動物占い

淺羽一

〈短編小説〉動物占い

 朝、昨晩に何を食ったのか胃の調子がすこぶる悪く、ベッドから降りてとりあえず家を出た。

 裏口の前には畑がある。けれどそこに薬になりそうなものは何も生えておらず、代わりに白いうさぎが一匹、顔だけを出して土の中に埋まっていた。

 どうしてそんなとこにいるのか。そう尋ねると、兎は赤い目をくりくりと動かして此処が人参畑にんじんばたけだからさと言った。

 こうして待っていれば、人参が生えてきた時にすぐ食べられるだろ。此処の人参は他の場所のものと違って不思議な味がするんだよ。

 その答になるほどと頷くと、直後、兎の目の前に土の中からぴょこんと青い芽が飛び出した。するとその途端、兎が首を伸ばしてそれをぱくり。あっという間の早業に驚いていると、兎は何度かしゃりしゃりと口を動かしてから、幸せそうに喉を鳴らした。

 うん、やっぱり此処の人参は余所と違う。満足そうに呟いた兎は土だけの畑をぐるりと見渡して、けれどそうかと思えば急に寂しげな口調になって、でも最近は昔に比べて人参の生える量が減っているんだ、と語った。

 多分、気候がおかしくなっているんだね。今じゃどこもかしこも雨が降ったり降らなかったり、暑くなったり寒くなったり、本当に困った話さ。

 土の上で訳知り顔を浮かべる兎にそういうものなのかいと返してから、ところでこの辺で薬になりそうなものはないかなと尋ねてみた。

 調子でも悪いのかい。

 お腹が変なんだよ。

 そいつは気の毒に。だけど、君の薬になりそうなものは知らないな。ただ、この先に井戸があるから、そこで水でも飲んだらどうだい。

 器用に長い耳の片方を折り曲げて、井戸のある方を示す兎。

 薬がないのは残念だったものの、水を飲むのは良い考えだった。そこで兎にありがとうと告げて、井戸へと向かうことにした。

 畑を離れる寸前、また青い芽がひょっこり顔を出し、兎の意識はもう全てそちらへ向けられていた。

 しゃりしゃりと言う音の切れ間から届いてくる、一日に二回も生えてくるなんて珍しいこともあるもんだと言う声を背後に聞きながら、胃の調子さえ良ければきっとあの兎が朝食になっていたんだろうと思った。

 丸く円を描くように煉瓦を積まれただけの井戸の周りには何も無く、探す手間を省けたことはありがたかった。ただ、水を汲む為に必要なバケツまで一つもなかったことは問題だった。

