3章

生きるに聖邪なく

 暗い。アルルは思った。自分の歩く道が、暗く侵されてまるで見えない。

 何という日だ。ネヴィンに着いて半日。たったそれだけの時間で、足元がいきなり消え失せてしまった。

 ロンプには多くの記憶があったはずだ。あそこで多くの日々を過ごしてきたはずだ。

 でも、ああそうだ、思い返してみれば、昔の記憶を具体的に尋ねた時に、相手から言葉が返ってこないことが多かった。違和感が生じることはしょっちゅうあったが、そのたびにターグが、あの時はああだったわと助け船を出して、アルルの不安を打ち消してくれたのだった。

 よく記憶していると思ったものだ。従姉は賢く、いつも優しいと。あれは全部嘘だったのか。女魔術士が魔術を駆使して作り上げた虚構に、何も気づかずに生きていたのか。

(帰りたい)

 故郷の町に帰りたい。ロンプに帰り、伯父と母の下で友人たちと戯けあって、優しく賢い従姉に渋い顔で叱られては苦笑いする日々に戻りたい。だが、あの水鏡で見た光景が真実なら、アルルの居場所はあそこにはない。戻れば見知らぬ余所者としての扱いが待っているだけだ。

 背中が壁に当たった。冷たい。胸の底までが冷えていくようだ。足も疲れている。もう歩くのは止めよう。アルルはそのまま壁にもたれかかり、ずるずると座り込んだ。

 暗い。

 暗くてよく見えない。夜を巡る星や、月でさえも。

 鼻の奥がツンと痛んで、視界が熱くぼやける。

 ふと靴音に気付いて、アルルはうなだれていた首を上げた。

 そこに立っていたのはターグだった。水鏡で見た通り緑色の長衣ローブを身につけて鹿皮の外衣マントを羽織っている。優しくて賢い自慢の従姉。ずっとそう思っていた。けれどそう見せかけていた裏で、真実の顔は――。

「ターグ……」

 アルルは弱々しく尋ねた。

「ロンプで暮らした日々の、どこまでが本当だった? どこからが君の魔術で、僕は騙されていた?」

 泣き笑うアルルを見下ろすターグの瞳は、見知っている通りに優しく、憂いを含んだ深い紫だった。

「何も……」

 ターグが端切れ布を差し出した。

「何も嘘なんてなかったわ。始まりがどうであれ全てが本当。血のつながりがなくても、貴方も私も、あの家の皆が家族だったの」

 ――でも、もう戻ることはできない。

 静かに落ちた言葉は、二人の間に横たわる深い溝を際立たせた。

 アルルは受け取った布で頬を拭い、軽く鼻をかんだ。涙でつまりかけていた喉が少しましになった。

「君は魔術士なんだね」

「そうよ」

「僕も魔術士?」

「ええ。うたにも詠われた」

「僕は『竜鱗の愚者団』で、『ネヴィンの守護者団』の君とは敵対してる」

「対立してた、だわ。ずっと以前に」

 アルルは最も尋ねたかったことを、口に乗せた。

「どうして僕を殺さなかったの? 記憶を歪めるよりずっと簡単だったはずだろう?」

「私は人は殺さない。主義に反するの。〈赤鹿の叡智〉は――人を救うために、魔術士になったから」

「でも君は、お婆さんを殺した」

 アルルはそう突き刺した。自分の胸までが傷ついて血を流した。

「真夜中に。魔術士の力を使うのを見たよ」

 ターグは微かに笑った。

「あれは人ではないもの。貴方がそれを忘れているだけ」

 ……いえ、それでも。悲しげに彼女は付け加えた。

「殺すのは、気持ちの良いものではないわね」

 不意に固く織り上げられていた何かがほつれていく感じがした。頭の隅でぼんやりとアルルは理解する。記憶の魔術のほころびが大きくなっているのだ。少しずつ『〈竜の舌〉の魔術士』が戻って来ようとしている。

「私は竜を憎んでる」

 ターグは言った。

 彼女の姿がぼやけ始める。

「竜を憎いと思っているの」

 歪められ押し込められていた〈竜の舌〉の記憶が、ゆっくりと解けて浮上してくる。

「竜は常に人間より賢く、人間より力強いわ。私たち人間が愚かなことは否定しない」

 話し続けるターグが遠い。

「でも、だからと言って愚かなままに留まれというの?」

 かそけく洞窟の奥に響く風の音のように、目にする顔耳にする声が遠のいていく。

「――火の熱さを覚えずに何度も焚き火に手を突っ込むのが正しいと?」

 ついに景色が切り替わった。

 アルルの前で若い女が指輪を売り渡している。あれは父の形見の金の指輪だ。父の名はコーリン・オルグレット。貴族の出で若くして散った騎士だ。女はアルルの母親。見染められて下働きから成り上がった、赤い髪のリュデル・ケス。

