コード:VDH・フローレンス

雨露風

第1話吸血鬼病 File:1

 十月、秋の深夜、これから冬に向けて徐々に冷え込んでいく季節、時刻は午前4時。

 ここは中央共同墓地、国家ギリスのクリミ地区ここには誰も近寄らない、近づく者は葬儀屋か墓荒し、たまに少人数が墓参りに来る程度、ましてや怨霊や亡霊が出ると噂の場所である。

 近くには病院があり、そこからの死体や身元不明者もこの墓地に埋葬される。

今宵、ここにてある事件が起きようとしていた。

 一人の男が歩いている、汚れた作業服にくたくたの帽子、所々解れている軍手、男の身なりから察するに工場労働者と言ったところだろうか。

 ただし男の纏う臭いは工業油に交じって金属とは違う生臭い鉄の臭いが漂っている。

 男は酒を飲みすぎたのか判らないがふらふらと覚束ない足取りで歩いている。

 一種異様な雰囲気を感じさせる男の前に一人の女が現れた。


「夜分唐突ながら失礼いたします、貴方はミスター・エネミでしょうか」


 女性にしてはやや低音気味のハスキーボイスが響く。

 女の身なりは、白いコートに軍服めいた赤いスーツ、首には青いネクタイに赤い十字が刺繍されている。頭の方を見ると漆黒の黒髪とそれを台無しにするように白髪が所々生えたロングヘアー、顔は周囲が暗いのでハッキリとは見えないがルビーのような赤い瞳が印象的だ、背丈は百七十前後だろうか、腰には四角いバッグが左右に二つつけられている。

 女が一歩前に進み出る。

 足元をみると黒いタイツに年季を感じさせる軍靴じみた茶色いブーツ。


「失礼、もう一度聞きますが貴方はミスター・エネミで間違いないでしょうか?」

女がもう一度男に向かって問いただすと男は顔を上げた、瞬間――


「――ガァアアアアアァァァ」


 男性が両手を構え女性に跳びかかる。その眼は焦点があっておらず、真っ赤に染まっている眼球は見る者に恐怖を抱かせ、鰐の如く大きく開いた口からは狼を思わせるような鋭い歯が見て取れる。

 悪魔に憑かれた人間は狂暴になり常軌を逸した行動を取ると言われるが正に今、彼女の瞳に映る男性は悪魔のごとき貌を浮かべ、彼女の白い首筋に自らの牙を突き立てようと迫ってきた。


怪物と呼んで差し支えない男性に対し一方で彼女の顔には恐れなどない。


――何故ならば彼女の瞳には怪物の如き男性が映っているが、彼女には凶悪な悪魔ではなく病に苦しみ助けを求める患者に見えるからだ。

そして彼女は確信した――


――吸血鬼病患者発見――


 「――安心してください、貴方の治療を放棄することなどあり得ない」


 そう言って一瞬微笑みを浮かべた後すぐに氷のような無表情に切り替わる。

 彼女は上体を左にそらしつつ、跳びつきめいた組み付きを躱すと同時に右膝を交差するように目の前の患者の腹部に叩き込む。

 いくら吸血鬼病患者であろうともその体は人間をベースとしており、自己保存を無視した超人的身体能力や吸血機構を所有していようが大体の身体構造は人間と変わらず、痛覚もあれば臓器も神経も人間と大して変わらない。

 吸血鬼病患者がうめき声を挙げよろめいたところで彼女は、一旦距離をはなし彼の診察を続ける。

 氷のような冷ややかな眼差しで患者を睨み付ける。

 彼女の診察眼が察するにこの患者の吸血鬼病の深度はまだフェイズⅠ、吸血衝動と精神の混濁および狂暴化であり、まだ肉体の再構築は口回りにしか行われておらず、危険度で表せば『酒に酔って狂暴化した男性が割れたビール瓶を片手に持って見境なしに暴れている』程度のものである。

 一般人から見れば十分危険な状況でも彼女からしてみれば痛みに苦しむ患者がベッドで暴れているようなもので、慎重にならざるをえないが、この程度に臆していては治療を続ける事などできない。

 患者がふらふらと苦悶の表情を浮かべよろめいている隙に彼女は次の行動にでる。

 患者の下に走りその勢いのまま鞭のようにしなるローキックめいた足払いを仕掛け、うつ伏せに転倒させその背中に馬乗りになる。

 彼女はベッドで暴れる患者をベルトで拘束すると同じく患者の両手に自分の両膝を載せて地面に押さえつける、その表情は先ほどと打って変わって悪鬼か羅刹かと見紛うばかりの厳しい表情だ。

