洋香
最終話 執念
〝ドアに鍵はかかっていない〟
〝なのに〟
「俺は、ここから一歩も動けない……か」
目の前の巨大なスクリーンから聞こえてくる歌声に合わせて、ふと、唇を動かす。それが声に出ていたことに気づいたのは、目の前にいる女子高生の集団に、不審そうな目で見られてからだった。
すると女子高生たちはわたしを同志だと思ったのか、まるで〝わたしのほうが彼にふさわしいのよ〟とでも言いたげに、勝ち誇った顔で笑う。
『お送りした曲は<下川
再び聞こえてきたパーソナリティの声に反応して、女子高生たちはスクリーンに目を戻した。
どうやら番組は<下川
「やばいって。『
「ちょっ、待って。それ、ウチ半目になってね?」
「なら、そっちで撮ったやつ送ってよ。それ載せるから」
スクリーンをバック自撮りしたかと思えば、夢中でスマートフォンをいじったりと、女子高生たちは忙しそうにしている。
承認欲求を満たすための、日常的な動作。<下川
「かわいそうだね」
はっとした。また、気づかないうちに声に出てしまったのではないか、と。
「ほんとかわいそー。めっちゃ痩せちゃってたよね」
「ねー。痩せたってゆーか、やつれたってゆーか」
まわりの同調の声で、それは女子高生の一人の声だとわかって、ほっとした。
「声も微妙に違くなかった? ほら、この頃のほうがさ、なんていうか迫力あるよね」
「痩せて声変わったんじゃね?」
「べつに、前から細かったよね。事務所にもっと痩せろって言われたとか?」
「えっ、そのダイエットふつうに知りたいんだけど」
「下川式メソッド的な?」
「ぶふっ、それやばい!」
ばかばかしくなって歩き始めたとたん、今度は猿みたいにきゃあきゃあと吠え始めた。
「なんか色々噂あったもんねー。ライブで発狂したとか、病んでたとか」
「あったあった。ブログもさ――」
女子高生というものにどれだけ価値があるのか、女子高生でいるあいだは気づかない。気づかないで彼女たちは、のん気に電波で思い出を増やしながら生きている。
それよりもわたしは、さっきのストリートミュージシャンが気になっていた。声のしたほうへなんとなく歩いていく。すると、またさっきの歌とギターの音が聞こえてきた。ざわざわと騒がしい街中にもかかわらず、よく通る、接近してくるみたいな声。たぶん、十代か二十代の若い男の子。
だんだん姿が見えてきた。一歩間違えたら浮浪者のような格好で、シャッターを背に、地面にべったりと座っている。ニットキャスケットを深く被ってうつむいていて、どんな顔かよく見えない。立ち止まって聞いている人もいなかった。わたしは彼のほうへと迷いなく歩いていく。
「こんばんは」
声をかけると、歌とギターがぴたっと止まり、こちらを見上げてきた。
着ている服とは不釣り合いな、きれいに整った顔。
「演奏のジャマしちゃってごめんなさい。ねぇキミ、プロにキョーミない?」
「……はい?」
それにしても、本当にきれいな顔。眉を寄せてもきれい。無愛想さなんて、あとからどうにでもなる。
「
「いや、自分はそういうのはあんまり――」
「はいコレ、いつでも電話してね」
ポケットに忍ばせていた名刺を一枚取り出して、無理やり彼の手に握らせる。彼の手はひんやり冷えきっていて、やわらかくて、しなやかだった。
「それと、もうすぐ雪になるから、今日は早めに帰ったほうがいいよ。バイバイ」
彼に手を振って別れを告げた。彼は、頭がおかしいんじゃないのか、とでも言いたげな顔で首をかしげている。
これでいい。少し変に見られるくらいがちょうどいいの。こいつはみんなとは違う特別なやつだって、彼に思わせることができただろうか。
自分の不思議な行動の余韻に浸りながら、わたしは『
店に入って、更衣室へ向かう前にざっとフロアを見る。今日もオープン直後から、揃いも揃って下品な顔ばかり点々と散らばっていた。早い時間に行けば、お目当ての子とたくさん話せるだろう。と考えたやつらが、全員集結してしまったような光景だった。
小さな美容室みたいなこの空間で、わたしは〝ヒロ〟に変身する。いつもの赤いミニドレスを着て、小さな鏡の前に立った。
赤は好き。華やかで情熱的で、火山みたいに感情を溜め込んでいるわたしの分身だ。そんな自分を肯定し続けていたくて、わたしは赤を着る。
