最終章

黎明を歌え竜の子ら

 アルルは、厳しそうな口元をもつ〈硬骨〉の魔術士の顔を眺めた。エルグリンの時には、確かにああするよりほかにないと思って動いていた。しかし今は、その決断をさせた道義自体に疑問を抱いている。

 これからする質問にエン・テーレは何と答えるのだろうか。竜鱗を握りしめるアルルの背中を、微かな期待と恐れが撫でていく。

「教えてください、我が養い親。師エン・テーレよ」

 アルルは口を開きながら、師の答えを一言も聞きもらすまいと耳を研ぎ澄ませた。

「『竜鱗の愚者団』は――貴方は、何故竜を聖域と呼び護ろうとするのですか?」

 かつて尋ねた折の記憶にあるように、鉄色の目が彼を見据える。

「聖なるものは、一度穢れた指が触れればたちまちにして失われるからだ。聖域に踏み入る最初の一足は、同時にその全ての土地を踏む。一度前例ができれば、あらゆる場所で竜殺しが始まるだろう。人は貪欲に力を求め続け、神をも狩り尽くす。やがては世界の全てを支配して、何もかもを破壊し始めるだろう。人々の上に降りかかる災いは、欲望に歯止めをかけるための戒めなのだ。故に我々はそれを受け止め、竜を護らねばならない」

 同じだ。アルルの肩から力が抜けた。記憶の中で返された答えと寸分変わらぬエン・テーレの言葉。〈硬骨〉たるこの師は、何度繰り返し質問されても同じ答えを返し続けるのだろう。きっとその揺るぎなさは称讃するべきものなのだ。彼の主張が正しいと信じていられさえすれば。

 悲しいのか、おかしいのか。あるいは、悔しいのだろうか。諸々の感情が同時にこみ上げてきて、アルルはいったいどんな顔をすればいいのかわからなくなる。

 エルグリン、ターグ・ティナー、エン・テーレ……。『竜鱗の愚者団』に属する者、『ネヴィンの守護者団』に属する者。レンデス卿、キニス卿、その他の多くの、竜を畏れ敬い、あるいは憎悪し拒絶する者たちも。

(だれもかれもが勝手な意味を竜に押し付けて争ってるだけだ!)

 アルルは強く唇を噛んだ。


 その時、彼方で咆哮が上がった。

 竜の怒りの声だ。アルルたちは、ハッと身構える。

 武装した兵士たちが、いつの間にか木々の間を埋めていた。彼らの持つ円錐型の楯には、赤色の顔料で、卵の殻を踏みしだき牙を剥く竜の図柄が描かれている。ゴド家に伝わるネヴィンの紋章だ。町の門の上にも同じ図柄が彫られている。

 アルルは兵の間に、森に溶け込むような緑の長衣の女を認めた。陽光を遮る葉の下でも、高く結い上げた銀の髪が滝のように煌いて見える。

「ターグ!」

「ターグ・ティナー!」

 アルルとほとんど同時にエン・テーレが彼女の名を呼んだ。不死鳥の姿に戻ったフィグニステルもアルルの肩の上で羽毛を逆立て、鋭く切れる警戒音を数度喉から迸らせた。

 ターグ・ティナーは、アルルの羽織る鹿皮の外衣に目を留め、もの言いたげに微かに口元を歪めた。

 だが彼女の上を過ぎっていった何かは一瞬の後に消え去り、〈赤鹿の叡智〉の魔術士の厳しい空気が前面に押し出される。

 アルルの隣から、〈硬骨〉のエン・テーレが言葉を投げた。

「〈赤鹿の叡智〉よ、兵を退け。竜は人の手が触れてはならぬ聖域、欲望の歯止めだ」

「聖域などないわ」

 〈赤鹿の叡智〉ターグ・ティナーはそれに反発した。

「竜は人に殺されるべき怪物よ」

 再びエン・テーレが言葉を投げつける。

「愚かな。『ネヴィンの守護者団』よ。お前たちは堤防に巣を掘る蟻と同じだ。自分の行為の意味を知らないのか」

「堤などいくらでも壊してやる」

 ターグ・ティナーは言い返す。

「そうして手にした力で、降りかかる災いを退けてやる!」

「自分のものでもない竜の血で災いを購おうというのか! 欲望のままに神殺しに手を染めるのか!」

 エン・テーレが叫び拳を振り上げる。

「ふざけないで!」

 冷静さをかなぐり捨ててターグが叫び返した。悲鳴のような怒りの声だ。

「人が自らを救おうとあがくことを『欲望』ですって?! 力がありながら導こうとしない神に何の意味があるというの!?」

「刃が鋭ければ鋭いほど、お互いに刺した時の傷は深くなるぞ、ターグ・ティナー!」

「だから何だというの」

 ターグが返す言葉は、今度は酷く冷えていた。

「竜を崇め自ら盲いる愚か者、エン・テーレ。貴方は地に満ちる人の苦しみに目を向ける気がないのだわ。目を瞑り耳を塞ぎ、ただ思い込みを主張してるだけの頑冥さを信念とはき違えてるだけ。導くことを棄てた竜など神ではないわ。人にとって、害悪でしかないのよ」