 腰に着けたバッグからナイフを取り出すと患者の上着を脊柱部の皮膚が露出するように切り裂く。


「それでは治療開始します」


 バッグから脱脂綿を取り出しそこに殺菌用アルコールを垂らすと、手早く脊柱部と首筋を拭く。

 次に彼女は二本の注射器を取り出す、その注射器はまるで拳銃のような形をしており、引き金を引くと注射器内にある液体が注入されるようになっている。

 まずはその中の一本を患者の首筋に注射する、それはかつて彼女が従軍していたとある軍隊で秘密裏に使われていた筋弛緩剤であり即効性で血管注入すれば物の十数秒で対象を無力化できる代物だ。

 これにより暴れていた患者は次第に動きが緩慢になり簡単に押さえつけられるようになる。

 さらに彼女はもう一本の注射器を今度は慎重に細心の注意を払い患者の脊髄に注射を行う。


「我はここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん───」


 そう彼女が呟き患者の脊髄に注射を開始した。


「我が生涯を清く過ごし、我が任務つとめ を忠実に尽くさんことを」


 無論この言葉自体には患者の治療に有効だとか、治療の成功率が上がるだとかそういった効果は一切なく何の意味もない。


「我はすべて毒あるもの、害あるものを絶ち、悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれをすすめざるべし」


 慎重に少しずつ薬を投与していく、患者によっては拒絶反応が出る事がごく稀にあるからだ。


「我は我が力の限り我が任務の標準しるし を高くせんことを努むべし」


 しかし何の意味がない言葉でも大切なのはこの言葉にこめられた誓いだ。


「我が任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、我が知り得たる一家の内事のすべて、我は人に洩らさざるべし」


 彼女はこの言葉に誓いを立てている。

――人々の命を見捨てない、そのために努力を惜しまない、そして――


「我は心より医師を助け、我が手に託されたる人々の幸のために身を捧げん。」


――どれだけ絶望に襲われようと、如何なる艱難辛苦がこの身に降りかかろうとも希望を捨てず最後まで戦い貫くと。


 いつしか患者の苦悶に満ちた声が聞こえなくなると彼女は患者の脈を計る。

 吸血鬼病の特徴の一つに吸血衝動が発現すると心臓の心拍数が跳ね上がると言うものがある。

 この患者の現在の心拍数は平均よりやや高い程度のもので正常の範囲内に収まっていると言えるだろう。


「治療終了」


 脊髄部から注射針を慎重に抜きその後ガーゼとテープで圧迫しつつ止血する。

 先ほど脊髄部に注射した薬は友の錬金術師かがくしゃ 魔女くすりうり が作製した吸血鬼病の進行を抑える薬であり、先ほど治療終了と彼女は言ったが、実情は吸血鬼病の根本的治療方法は今もまだ見つかっておらず進行を抑えるのが精一杯というのが現実である。

 彼女は患者の背中から降り、安心感から深いため息をはく、途端に疲労感が襲ってきた。

 時間にすれば十分に満たない間だがそれでも一歩間違えれば何方かが、或いは両方が地面に斃れ伏す可能性も十分あった。

 彼女は安堵し一息入れる為に、地面に座りこもうとして寸前のところで思い止まる。


「……休憩は斃れたあとで好きなだけとればいい」


 少なくとも今はまだ職務は終了していない、これからこの患者を自宅の診療所のベットまで運ばなくてはならないし、その後のケアも考えなくてはならない。

 吸血鬼病でフェイズⅠの患者は定期的な今の脊髄注射と精神安定剤、血圧を下げる薬を使用すれば吸血衝動を起こす事がなく普通に生活を送る事ができる。

 しかしこの病は『病気ではなく、異端者が黒魔術により悪魔と契約して得た邪悪なる力だ』と言う言説が広くまかり通っており吸血鬼病患者ということが周囲に知られた場合、迫害や差別、最悪の場合教会に存在すると言う異端審問部隊に始末されてしまう。

 彼女はバッグから飴を取り出すと口に放り込む、糖分を補給すると共に酸味のきいたオレンジが彼女の心を癒す。

 そして彼女は患者を担ぐと診療所じたく に向かって歩き出した。

 カラスが鳴き、飛び立つと、暖かな朝日が彼女を照らす、夜は明け暗闇は消え去った。

 これが彼女、元看護婦にして現在は吸血鬼病治療者 ヴァンパイア・デズィーズ・ヒーラー『Vampire disease healers』ことミス・フローレンスの闘争の記録である。

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