『この子には魔術の才があります』

 リュデルはアルルを連れて行った先で、指輪を売った金と彼を魔術士に引き渡した。

『きっとお気に召す魔術士になります。貴方様がお力を貸してくだされば』

『君はそれで良いのかね』

 魔術士が問う。

『学びの館に住む我々に大事な息子を差し出すと?』

 癇性なリュデルの笑い声が幼い頭の上で炸ける。

『かまいません。これは竜に魅入られた子供です。竜の鱗を握りしめて生まれ、竜に助けられて生き延びたのです。魔術士になるのが相応しいでしょう。けれど代わりにわたくしに庇護を。アルルを差し出す代わりに、貴方様がたはわたくしを危険から護ってくださらなければ。この子の父親は政争に敗れ殺されました。わたくしも何度も争いに巻き込まれて命を失いかけた。わたくしはもう、安心して暮らしたいのです。そのためなら――』

 リュデルの影が遠のく。

 ターグの姿が返ってきた。

「竜は神、それも義務を怠って導くことを棄てた神よ。私にはそれが赦せない。力があって、知恵があって、なぜそれを使わないの? この世に濫れている苦しみが見えないというの? 私たちは……どれだけ苦しんで、どれほどの声で叫べばいいの?

 でも、違うわ。私たちは自分で自分を救わなくてはならないのよ。その力を得るために竜の死が必要だと言うならば、竜は殺されるべきなのよ」

 ターグは長衣の腿の辺りをギュッと握っていた。

「二日後に、レンデス卿たちが竜の討伐隊を引き連れて出発するわ。私たちは竜を――人を棄てた神を殺す。アルル、貴方は……」

 逡巡を押しやるように彼女は言葉を絞り出す。

「どうか私たちの、邪魔だけはしないでいて」


 気がつけばターグの姿が消えていた。

 手の中の端切れ布と夜露から護るようにかけられた鹿皮の外衣だけが、彼女が実際に目の前にいたと主張している。

 ターグは最後まで、アルルに竜殺しに加われとは言わなかった。それは彼女の優しさなのだろうか。それとも〈赤鹿の叡智〉の矜持が情に訴えるのをよしとしなかったのだろうか。

(僕はどうしたいんだろう)

 アルルは考える。

(どうすればいいのだろう)

 竜を聖域と護る『愚者』か、堕ちた神として殺す『守護者』に与するか。果たしてどちらを選び力を貸すことが真実正しいのだ?

 アルルは外衣を掴み再びふらりと立ち上がる。

 ――竜とは、何なのだろう。

 ログウィックの森へ、行かなければならないと思った。


 呼吸を整えて強く集中すれば、月光ではない青い光がぼんやりとアルルの体を縁取る。〈竜の舌〉の魔術士の前にただの錠や閂は無意味だ。閉じた町の門は、念じるだけで音もなく開く。

 唖然と見送る夜番の者たちの間を抜けてネヴィンの外へ堂々と出た。幽霊を見たと彼らは噂するだろうか。或いは夢を見たと忘れてしまうか。どちらでもかまわない、とアルルは思う。そんなことは、重要ではない。

 深く沈めば精神の奥と夢の世界は繋がっている。そこは妖精や夢魔の住む、魔法が強く作用する世界だ。アルルは今、現実と夢の世界の境目を歩いている。

 軽く力を込めて一歩を踏み出せば、地面が縮みぐんと景色が変わる。森までの距離などほんの十数歩だ。馬の脚など比べ物にならない。

 葉ずれの音が彼を迎えた。月の光の届かない、木々の下の濃い闇。アルルは躊躇わずに中へ入っていく。

 夜目には困らない。彼の瞳は今、獣たちのように金色に輝いている。魔術による眼は、草木の一本、野鼠の耳の産毛、梟の羽に走る黒い筋に混じった一筋の細い白線までをも、暗闇の中ではっきりと見てとることができるのだ。

(竜よ。この森のどこにいるんだ)

 木々の間を、さまよい歩く。

 かさかさと朽葉を踏む音がして、何者かの息使いが聞こえた。音のする方に顔を向けると小さな塚ほどある巨大な狼がいる。山犬の王だ。そう直感した。アルルは彼をじっと見つめる。魔術士の目と狼の金の目が束の間ぶつかり合う。

 狼が首を垂れた。くるりとこちらに尾を向け、ついて来いというように一瞬だけちらりと振り返ってくる。山犬の王は森の奥へと歩き出した。揺れる尾を目印にアルルはついて行った。

