第十四話 名前
僕はエレベーターの中に立っていた。
人が一人乗るだけで圧迫感のある、自宅のマンションの小さなエレベーターだ。
外の様子を見ると、上から下まで真っ暗だった。この時間に乗っているということは、きっと僕はバイト帰りだろう。今日も、僕の他に乗ってくる人はいない。天井の照明がチカチカと点滅していて、いつ切れてしまうか少し不安な明るさだ。目的の階に着くまでの間、切れないことを願う。目的の階というのは、もちろん家のことだ。
家は、何階だ。
ごうんごうん――、ミシッ――。
大げさなモーター音に混じって、引き上げるロープのきしむ音が聞こえた。
エレベーターはどんどん上昇していく。まるで、小さな細長い箱の中に閉じ込められているみたいだ。なんの変哲もない、病院や工場のような無機質な空間。だけど、なんとなく殺伐さを運んできてしまいそうな危うさもあって、この空間のどこにも安心できる要素がなかった。この沈黙が、うるさい。
エレベーターは、どんどん上昇していく。いつからここにいたのかが思い出せない。だけど、自分でも驚くほど、この不自然さを不自然に思わなかった。
〝いじだよね〟
僕は反射的に上を見た。まるで人格をもったように、エレベーターから声が聞こえる。僕のすぐ後ろからも聞こえた気がするけど、怖くて振り向けない。
〝いじだよね〟
するともう一度、今度は頭の中に直接飛び込んできた。エレベーターが喋っているんじゃない、誰かが僕の頭に語りかけているんだ。
その声は、不思議なことによく知っている声だった。僕がなにかを判断するときに、良いのか悪いのか決めてくれる声だ。僕が頭の中で歌を歌うとき、頭の中で本を読むとき。いつも直接響いてくる、それらしい音声。
それは、僕の声だ。僕の頭の中にはもう一人僕が住んでいて、いつでもナレーターのように読み上げてくれる。
「僕は、意地で音楽をやっているわけじゃない。あなたみたいに」
僕の口から勝手に言葉が滑り出る。僕は僕自身にではなく、別の誰かに向けて言ったような気がした。
〝…………いじ、だよね」
さっきよりもはっきりと頭に届いた言葉に、違和感があった。いまのは、僕の声じゃない。男の人なのか、女の人なのか。それすら判断できなかった。
僕はこの声の正体を、なぜかどうしても知りたかった。もう一度聞かせてくれるだけでいい。もう一度。
「名前って大事、だよね」
ガクン、と落下する感覚とほぼ同時に、目が覚める。
一瞬なにが起こったのかわからなくて、いまにも叫んでしまいそうなのを堪えた。ここが自分の部屋で、自分のベッドだということを確認できると、つい情けないため息が出てしまう。
どれくらい眠ったのだろうと部屋の時計を見ると、朝の八時半を回っていた。まだ本格的に暑くもないのに、汗が身体中にまとわりついていて気持ち悪い。
ノブをゆっくりと回して静かにドアを開け、
熱いシャワーを頭から浴びせながら、昨夜か今朝に見た夢のことをぼんやりと考える。
三ヶ月前『
今回の夢はいつもと違う。頭の中の記憶を適当に繋ぎ合わせた、意味不明なストーリーとも違う。たぶん僕は毎日同じような場所にいて、同じような人物に、同じような手段で声をかけられている。急にはっきりとわかるようになった。だけど『意地だ』の先だけが、どうしても思い出せない。
このままだんだんと夢の中に引きずり込まれるような、そんな嫌な予感を洗い流すように、僕は勢いよく溢れ出るシャワーに身を任せた。
十時少し前になって、僕は家を出た。
以前働いていたコンビニを駐車場から覗いてみると、見たことのないスタッフばかりいる。少しだけ寂しく思いながら、道路を渡って待ち合わせた喫茶店へ向かった。
今日はこれから
中に入ると、先に
「<
「すみません、待たせてしまって」
「んーん。
僕はいつものハチミツ入りの紅茶を注文して、再び席につく。テーブルを見ると、やっぱり
最近もなかなか会う機会が作れないでいて、今日も三ヶ月ぶりだった。
「――そっかぁ。
「それは、そうなんですけど」
「たとえば、次は楽器で雇ってくださいって、シャチョーにアピールするとか。<
「それは……でも、僕やっぱり……」
「どーしてもギターボーカルがやりたいなら、方法なんていくらでもあるじゃん。歌の練習するとか、もういっそのことギターボーカルで雇ってくれる事務所探すとか、ね?」
僕は話すのがあまり得意じゃないけど、
「はー。それにしても、ケイレヴ解散かぁ。すっごいショック」
「それ、前に会ったときも言ってましたね」
「<
「で、でも<
「
昨日、ケイレヴの解散がついに
「<
「あっ」
それを聞いて、電話で約束したことを急に思い出す。すっかり忘れていたけど、あれからもう一年以上経っていた。
「あっ、じゃないよぉ。
「すみません。あの、どうすれば」
「じゃあじゃあ、いつか<
僕は、以前事務所での柳沢社長と<
きっと表舞台に戻ってくると信じて、僕は
「やったぁ! 今度こそ約束だからね?