 サッと彼女は片手を上げた。飛びかかろうとしていたフィグニステルに、弓兵たちが牽制のやじりを向ける。

 彼方でまた怒りに吼える竜の声が響いた。

「どうであれもう遅いわ」

 傍から兵に差し出された剣を受け取りながら、ターグが薄く微笑んでみせる。

「『ネヴィンの守護者団』の本隊は、既に竜と戦ってる」

「糞ッ」

 エン・テーレが毒づいた。

「キニス卿らは出発を早めたのか!」

 吼え声が大きくなった。木がなぎ倒される音。足下から来る振動。その合間に多くの人の叫びも聞こえてくる。近づいてきているのか? アルルは音に耳を傾ける。

 動揺らしきものがターグの上にも走っていた。彼女は気にするように声のする方をちらりと見やる。

 アルルの隣からエン・テーレの姿がふっとかき消えた。

 兵の短い悲鳴が上がる。ハッと構えたターグの剣を、兵士から奪い取ったエン・テーレの剣が思い切り弾き飛ばした。

「止めさせろ、ターグ・ティナー! さもなければきさ――」

 ターグの胸元に剣を突きつけたエン・テーレの吠え声に咆哮が重なった。

 巨大な暴威がのたうちながら地に落ちてくる。

 鳴動に足を取られ腹の底から揺さぶられた。

 竜を追ってきた本隊の兵士たちが、血に昂りなだれ込んでくる。

 恐慌に駆られた不死鳥が飛び立ち、どこかへ逃げ去った。

 荒ぶる大質量に木々が悲鳴を上げて倒れていき、巻き添えになった者たちや爪にかけられた者の断末魔が、逃げ惑う悲鳴や立ち向かう怒声と混ざり血塗れの混沌を生み出していく。

 アルルの目に、怒りに燃える竜の目が、エン・テーレの剣から逃れて立ち上がろうともがくターグを捉えるのが映った。

 竜の顎が開かれる。ターグはまだ立ち上がりきれずに土の上でもがいている。

 とっさにアルルは落ちていた剣を拾い、竜に走り寄った。

 考える間もなく、蛇のように伸びる首に両手で刃を叩きつける。鱗が剥がれて鮮血が跳ねた。

 太い蛇がねじ曲がり竜の顎がこちらを向く。

 ぬらりとした赤が迫り、その更に奥に暗い色が見えて、次いでアルルの視界は生臭く温い闇に捉われた。

 ほとんど同時に、何かがぶつかって欠けるような音。

 それから一拍ほど置いて、女の悲鳴が隔てて聞こえた。

 アルルを飲み込んでいた竜の口が開き始め、ゆっくりと視界が戻ってくる。

 一度だけ短く地響きがして、竜の動きがそれきり止まった。

 混沌が凍りつく。凍りついた上に熱く赤い雨が降る。

 見渡せば兵たちの視線がアルルと死んだ竜に集中している。誰もが動くことを忘れてしまったようで、土まみれのターグも、青い顔で震えながらこちらを見ている。

 誰かがあえぐ音に振り返ると、エン・テーレが信じられないと言うように自分が手に持った剣を見ていた。剣の刃は何か固いものに切りつけたように欠けていて、先からは血が滴っている。

「エン・テーレ?」

 声をかければ、自失した様子で顔だけがアルルの方を向いた。

 アルルは地に横たわる竜に向きなおり、血が噴き出し終わった傷の傍を撫でた。竜の首の後ろ、頭の付け根の最も薄い鱗が砕けている。エン・テーレがつけたその傷は半ば骨まで達していて、致命傷だと一目でわかった。

 竜の巨大な眼は、早くも白く濁り始めている。すすり泣きの声がエン・テーレのいる場所から聞こえ始めた。アルルはギュッと歯を食いしばる。

(だれもかれも、勝手な意味を竜に押し付けて争っただけだ)

