終章

「沙耶っ!」

 いきなり名前を呼ばれて、私は反射的に足を止めた。

 直後、すぐ目の前をトラックの車体が走り抜けていって、背筋が凍った。もしもあのまま進んでいたら、今頃は酷い目に遭っていただろう。

「……あれ。私、何で」

 と、そこでようやく私は我に返った。「此処って、何処?」 てっきり病院のベッドの上で目覚めるものとばかり思っていたのに、周りは明らかに屋外で、初夏の眩しい日差しがさんさんと肌を焼いていた。そこには傷痕どころか小さなかさぶた一つ無かった。

「え、まさか、この場所って」

 そして私は遅まきながら理解する。つまり、自分が今いる場所こそ、あの悲惨な事故の起こった現場なのだと。ただし、肝心の事故の内容に関してまでは、今ひとつはっきりと思い出せなかったけれど。

 何だか奇妙な感覚だった。まるで長い眠りから覚めた時のような。確かに夢を見ていた事は覚えていて、その内容や雰囲気もまだ頭の中に残っている気がするのに、いざ思い浮かべようとすると薄もやが広がるみたいにぼやけていく。そうして結局、きちんと中身を知られぬまま、忘れてしまうのだ。

「沙耶っ!」

 またしても、背後から私を呼ぶ声が聞こえてきて、思わず体が固まった。

 すぐ後ろにまで、誰かが走ってきた気配を感じた。

「沙耶……」

 三度、私の名を、彼女は呼んだ。

「……希美」

 私はやっと、ゆっくりとだけれど、振り返った。少し遅れて、鉄二が駆けてきた。彼はとても心配そうな、でも、かすかに嬉しそうな、微妙な表情を浮かべていた。

「沙耶、あの、私」

 信号が青に変わり、周りの空気が行き交う人々によって攪拌される中、それでも私と希美はその場に立ったままだった。私達の間だけ空気の比重が違うみたいだった。

「あの、私ね」

 希美は、今にも泣き出してしまいそうな顔をしているくせに、声だって早くも震えているくせに、何かを必死に伝えようとしていた。

 そして私には、何故だか、分かっていた。具体的な内容がという事でなく、彼女が今、どんな気持ちで私の前に立っているのかという事が、だ。どんな気持ちで、私を追いかけてきてくれたのか。

 ほんの二ヶ月程度。こんな風にまともに見つめ合う機会を失っていたのは、たったそれだけの時間に過ぎないのに、まるで数年ぶりに再会した気分だった。鉄二は少しだけ距離を取って、私達を見つめていた。

「あのね、私ずっと、本当は沙耶にずっと」

 と、希美が遂に意を決して何かを語ろうとしてきた。

 その瞬間――多分、彼女本人は自覚していなかったのだろうけれど――丁寧に化粧を施されていた瞳から一滴、涙が落ちた。するとそれは透明な糸でも繋がっていたみたいに、次々に新しい涙を引っ張り出してきた。せっかくいつもよりも遙かに綺麗に整えられていた希美の瞳が、見る見るうちに無惨なものへと成り果てていった。

 気付けば、私は掴んでいたカバンを放り捨て、希美を抱き締めていた、それも思い切り。それから、嗚咽のせいでもうほとんど何を言っているのか分からなくなっている希美に、それなのに言葉を止めようとしない彼女に、「もう良いから」と叫んだ。その声は、我ながら情けないほどに鼻声で、この時になって初めて、自分も泣いていたと知った。

「もう良いから、ね。大丈夫だから。ちゃんと、分かってるから」

 何が良いのか。何が大丈夫なのか。何を分かっているのか。改めて口で説明しろと言われたって、きっと上手くは出来なかっただろう。でも、それは私にとって本心だった。

「もう大丈夫だから。私には、ちゃんと分かってるから。だから、もう大丈夫だから」

 大して身長も違わない私にしがみつき、赤ん坊みたいに泣き始めた希美を、私もまた力一杯に抱き締めながら、何度も何度もそう繰り返した。

 私達は、ずいぶんと長い間、そこで抱き合っていた。私がそろそろ体を離そうかと思って腕の力を抜くと、その分だけ背中に回されている希美の腕に力がこもった。その逆もまた然りで、彼女の腕から力が抜けそうになると、途端に寂しい気持ちが湧いてきて、私は反射的に腕に力を込めてしまっていた。