 幾度かすぐ耳の傍を古い霊たちが笑いながら駆け抜けていった。小人たちが踊る笛の音も聞こえる。集まっては離れを繰り返す鬼火たち。羽化しかけの姿で羽ばたく気味の悪い色の蝶。

 夜の森は旧い時間が甦る場所だ。常の人が迷いこめば気が狂うだろう。

 暫く歩き続け、山犬の王がまた振り返った。彼の肩越しに見えるぽっかりと開けた場所。そこに。

(見つけた。ログウィックの森の主だ)

 探していた竜が、眠っていた。

 アルルは口元をほころばせる。

 山犬の王が、礼を述べる彼の傍をすり抜けて、木々の向こうへ消えていった。竜はアルルたちの気配にも動じることもなく、目を閉じて静かに眠っている。

(朝になったら竜と話してみよう)

 知りたいことはたくさんあるのだ。

 アルルは深く息を吐いて落ち葉の溜まりに丸くなった。身につけた鹿皮の外衣が夜の冷たさから護ってくれた。



 木々の頭越しにほのほのと空が明るくなる。黄金の矢が走り、昇り出した太陽が世界の色を塗り替えていく。

 木の根元の厚く積もった落ち葉の上で眠っていたアルルは、枝から落ちてきた滴に呼び覚まされた。丸めていた体を起こし、繰り返しの伸びで節々から凝りを追い出す。昨夜見つけた竜を見やれば、彼は目を閉じて未だ太陽で体を温めている途中だった。

 アルルは試しに竜に呼びかけてみた。

「おはようございます、ログウィックの森の主よ。はじめまして。僕はアルルといいます。昨夜から貴方の傍にお邪魔しています」

 竜は束の間片目を開き、うろんげにアルルを見る。それからすぐにまた目を閉じて、日の光を浴びることに集中してしまった。アルルは彼の興味を引くことができなかったらしい。

 アルルは朝食を得るべく食べ物を探しに出る。しばらく歩きまわり、小さな泉と、少し離れた所で茸のひと群れを見つけた。白く丸い茸は、円を描くようにして地に生えている。妖精の輪だ。ロンプに居たころなら不吉と恐れたかもしれなかったが、今はありがたく摘んで帰ることにした。

 元の場所に戻り火を熾す準備をしていると、巣を空けていた竜が戻ってきた。死んだ大きな鹿を一頭前足の鉤爪にわし掴んでいる。どうやら狩りに出かけていたらしい。

 巣に舞い降りた竜は獲物を地面に落とすと、アルルの目の前で、ゆったりとくつろいで食事を始めた。大きな骨ごと肉を咀嚼する音が響き、血と臓物の臭いが辺りに濫れる。アルルは竜が食事する光景を直接見ないように、背中を向けて茸を焼いた。

 陽が大分高くなってきた。食事を終えた竜が、満足そうに再び日光に背中をあて始める。

 好機かもしれないとアルルは竜に話しかけてみる。

「ログウィックの森の主よ、教えてください。あなたがた竜は、何ものなのでしょうか?」

 アルルは答えが返るのを待った。何も起こらない。竜はのんびりと体を伸ばしている。

 アルルは質問を変え、もう一度挑戦してみた。

「ログウィックの森の主よ、あなたがた竜は、神なのですか?」

 竜は欠伸のように大きく口をあけて息を吐くと、翼を広げてどこかへ飛び去ってしまった。

 アルルは残りの茸を焼いてしまおうと、一度消した焚火をもう一度熾しなおす。丸い傘を枝に刺してあぶりながら、彼は竜の様子を思い返した。

 竜にアルルの声は届いてはいるのかもしれない。時にこちらを見る目の奥に、知性の光を感じる気もした。だがそれはほんの一瞬、野生の動物たちの目の奥にかいま見えるきらめきのようなもので、アルルが捕える前にすぐに消えうせてしまう。

(竜は、竜だ。それ以外のなにものでもない)

 彼らは人のための神などではなく、試練のための怪物でもないのだ。言えるのはただ巨大な蛇や蜥蜴の仲間だということだけである。

 気がつくと茸がすっかり焦げていた。アルルは小さく息を吐き、真っ黒な残骸を枝ごと焚火の中に捨てる。足で土をかけて火を消していると、藪をかき分ける足音がして、憶えのある声がアルルを呼んだ。

