第12話

「…………かなり、微妙な所ではあったんだがね」

 と、不意に男の苦笑じみた声が聞こえてきて、私は頭を上げた。

「いや、むしろ残念な結果に近かったんだけれど」

「そんな……」

「しかし、傷つけられた当人達が、君の帰りを願っているのだから、それは評価の対象として入れておくべきなのだろうね。誰かに望まれる生き方をしてきた人間という者は、つまり『生きる価値のある人間』なのだから」

「え、じゃあ」

 この時、私は一体どんな顔をしていたのだろうか。そしてまた、男はぼかしの向こうでどんな表情を浮かべていたのだろうか。

 実のところ、私には分からないままだった。でも、不満はなかった。その気になれば、意外と簡単に想像してしまえそうな感じがしていた。

「さて、と。そろそろ、頃合いのようだ」

 男がお伽話の魔法使いよろしく軽くステッキを振ると、宙に固定されていた画面が消えた。さらに振ると、代わりに今度はどこからともなく二枚の板が現れた。それは、私にとって日常的すぎて新鮮味の欠片もない、学校の教室の入り口そのものだった。

「行くと良いよ」

 男が言った。名残惜しんでいる気配は皆無だった。

「ありがとう」

 私は素直に礼を告げた。「おやおや、現金なものだ」と男がからかいめいた口調で言ってきたけれど、逆らったりしなかった。すると男が肩をすくめて、その仕草はちょっとだけ可愛らしかった。

「それじゃあ、私は行くから」

 枠もないのに直立している引き戸に手を伸ばすと、感触までそっくりだった。

「今度はもう少し、素直に生きると良いよ。女の子は、若い内は素直なのが一番だ」

「何それ、嫌味? って言うか、若くない人が聞いたら怒るわよ?」

「平然と自分を『若くない人』から外して考えられる事こそ、きっと若さの特権だろうね」

「やっぱり嫌味じゃない。最後の最後まで、本当に最低よね。鉄二とは大違い。そんなんじゃ一生モテないわよ」

「これはこれは、手厳しいね」

「それが嫌なんだったら、今度来る人には一度くらい親切にして上げる事ね」

 半ば本気でそう言ってやると、男はまたしても肩をすくめて、シルクハットを左右に揺らした。

 私はその態度に、どうせこちらの言う事なんて聞かないんだろうなと呆れながら引き戸を開けた。空間を四角く切り取られたみたいなそこは、やはり辺りと同じく真っ白だったものの、此処とは違う世界に通じているのだと直感出来る雰囲気があった。

 私は、そこへ一歩、足を踏み入れた。地面さえ見えない空間に足が着いている感覚は、とてつもなく違和感のあるもので、私は早々に目を閉じた。

 と、その時だ。

「それじゃあ、最後に一つくらい、サービスをしておこうかな」

 不意に背後から男の面白がっている風な声が聞こえてきて、私は思わず足を止めて振り返った。

 だけど視界はもう純白に染まってしまっていて、男の姿どころか、先ほどまで立っていた場所さえ判然とせず――

 私は男の真意を教えられぬまま、眩しい白の中へと意識を溶かしていった。

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