準備を済ませてフロアへ行くと、背後から黒服に呼び止められた。指名が二本入っていて、もう席でわたしを待っている、と。
それを聞いて、たったいま思い出した。今日は約束の日だ。わたしは急ぎ足でフロアを横切り、一番奥のテーブルへ向かう。
「
「ま~たそんなこと言って。キミが会いたかったのは、ボクのお財布に住んでる諭吉クンでしょ~」
「やぁだ、それは言わないオヤクソク」
相変わらずなにを考えているのか、今日も柳沢はへらへらとわざとらしく笑っている。
その横に、見たことのないスーツの女が座っていた。
「今日はね、ウチのマネージャーの島田を連れてきたの。ほら島ちゃん、挨拶して」
「よ、よろしくお願いします!」
島田と紹介された女が勢いよく頭を下げたとたん、女のポニーテールがテーブルにもさっと垂れた。
地味なヘアゴムで束ねられた髪は、何もかもすり抜けそうなくらいサラサラだ。
「……ねがいしまーす。ヒロでーす」
適当なリアクションで返すと、島田は顔を上げて、気恥ずかしそうに目をそらした。
小柄で、華奢で、ぱっちりとした大きな目。なんの手も加えていなさそうな、生まれたままの姿。
「このヒロちゃんはね、ウチにと~っても貢献してくれてるの。くれぐれも失礼のないようにね」
「え! それってまさか、<
「ふふ。他にもね、有望な卵をたくさん紹介してくれるのよ~、彼女。そういう才能があるみたい」
柳沢はわたしと島田を交互に見ながらそう言って、ウインクまで飛ばしてきた。
一見嬉しそうに笑っているようで、ひどく残酷で
「もしかして、<
「そうよ~。他にもソロだと<
「すごい……皆さんチャート常連じゃないですか。
島田にも気を許してはいけない。柳沢が連れてくるような人間に、ろくな人間はいないからだ。
とはいえ、こんな風に持ち上げられるのは悪い気分じゃなかった。
「そういえば<
「あ、<
ふと思い出したように言った島田に、わたしは斜め向かいのテーブルを手で指し示した。手前に座っているヘルプの女の奥で、ソファの上に投げ出された足が見え隠れしている。
二人はぎょっとしたように身を乗り出して、酔い潰れて寝ている<
大きく息をついてからわたしに向き直った柳沢は、テーブルに両肘をついて、にまあっといやらしく笑う顔を頬杖で支えた。
「それで? いったいどんな魔法を使ったの?
「……やぁだ、魔法だなんて」
柳沢は頬杖をついたまま、ニヤニヤと笑いながら言う。一瞬動揺したことまで、見透かされたような気がした。
「魔法じゃなかったら超常現象よ。たった二年で、あの亡くなった彼の声になっちゃったんだもの。本当に驚いたわ」
「ヒロはただ、あの声になれる方法を教えただけですよぉ」
顔をしかめながらゴロン、と寝返りを打つ<
なにも知らない、哀れな子。
「ね、それってどんな方法? お願い、ヒントだけでも」
「えへへ。それはキギョー秘密ですー。それより
興味津々の顔をこちらに寄せてきた柳沢に、わたしはなるべく平静を装って聞き返した。
柳沢は口角を引き上げたまま、きょとんとした目でわたしを数秒間見つめたあと、続いて目尻を下げる。
「ふふ。キミ、昔とずいぶん顔が変わったみたいだけど、だ~い好きな<
柳沢のじっとりとした仕草のひとつひとつが、わたしを揺さぶる。
「そうそう。<
「えー、かわいそう。
「そうしてあげたいのはやまやまなんだけど~。残念ながらボクはもう、<
「そっかぁ。でも、<
喋りすぎたかもしれないと、そう言い終えた直後に気づく。早口になったり、声が大きくなったりしていないだろうか。
「それはどうかしらね。いくら前は人気があったからって、<
「んー、探せばいるんじゃ……ないかなぁ」
「お金。困ってると思うわ?」
まるで心理戦だ。そして柳沢はわくわくしながら、間違いなくそれを楽しんでいる。
不自然な間があいてしまい、すると柳沢は喉の奥でクックッと笑い出した。
「そ~んな怖い顔しないでよ~。ボクとしても気が引けたのよ。ただ、やっぱりほら、ウチにいる子たちにかかわってる子の素性くらいは、はっきりさせておきたいじゃない?」
「あはっ。ヒロはただの、元バンギャってだけですよぉ」
慌てると冷静な判断が鈍ってしまう。わたしは柳沢を注意深く観察しながら、このあとのあらゆる発言に対応できるように、頭の中の引き出しをどんどん開けていった。