 さて、どうしようか。井戸の縁から暗い穴を覗いてみるが、相当に深いのか、屋根がないにも関わらず底はまるで見えなかった。

 と、その時だった。不意に底の方から鼻歌らしき声が聞こえてきた。

 筒状の壁に反響しているせいで何と歌われているのか判然としないものの、それは確かに下手くそな旋律を伴っていて、誰かがいるだろうことは間違いなかった。

 正直、大声を出すことは辛かったのだけれど、そうも言っていられない状況だったから、腹を括ってお~いと声を掛けてみた。

 ややあって歌が止まり、何だ~と声が返ってきた。それはやはり少なからず変な響きをしていたが、言っていることはちゃんと分かった。

 水が飲みたいんだよ。

 飲めばいいじゃないか。

 水を汲む為のバケツがないんだよ。顔を伸ばしても届きそうにないし。

 降りてくればいいじゃないか。そうすれば水は幾らでも飲める。

 その声はあたかもそうすることが当然のように、いや、むしろどうしてそうしないのか不思議がっている風だった。

 さて、どうしようと考えた。いつしか喉もからからで、水はすぐにでも飲みたかった。しかし降りていくとなると、後で上ってくることが大変そうだ。

 そこで迷った末に、一つ質問をしてみることにした。

 ちょっと聞きたいんだけどさ。

 何をだい。

 この辺りで、この井戸以外に水を飲めそうな場所ってあるかな。

 さぁ、知らないなぁ。即答だった。

 何せ、この井戸を上ったことなんて一度も無いからね。その辺りがどんな場所なのかなんて分かるはずもないさ。

 その声はあっけらかんとしていて、だからこそ嘘を吐いているとは思えなかった。

 どうやら、仕方なさそうだった。これ以上、このまま歩き回っているよりも、とにかく水を飲んで少しでも調子を取り戻す方が賢明だろう。

 それじゃあ、今から降りていっても良いかな。

 果たして下からの声は脳天気に、飛び降りれば良いよ、だった。水があるから怪我なんてしないさ。

 なるほど、それもそうだ。そう頷いて、煉瓦の縁から身を乗り出した。

 本音を言えば、底の見えない暗さに飛び込むことは不安だったものの、現にそこに誰かがいると言う事実に背中を押され、そのまま真っ逆さまに井戸へと落ちていった。

 体にまとわりつく空気そのものの温度が下がり、濃くなったと感じた直後、遙かに冷たい感触が軽い衝撃と共に全身を包み込んだ。いきなりの変化に驚きながらも水面へ顔を出すと、井戸が泣いているような余韻が濡れた鼓膜に響いてきた。上から覗いていた時と違って、頭上から陽光の降り注ぐそこは想像していたよりもずいぶんと明るかった。

 なかなか派手な飛び込みだったじゃないか。

 と、けらけらと面白がっている風な声が不思議な反響を引きつれて聞こえてきた。

 沈まないように全身を動かしつつ視線を回らせると、一匹のかえるが水面から緑の顔と白い腹を出していた。

 ここに誰かが来るのはずいぶんと久しぶりだ。

 見事な腹式呼吸でお腹をペコペコさせて話す蛙の声は、跳ね回るように耳へと飛び込んでくる。

 水を飲みたかったんだろ。好きなだけ飲むと良いさ。

 よっぽど外からの来訪者が珍しいらしい。蛙はまるで久方ぶりに再会した知己にご馳走を饗するように勧めてきた。

 けれど、いざこうしてのんびり水に浸かっている蛙を目の当たりにしてしまうと、少なくない抵抗感が芽生えてしまった。

 そこで試しに問うてみた。ここにずっと住んでいるのかい。

 すると案の定、蛙は顎の下を大きく膨らませて小気味よさそうにケコケコ鳴いた。勿論、家だからね、と。

 喉は渇いていたし、胃には相変わらず不快感もあった。しかし、それ以上に、このままこの水を飲んだら余計に体を壊しそうな気がして、結局、水面に口を付けて飲んだ振りをしただけだった。これが鍋の中の話であったなら、ありがたくご馳走になっていただろう。

 ありがとう、もう十分だよ。そう告げると、蛙はそれは良かったと悪気の欠片も無さそうな声で言った。

 それじゃあ、そろそろ行くよ。

 もうかい。まだゆっくりしていけば良いのに。

 いや、薬を探している最中なんだ。

 そうかい。それなら仕方ないね。まぁ、また水が飲みたくなったら来てくれよ。

 蛙の言葉に再びありがとうと応えつつ、よっこいしょと井戸の内壁を上ろうとした。

 だが、隙間無く積まれた上に水気と苔に覆われた煉瓦はあまりにも滑りやすく、何度試みようと地上へ帰れる気配は皆無だった。

 ぽかんとしていた蛙が、唐突に思い出したようにそいつは無理だよと言った。まさか、そんな方法で帰るつもりだったのかい。その声は馬鹿にしていると言うよりも呆れていた。

 なら、どうやって帰れば良いんだい。

 尋ねると、蛙はあっさり、下からだよ、と言った。

 付いてきな。そして蛙は言うやいなや、不細工な外見からは想像も出来ないほどしなやかな動作で水の中へと潜っていった。

 待ってくれよと慌てて追いかける。蛙は時折ちらりと背後を振り返りつつ、どんどん深く深く進んでいく。やがて光も届かなくなり、水温もずいぶんと下がり、いよいよちゃんと蛙について行けているのか分からなくなってきた頃、変化は突然やって来た。

 いきなり横から暴風にあおられたような衝撃があって、驚きながらも流されぬように体勢を立て直すと、いつの間にか視界はずいぶんと明るく、何よりも広くなっていた。

 海に出たと理解したのはその直後で、ふと辺りを見回すと、おそらく今し方に出てきた所だろう、ごつごつとした岩山が連なっているような海底の一箇所に丸い穴が空いていて、その縁から蛙がひらひらと水かきの付いた手を振っていた。