 だけど、徐々にお互いに落ち着いてきて、そうすると今度は一気に自分達がどれほど恥ずかしい格好を公衆の面前で晒しているのか悟らされた。

 私達はどちらからともなく体を離した。手だけは繋いだままでいた。

 希美は笑っていた。化粧は崩れ、涙の跡が幾重にも残る顔で、かすかに恥ずかしそうに、けれど楽しそうに笑っていた。

 それを正面から見てしまった私は、堪えきれずに「ぶっさいくな顔っ!」と言って吹き出した。

 すると即座に希美は言い返してきた。「沙耶だって、もの凄くブスだし」

 何て失礼な奴だと思った。

「今の希美よりはマシだし」

「絶対に沙耶の方が酷いし」

「だってあんた、目の周り真っ黒だし」

「沙耶なんか鼻水出てるし」

「なっ……」

 思わず鼻を手の甲でぬぐう。手を繋いだままだったので、僅かに希美が嫌そうな顔をしたけれど、それがまたむかついた。

 これは早急に決着を付けなければならないと確信した、女のプライドに賭けて。

「じゃあさ、鉄二に決めて貰おうじゃない」

「良いわよ」と、希美に異論は無さそうだった。

 そこで私達は一卵性の双子よろしく、異口同音に「で、どっちが良い?」

 果たして、私のカバンを拾って持ってくれていた鉄二の返答は……

「いや、どっちも酷いし」

 本当に女心の分からない奴だと呆れてしまった。

「まぁ、良いわ。そもそも鉄二なんかに判断して貰おうとしたのが間違いだったし」

 私の言葉に、希美は可愛らしく「そうだよ、そうだよ」と頷いてくる。

「希美は良い子ねぇ」

 両手がふさがっているから、頭を撫でる代わりに額同士をくっつけてぐりぐりとしてやると、希美は嬉しそうに笑い声を上げた。

「お前らって、二人揃うとマジで無茶苦茶だよな」などと、何やら空気を読まない発言も聞こえたが、言うまでもなく無視してやった。周囲からの視線なんて、とっくに気にならなくなっていた。

 いつの間にか、私達は前のような三人に戻っていた。

 けれど、それは決して、前と同じ関係では無いのだ。そしていずれは、その事に触れなければならない。本当に、これからも三人でやっていきたいなら。

 束の間、私達はどうでも良い話を、思い付いた端から口にしていた。それは全く実もない内容ばかりで、きっと次の日になればさっぱり忘れてしまっているだろう。でも、そんな軽い話を気楽に交わせている事実だけは、きっと一生忘れないんだろうと思った。

 少しずつ、私達の間から口数が減っていった。やがて私達は、鉄二を頂点にした二等辺三角形みたいな状態で、固まっていた。私と希美、互いに繋がれた腕が、それを支える底辺だ。

 誰よりも先に何かを言おうとして、出来ずに口を閉ざしたのは、希美だった。

 そんな彼女を見て、直後に口火を切ろうとしたのは、鉄二だった。

 だけど、その寸前で最も早く声を発したのは、私だった。

「あのね! 鉄二っ!」

 言葉を急いだせいもあってか、考えていたよりもだいぶと厳しい口調になってしまったが、それならそれで都合が良かった。

 私は鉄二の目を見据えて、言った。

「希美を泣かしたら、あんたをこの世で一番不幸にしてやるからね」

 希美の手が、ぎゅっと私の手を握ってきた。

「どんな脅し文句だよ」

 苦笑混じりに呟いた鉄二は、真っ直ぐにこちらを見返してきていた。

 そして彼は、やや間を空けてから、「言われなくても、俺、マジだし」

 あぁ、やっぱり鉄二は鉄二だと、締め付けられそうになった胸が、一転して軽くなった。気を抜いた途端にまた泣き出してしまいそうになって、でも今なら泣いても良いかと思って顔から力を抜いたら、泣く代わりに笑ってしまった。

「ふん、何を格好付けてんのよ」

 だからこそ、こんな憎まれ口も、前みたいに自然と紡ぐ事が出来た。

 それはまた同時に、希美に対しても。

「沙耶……。その、明日から、また」

「うん。明日っから、また一緒に帰ろうね」

 私の言葉に、明るい表情で頷いてくれた希美に、やっぱりこの子は私が守らないとという母性が芽生えてしまって、私は改めて「鉄二にちょっとでも嫌な事をされたら、すぐに言いなさいね」と、彼に聞こえるように言った。

 鉄二はさながら小姑を見る婿養子じみた顔をしていたものの、結局は溜息を吐いただけで反論してこなかった。そんな彼に、希美は「沙耶は、私の味方だから」と勝ち誇った様子で告げていた。

 私達は歩き出した。行き先はどうするのか、幾つか鉄二からの案も出たけれど、とにもかくにも女子二人の顔をどうにかするのが先決だったから、化粧室の綺麗な近くのファストフード店へ向かうことにした。

「お前らってさ、本気で我が儘だよな」

 呆れた口調で言ってくる鉄二に、「それを叶えるのが男でしょ」と即答しながら、私は笑うという行為がこんなにも簡単だった事を、穏やかな気持ちで思い出していた。


〈了〉

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