬間だけはそんなこと忘れていたかったし、そもそもわたしは、自分という女にそれほど価値がないと思っていたから。

 それから、わたしはたびたびライブハウスを訪れるようになる。茅島かやしまくんのバンドがライブの日は、必ず行って最前列を確保していた。

 ヴィジュアル系というすこし特殊なジャンルで、独特の衣装やメイクはもちろん、ファンからの経済的支援が裏であたり前のように行われている。メンバーの生活費や家賃を払っているファンまでいたことは、さすがに衝撃的だった。

 それはそのうち、わたしの中で強い不安に変わる。もしかしたら茅島かやしまくんも、ファンからお金をもらっているのではないか。そしてその見返りに、肉体関係を持った営業をしているのではないかと。

 茅島かやしまくんのバンドは、費用を支払ってくれる事務所に所属していなかった。だからライブをするのにも、CDを作るのにもお金がかかる。

 茅島かやしまくんはいつもお金に困っていて、何度か貸したこともあった。毎日会えるわけじゃない。会えないときは心配事が絶えず、ネガティブな感情にひたすら振り回される毎日だった。

 そこでわたしは茅島かやしまくんに、家賃と生活費をわたしが負担することを条件に、一緒に住もうと提案する。このとき、わたしはすでに店の寮を出ていて、店が提携している不動産を通して新しいマンションを借りていた。きっと了承してくれるはずだと。

 案の定、茅島かやしまくんはすぐにバイトを辞めて、わたしが借りたマンションにあっさり転がり込んできた。バンドをやっている以上、ファンとの交流は避けて通れないことはわかっている。それでも、これで過剰な営業をする必要がなくなったと思うと安心した。

 それとはべつに、茅島かやしまくんがやりたいことだけに集中できるようになって、わたしはそれが心の底から嬉しかった。茅島かやしまくんは音楽が本当に好きで、それは日常生活や歌声からも伝わってくる。音楽というものに真剣に〝触れ〟ようとしていた。その気持ちが茅島かやしまくんを動かしていることまで、わたしには深く感じ取れていたのだ。

 お金の他に、茅島かやしまくんの力になれることがもうひとつあった。茅島かやしまくんが言うには、どうやらわたしには先見せんけんめいがあるらしい。たしかに、歌声を聞いて『これは売れる、流行る』と思ったら、本当に全国的に有名になったミュージシャンは何人かいる。茅島かやしまくんが他のバンドからもらってきたデモCDを聴いて、このバンドは必ず売れるから仲良くしておこうとか、そんな作戦の重要な判断を任されていた。

 本当に楽しい日々だった。茅島かやしまくんと一緒に過ごす、その一瞬一瞬全てがいとおしかった。

 わたしは売れないキャバ嬢だったけど、この生活をなんとしても守ろうと必死で働いた。店で客が注文したフードの食べ残しをあさって、何度も空腹をしのいだ。コンビニで数十円の駄菓子を泣く泣く万引きしたこともあった。そうしているうちにどんどん痩せていって、これは一石二鳥だと思い込んだ。




 その日の夜のことは、いまでも鮮明に覚えている。

 店でなかなか指名が取れなかったわたしは、ついに店長から早上がりを言い渡されて、予定より三時間も早く帰宅したときだった。


「ただいまー。んもう、今日お店ガラガラで――」


 鍵を開けてドアを引いた瞬間、びんと身体に伝わってきた衝撃に驚いた。チェーンがかかっている。

 そしてまもなく聞こえてきた「え?」という女の声に、ドアの隙間から玄関を覗くと、見たことのないヒールが置いてあった。


「ちょっ……おまっ、やばいから」


 すると茅島かやしまくんが、慌しく玄関まで走ってきた。下着一枚の姿で。


「えっと、どういうコト?」

「とにかくいまは帰ってくれ。なぁ、頼むから」


 そう言われてわたしは、わたしの家から閉め出されたのだ。

 ショックで頭の中が真っ白だった。わたしは、茅島かやしまくんの浮気現場に遭遇してしまったのだ。

 思い出したとたんに込み上げてくる吐き気と戦いながらも、相手がどんな女なのか気になってしかたがなかった。しばらくのあいだ近所をうろうろしながら、マンションの様子を遠目からうかがうのがやっとだった。

 一時間後にようやく茅島かやしまくんから連絡があって、家に帰ると、玄関で茅島かやしまくんが土下座をしながら待っていた。茅島かやしまくんが泣いている姿は、このとき初めて見たと思う。両手両膝をついて、頭を床に擦りつけていた。もう二度としない、別れたくない、と。