 どうやら此処でお別れらしい。そう悟って眺めていると、蛙の顔が上を向いた。

 釣られて頭上を仰ぐと、ゆらゆらと揺れる白い光が鱗のように輝いていて、そこが海面なのだろうと教えてくれていた。再び視線を戻した時、蛙の姿はすでになかった。

 海中は井戸の中よりも泳ぎやすく、ほとんど力を使わずとも浮かび上がることが出来た。

 しかしながら困ったことに、海面から飛び出すやいなや、新たな問題と直面する羽目になった。

 波はなく、全方位どちらを向いても彼方の水平線まで見通せるほど穏やかな海だった。要するに、陸地がなかった。

 さて、どうしたものだろう。暑いくらいの日差しと冷たい海水に挟まれたまま、しばらくの間、途方に暮れた。心なしか体調はマシになっていたものの、万全と呼ぶには程遠く、当てもなく大海を泳ぎ回れるほどの自信は無かった。

 何かお困り事かい。

 出し抜けの問いかけに傍らを振り向くと、大きな鋏を持ったエビが海面からひょっこり顔を覗かせていた。

 実は、道に迷ってしまったんだ。

 他に頼れそうな相手もいないので素直に答えると、エビは数回ほどカチンカチンと鋏を鳴らしてから、道って何だいと言った。

 行きたいところへ行く為に歩いたり走ったりする為のものさ。

 行きたい所があるなら泳いでいけば良いじゃないか。

 無意識なのかも知れないが、エビは困惑している風に言いつつ鋏を鳴らす。

 なるほど、海に住む者にとって道と言う概念は無いらしい。だとすればどう説明するべきなのだろう。

 しばらく考えた末に、こう言った。陸地はどっちにあるかな。

 果たして回答は即座に得られた。どっちに行ってもあるさ。

 なら、一番近い陸地はどっちかな。

 そうだなぁとエビはまた数回ほど鋏を鳴らしてから、ややあってそれを一方へ向けて、このまま三日ほど泳いでいけばあるかな。

 三日も掛かるのかい。

 君の場合はそれくらい掛かるだろうね。

 あっさりとした返答に、心底から困った。そんなに泳げないよ。

 すると、エビは自身の言葉に肩を落とした相手を気の毒に思ったのか、今度は少しばかり長く例の音を繰り返した後で、じゃあ空を飛んでいけばいいと言った。

 それはあまりと言えば突拍子のない方法で、実際問題、翼も持っていない身でそんなことは到底不可能そうだったものの、エビの様子に不自然さは見当たらなかった。

 まさか、空を飛べるのかい。

 まさか、空は飛べないさ。

 だったら、どうやって空を飛ぶんだい。

 あれに乗るのさ。

 そう言ってエビが鋏を向けた先にあったものは、大きな翼を広げて遙か頭上を気持ちよさそうに飛び回っている鳥の姿だった。

 なるほど、確かにあの背中に乗れたなら空だって飛べるかも知れない。だけど、そもそも鳥が飛んでいる場所がすでに空の上だった。

 だからきっとこの質問は当然のものだった。どうやってあそこまで行くんだい。

 対して、エビはせっかちなのか、それとも答えるのが面倒だっただけなのか、付いてきなよと鋏を軽く鳴らすやいなや、弾かれたように体を動かして一気に海へと潜っていった。

 仕方なく後を追うと、エビは器用にこっちこっちと鋏を振りながら、ずいぶんと身の詰まっていそうな尻尾を使って勢いよく後ろ向きに進んでいく。途中、いわしの大群をマグロの群れが襲っている現場にぶつかりそうになったけれど、エビは見えていないのか弾丸さながらに魚が飛び交う中を怯むことなく真っ直ぐに進んでいった。

 やがてエビの向こう側に見えてきたのは、岩山かと錯覚するほどに巨大な生物だった。

 このクジラに運んで貰えばいい。エビは自信満々にそう言った。

 まさか、クジラが空を飛べるのかい。

 まさか、クジラは空を飛べないさ。

 だったら、どうやって運んで貰うんだい。

 クジラに食べて貰うのさ。

 一瞬、思考が付いていかなかった。だけどエビはおかしな所なんて一つもないと言わんばかりに、このクジラは自分の食べたくない物が口に入ったらくしゃみをして吐き出す癖があるのさと説明を続けた。その勢いで空まで飛んでいけばいい、と。

