第23話 武術を使う魔術師はいても、武術家は魔術を使わない

 これは領分と、比重の話でもある。


 物事を極めるのに、人生を費やしたところで、どこを頂点とするかにもよるが、大抵は極められないものだ。

 完成。

 その領域に私が至ったのは三百年。半ば現実逃避のよう百年ほどを費やして、ようやくこれで研究すべき項目がなくなったなと、そう思えたから完成とした。


 しかし、私が魔術師である、という自負を捨てたことは、ない。


 物事の両立はできるが、現実的に二つを完成させて自分のものにするのは、困難だ。何故かというと、最初に言った領分と比重の話が出るからだ。


 魔術師と、武術家。

 これは職業であり、生き方である。


 仮に、完成を数字化させて、10としよう。

 魔術師の10と、武術家の10が一人ずついる――これは、おかしな話ではない。しかし、これを一人の人間がやろうとすると、バランスが崩れる。

 両方とも10にならないのだ。

 必ず、どちらかが7、ぎりぎりで8くらいに落ちてしまう。


 ――どうして、だろうか。


 突き詰めれば詰めるほど、尖っていくのが専門であり、生き方なのだが、類似性がほとんどない職業を二つ極めることが、ほぼ不可能なのと同じことだ。

 私のよう、時間が余っている者でも、同様だ。

 どちらかが、必ず傾いてしまう。劣ってしまう。

 仮に私が武術を10にするのは、可能だろう。だがその時、魔術は8となる。


 これで私は、


 こと戦闘の領分において、空気を小さく凝縮し、的確な位置で破裂させることで、相手へ物理的なダメージを与えようと術式を構築するよりも、殴った方が早い。

 戦闘以外では、魔術師の方がよっぽど知識を持つだろうが――そもそも、武術家とは、戦闘を職業にしている。

 第17話でも軽く触れたが、武道と武術は違うものだ。そもそも武術に、基礎はあってもルールはないし、ましてやスポーツでもなく。

 相手がどうであれ。

 あらゆる技は、どのような相手でも殺せるようにするために身に着けるものだ。


 現実として、武術を使う魔術師も、魔術を使う武術家も、存在はする。

 するが、前者はともかく、武術家だと自負する存在にとって、魔術とは考察対象であって、使うものではない。

 先述したよう、魔術で引き起こされた現実よりも、鍛錬を重ねて身に着けた武術の方が、よっぽど楽で早いからだ。

 殴ればいいのである。


 魔術に研究は必要だ。

 武術に鍛錬は必要だ。


 しかし、その逆はそれほど重要視されない。言葉遊びかもしれないが、魔術における鍛錬とは研究であるし、武術にとって研究とは鍛錬なのだ。

 簡単に言えば、躰を動かすか否か、みたいな話でもあるけれど。


 武術にできて、魔術にできないこともあれば、その逆もある。

 私は武術を8ほどまで習得はしているが、それ以上にしようとは思わない。それは魔術師である自負があるからだ。

 では、日常的な戦闘においては術式を多用するのかと問われれば、やはり、武術の方が多く使っている。その方が簡単だから。


 適材適所。

 二兎を追える暇もない。

 武術や魔術に限らず、完成という領域に至る者は、二つを持つこともなく、しかし別の領分であるものへの理解を示す。

 事実、私の知る最高の武術家は、魔術への理解も深い。

 武術を基準として物事を推し量り、それを理解とする。であるのならば、彼も結果的には、武術10の魔術7くらいだっただろう。

 人には両手があるけれど、片手で違うものを二つ持つより、両手で一つを持った方がよっぽど現実的だと、そういう話でもある。


 ただ、魔術の利点があるとしたのならば。

 魔術の場合、武術に関して魔術的な見地からの分析や把握が可能である、ということだろう。これは武術に限らない話だ。

 それだけ、魔術は幅広く、可能性を持っている。




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魔術講義~これであなたも魔術師に~ 雨天紅雨 @utenkoh_601

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