「〝バンギャ〟ってあの、ヴィジュアル系のバンドマンに貢いだりする、あの〝バンギャ〟でしゅか!?」
そのとき、突然口を挟んできた島田が、自分のグラスをテーブルの上に乱暴に置いた。
「……島ちゃん。飲みすぎよ」
「ふぁ、しゅ、しゅみません」
そんな島田の態度に、柳沢は深くため息を吐いて睨みつける。
島田はろれつの回らない声で返事をしたあと、ソファにぐったりもたれた。
「ごめんなさいね~ヒロちゃん。この子、な~んにも知らなくて」
「んーん。それより
「はいはいわかってるわよ。しかたないけど、約束しちゃったものね」
これ以上内心の動揺を気取られまいと、このタイミングで話題を変えた。
「やったぁ! すみませーん、アルマンドロゼお願いしまぁす」
柳沢がそろそろ帰ると言うので、歩けないほど酔い潰れた島田に肩を貸しながら、わたしは店の入り口まで見送りに出る。
予想通り、外は雪が降っていた。積もるほどではなさそうだけど、ひんやりとした冷気が、ドレスの下のむき出しの足を集中的に刺してくる。羽織ってきたストールの防寒性能など、たかが知れていた。
「すごーい。ちょー雪降ってるね。そういえば、
柳沢は「あのね」とわたしの話を遮って前置きしたあと、くるりとこちらを振り向いた。
「いくら話題がないからって、そんなに何回も出会った頃の話なんて、もう聞き飽きたわ。ボクには通用しないわよ」
急に真顔でそう言われて、わけがわからず戸惑った。
「えー。島田さんには、ヒロに失礼のないようにみたいなコト言っておいて、
「勘違いしないでちょうだい。キミとボクは、ギブアンドテイクの利害関係にあるのよ。たしかにボクにはキミが必要だし、だけどキミにもボクが必要。言いたいこと、わかるわね?」
要するに柳沢は、わたしと対等な立場であることを忘れるなと。あんまり調子に乗るなと言いたいらしい。
「……はぁい。ごめんなさい」
「さすがヒロちゃん。ボク、話のわかる子は好きよ~」
柳沢はそれまでの真顔から一転、いつもの軽い口調でにっこりと笑った。
今回は<
そうこうしているうちに、電話で呼んだタクシーが店の前に到着した。
柳沢はさっそく、うしろの席に島田を放り込む。そして自分も乗り込もうとすると、ふと、再びこちらを振り向いた。
「ま~でも、キミはまだここでも稼げるから大丈夫よ」
「えー、どうしてそう思うんですかぁ?」
その言葉の裏になにか別の真意があるような気がして、わたしはあえて聞いてみた。
「ボクの気に入らないキャバ嬢ってね、み~んな売れちゃうの」
「やぁだ。それ、ヒニクってやつですかぁ」
サラッとした調子でそう言うと、柳沢はタクシーの扉を閉めた。
発車して、見えなくなるまで頭を下げていると、誰かが近づいてくる気配を感じた。
顔を上げると、少し離れた場所で
しばらくして顔を上げたアイクはふう、と身震いすると、自分の身体を両腕で抱きしめるようにして、こちらに歩いてくる。カツンカツンと、ヒールの音を高らかに響かせながら。
「……勘違いババア」
すれ違いざま、アイクはたしかにそう呟いた。
やがてヒールの音はだんだん小刻みになり、店のドアが大きく閉まる音と共に消える。
あまりの寒さで感覚が麻痺しているのか、まるで暑い場所にいるみたいで、いつまでも立っていられそうなくらいだ。雪はいかにも無関心そうに降っている。ぱらぱらと静かに、穏やかに、ひるがえりながら。
わたしはその足で更衣室へと向かった。
バタンとドアの閉まる音が、無人の更衣室に響く。店のピークのこの時間帯は、もちろん誰もいない。ずらっと並んだロッカーに適当に向き合い、思いきり息を吸い込んだ。