すると、
だけど、時々ふっと、
かといって、先輩でいられる時間も限られているかもしれないけど。まだデビューする前の自分の姿を後輩に重ねながら、事務所の中に入ると、いきなり柳沢社長が飛びついてきた。
「ビッグニュースよ~、<
「な、なにがあったんですか」
「
それを聞いて思わず、声にならない声が漏れた。
〝
「ウチと
「はいはい。ほら、見てみなよ」
テーブルの前に座っていた<
受け取って見ると、〝
「
「……ん」
<
それからしばらくして、
初めて会ったスタッフさんと名刺交換を済ませて、取材が始まる。内容は予想通り、<
「――結果として、ケイレヴから移籍のようなかたちになったと思いますが」
「俺は自分の理想を具現化したいと常に思ってて。<
「なるほど。<
「俺はドラムが叩ければどこでも……と思ってましたけど。やっぱり<
<
人前に出ることを繰り返しているせいか、僕もだんだん慣れてきたと思う。いまでは、自分がこう言えば相手はこう返す、となんとなくわかるようになっていた。
「――〝
「いえ、こちらこそ光栄です。自分の思いが、大舞台で表現できるなんて嬉しいです」
「どんなステージにしたいですか?」
「僕のデビュー曲『
最後に僕たち三人の写真が撮られて、取材は終わる。<
そのあと、外回りから帰ってきた島田さんを交えて、僕たちは今後の活動を話し合う。現在決まっているリリースやライブは予定通り行い、フェスに向けてスタジオ練習を増やすことになった。
「絶対にコケられないイベントよ。各自、宣伝しっかりやってちょうだいね」
「僕と<
「そうね、頼んだわ。本番になって会場がすっからかん、な~んてことは避けたいわ」
「それはないと思うけど。まぁ、ソールドアウトにはさせたいよね」
柳沢社長と<
「あの、声をかけてみるって、どうやって?」
「なに、そんなこともわからないの。文字どおり、フェスに来てくれって個別に誘うのさ。
「
「<
<
帰りの電車内で僕は、帰宅ラッシュのサラリーマンに押し潰されそうになりながら、<
<
色々悩んでいるうちに、もしかしたらこれはチャンスなのかもしれない、と思うようになった。いまは全国のCDショップに僕の作品が置いてあるし、少しだけどお金ももらえている。僕はプロミュージシャンなんだと、いまなら
絶好のチャンスが巡ってきたんだと、前向きに考えながら家に帰る。ついいつもの癖で部屋に駆け込んでしまったけど、まだ玄関に
かれこれ二百通以上は送信が終わったそのとき、玄関のドアが開いて、閉まる音が聞こえた。続いて、廊下を歩く足音がする。
僕は胸に手を当てて、できるだけ何度も深呼吸をする。余計なことを考えるのをやめた。なるようにしかならない。まるで戦場へ立ち向かう兵士みたいな気分で、僕は〝
そして気持ちが落ち着いたと感じた瞬間、このかすかな余裕が消えてしまわないうちにリビングへ向かう。
「なんだ、
「あ……」
ドクンと心臓が跳ね上がる。ここで目を逸らしてはいけない。僕は、いまにも乱れそうな息を大きく呑み込んだ。
そして、テーブルの上にフライヤーを、結果的に叩きつけるような形で置いてしまった。
「ぼ、僕、実はいま、事務所に入ってるんだ」
「なんだって?」
「そこの、そのライブに出ることも決まったんだ。二千人以上の……バンドマンならみんな知ってる、すごい有名なロックフェス。それにいまは僕のCDが全国で買えるし、雑誌にもたくさん出てるし、お金だって事務所からもらってる。い、いますぐは無理だけど、貯まったらすぐに出て行くから」
もう、限界だった。