 本当に食べられたらどうするんだい。

 大丈夫、このクジラは微生物しか食べないから。

 それにそもそもどうやって口に入るんだい。

 現にクジラは眠っているのか、まるで口を開く兆候を見せなかった。

 しかしやはりエビは気楽な調子で、任せておきなよと鋏を掲げる。

 ほら、早くクジラの口の前に行くんだ。

 分かったよ。……それで、これからどうするのさ。

 こうするんだよ。

 そう言った直後、エビは鋭い鋏をえいやとクジラの眉間に突き刺した。

 地鳴りめいた音が響き渡り、凄まじい勢いで海流が生まれる。それがクジラの声だと気付いた時にはもう、為す術もなくクジラの口の中へと吸い込まれていた。

 反射的にクジラの髭を掴めたのは幸運だった。視界の端を、周りにいた魚が大小問わず流れていく。さもありなん、この巨体にとっては大抵の存在が以下だろう。

 ようやくクジラが口を閉ざしたのはそれから間もなくのことだった。

 一転して洞穴の底みたいに真っ暗になった中、恐る恐る髭を放すと、そこには生暖かいゴムみたいな棒が無数に並んでいた。舌らしかった。

 さて、これからどうすればいいのかと悩んだのは束の間だった。

 突如として唸り声じみたものが聞こえ、そうかと思った直後、クジラが再び口を開けて海水を吸い込んだ。慌てて極太の味蕾みらいを掴もうとしたが、粘膜に覆われたそれにしがみつくことは出来ず。

 上下左右がぐるぐると入れ替わる中、世界に光が差したのはいきなりだった。

 突然の浮遊感にまぶたを開けば、海面は遙か眼下に広がっていて、天高く噴き上げられた潮の名残がきらきらと虹を生んでいた。体が、一転して重力に引かれていく。

 と、今まさに落ちようとしていた刹那、何者かが信じがたい速度でぶつかってきた。驚いて見上げると、巨大な鳥のくちばしに挟まれていた。

 何だ、魚じゃないじゃないか。

 歯のない嘴の奥から、鳥のがっかりした声が聞こえてきた。当初の予定とは少しばかり違ってしまったが、結果的に拾われたのだから同じだった。

 紛らわしくて申し訳ないんだけれど、ちょっとお願いを聞いてくれないかい。

 そう言うと鳥は面倒くさそうだったものの、すんなり何だいと返してきた。ただし、その際に嘴が僅かに動き、危うく落ちそうになった。

 すまないけれど、とりあえず背中へ乗せてくれないかな。このままだといつ落ちるか分かったものじゃない。

 なるほど、と鳥は小さく頷き、首を回して背中へと乗せてくれた。白い羽根は柔らかく、全身へ当たる風は心地よく、体の調子が幾分か楽になった気がした。

 で、お願いって何だい。

 体調が悪くてね。薬を探しているんだけれど、知らないかな。

 さぁ、空には薬なんて浮いてないからね。

 だったら、家まで送って欲しいんだ。

 それは構わないが、一つ問題があるな。

 それはどんな問題かと尋ねると、鳥は真面目な口調で、降りられないんだよと言った。

 降りられないって、地上へかい。

 あぁ、そうだよ。

 どうして。こんなに自由に飛び回れる翼を持っているのに。

 この羽根のおかげで、飛びたくなくても上昇気流に捕まってしまうのさ。

 言われてみれば、なるほどさっきから鳥は一度も羽ばたいていない。

 送ってやるのは構わないが、家の近くに背の高い木や飛び移れそうな場所はあるかい。

 残念ながら、役に立ちそうなものは思い浮かばなかった。

 すまないね。背中から落としてやるだけならいつでも出来るんだが。

 いやいや、こっちこそ無理を言ったみたいだから。

 難儀な話さ。卵として産み落とされて、やがて飛べるようになって、ようやく憧れの空に来られたと思ったら、もう二度と降りられないんだから。

 語られる内容こそ気の毒なものだったが、鳥の口調はわりとあっけらかんとしていた。おそらく開き直っているのだろう、或いは単なる鳥頭か。

 とは言え、いずれにせよ下から見上げているだけでは分からないが、どうやら鳥には鳥で色々とあるらしい。

 しかしながら、いつまでも鳥の愚痴に付き合うわけにもいかないので、とりあえず地上へ降りられそうな所へ連れて行って貰うことにした。

 しっかり掴まっていなよ。そう言うと鳥は大きく羽ばたいて速度を上げた。

 空気の感触が粘性を持ち、微細な雲の粒が雪の塊さながらの重量感を持つ。遙か彼方の水平線上に見えていた大地がみるみる間に近付いてくる。時折、海から細い水柱が立ち上がり、きらきらと金色の粉を振りまいていた。

 そろそろ見えてきたぞ。

 風切り音に混じって聞こえる声に視線を移動させれば、前方の大地に広がる森が見えた。森には所々に背の高い木が生えていて、その内の数本はまさしく天にも届かんばかりだった。