 そのときは茅島かやしまくんの熱意に負けて許してしまったけど、後日よくよく考えてみると、自分がいま不自然な状況にいることに気づく。

 茅島かやしまくんは一緒に住み始めてから、バンド活動のない日もしょっちゅう出かけていた。ライブのなかった月も、どうしてもお金が必要だからと言われて、わたしはそのたびに銀行へ引き出しに行った。もしかしたら茅島かやしまくんはずっと前から浮気をしていて、わたしの渡したお金を浮気相手に使っていたのではないか。その女に、わたしは間接的にお金をあたえていたのではないかと。そしてなにより、どうしてもその女と関係が切れたように思えなかったのだ。

 そんなときに限って、ある日、茅島かやしまくんが携帯を忘れたまま家を出てしまった。今日、茅島かやしまくんはスタジオ練習で、この時間に取りに戻ってこないとなると、おそらくあと数時間は帰ってこない。

 わたしはとうとう覚悟を決めて、おそるおそる茅島かやしまくんの携帯を手に取る。こんなに指が震えるのは、勝手にプライベートを覗き見しようとする罪悪感からなのか、怖いもの見たさの好奇心なのかわからなかった。ちょうど新着メールがきていて、〝たかひろ〟という名前が表示されていた。特に気に留めることもなく、過去のメール受信履歴をスクロールしていく。

 そしてふと、なにかがおかしいことに気づいた。いくつか他の男の名前もあったけど、大きな割合を占めているのは〝たかひろ〟だ。男同士でこんなにやり取りをするものだろうか。それは直感的なものだったけど、ふと頭によぎった違和感をたしかめようと、メールの内容をクリックした。

 そこからはもう、見るにえない内容の連続だった。〝たかひろ〟は女で、茅島かやしまくんの浮気相手だったこと。〝たかひろ〟は女子高生で、いつも茅島かやしまくんがデート代を払っていたこと。茅島かやしまくんの浮気現場に遭遇したあの日、マンションの入り口から制服を着た若い女が出てきたことを思い出した。そのときは気にもめなかったけど、あの女が〝たかひろ〟だということ。あの日、わたしは同居人の男だと説明されていたこと。男にしては声が高かったと疑う〝たかひろ〟のメールに対して、実はあいつは性同一性障害の女なんだと返信していたこと。男の名前で登録されていたアドレスが、他にもいくつかあったこと。

 もう、頭がおかしくなりそうだった。

 茅島かやしまくんの帰宅後、感情のままに問い詰めると、わたしが携帯を見たことに腹を立てた茅島かやしまくんは、わたしに殴りかかってきた。


「勝手に見てんじゃねえよ!」

「痛っ! ごめんなさい、茅島かやしまく……やめて、痛い!」

「もういいよ。俺、出て行くから」

「い、いやだ、それだけはいや。お願い……」

「悪いことしたのは俺だからさ。こんな俺と一緒にいたくないだろ?」

「違う! 茅島かやしまくんは……悪くない」


 わたしは、この場をいかに切り抜けるかしか考えていなかった。茅島かやしまくんの気が変わらないうちに、繋ぎとめておきたいほどの価値を見せなければならない、と。


茅島かやしまくんが、う、浮気をしたのは、洋香ひろかが可愛くないから。洋香ひろかに、お金も、力もなかったから……」

「それで?」

「いますぐに頑張れるのは、お金……もっと渡せるようにするから」


 わたしは無我夢中で働いた。朝と昼の空いた時間には、日払いのバイトも入れた。働くことなんて楽しくない。そう感じる余裕も忘れるほど働き続けた。

 茅島かやしまくんのバンドは順調で、事務所に所属が決まってからは、色んな雑誌やCDショップでプッシュされているのを見かけるようになった。すっかり東京の若手ヴィジュアル系を代表するバンドになっていたと思う。仕事でライブに行けなくなってしまった代わりに、CDの発売日には必ず買いに行った。この頃に買ったCDも全部、再会したときにもらったチラシと一緒に保管してある。

 茅島かやしまくんはどんどん有名になって、わたしはそれが嬉しいはずなのに、むしろどんどん心がすり減っていく気がした。大きな舞台で脚光を浴びる茅島かやしまくんの影で生き続けるのがわたしの望みであり、音楽を愛している茅島かやしまくんもきっと、そう望んでいる。そう自分に言い聞かせては、たまに家で会えば嫌われないように話した。