 振り向けば、重なり合った枝の間から、エン・テーレが丁度姿を現すところだった。どうやら探しに来ていたらしい。

「煙が見えたから、もしやと思って来てみたのだが。無事で良かった。飛び出していった後どうしたかと大分気を揉んだ」

 〈硬骨〉の魔術士は目に見えてほっとした様子でアルルに言った。エン・テーレの肩の上にとまっている華やかな鳥が同意するように不思議な声で啼く。

「すみません。ご心配をおかけしました」

 アルルは素直に頭を下げた。それから先ほどから気になっている鳥を見やり、「その鳥は?」と尋ねる。紫と赤という羽色に、どことなく見覚えがあった。

 鳥は抗議するように輝く赤い尾羽を逆立てると、エン・テーレの肩から飛び降りて、ゆらりと姿を変えた。金色の長く真っ直ぐな髪を垂らした、紫と赤の長衣の少女が、アルルを睨みつける。

「あなたはまた私を忘れたと言うつもりですか!」

「フィグニステル!」

 アルルは驚きに叫んだ。彼女の星空のような濃い青の瞳は、老婆であった時も今の姿でも、全くもって変わっていない。

「生きてたのか!」

「不死鳥は死んだりしません。炎を浴びて古い殻を脱ぎ捨てるだけです」

 フィグニステルは拗ねて言った。

「それなのに私を置いて行ってしまうなんて」

 そういえばそんな話を聞いたことがあるような気がする。今の今まですっかり失念していた。

「ごめんごめん。気づいてなかったんだ。いや、でも、随分と派手に若返って……」

 フィグニステルの眦がつりあがった。やってしまったようだ。

「アルルは酷いのです。殻を脱いだばかりの私が床の上に落ちてもがいてたのも黙って見ていましたし、そもそもマナバスに私を置いてきぼりにした挙句勝手に行方不明になって、それから、」

 フィグニステルは、いつぞや老婆の姿であった時のように、目に涙まで浮かべてアルルを詰り始める。

 笑いを噛んで彼らを眺めていたエン・テーレが、堪らずとうとう噴き出した。彼はひとしきり腹を抱えて笑った後、フィグニステルの癇癪に困り果てているアルルを助けにかかった。

「まあまあ、そのあたりにしておいてやれ。忘れていたのはアルルのせいじゃないさ。な?」

 ふくれっ面ながらなだめられて大人しくなったフィグニステルに気付かれないよう、アルルはこっそり溜息をつく。このすぐに爆発する癖がなければ、フィグニステルは充分に可愛いのだが。いつだったか鳥の姿の時には、怒った彼女に屋根の上まで吊り上げられて、そのまま地面に放り出されたりもした。あれのおかげで自分は高い所が駄目になったのだ。

「忘れものだ、アルル。私に預けたままだっただろう」

 真顔に戻ったエン・テーレが、懐から竜鱗の耳飾りを取り出してアルルに握らせた。

 その瞬間、パチン、と、ほつれながらも未だからみついていた魔術の糸、その最後の一本が断ち切られる感触がした。目の前の景色が歪んで、押し寄せる川波のように古い記憶が濫れ出す。

 どこか湖の傍の洞窟だった。洞窟の入口は広く、奥は浅く、そこを巣と定めた竜がとぐろを巻いていた。竜は卵を抱きながら静かにこちらを見つめていた。アルル自身はその竜の前に跪いていた。

『貴き湖の主よ』

 アルルは竜に呼びかけた。

『〈竜の舌〉の魔術士の名にかけて誓います。この命に代えても必ず、貴方と貴方が抱いている卵を御守りいたします』

 竜はゆっくりと瞬きをして、鼻先でそっと彼の額に触れていった。

 洞窟の外からアルルを呼ぶ声がして出て行くと、陽の光の下に立っていたのはエルグリンだった。彼は子供の頃からよくアルルに懐いて歩いて、アルル自身も可愛がっていたおとうと弟子だ。

 エルグリンは、竜とその前で守り立つアルルに向けて剣をかざした。

『止せ!』とアルルは叫ぶ。

『一度聖域に手を触れてしまえば、人の欲望はとどまるところをなくすぞ!』

『受け売りはたくさんだ』

 エルグリンがわめいた。

『あんたは何もわかっちゃいない。竜の力が手に入ればどれほど――人が強くなれるか。俺は竜を殺して、力を手に入れてやる!』

 エルグリンの体から強く魔術の臭いが流れ出す。

 そして彼は術を込めて振りかぶった刃を――。

 アルルは彼を――。

 見えていた景色が波のように引いていって、アルルは詰めていた息を吐きだした。あの時の悔いなら今も残っている。どうすればおとうと弟子を説得できたのか。それとも彼のしたいようにさせるべきだったのか。だが道義を曲げるわけには行かなかったのだ。竜殺しを止めるには、排除するしかないと思った。

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