 鳥が徐々に速度を緩めながら、中でも特に大きな木を目指していく。ある程度の高さこそあるものの、それであればタイミングを見計らって先端の枝に飛び降りることも不可能で無さそうだった。

 わざわざ運んでくれてありがとう、と告げると、鳥は構わないさと笑い、さらに羽根を数枚ほど持っていきなと言った。その羽根が風を受けてゆっくり降りていけるからと。

 言葉に甘えて羽根を数枚、そっと抜くと、なるほど確かにそれは空気よりも軽そうな気がした。ふと、いっそこの羽根を全て抜いてやればこの鳥も地上に降りられるんじゃないかと思ったが、結局、その考えは胸にしまっておいた。鳥が何と答えたのか分からないが、羽をむしられて地上を歩く鳥など、あっという間に狩られて食われてしまうだろう。実際、調子の良い時に目の前をそんな鳥が通れば、間違いなくそうするはずだった。

 鳥が木の上で旋回を始めた。準備はいつでも良いぞと言うことだ。だからもう一度だけありがとうと告げて、その背中から飛び降りた。背骨を真下に引き抜かれるような感覚は一瞬で、落下し始めたかと思ったら羽根が空気を受け止めてその速度をずいぶんと和らげてくれた。

 と、その時だった。不意に強い横風が吹いて、思わずバランスを崩してしまった。その途端、持っていた羽根が手から飛んでいって、落下速度が一気に上がった。ただ、幸いなことに、枝はもうすぐそこまで近付いていた。

 しなやかな枝の上に着地……と言うよりも、慌ててしがみついたという感じだったけれど、何とか無事に木へ移ることが出来た。ぎゅっと抱きついた枝が大きく揺れて、葉っぱ同士がざわざわと鳴いた。

 うひゃあと可愛らしい悲鳴が聞こえたのはその直後だった。

 木の震えが落ち着いてから傍らの枝を見ると、小さなリスが同様に枝へとしがみついていた。

 もう、びっくりするじゃないか。

 リスは身を起こすと、その頬をぱんぱんに膨らませて抗議してきた。

 折角集めた木の実を落としちゃっただろ。

 感情を表すように全身を使って伝えるリスの姿に、それは悪いことをしたなと思った。なので、良かったら手伝うよ、と言った。

 するとリスは、本当かい、それは助かるよと即座に機嫌を直したらしく、ぴょんぴょん歩いて傍までやって来た。どうやら、頬が膨らんでいるのは怒っていたからでなく、その中に幾らかの木の実が詰まっているからのようだった。

 じゃあ、枝になっている実を集めておくれよ。あぁ、黄色のやつだけね。緑の実はまだ食べられないから。

 リスの言葉で改めて枝を眺めてみると、緑の葉の裏に隠れるように丸い実がなっていて、五個に一つくらいの割合で黄色く熟していた。

 この実は美味しいのかい。黄色い実を一つ採って尋ねると、リスは体全体で頷くようにそうだよと答えてから、薬にもなるんだと続けた。

 へぇ、薬になるのかい。

 それは良いことを聞いたと思った。そこですぐさま確認の為の問いかけをする。

 実は今朝からずっと胃の調子が悪いんだけれど、効くかな。

 リスの反応は、残念ながら望んだものとは異なっていた。

 可哀想だけれど、この実はそう言うことには効かないんだ。それどころか、食べ過ぎるとお腹を壊すし。

 それじゃあ、何に効くんだい。

 心に効くんだよ。

 おかしなことを言い出すリスだと思った。心に効く薬なんて聞いたことがなかった。

 でも、当のリスは自然な様子で、その声にもふざけている気配は無かった。

 それからしばらく木の実集めを続けた。そうして、遂にその頬がはち切れんばかりになった頃、さて行こうかと、リスが喋りにくそうな口を器用に動かして言った。

 何処へ行くんだい。問いかけると、リスは一言、猿の所だよと答えた。

 小動物に相応しい身のこなしで枝から枝へ、木から木へと飛び移るリスを何とか見失わないように、出来る限り急いで後を追った。

 やがて先の方に、太い枝からぶら下がっている猿の姿が見えてきた。長い手足を枝へとからみつけた猿は、リスがお~いと呼び掛けても、ほとんど動かず返事もしなかった。

 紹介するよ、こちらが猿だ。

 嬉しそうな顔で語るリスと裏腹に、猿は閉じていた瞼を億劫おっくうそうに持ち上げて、ちらりと瞳を動かしたのみだった。だが、そんなお世辞にも褒められそうにない態度の猿を、リスは叱るどころか、ほら木の実だよと、あろう事か先ほどに集めた実を全て、差し出してしまった。礼も言わず、ゆっくりと木の実をつまんで口に運ぶ猿の姿を見つめるリスは、まるでそうすることが最高の幸せだと感じている風だった。

