第十五話 壁際

 足の裏が一瞬沈んだあと、頭の中がすーっと下がっていくような不思議な浮遊感。

 それを感じたときにはもう、僕はエレベーターの中に立っていた。ガラス窓から外の様子を見ると、もう真っ暗だ。

 ごうんごうん――、ジジッ――ジジッ。

 鼓膜に直接伝わってくるようなモーターの轟音に、耳をふさいでしまいそうになる。それに混じって、天井の照明が不規則な音を立てて点滅していた。その角にある真新しい監視カメラが僕を見下ろしていて、デパートのエレベーターのような、シミひとつない綺麗な白い壁に僕は囲まれている。

 あべこべな空間だと思った。コンピューターに見放されているのか、それとも制御されているのか。

 エレベーターはどんどん上昇していく。

 ふと、上に上がれば上がるほど、もう戻ってこれなくなるのではないかと思うようになった。だけど、どこから乗り込んでどこへ向かっているのかわからないし、いつからここにいたのかも思い出せない。

 しばらくすると、明かりがわずかに暗くなって、僕は天井を見上げた。と思うとまた明るくなってを繰り返し、天井の照明が激しく点滅するようになる。

 僕と睨み合いを続けていた照明は、やがてフッと負けたように消えて、なにも見えなくなった。

 ガラス窓から見えていた外との見分けもつかない、完璧な暗闇だ。エレベーターは、何事もなかったみたいに正常に動いている。

 それからどのくらいの時間が経ったのか。方向感覚も上下感覚も、何の意味もなくなっていた。困ったことに、いつまでも暗闇に目が慣れてくれない。唯一、足の裏だけは地面をしっかりと感じている。だけど、落とし穴があるはずもないのに、怖くて一歩も踏み出すことができないでいた。

 そのうち、自分がどうなったのかわからなくなって、胸とお腹のあたりが圧迫されるような感じがした。だんだん呼吸が浅くなってきて、酸素がうまく取り込めない。手を動かそうにも、なにがあるのかひとつも予測できないこの状況で、僕はただ立っていることしかできなかった。そもそも、自分の腕がちゃんとついているのかどうかすらわからない。僕の目は相変わらず、〝黒〟という認識を続けている。


「だから何度も言っただろ。名前って大事だよね、って」


 そのときだった。今の声が、どこから聞こえたのかわからない。


「まぁさ、あの人・・・とのことは残念だったと思うよ。せっかく勇気を出して言ったのに、空振りどころか変人扱いされてさ。ひどい仕打ちだよな」


 目の前か、左右か、後ろからのような気もする。

 だけど僕はきっとバイト帰りで、この時間僕の他に乗ってくる人は誰もいないはずだ。


「けどさ、RAMPANTリァンペントのことは自業自得じゃないかな」


 頭の中で反響し始めた声に、僕は、僕の頭の中のナレーターが喋っていることに気づいた。


「芸能人でもあるまいし、ちょっと売れてきたからってお高くとまっちゃって。返事をサボッてたのは自分だろ? そりゃ友達やファンは怒って離れていくさ。手のひらを返したような、ひどい仕打ちを受けたって。最初から最後まで、ちゃーんと媚びてれば良かったんだよ。得意だろ?」


 ナレーターはそれらしい音声で、続けて読み上げた。

 正論すぎてなにも言えないでいる僕に、ナレーターは「<Takumiタクミ>さんみたいにさ」と、どこか面白そうに小声で言い、急に違和感を感じる。頭の中に、僕ではない別の意思が存在しているみたいだった。


「まぁ売れてるっていっても、全体から見たらほんの数パーセントだけどな。みんながみんな、ジャカジャカした音楽を聴くと思ったら大間違いさ。それこそ『うるさい』の一言で片付けるやつなんか、ごまんといるしな」


 それは、気のせいなんかじゃなかった。これは僕の声じゃない。


「下川くんさ、事務所でやってくの大変じゃない? 下川くんは音楽の才能ってよりも、人をイライラさせる才能はピカイチだと思うからさ。世間知らずのお坊ちゃんで、空気も読めないし」


 この声は、八百太やおたさんだ。八百太やおたさんの意思が僕の頭の中から抜け出して、形成されて、音声を発しているんだ。

 八百太やおたさんの声はもうぼんやりとしか覚えていないはずなのに、なぜか僕はそう確信した。


「下川くんがなにを考えてるか、当ててやろうか」


 八百太やおたさんの声が、今度は耳のすぐ近くで聞こえた。


「そうだな、まずは<Takumiタクミ>さん。あぁ、いたなぁそんな人……って思いたいんだよね。自分は関係ないって顔して、本当はすごく意識してるのに。いつ自分がああやって捨てられてもおかしくないもんな。だけど僕は大丈夫、大丈夫って言い聞かせてる」


 するとその声が、どんどん僕の声に変わっていく。


「だって僕は<Takumiタクミ>さんと違ってギターがとっても上手いし、あんなに太ってないし、顔だって僕のほうが何倍もかっこいいし」

「なっ、僕はそんなこと……思っていない」

「そもそもあの人、モテる要素がひとつもないのに、ヴィジュアル系なんて無理があったんだよ。事務所前で<Natsuナツ>さんがズバッと言ってくれたとき、気持ちよかったなぁ」


 まるでもう一人の僕と会話しているこの状況が、違和感でしかなかった。


「あぁ、<Natsuナツ>さんといえば、<Nobunagaノブナガ>さんもそうだけど、それなりにかっこいい人たちが僕のサポートについてくれて良かったよ。やっぱり一緒にやるからには、<Takumiタクミ>さんみたいな見た目だとちょっと、ね。僕よりかっこよくても困るんだけどさ」