 人の欲望の歯止め。触れてはならぬ聖域。憎むべき堕ちた神。災いを購うための黄金きんの心臓……。

 各々がさんざんに勝手な意味を仮託した挙句、ただ彼ららしく生きていただけの生き物を、とうとう死なせてしまった。

 アルルは目を閉じて竜のために祈り、すぐに開いた。次いでぐるりと皆を見回し、口を開く。

「これ以上の争いは、必要ありません」

 静まり返った戦場に、彼の声が響き渡った。


 しんとした中に、エン・テーレのすすり泣きと、アルルの声だけが響き渡る。

「竜は聖域ではなく、また、導くのを棄てた神でもない。人に捧げものを求める怪物でもない。

 竜は、竜です。彼らは彼らとして、生きていただけです。

 僕たち人間は、子を生みます。

 全ての生き物が、子を生み育てます。

 自分の命を削り、時間を削り、子供たちに与えて、ついに死に到る。

 そうして親を食べて成長した子は、次の親になり、また自らの死を育てて、同じ営みを繰り返します。そこにそれ以上の意味など始めからありません。

 竜もまた、同じです。竜を育てるための竜でしかない。

 人の勝手な都合を、勝手に作り上げた意味を、彼らに押し付けないでください。貴方たちが見ているものは、貴方たちの中にしか、存在しないのです」

 立ち尽くす者たちの間に、静かに言葉が沁み渡っていく。


             * * *


「これでおしまいなの?」

「そう、おしまいなんだ」

 少女の問いに青年が答える。

「でも、それじゃわからないことばかりよ。結局その後はどうなったの? ネヴィンの人たちは? アルルやターグはどうしたの?」

 青空の下で、少女が尋ねる。銀色の髪が、少女の顔の周りで気持ちよさそうに風に揺れている。彼女はまだ随分と幼い。十になっているかいないかというところか。対する青年の方は、恰好からすると吟遊詩人だろうか。印象的な赤い髪を風に吹かせて、大きな楽器を膝の上に抱えている。

「ネヴィン伯爵は息子の借金を全て返したよ。でも、キニス卿の呪いは、結局解けなかった。だってそれは、本当は竜のせいじゃなかったからね。キニスはただ、息子を子供扱いしすぎる父親が嫌いなだけだったんだ」

 赤い髪の青年は、少し言葉を切り肩を竦めた。

「この竜殺しに加わった者たちは、後に言い伝えになぞらえて『竜の子ら』と呼ばれるようになった。大昔のネヴィンの伝説では、竜の最後の咆哮が魔法を歪め、竜を殺した者の血は呪われたのだけど、この『竜の子ら』と呼ばれた者たちには何の呪いの兆しもなくて、それなりに生きて、やがてそれなりに死んだそうだよ。

 ただ、魔術士のエン・テーレだけは、かわいそうに壊れてしまった。彼はマナバスに戻り、泣き暮らしながらそこで一生を終えたと伝えられている。神と崇めていた竜を自分が殺してしまった衝撃から、立ち直れなかったんだね。

 ターグがどうなったのかは知らないけど――たぶん、彼女は帰るべき所に帰ったんじゃないかな。アルルはまた旅に出てしまったそうだし。今度は彼が不死鳥のフィーを探すためにね」

「かわいそうな竜は死んだままなの? そんなのだめ。お話はめでたしめでたしにしなくちゃいけないのよ」

 少女の頬が、ぷっと膨れた。長いお話を我慢して聞いていたのにと不満が透けて見える。

「ごめんごめん。だけど、そううまくはいかないのが世の中ってものでね。でも、どうしたものかなぁ……うたとしては大団円の方がやっぱりいいのか。うーん、でもねぇ……」

「思いつかないの?」

 思案顔の青年を見て、んんん、と少女の眉も寄る。しかしそれは、すぐにパッと花が開いたような笑顔に変わった。

「じゃあかわりにわたしが考えたのをあげる。『そして旅に出ていたまじゅつしアルルは、ふしぎな鳥のフィーを見つけて、ターグとべつの町でもういちどめぐりあいました。アルルはフィーのふしぎな力で竜を生きかえらせて、みんないっしょにしあわせにくらしました。』どう?」

 得意満面な少女の顔に、青年は噴き出すのを堪えた。

「う、うん。そうだね。それも素敵だと思うけど――」

 吟遊詩人の青年は暫し考えてから楽器を抱え直す。

「僕はやっぱり、こう締めたいな。君がお気に召すかどうかはわからないけどね」

 彼はぱらりと弦をかき鳴らして、風に乗る伸びやかな声で歌い始める。


 あの時。竜の首を撫でた際に、ほんの一瞬の間にではあったが、アルルは確かに聞いた。この世界から去りゆく、竜の声を。

『魔術士よ、聞け』と竜は言った。

『竜の鱗を持つうぬには、我が言葉が聞き取れるだろう。

 うぬらは竜を神と崇める。だが、うぬら魔術士が人の中に生まれる変異種であるよう、竜もまた、種の中の変異種に過ぎぬ。我らは我らしか知らず、人の導き方など知らぬ。我らを崇めるな。竜は竜の力で、人は人の知恵で、それぞれに生きるものだ。

 しかしそれとは別に我は憐れむ。理不尽に抗い、前に進もうと生きる者を。娘の叫びは我にも聞こえた。なんと鋭く深きその痛みよ。憐れな娘のためにこの首を差し出そう。取るがいい、うぬらは我の子、竜の子よ。

 竜の子らよ。血と力と黄金が我が遺産となるだろう』

 黎明を歌え、と竜は続けた。

『うぬらがうぬらにかけた呪縛を、解き放ち歌え』

 竜の声が、いく重にも谺するように、アルルの耳奥に響き渡る。

『歌え、竜の子ら。そなたらのあかときを!』

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黎明を歌え竜の子ら 若生竜夜 @kusfune

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