 リスの体では沢山に感じられた木の実も、猿の体ではあっという間に平らげられてしまう程度のものだった。そして猿は実が無くなるやいなや、再び目を閉じて動かなくなる。いや、たった一度だけ、リスが美味しかったかいと尋ねた際に、ほんのかすかに首を縦に動かしはした。だが、それだけだった。それきりリスが何を話し掛けようと応えない姿は、見ようによってはリスへ無言の催促をしている風でもあった。

 果たして、リスはひとしきり美味しかったかい、喜んでくれて嬉しいよ、今日は良い天気だねなどと繰り返した後で、じゃあまた行ってくるねと再び木の実集めに向かおうとした。言うまでもなく、猿は一言も返さなかった。

 ちょっと良いかな。

 そう声を掛けた時にはもうすでに、リスは数メートル先の枝からさらに遠くへ飛び移ろうとしている所だった。

 どうしたんだい。振り返ったリスに対して、何と言ったものかと迷った末に、どうしてこんなことをしているんだいと真っ直ぐ聞いた。

 するとリスは、猿を気にしたのかちらりとその様子を窺ってから、少しばかり控え目な声で、猿はね傷ついているんだよ、と言った。

 傷ついているって言うのは、つまり怪我でもしているのかい。

 そうだよ、心にね。

 また心かと、言葉には出さず思った。

 しかしリスはそれを敏感に察知したのか、仄かに真剣味を帯びた口調で、猿はね、きっととても悲しい出来事があったんだと言った。だから、何もしたくなくて、そこでずっとじっとしているんだよ、と。

 実を言うと、この猿はどれだけ贔屓目ひいきめに見ても単なる怠け者にしか思えなかった。例えば、過去に虎や馬から襲われて恐ろしい目にあった経験を持つ猿なら、せめてもう少しくらい暗そうな雰囲気を放っていても良さそうなのに。

 だが、詰まる所、リスにはそんな雰囲気が感じられているのだろう。リスはまるで、だから猿には自分が傍にいてやらないと駄目なんだよとでも言いたげに胸を張り、今度こそそれじゃあ行ってくるよと軽やかに枝から枝へと飛び跳ねていった。その姿が見えなくなるまで、数秒と掛からなかった。

 沈黙が流れた。と言うよりも、猿はそもそも周囲のことをちゃんと認識しているのだろうか。あまりと言えば何もかもがどうでも良さそうな姿は、リスが語ったような繊細さの対極に位置しそうなものに見えた。いずれにせよ、あのリスとこの猿の間に独特の関係性があることだけは間違いなさそうだった。

 いつまでも此処にいたってしょうがないな。そう思い、さっさと木を降りようとした。

 けれどその寸前で、そうは言っても一体どちらへ進めばいいのだろうかと悩んでしまった。そこでちょっとだけ躊躇いつつも、猿に聞いてみることにした。

 少し教えて欲しいんだ。

 果たして、猿は見事に無視した。だから、一方的に続けた。

 体調が悪いんだけれど、良い薬がある所を知らないかな。朝からずっとお腹が気持ち悪くてね。そのせいで、さっきもあの木の実を食べられなかったんだ。聞いた話だけど、ずいぶんと甘くて美味しいんだろ。羨ましいね、食べたいものを食べられて――