それだけ言って、僕は急いで部屋に戻る。ベッドに座って、いま自分が言ったことを頭の中でリピートした。言いたかったことをいくつか言い忘れていたことに気づいて、数分前に戻ってもう一度やり直したい、つけ加えたいと後悔する。いつの間にか僕は、ベッドからずり落ちるようにして床に座っていた。
「
不意にドア越しに
だけど――。
期待してはいけない、と頭の中で唱えながらも、僕は言葉の続きを待った。
「本当にお前が出るのか」
「そうだよ。すごい、すごい有名で、二千人以上も来るんだ。僕はそこで、ギターを
「……馬鹿なことを言うな」
ドア越しに、ため息まじりの呆れたような声が返ってくる。同時にブーッブーッとスマートフォンが鳴って、無意識のうちに手を伸ばして掴んでいた。
「お前の名前なんて、どこにも載ってないじゃないか」
――ブーッブーッ。
間を置かずに再び振動したスマートフォンに、まるで責められているような気持ちになった。
『長期間返信放置しといて謝りもせず、いきなり宣伝はどうかと思うよ』
『売れてきてから本当に変わったよね。昔のほうが良かった』
『久しぶりに連絡きたと思ったら、ノルマ要因にする気ですか』
『変なポエムコピペで送ってくんな、カス』
画面に表示されている、僕宛てに届いた返信。そのメッセージは全部、以前頻繁にメッセージのやり取りをしていた友達だった。
「ふふっ、ふはは……」
どうしたんだろう。なにかがおかしくてたまらなくなって、僕はスマートフォンを放り投げて床に寝転んだ。なにがどうおかしいのか、どこでなにを間違えたのか判断ができない。僕はいまどんな風に笑っているのか、なんだかもう全部がわからなかった。
そしてまた、床に落ちているスマートフォンがガタガタと震え出す。身体を少し転がしてスマートフォンを手に取り、通知をオフに戻した。振動は止んだ。
「もしかしてこれか? 下川……」
「――ちょっとあなた。この前言ったじゃない。最近あの子、ちょっと変だって」
するとドアの向こうから、母さんの押し殺すような声がした。
「夜中に大声で叫んだりしてるって言ったじゃない。この間もリビングでね、ブツブツうわ言みたいに呟いて」
「……そうだな。久しぶりに顔を見せたと思ったら、まったく訳のわからんことを言い出して」
「でしょう。最近はほら、心の病気っていうのかしら。珍しくはないじゃない? 一度診てもらったほうがいいのかしら」
僕の耳に全神経が集まったみたいに、二人の会話がよく聞き取れる。
やっとの思いで上半身だけ起こしたけど、床に座り込んだまま、なぜかこれ以上身体を動かすことができない。僕だけが外部から遮断されて、僕の味方が全員この世からいなくなってしまったような気持ちになった。
目の前にある、このドアのせいだろうか。
二人は、いかに僕が変なのか、まるで自慢話でもするように次々と出し合っている。僕がおかしいのか、みんながおかしいのか、よくわからなかったけど、どうやら僕がおかしいみたいだ。
やがて満足したのか、やっとドアの前から離れていった。僕は一歩だって動けずに、ただドアを見つめている。
もう、家に着く前の前向きな気持ちは、少しも残っていなかった。
タイトル:〝
こんばんは。<
すでに
タイトルにもある通り、今年で七回目の開催を迎える、音楽情報サイト
半年後の12月8日、絶対に
僕のデビュー曲『
僕が存在する証拠を、このステージで精一杯表現したいと思っています。
どうかどうか、お願いします。絶対に見に来てください。
それでは、おやすみなさい。
06/08 23:41
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