三内霊園誕生秘話

 もともと青森市、それ以前の青森町は江戸時代初期に建築された。善知鳥(うとう)村と蜆貝(しじみかい)村の二つを何本もの道で結び、”青森”の名を持って港町を作り上げた。あたかも京都の碁盤目状のように作られたのは偶然ではない。戦のない平和な時代へと移り、町人の力をもって藩を富ませようとしたのが主因だが……織田信長家臣で京都所司代村井貞勝子孫の村井新助も建設に尽力をした。京都風に区画が似たのは当然である。


 町の構造として、南方に”寺町”を設置。いざとなれば南から攻めてくる敵への防壁としての役割を担った。それよりも南は田畑のみ広がる。寺の前門は北へ開き、後ろ側に墓所がある。普段町人が暮らしている分には墓は見えないように作られている。用事がある時だけ寺の門をくぐり、裏手にある墓所へと向かうのだ。



 ここまではなにも問題はない。問題になったのは明治に入り、青森がさらなる発展をし始めてからである。




 江戸時代までの青森町の範囲は、現在の国道よりも北の方、現在の青森駅よりも離れてたところから堤川の河原まで。南端の西側に弘前藩御仮屋があり、青森町奉行所ともいう。ここで役人が座し、青森町を管理した。現在の青森県庁の位置である。南端の東側は寺町の範囲。町人が住んでいたというよりはそこへ寺社を集中させているので、町人の心のよりどころ、信仰の対象であった。


 明治になり南へとどんどん町が広がる。そして新たな幹線道路の設置が決まった。


 国道4号及び7号である。


 もともとそれぞれ奥州街道と羽州街道と呼ばれ、違うルートを通っていた。特に奥州街道は青森町の中央を通り、現青森駅の敷地を抜け、西にある油川町までつながる。羽州街道は青森町自体を通らず弘前より浪岡、鶴ヶ坂の山を越え、油川へ直結。油川から北へは松前街道が始まり、竜飛まで続く。向こうは北海道が待ち受ける。


 こうであるので油川町には物資が多く集まった。青森町以上にである。これから青森町を特に発展させるためには油川の存在が邪魔である。なので羽州街道を油川を通らせず青森へつなぐことにより、南西からの物資を青森へ集まるように仕向けた。……ということで、奥州街道=国道4号線と羽州街道=国道7号線はまっすぐ一本でつながった。



 ところがである。国道はあろうことか”寺町”をぶった切った。古い地図で確認したところ、確実に墓をつぶしてしまった。ちょうど戊辰戦争の戦死者を納めている範囲などが含まれる。位置的には青森市役所の真下までは至らない。手前のバス停留所よりも前方(=北側)。偶然にも青森空襲の慰霊碑、隣の柳町通りにも仏像は立っているが……。皆々何もしらずに車で通る。かつてこの道の下には墓があったなんて。


 そして時代が進み、生き残った?他の墓の存在が邪魔になった。江戸時代の南の境界を巻き込んで発展してしまったので、奇妙にも青森市のど真ん中に大きい墓所がある状態。他にも墓所は点在し、青森市のこれからの発展を阻害するだろうと。



 昭和十三年(1938)、このような理由から三内霊園が設置された。青森市内にある墓所をできる限り一ヶ所へ集め、退いたのちの空き地を有効活用しようと。戦時中にかぶったので一度は中断されたが、昭和二五年にほぼ移転が完了した。どれほどの規模の事業かは、下を参照されたし。



 これより墓地の移転件数を記す。

 昭和二二年より四か年の内、

常光寺  1950件

正覚寺  1566件

蓮心寺  1176件

蓮華寺  1154件

阿弥陀寺  528件

浪打墓地  393件

諏訪墓地  49件

香取墓地  19件

安定寺   10件


 このうち8割以上が三内霊園へ集結。



 裏を返せば……



 それだけの土地が浮いたのである。


 いまでは、普通にその上に家が建つ。

例えば噂話かなんかで”昔はここ墓が立ってたんだよー”とか”あそこの病院、前は墓だったんだよ”とか冗談や嘘を広める人もいるだろう。


 ただし青森市ではあり得る話だったのだ。



 あなたの住んでいる場所、働いている会社はどうであろうか……。

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青森市のありえない話 かんから @zvu11735

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