 うるさいな。

 と、猿が声を発したのは唐突だった。その声はいっそ清々しいほどに気怠そうだった。

 いい加減にしてくれ、こっちは忙しいんだから。

 枝にぶら下がってじっとしているだけなのに、忙しいのかい。

 ただぶら下がってじっとしているだけだから、忙しいんだよ。

 不思議な話だね。退屈にはならないのかい。

 ちっとも。むしろ、せわしなく動き回る奴の方が信じられないね。

 突き放す風に発せられたその言葉が指す相手はおそらく決まっていた。

 冷たいね。ずいぶんと世話になっているんだろうに。

 それに対する猿の返事は無かった。その代わりに猿は、薬が欲しいのなら、と長い手を伸ばしてリスが消えていった方角の反対方向を指差した。

 この木を降りて、ずっと行った所に蜂の巣がある。その中にある蜂蜜なら役に立つだろうさ。

 まさか、本当に有力な情報を得られるとは思ってもおらず、ついつい礼を言うのも忘れて猿を見つめてしまった。

 すると猿はそんな視線を感じたのか、かすかに笑声らしきものを漏らしてから、連中が必死になって集めた蜜をくれるかどうかは知らないけどね、と言った。

 正直、何とも皮肉好きの猿だと呆れてしまった。とは言え、教えてくれたことには素直に感謝した。とにかく行って頼んでみようと決めた。

 ありがとう、助かったよ。何だかよく分からないけれど、そっちも早く治ると良いね。リスにもよろしく伝えておいてくれよ。

 分かったから、さっさと行ってくれ。

 猿は最後まで面倒くさそうで、見送りをする気なんてさらさら無さそうで、それどころかもう何言か発するだけでも億劫そうで、だからこそ、枝を伝って木を降り始めた直後にぼそりと聞こえてきた言葉は印象的だった。

 病んでいるのはリスの方さ。

 え、と思わず動きを止めて見上げるが、それきり猿が何かを言うことはなかった。

 全くもって変な関係だなと、心の底からそう思った。

 木漏れ日に照らされた森の中は草と土の匂いで満たされていた。ただし、たまに見かける倒木の近くだけは、独特の湿った匂いがした。

 しばらく進んで、やっと見えてきたのは太い木の枝に吊らされるように作られた、外周がその幹ほどもありそうな楕円形の蜂の巣だった。

 近付くと、すぐさま巣から一匹の大きな蜂が飛び出してきた。尻には鋭い針があった。

 何の用だい。

 威嚇するような羽音に紛れて聞こえてきたのは、警戒心をそのまま声にしたみたいな問いかけだった。

 実は、朝起きてからずっと体の調子が悪いんだ。それで、出来れば蜜を少し分けて貰いたいんだ。

 そいつは無理だね。蜂の答は早かった。

 申し訳ないけれど、もうじき卵が孵るんだよ。蜜は幼虫を養うのに必要なのさ。

 そこを何とか、お願い出来ないかな。ほんの一口で良いんだ。

 可哀想だけど諦めておくれ。今、この巣には他に誰もいないんだ。だから蜜を集めるのも一苦労で、やっとこさぎりぎり必要な量が出来たばかりなんだよ。

 こんなに大きな巣なのに、他に誰もいないのかい。意外な事実にまじまじと巣を見つめると、蜂の羽音があたかも疲れた風に弱くなった。

 少し前までこの巣にいた女王が別の場所へと移ってね。働き蜂たちはみんなそれに付いていったんだよ。だから新しい働き蜂が生まれるまで、大変なのさ。

 どうやら蜂はこの巣の新しい女王らしかった。そう考えて見れば、確かに普通の蜂よりも威厳がありそうだった。だからといって、今さらすんなりはいそうですかと諦められはしなかった。

 調子が悪いせいで、ずっと何も食べていないのだ。いい加減、そろそろ限界だった。

 そこで何とか蜜を貰う方法は無いかと、頭を回らせた。

 結論はややあって浮かんできた。

 一つ提案があるんだけど。

 その呼び掛けに、蜂は何だい急にと疑わしそうな声音ながらも聞き返してきた。

 蜂蜜を分けてくれたら、お礼に花を集めてきてあげるよ。そうすれば、遠くまで行かなくたってもっと沢山の蜜を作れるだろ。

 それは思いがけない話だったのだろう、羽音が迷っている風に揺れる。

 待った。真意を探ろうとしている相手に対しては、それこそが最も賢明な対応のはずだった。

 結論から言えば、その判断は正解だった。

 先に花を集めてきてはくれないのかい。

 そんなことを言いながらも、蜂の態度は明らかにそれまでと変わっていた。最早、待つ必要はなかった。

 言ってるだろ、体調がすこぶる悪いんだよ。でも、蜜を飲んだらきっと良くなるから、そうしたら幾らでも花を摘んでくるよ。蜜はとても良い薬になるって聞いたんだ。

 そりゃ、この蜜は女王しか作れないものだからね。そんじょそこらの蜜よりも遙かに良いものさ。ちょっとした不調なんて、あっという間に治ってしまうよ。

 だったら話は早いじゃないか。さぁ、蜜を分けてくれよ。一口で良いんだ。それで、今よりももっと沢山の蜜が作れるんだから。

 果たして、蜂が次に発した返事は、分かったよ、だった。

 だけど、ちゃんと約束を守っておくれよ。そうじゃないと、許さないからね。

 勿論だよ。だから、さぁ、早く蜜を分けておくれ。

 分かったよ。

 蜂は再びそう言うと、こっちだよと促してきた。

 導かれるまま巣へ近付くと、それまで気付いていなかったが底の方にぽっかりと穴が空いていて、その奥にはてらてらと光る金色の蜜が貯められていた。何種類もの花を束にしたような香りが、ふわりと漂っている。