 声量、響き、口調まで、全部僕の声だ。


「そういえば考えていたんだけど、もし柳沢社長に捨てられたら僕、ヴィジュアル系の道に進むのもありかなって。でも、<りんちょこ>さんみたいな気持ち悪い女の人ばっかりこられても、それはそれで困るけど」

「違う、僕は……」

「<りんちょこ>さん、いたなぁそんな人。<Takumiタクミ>さんと違って、いま話に出るまで本当に忘れてた。下半身が洋服を着て歩いているような、残念な人だったな。お金、返してもらえば良かった。あたり前だけど、柳沢社長も僕をとった! ははは、ざまあみろ!」

「ちが……違う、ぼ、僕はそんな……」


 僕はとっさに否定したけど、つっかえながら言ったそれに、説得力なんてあるわけがなかった。

 八百太やおたさんは僕のことなど無視して、僕の声で陽気に笑っている。


「ケイレヴもそれなりにかっこいいと思ったけど、洋香ひろかさんが大騒ぎするほどではないと思う。<Kayケイ>さん、やっぱり戻ってくるのかな。戻ってこないといいなぁ。そうしたら洋香ひろかさんも、もっと僕だけを――」

「ごめんなさい!! ごめんなさい!!」


 意識する前にはもう、自分でも驚くくらい大きな声でそう言った。

 ごうんごうん――。

 沈黙がだらんと立ち込めて、モーター音がさっきよりも大きく聞こえてくる。いったいどこまで上昇するのだろう。


「考えてみたらさ。これって全部、本当は俺が経験するはずだったんだよな」


 聞こえてくる声は、いつの間にか八百太やおたさんの声に戻っていた。あの頃のように気さくで、だけど、びっくりするくらい冷たい感情が含まれているような気がして、僕はぞっとする。


「名前って大事だよね、下川くん」


 聞き慣れたその言葉が、こんな風に恐ろしく感じたのは初めてだった。


「俺の名前は楽しかった?」










 ――ギィッ。










 部屋に誰かいる。

 目を開けた瞬間そう感じたと同時に、自分がどこにいるのかわからなくなった。

 夢と現実がごちゃ混ぜになっていて、それがかき消えていくと、僕は豆電球に照らされた淡いオレンジ色の壁を見ていた。限られた狭い範囲を、そっと眼球を動かして見渡す。ここは僕の部屋で、だけど、それまでの僕の部屋とはなにか様子が違った。

 じりじりとした空気の中、一気に全身の緊張が高まるのを感じた。ベッドに押さえつけられているみたいに、頭の先から足の先まで動かない。これは金縛りだと、頭の中の冷静なところで理解した。

 ドアの向こうから覗いている、知らない誰かの視線をはっきりと背中で感じる。ただ覗いてくるだけで、こちらには近寄ってこない。

 助けを呼べ、大声を出せと、必死に身体に命令する。頭の中で暴れて、もがいた。心臓まで金縛りにあったみたいに、息がぴたりと止まっている。そしてなにもないオレンジ色の壁を、僕はただひたすらじっと見つめていた。










 ギギ……――パタン。










 ゆっくりとドアが閉まった。

 静かにそっと、一歩ずつ廊下を踏みしめる足音に耳を澄ます。起きていることを気づかれないようにと、僕はしばらくじっとしていた。

 やがて足音はどこにいったのかわからなくなり、完全に聞こえなくなる。

 自分の指先の関節を、おそるおそる曲げてみた。曲がった、その一瞬の隙を突く。


「……っはぁ、はぁ、はぁ」


 思いっきり布団を蹴り上げ、なんとか起き上がることができた。心臓が思い出したように激しく動き出す。無我夢中で呼吸をしながら、身体が自由に動くということのありがたみを感じた。

 窓に引かれた厚い布地のカーテン、出しっぱなしのギターとキーボード、譜面台、机の上にある開いたままのノートパソコン。僕が昨日寝る前に残した空間だ。まぎれもない自分の部屋に、緊張がとけて少しほっとする。

 だけど、まるで感電でもしたような感触がリアルに残っていた。




 結局、明け方までうまく眠れないでいる。うとうとすることもなく、妙に目が冴えている、そんな感じだった。

 眠れないまま、頭の中はいろんな想像でぐるぐると回っている。見たことのあるホラー映画や探偵漫画のストーリーが次々に思い浮かんできて、そのうちに、もしかしたら八百太やおたさんは生きているんじゃないかと考えるようになった。

 おかしいと思ったんだ。八百太やおたさんは、あまりにも唐突にいなくなった。亡くなったと聞いただけで、実際に死んだところを見たわけじゃない。なにも証明されていないんだ。それとも違うかたちで、別のなにかとなって生きているとしたら、身体を乗っ取ろうと僕のところまでやってきたんじゃないか。それなら毎日あの夢の中で起きていることも、さっきこの部屋で起きたことも説明がつく。

 そんなこと、あるはずがない。あんまり寝ていないから、きっと疲れているんだ。あってはならない、あるはずがないんだ。







 タイトル:無題


 こんばんは。朝早くに更新してごめんなさい。

 最近、時々思うことがあります。

 僕は、生きている。だけどそれは、みんなが頭の中で僕を位置づけているからであって。みんなの中から僕がいなくなったら、僕はいったいどこにいくんだろう。

 音楽で自分の気持ちを伝えることはできるかもしれないけど、音楽に自分の気持ちを分かってもらうことはできない。音楽は、生きていない。

 見ているようでみんな、僕を見ていないのかもしれない。感じていないのかもしれない。

 なにが言いたいのか、よくわからなくてごめんなさい。暗くなってしまってごめんなさい。

 それでは、おやすみなさい。


 06/10 06:02



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る