「あ、あのね、渡すお金なんだけど、あさってまで待って欲しいんだ。こ、今月の食費の計算、チョット間違えちゃって」

「……お前さ、前に自分で言ったこと覚えてるか?」

「えっと、どれだろ。と、とにかくごめんなさい。あさってには必ず渡すから」


 それが、茅島かやしまくんと交わした最後の会話だった。

 日をまたいだ深夜、キャバの仕事から家に帰ると、茅島かやしまくんの荷物は全て消えていた。

 どこで間違えたんだろう――。

 違う、違う。きっと、なにかの事件に巻き込まれたのだ。茅島かやしまくんがわたしを置いていなくなるはずがない。

 繋がらない電話をかけ続けながら、わたしは気がふれたように泣いた。そのうちわたしの目は、茅島かやしまくんのまぼろしまで作り始めた。俺がいなくなったのは、お前が可愛くなかったからだ。お前に金が、力がなかったからだ、と。そう言われている気がした。

 二十六歳になっていた。










「――さん。鈴木さん」


 気がつくと、そこには見慣れた先生の顔があった。


「……あはっ。ごめんなさい、寝ちゃってましたぁ」


 一瞬のような気もするし、とても長かったような、そんな夢を見ていた気がする。


「明日の朝はちょっとびっくりすると思うけど、三、四日したら腫れも引いてくるから。メイクはそれからね」

「はぁい。ありがとうございましたー」

「もしなにかあったら、またいつでも来てね」


 広くて綺麗な待合室には、帽子を深く被った女や、マスクにサングラスをした女たちで溢れていた。みんなわたしと同じように、コンプレックスを持っているのだ。

 そんな同志たちに背を向けて会計を済ませ、わたしは病院を出た。

 まぶたが重くて、すこしぼやっとした違和感がある。なにが起きているのかわからなかったくらい、本当にすぐ終わった。なんとなく覚えているのは、糸でまぶたを引っ張られているような不思議な感覚だけ。永久的な効果は期待できないと先生は言っていたけど、もし取れてしまったら、またやればいい。

 わかってはいたつもりだけど、こうしてどんどん積み重ねていくと、やっぱり余計に他の部分が気になってしまう。

 なりたい顔のイメージを伝えるために、わたしはいつも洋香ひろかちゃんの写真を持参していた。洋香ひろかちゃんはもうすこし顎が細いし、唇もふっくらしている。

 お金が必要だ。このまま顔を変え続けていくとして、いまの店にずっといるわけにはいかないし、もっと待遇のいい店を探さなければ。

 あれから茅島かやしまくんには会っていない。

 ネットで探し回って、辿り着くことは簡単だった。いまは新しいボーカルのうしろでギターをいている。新しいボーカルは、茅島かやしまくんが認めた〝すげえボーカル〟だった。ライブもやっていたけど、いまのわたしには茅島かやしまくんの前に姿を現す資格がない。

 どうしてだろう。茅島かやしまくんがいないと、なんだか日本にいる気がしない。世の中はどんどん変化していくのに、わたしだけ置いていかれている、現実感のないこの感覚が気持ち悪かった。

 高校生のとき、茅島かやしまくんに目を奪われた瞬間から、わたしは茅島かやしまくんの世界で生きてきたのかもしれない。心ない言葉もたくさん言われたし、一生懸命働いて稼いだお金もなくなった。

 だけど、ふっとした瞬間に、茅島かやしまくんと過ごした幸せな日々を思い出してしまう。どれだけ時間が経っても、自分の気持ちに整理などつかなかった。これで終わりのはずがないと。毎日毎日、画面越しに動向を知るたびに、その思いはますます強まった。




 それから数年後、新しく働き出した店にやって来た〝彼〟は、神様がくれたプレゼントだとしか思えなかった。

 一度聴いたら忘れられない独特の声。〝彼〟は間違いなく、茅島かやしまくんのバンドで歌っていたボーカルだ。

 わたしは、どうにかして茅島かやしまくんに辿り着きたかった。あの頃より可愛くなったし、十分なお金もある。だけど、力だけは手に入れることができないでいた。茅島かやしまくんの望む力、茅島かやしまくんがもっと上の地位と名声を手に入れるための権力。歌も楽器もできないわたしが、同じ土俵に立って、茅島かやしまくんのためにできること。

 〝彼〟は、今後の自分の歩むべき道のヒントであり、チャンスだ。

 茅島かやしまくん、ごめんなさい。他の男を選んでごめんなさい。

 でも、安心して。わたしの好きな人は変わらない。今でもずっと、茅島かやしまくんだけだから。



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