 一口だけだからね。

 蜂の念押しに頷いてから、蜜を一掬い、舐めた。

 びっくりした。この世にこんなにも美味いものがあるなんて、想像もしていなかった。胃の不快さも、蜂との約束も、余計な一切が綺麗さっぱり消えて無くなった。

 ちょっとあんた、と蜂の大声を受けて我に返った時、蜜はすでに半分ほどが無くなっていた。でも、言い換えれば、まだ半分残っている。

 あんた、一体なんて事をしてくれたんだい。

 ぶんぶんと飛び回る蜂は、今にも襲いかかってきそうな剣幕で怒鳴っていた。

 ほら、さっさと花を集めてきておくれ。

 そうしなかった理由は、単に約束があったからだろう。

 急がないと、蜜が間に合わなくなっちまうよ。

 けれどもうそんなことはどうでも良かった。それよりも、一刻も早く残っている蜜を味わうことの方が重要だった。それなのに、蜂はいつまでもしつこく周りでぶんぶんぶんぶん、ぶんぶんぶんぶん。

 うるさいな。

 ばしっと小気味よい衝撃が手に伝わるのと、耳障りな音が止むのはほとんど同時だった。

 ようやく鳴り止んだ目覚まし時計を確かめると、時刻はもう午前七時を回っていた。

 枕に顔を押し当てた状態で軽く唸り、のそのそと布団から這い出す。そろそろ起きないとまずい時間だった。

 ベッドから降りて、とりあえずキッチンへと向かった。昨日に変なものでも食べたのか、あまり覚えていないけれど、やけに胃の調子が悪くて、とにかく冷えた水を一杯、飲みたかった。

 冷蔵庫から浄水器の付いたプラスチック容器を取り出して、グラスに水を注ぐ。水道水を濾過された水は、高級なミネラルウォーターと違って何の味気もなかったものの、喉を潤す役には立ってくれた。残念ながら、胃の不快感は一向に改善されなかったが。

 グラスの水が残り半分ほどになった所で、ふと、そう言えば変な夢を見ていたなと思い出した。それはとてもファンタジックな設定で、内容としては全く無意味で支離滅裂だった。

 ……いや、果たしてそれは本当にそうだったのだろうか。と、そこで不意に頭の片隅を疑問がよぎった。そもそも、自分は夢の中で一体どういう存在だったのだろうかと。

 当然ながら、答なんて今さら分かるはずもない。だとすれば真剣に考えること自体、馬鹿馬鹿しい。と言うか、夢に意味なんてものを求める時点ですでにおかしいのだ。

 なんて、発泡スチロールで出来た鎧みたいな論理を並べた所で、それこそ本当に意味がないなと苦笑する。やっぱり、今朝は何だか調子が悪いらしい。壁に掛かっている時計を見ると、いよいよ時間の余裕が無くなっていた。

 そこでさっさと支度をしようと、グラスに残っていた水をシンクに捨てて――

 冷たいな。

 突如として聞こえてきた声に、思わず動きを止めた。

 脅かさないでくれよ、びっくりするじゃないか。

 親しみのこもった非難。あたかもそんな風な響きの出所を探して辺りをよく見れば、あろう事かシンクの排水溝の蓋代わりに半透明の白いクラゲがはまっていた。

 実はさ、ぼんやり泳いでいたらこんな所に来ちゃったんだ。海にはどうやって帰れば良いのかな。

 急速に夢の記憶が蘇ってくる。胃の不快感がさらに増し、自分の姿が見えなくなる。時計の針がぐるぐる回り、やがて文字盤から数字が消える。

 悪いんだけどさ、海まで連れて行ってくれないかな。

 何処に口があるのかすらも判然としないのに、のんきなクラゲの声を理解する。甘い蜜の香りが、麻薬のごとく脳と神経を冒していく。ぶんぶんと耳鳴りじみた音が、足下の世界を歪めていく。

 どうやら、夢はまだ覚めていないらしかった。


〈了〉

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動物占い 淺羽一 @Kotoba-Asobi_Com

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