小話

ユルとシギラ(本編後)

「久しぶりね、ユル」

 空に浮かぶ満月を仰いでいた少女が、背を向けたまま呟いた。

 足音を立てたつもりはない。気配は完全に絶っていたはずだ。舌打ちを漏らしそうになるのを堪え、黙って踵を返そうとすると、

「いるんでしょ」

「……いるけど」

 藪から抜け出し、ユルは少女の——シギラに歩み寄る。華奢な後ろ姿を月の燐光が縁取り、艶めく黒髪が夜風に緩やかにそよいでいた。五歩ほど離れて歩みを止める。

「カナサは?」

「お身体の調子が悪くて、宿で休んでいるの」

「へえ。で、きみは何をしてるの。『カナサさま』のお傍にいなくていいの?」

 シギラがまとう空気がかすかだが確かに気色ばんだのがわかり、わずかに胸が空いた。

 カナサは体があまり丈夫ではない。幼い頃など、寝込むことはしょっちゅうだった。高熱が出たかと思うと、次の晩にはひどく血の気の失せた蒼白な表情になる。原因は不明だった。自分が煎じてやった薬湯を飲んで死んだように眠って、そして何事もなかったかのように目を醒ます。その、繰り返しだった。

「ああいうあいつを見るのは、初めて?」

「……初めてじゃない」

「なのに、『死んでしまうかも』って怖くなるんだ?」

 こたえはないが、図星と言ったところだろう。

 相変わらずちらともこちらを見ない少女に、ユルは意地悪く問いかけた。

「シギラちゃんはさあ、カナサが死んだらどうするの。後追いして死ぬの?」

 長い沈黙だった。彼女がどんな表情をしているのか、見たいような見たくないような心地に駆られながら、ユルはシギラの答えを待った。

「そのときは、」

 シギラは。ふいに振り返り、月光を背負って漆黒の瞳をまっすぐにユルに向けた。

「貴方を殺してわたしも死ぬ」

「はあ?」

 不覚にも間の抜けた声が漏れた。

「どういうこと?」

「カナサさまが死ぬとしたら、貴方が殺す以外に考えられないもの」

 今までで一番敵意のない、笑みにも似た表情を白いかんばせにのせる。

 そして、手のひらをずいと差し出し、

「たかが病ごとき・・・・に殺させはしないでしょう? 茶番は十分よ。懐に隠した薬をよこしなさい」

「……へいへい」

 龍神の祝福——人の身にありあまる霊力セジの恩恵か、あるいは呪い・・か。隠し事は彼女には通用しないようだった。懐から取り出した薬草の束を小さな手に譲り渡し、ユルは早々に退散を決め込むことにした。

「じゃあね、シギラちゃん。カナサにはよろしく言わなくていいから」

「ユル」

 珍しく引き止めるような声で呼ばれ、踏み出した足を止める。シギラは神妙な面持ちで、何かを言うか言うまいか迷っているようだった。

「用がないなら、行くけど」

「貴方の気配も熱っぽい。薬を飲んで、休んだほうがいい」

 一瞬、心臓が縮むように痛んだ。息を小さく吐く。動揺を、悟られないように。

「……ご心配ドーモ」

「あと、鉄臭い。洗い落としてるつもりかも知れないけど」

 あまり、無茶をしないで。

 独り言めいたかすかな声は、けれどもユルの耳に確かに届いた。届いてしまった。

「りょーかい。じゃあね」

 ひらりと手を振って、顔を背ける。月の光から逃れるように藪に駆け込む。遠くにいかなければと思った。離れて、離れて。気配を悟られない場所に。

「……頭いてえ」

 カナサが体調を崩すと、彼ほどではないにせよ、必ず自分の身にも異変が起きていた。誰にも告げることはできなかったけれど。

 息がきれるほど走って、目に付いた木の下にうずくまって、膝を抱えて。ああ、クツジョクだと吐き捨てる。見透かされたことに腹が立つ。

 もう寝てしまおう。何も考えないように。胸の片隅でそっと嬉しげに微笑む小さな自分に気付かないふりをして。ユルはそっと、瞼を閉ざした。

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龍神あしび 青嶺トウコ @kotokaze

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