サボるとは決めても、楽器をまた片付けにゆくのが面倒であった。まだ部活動の時間は一時間も残っているのだ。私は脚の付いた鉄琴を転がして控室の前に持っていった。そこで五分くらい練習するふりをした。それから何かを思い出したような顔で、さらりと食堂の外へ出た。楽器もあそこまでもってゆけば誰かがしまっててくれるだろう。遥は楽器ケースを背負って、そのまま食堂裏から校舎を半周して校門を出た。


 ――駅から少し歩いたところに朝日町あさひちょう通りという古めかしい商店街がある。もはやほとんど寂れてしまって、駐車場と介護サービスと、時代遅れな服を置いたままのブティックがぼーっと口を開けているばかりだ。

 その、商店街の端に未だ辛うじて体裁を保っているのが芙蓉峰ふようほうアイスという小さな喫茶店だった。

 遥は薄汚れた見開きのお品書きを数秒眺めて、そうしてぱたんと閉じた。

「メロンソーダフロート」

 

 芙蓉峰アイスは洋菓子屋のような名前をしているが、その実は食堂である。チャーハンとかラーメンとか、野菜炒めとか、そういうものすら置いてあった。ただ、注文している人はいつも、見たことがない。


葡萄ぶどうをたくさんもらった」遥が静かに話しだした。

「ああ、季節だよね」

「あんなにたくさんもらったこと無くて」

 遥の親の職場から葡萄を大きなゴミ袋にひと袋分くらいもらったという。このあたりでは葡萄農家が多いから時期になればあらゆるツテを辿って山のように葡萄が送られてくる。私の家にも飽きるほど来た。

「どうすればいいの」

「食べるしかないと思うよ」私は笑った。

「ただお皿に載せておいて、ポテトチップスみたいに、思いついた時に食べる」

「すごい、贅沢ね」遥が手を叩いた。

「保たないからね、すぐ食べないと」

 遥はメロンソーダの上のアイスクリームをようやく食べ終えて、ソーダをつるつると飲んだ。真っ青なグラス、山盛りのまあるいアイスクリーム、ピンク色のさくらんぼ。メロンソーダフロートは私の見たことのない世界の化石のようである。狭いテーブルの上には青い影が伸びて、なかの氷の動くたびに淡く揺れた。私は真っ黒いコーヒーをじっと、冷めるまで待っていた。遥は淡々としゃべった。彼女は保育士の母親と二人で暮らしていた。家もすぐ近くのアパートであるらしい。どういうジジョウがあったのかは特に聞かなかった。

「だから、葡萄は食べきれない」

 話題はまた葡萄に戻っていた。

「そうだ、食べに来るといいよ、ちょっとうちに来てよ」

 遥はテーブルをコツンと叩いた。すっと、決意のある目をしていた。



 遥のアパートは本当に、すぐ近くにあった。

 埃っぽいコンクリートの外階段を上がった三階の廊下は、このあたりでは少し高い建物とあって朝日町通りの商店街を見下ろし、その奥には南アルプスの青い峰がすっと立ち上がってある。

 三〇六号室とある凹みの目立つ緑色のドアを開けると、遮光カーテンの薄暗さ、古い家のカビの匂いがした。

「ほら、入って」

 私はあとずさりした。ここへきて初めて躊躇ちゅうちょした。しかたなく、小さな合板のテーブルへつくと、お互いの膝が当たるほど狭い。そこに籠を置いて、葡萄が三房ほど寝かせてある。遥はその籠ごとこちらへすっと差し出した。食べきれないほど多いとは思えないが、

「食べて」

 私はまだ手を出さなかった。

「ほら、食べて、ね」

「じゃあ」と一房、デラウェア。皮ごと囓る。

「上手だね、やっぱり上手だ」遥は笑っていた。私はテーブルの向かいからずっと観察されていた。

「遥も食べなよ」

 遥は籠からピオーネを取る。遥は皮を剥いて身を裸にして、それから口へ入れた。都会の洒落た食べ方だった。途端に恥ずかしくなった。ふいに滑った指から果汁が滴り流れた。

「ごめん」私は謝った。遥はきょとんとした。

「なにが」

「わからない、ごめん」また謝った。


 葡萄の汁が指先から零れて、私のスカートに一つ、二つ、大きな影をつくった。だから葡萄は嫌いだ。遥はそのブラウスの袖までを紫に染めて狐のように頬張っている。私は赤い実をひとつ、遥の制服の襟元へもっていって、ゆっくりと静かにし潰した。

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葡萄の色 坪井靖洋 @slightlysweet

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