葡萄の色

坪井靖洋

 この街のことを「擂鉢すりばちの底ではない、シルクハットの底である」と書いた小説家がいた。そんなことはない、ただの擂鉢だ。四面を山に囲まれ、およそどの方角を見ても視界の半分が山の峰であり、空というのは水平方向には存在しないのである。

 アリジゴクに落ちた蟻が最後に見る景色だね、と言ったのははるかだった。高校二年の春に転校してきた彼女は、どういう経歴でここに来たのかをあまり話そうとしなかった。転校してくる生徒なんてものはカテイノジジョウの塊だ。高校生にとってカテイというのは立ち入るにあまりにも深い森である。細かなジジョウには触れずとも仲良くなれるし、あるいは仲違いするのだ。そういう一種の性善説を腹の中でやさしく優しく育てながら、私はまだ世界が本当に平和的なものだと信じていた。

 遥はサキソフォンができた。それで吹奏楽部に入った。私とはそこで会った。私は打楽器係りだった。なにひとつ満足に出来なかった。吹奏楽部の練習場所は食堂だったから、やたらに長いテーブルを隅に寄せてたくさんの椅子を扇形に並べて、その椅子のひとつに楽器と楽譜と、鉛筆を一本置いて居場所をつくった。遥は譜面台に紅いスワブをぶら下げるのが習慣だった。私は彼女のことが気になっていたわけでは無かった。銀とか金の楽器の中にある紅があまりにも鮮やかで、憶えている。

 打楽器の同級生男二人は最初こそ吹奏楽団員であったが次第にドラムセットやエレキギターをかき鳴らす高校生バンドグループに変貌しつつあった。高校二年になる頃には打楽器の指定練習場所だった食堂横の控室は、もうドラムとギターの音で何も聞こえなくなってしまった。肩身の狭い私はグロッケン鉄琴を持ち出してどこかでひとりで叩こうと思った。そうして向かった食堂裏の非常階段に、遥がひとりでアルトサックス持って座り込んでいて、私は申し訳ないからもう少しだけ遠くへ行こうと思ってまた、その、ガラガラと車輪の付いた間抜けな鉄琴を引きずっていって、

「どこまで持ってくの、もしかして泥棒?」遥に笑われた。

「そっちこそ食堂でやりなよ、サックスの奴ならいっぱいいるでしょう」

「いいよ、聞こえないし」

 遥はまた楽器を吹いた。何かの曲の、ソロらしかった。前の学校でった曲だろうと私は思った。どうせ音量では負けるのだと私もそこで今度のコンクールの課題曲を叩いた。ちっとも上手くない。おまけに鉄琴の見せ場はほんの数小節だけだった。そういうものだと思っていても寂しかった。遥はまだ吹いている、少しずつやり直しながら。私はそれほどの熱意はなかった。けれど、手持ち無沙汰を紛らすように、わずか数十秒のソロパートをなんども何度も、結局下校時刻まで叩き続けた。


 夏休みが明けて九月になった。打楽器の練習室はいよいよメロコアバンドグループに占拠されて、私はもう楽器を取りに行くことしかできなくなった。車輪付きの鉄琴は持ち運びが楽なことだけが幸いである。

 食堂裏の非常階段には、いつも遥がいるようになっていた。


「最近どうですか」

 私は遥に会うたびに、つまらない質問をした。

「可もなく、不可もなく」

 遥の返事もいつも変わらない。そうして続く無言の同意が食堂裏に二人を縛り付けた。もう、半年以上も。


 その時は、モルタルの壁に張り付いたセミがジジリと短く鳴いた。

 私は少し悪い思いつきをした。


「今日、サボらない?」

遥がこちらを見た。

「それ、いいね」

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