「ああああああもうウザいんだよほんとに柳沢のやつはさああああああ! いちいちいちいち癇に障ることばっか言いやがって! 金使って人のまわりコソコソと嗅ぎ回ってんじゃねーよ気持ち悪い! なーにが勘違いするなだよ! こっちのセリフだよクソが! てめえなんか金と立場以外なんの価値もねーんだよカマ野郎! しかもその金すら渋るってもう価値なくね!? っていうかてめえがアルマンド入れていいっつったんだろーがよ! せっかく紹介してやったのに、気に入らなかったからって人のせいにしてキレてんじゃねーよ! どこまでケチくせーんだよおおおおおお! それに連れてきたあの女はなんなの!? っていうかキャバに女連れてきてんじゃねーよクッソ気ぃ使うだろーがちょっと考えればわかんだろうがよ!! 女も女でぽっと出のくせに酔っ払ったふりして生意気にギャ語ってんじゃねーよクソブスが! だいたいあの喋りかたはなんなわけ!? わざと? わざとなの? 『ふぁい、しゅみません』、じゃねええええええんだよ!! 清純っぽい服着て天然ぶってりゃ男が釣れるとでも思ってんのかよ勘違いブスが! アイクもアイクでこっちが黙ってりゃ調子に乗りやがって! なーにがババアだよてめえに言われたくねーよ隠れババアが! ババアのくせに気持ち悪いキラキラネームああああああ恥ずかしい!! 狙ってた柳沢取られて悔しいんだろ? 妬んでんのみえみえなんだよ! 二位の座が危なくなって必死おつでーす! 枕で客繋いでんのわかってんだよ! 中西のデブが急に高いボトル入れだしたのもヤッたからだろ! なぁ!? っていうかてめぇがガキ連れて歩いてんの見たやついるんだよバーカ! いつでもゆすってやんよ! あっ
不思議なことに、こうやって叫んですっきりしたことは一度もない。ただ、ほんの少しだけ仕返ししたような気分になれる、そんな無益な快感を味わいたいだけ。
言葉に宿るパワーなんて、わたしは信じない。どうかそうなってくれますように、どうか現実になりますようにと。いくら願っても叶わないことなんて、痛いほどわかってる。
そろそろフロアへ戻ろうとドアを開けたとたん、目の前にドレス姿の知らない女が立っていて、びっくりしてつい声を漏らしてしまう。
「あ、あの、わたし、忘れ物を……」
立っていたというより、入ってこれなかったというほうが正しいのかもしれない。そう言って、身動きひとつせず固まっている女を見る。
明らかに大きいサイズの、体型をカバーするようなオフショルデザインの黒いロングドレス。二の腕まわりは生地がびっちり張りついていて、袖を掴む余裕すらなさそうだ。ぱんぱんの深海魚みたいな顔に、子供が落書きでもしたようなメイク。
わたしの中の優越感が、一気に頂点に達した。
「あはっ、そんなに怯えないでよぉ」
ふと、女のたくましい二の腕をつついた。
「新人サン?」
「は、はい! えっと、昨日入ったばっかりで……」
「そっかそっかー。でね、さっきのコトなんだけど、誰にも言わないって約束できるかなぁ。ってゆーかこの店でやってくつもりなら、約束してもらわないと困るんだけど。あ、だいじょぶ。そしたら悪いようにはしないよ。あ、ねぇねぇ、灰皿で思いっきり顔殴られたことある? あれケッコー痛いんだよぉ。だから、あんまり手荒なコトとかしたくないからさ。ね、約束できるよね?」
わたしは一気にまくしたてるように言ったあと、しばらく黙って女の反応を待った。
すると女は両手で口を覆い、泣きそうな顔で何度も大きく頷いている。
「さすが新人サン。ヒロ、話のわかる子は好きよ~」
気分が乗ってきたので、柳沢の口調を真似て言ってみた。女はショックを受けた様子で、まるで人の皮を被った悪魔だ、とでも言いたげな目でわたしを見ている。涙を溜め込んで厚ぼったく腫れた目は、まるで深海魚そのものだ。
余計なことを言わないように、釘を刺して正解だった。なんて面白いものが見れたんだろう。この女は、使えるかもしれない。
気分がいいままフロアに戻ろうと、わたしは女を残して更衣室をあとにした。
そのとき、肩にかけていたクラッチバッグから着信音が聞こえた。
振動しながら鳴り響いているスマートフォンを取り出す。
知らない番号。すぐにはっとして、思わず握り締めた。びっくりして、嬉しくて、言葉にできない感情がぶわっと流れ出して、一瞬で数年前とリンクする。この高ぶりに耐えきれなくて、我を忘れてしまいそうだった。
柳沢から聞いた話のタイミングといい、間違いない。彼のことだから、そろそろ電話をしてくる頃だと思っていた。もう何年も番号を変えていないのは、今日この瞬間のためだったといっても過言ではない。
心臓がどきどきしている。わたしは幸せな圧迫感を感じながら、画面に指を滑らせた。
「もしもーし、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます