第十六話 証明
〝
吐き出す息が白くはっきりと見えるくらい寒いのに、ひたすら走っていたせいか、ダウンの中は汗ばんでいた。開場三十分前のバタバタしている中、僕は一人、スタッフさんや他の出演者たちに謝罪と挨拶をしてまわっている。
どうしてこんなことになったかというと、家を出る直前、母さんに
ようやく僕が到着した頃には、出演者全員が開場前に最後の顔合わせをしている最中で、僕はすごく恥ずかしい思いをした。到着してさっそく、柳沢社長と<
母さんはここのところおかしい。スーパーの仕事もずっと休んでいて、一日のほとんどを寝て過ごしている。たまに起きてきたかと思うと、僕の部屋の前をうろうろして、ちゃんと僕が部屋にいることを確かめているみたいで。
普段僕に電話をかけてくることなんかないのに、しょっちゅうかかってくるようにもなった。電話はいつも『今のあなたは普通じゃない』とか『病院に行こう』という内容ばかりだ。僕が何度違うと言っても、母さんからは繰り返し同じ言葉が返ってくるだけだった。
三ヶ月くらい前に一度、母さんに無理やり引きずられて、僕は病院へ連れて行かれた。思えばあの頃から、いつもの母さんとは違う予感があったかもしれない。予約待ちで大変だったんだからと、待合室で母さんは何度も言う。まだ小学生くらいの小さな子が泣き叫んでいて、付き添っている母親が、まるで自分も泣きたそうな顔でなだめていたり、ガラガラと点滴の棒を引きずりながら退屈そうに歩く、高校生くらいの女の子と目が合ったりもした。待合室はつらそうな病人で溢れていて、どうして僕がここにいるのかわからなかった。
先生のいる部屋に通されると、母さんが僕の覚えのない症状を先生にぺらぺらと説明する。そして母さんがいったんその場を離れると、僕は先生から質問攻めにあった。僕はどこもおかしくないのに、先生まで僕をおかしくしたがっている。
なにを話したのかはよく覚えていないけど、先生の結論としては『まずは原因となっている父親と話し合ってください』という、どうやっても受け入れられないものだった。
そしてまた三ヶ月後に次の予約をとって、それが今日だ。一度事務所へ向かうために家を出ようとしたとたん、ものすごいスピードで飛んできた母さんに引き止められた。何度行かないと言っても母さんは聞いてくれなくて、ついには大声で泣きながら僕の足にしがみついてくる。
そこにちょうど
挨拶まわりが終わって、僕は誰もいない広々としたステージを眺めた。
どうしても玄関で泣きわめく母さんの姿が、ちらちらと頭の中で見えたり隠れたりしていて、それを振り払うようにステージに意識を集中させた。そして想像する。あと数時間後に、僕はここに立っているんだ。
今の母さんは、本当の母さんじゃない。ただそれだけだ。
楽屋口から入ったステージ裏の暗い通路で、僕は出番をじっと待った。
すでに前の出演者のライブが始まっていて、迫力のある音が身体にズンズンと響いてくる。ステージから大きな拍手と歓声があがるたびに、自分たちのミスが許されない、会場の空気を壊してはいけないと、そんなプレッシャーが重くのしかかった。
「……ん」
うずくまるような姿勢でいた僕に、<
「ほっといてやれよ、<
「……いえ、ありがとうございます」
ストレッチをしている<
「なんだよ、本当に顔色悪いじゃん。あんた」
そう言って僕を上から覗き込んできた<
普段はナチュラルメイクの<
「それに最近、一気にやつれたよね。身体絞るのもいいけどさ、ほどほどにしときなよ。ライブでぶっ倒れでもされたら迷惑だから。な、<
<
「そういえば<
こうやって<
「……ったく」
これでも精一杯の笑顔を見せたつもりの僕の反応に、<
「ねぇ。この写真、覚えてる?」
すると<
それは半年前〝
「このときのあんたさ、まぁまぁいい顔してるよ。これが俺だって、ステージで思いきり叫ぶんだろ」
写真の中の僕は、生きているエネルギーみたいなものに溢れていて、それが懐かしくて、たまらなく切なくなる。この頃どんな気持ちだったのか、僕は思い出せずにいた。
僕の両サイドには、いたずらっぽく得意気に笑う<
しばらくして前の出演者たちのライブが終わり、汗だくの男の人たちがぞろぞろとステージ裏に下りてくる。それとほぼ同時に、機材の入れ替えと僕たちのセッティングが慌しく始まった。
幕が開くそのときが近づくにつれ、どんどん怖くなっていく。ステージ裏では「お疲れ」という声があちこちで飛び交って、僕の出番はこれからだというのに、早くそこに混ざりたい気持ちでいっぱいになった。
そして、出番はあっという間にやってきた。入場直前に三人で円陣を組むところから、暗黙のルールは始まる。
このあと僕がステージに上がった瞬間、まずは前にぶわっと詰めかけてくるお客さんがいるはずだ。続いて、僕の気を引くような手が上がり、僕を励ますような甲高い声が上がる。
中には、私生活では絶対に見せないような動きで暴れ出すサラリーマンもいるし、拳を振り上げて絶叫するおじさんもいる。盛り上げなければいけないという使命感なのか、ただ自分が目立ちたいだけなのか、なんとなくそうしているのか。
ここでこう動こうねと、事前に打ち合わせでもされたようなお客さんのノリを、ラストまで指揮していくのが僕の役目だ。
そして最後に、『今日はいつもより最高でした』と、毎回僕は言う。
もしかしたら、熱狂的な僕のファンもいるかもしれない。でもそれはきっと、前列の数パーセントだけだ。みんなまわりと同じ動きに必死で合わせて、本当にそれで一体感を感じているのか。僕はいつもわからなくて、いつも冷静だった。
ライブの流れを頭の中で何度もシミュレーションして、僕は入場した。
瞬間、それはすぐに吹っ飛ぶ。会場はどこを見ても人の顔でぎゅうぎゅうに埋め尽くされていて、いつもの何倍もの歓声が上がった。このじんわりとした火照りが、自分から出ているものなのか、会場の熱気なのかわからない。僕を求めて伸ばされた腕が、何十本、何百本と増え続ける。僕のルールブックのどこにも載っていない光景だ。マイクスタンドの前まで歩きながら、少しでも気を抜くと、膝がガクガク震えそうになった。飲み込まれてしまいそうになるのを、僕の意識が必死でこらえている。
<
スタジオのリハーサルどおりの進行だ。大きなうねりを作っている二千人以上の大所帯を、僕は何の問題もなく指揮している。順調だった。頭の中に浮かんだ、ふとした疑問に支配されるまでは。
会場の人たちはみんな同じ速度で、同じ方向に動き続けていた。それがだんだんゆっくりと、映像の一コマ一コマになり
反対に、ギターを
だんだん、音の聞こえが悪くなっていく。
みんなどうして、偽者の声でこんなに楽しんでいるんだろう。僕はどうして、偽者の声でみんなを楽しませなくちゃいけないんだろう。曲が始まって、誰にも聞こえもしない声で、どうして僕は歌わなくちゃいけないんだろう。曲が終わって、どうして僕は偽者の歓声を浴びているんだろう。
僕の声が、まわりの音が、僕の耳の中で遠のいていく。目を閉じると意識まで持っていかれそうで、もうなにもかもどうでもよくなりそうだ。そしてまた次の曲が始まるたびに、僕の疑問はどんどん膨らんでいった。
ラストの曲『
僕はなにを思えばいい。なんて言えばいい。
『
「あ……」
僕の声が、初めてマイクを通して会場に響いた。するとさっきまでの盛り上がりが嘘みたいに、しんと静まる。予定では、まだ会場はざわざわと賑わっているはずだった。会場の視線が一斉に僕に集中する。
なにか、話さなければいけない。
「今日は、いつもより最高のライブでした」
そんな強迫観念に迫られて、思わずいつものお決まりのセリフが口からこぼれた。
こんなことが言いたいわけじゃない。
「最後に演奏した『
ブログや取材の記事から引っ張ってきた言葉の、ひどい棒読みだ。僕が存在する証拠なんて、表現できていたはずがない。だってそんなこと、いまのいままですっかり忘れていたのだから。
そんな僕の気も知らずに会場の人たちは、言葉の続きをいまかいまかと待っている。
「<下川
口から勝手に言葉は出るし、頭の中はずっと真っ白だ。
ついには、フロアの真ん中に
そこに立つべきなのはお前じゃない、俺を殺したくせに許さないと。そう言っている気がした。
毎日毎日部屋にやって来て、こんなところまで僕を追ってきたんだ。今度こそ殺されるかもしれない。
「僕、僕は……」
お前は俺じゃない、お前が本当に呼ぶべきなのは、自分の名前だと。フロアに立っている
だけど
どれだ?
「うわああああああごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! 僕は、僕は
べつにずっとこのままでもよかった。だけど、それは許されなかった。
「僕は、僕はどれなんですか!! どれになったらいいですか!! 僕はここです!! ここにいるんです!!」
そして、僕のかわりは僕しかいない理由が、とにかくいますぐ欲しかった。
どうしてかわからないけど、気づけば会場からわーっとものすごい歓声が上がっている。
「おいおい<
近寄ってきた<
あぁ、この人たちはきっと、僕が何者かなんてどうでもいいんだ。
汗か涙かわからない液体がどんどん僕の首筋を流れていって、もう身体も頭の中もぐちゃぐちゃだった。
「僕を見て!! お願い、お願い……!!」
盛大な歓声と拍手は、やがて<
そして僕は、表舞台から消えた。
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